聖女様は靡かない
琴理という少女はある日異世界に召喚された。聖女として。
あっ、なんかネットの広告でちらっと見た漫画の展開に似てるなー、とか思いながら琴理はとりあえず自分を世界を超えて拉致ってきた犯罪者たちを見た。
うーん、多勢に無勢。一人二人くらいならどうにかできたけど、流石にこの人数を無傷でどうにかするのは無理だなぁ……
召喚した側の人間が琴理の心の中を覗けたならば、間違いなく距離をとっただろう。けれども生憎と、異世界から人を誘拐するようなとんでもない魔法を使えるくせに心の中を覗き見る魔法は使えなかったのである。
後に琴理が理解したのは、異世界から誘拐する犯罪魔法はこの世界の神様が与えた秘儀であり、人間だけで編み出したものではないという事だ。成程ね、心の中を覗く魔法なんて与えたら、人間同士の争いが絶えず滅びるものね。人を信じることもできなくなって魔法を使わなければ信用できない。でも、自分がそれを使われるのはイヤ。そんな感じでこの魔法を使う事ができる相手はそのうち殺されるだろうし、その魔法が使えなくてもそれ以外の魔法が使える者も実は使えるの隠してるんじゃないか、なんて疑心暗鬼の目を向けられて、行きつく先は琴理の世界にあった中世時代の魔女狩りである。
そんな物騒な事を考えていても、聖女に助けを求めている人たちはそんな琴理の内心を一切知ることがなかったので。今この世界は大変なんです助けて聖女様! と縋っていたのである。
なんというか、魔王がいるらしいのだ。この世界。
つまり魔王を倒してこいって事? それなら普通召喚するの勇者じゃない? なんて思ったけれど。
魔王自体は確かに存在しているけれど、しかし封印されている。
その封印はかつて神が行ったらしい。この世界に存在する神々の中の一柱。このままでは人類が滅ぶと憐れんで、その身と引き換えに女神は魔王を封印した。
そこでめでたし、で終わればよかった。物語なら終わっていた。しかしこの世界は物語ではなかったので、魔王が封印された後も続いていく。
そうして永い年月が経過して。
封印に綻びができてしまった。
神が犠牲となってまで作り出した封印を、たかが人間がどうにかできるはずもない。
それに対して、どうにかする方法を授けたのが封印をした女神の姉にあたる神だ。
異世界の人間を召喚し、その人間に封印をしてもらう方法。
どうしてこの世界の人間でないのかといえば、魔力回路が足りないらしい。
この世界の人間には魔力が備わっているけれど、しかしそれは微々たるもの。
微々たる、といってもそれはあくまでも神目線のものであって、人間同士であるのなら凄まじい魔法を使える者もいるけれど、しかしそれでも魔王の封印を強化するには至らないのだとか。
ところが異世界の――琴理が暮らしている世界には魔法が存在していないくせに、人々には魔力回路が存在しているらしいのだ。こちらの世界の人間以上に強力な魔法が扱える程の魔力回路が。
そう言われても琴理は生まれてこの方魔法を使った事がないので全く信用できなかった。
ちなみに、聖女として召喚できるのは魔王の封印を強化するために封印魔法に特化した相手だけで、誰彼構わず召喚はできないのだとか。
異世界召喚の秘儀を与えた女神は、自分の妹が犠牲になったのにそれが無駄になることを避けたいだけで、異世界から便利な奴隷を召喚する術を与えるつもりではなかったようなので。
とりあえず役目を終えたら帰ることができるらしいので、琴理は仕方なしに魔王が封印されてるという神殿まで行くことになった。
召喚された国からそれなりに離れた土地にあるらしく、二泊三日の旅行気分ではいけないという事だけは理解した。
それこそ魔法でビュンっとひとっ飛びとかできないのか、魔法って案外不便なんだな……とは流石に口には出さなかった。
道中、それなりに危険な事もあるかもしれないとの事で、聖女には護衛がつけられた。
召喚した国の王子と、騎士、神官、魔法使い。
その面子だけ見れば、ゲームにありがちなパーティ編成である。
王子が勇者ポジションであるのなら。
まぁ、琴理が思い浮かべたゲームだと魔法使いは男性だとおじいちゃんグラフィックなのだが、琴理の護衛として共に行動する面々はいずれも若い男性だった。面は良い。
琴理の頭がお花畑であるのなら、イケメン四人と一緒の旅とか乙女ゲームか何かを連想して浮かれていたかもしれないけれど、しかし琴理の頭の中のお花畑は生憎花咲き乱れるどころか家庭菜園レベルで野菜ばかりが植えられているような状態だったので。
悲しい事にこれっぽっちも浮かれなかったのである。
そんな琴理に、王子も騎士も神官も魔法使いも、何かあるたびに乙女ゲーム並みのイベントを起こそうとしてきた。リアル乙女ゲーム展開に、頭の中身がお花畑じゃなくたって下手するとときめいて浮かれそうになるというのに、しかし琴理はあまりにもわかりやすい展開すぎて逆にすんっとした表情にならざるを得なかった。
魔王の封印を強化したら帰れる。
とはいえ、聖女の意思でここに残りたい、とか言えば残れるのだろう。
そして、強い魔力回路をもっている聖女とこの世界の男性とが結婚して子供が生まれたら、聖女ほどではないにしても、それなりに強い魔力回路を持った子が生まれてくる可能性が高い。
どうにも王子の先祖に聖女を娶ったのがいたらしく、明らかにそれ狙いであると琴理だって察する。
琴理が普通の女子高生であるのなら、この状況と展開にふわふわハッピーな気分でうっかり恋に落ちたかもしれない。
だが――
「そういえばイリアス様は騎士として剣を振るってますけど。
それ以外の武器って扱えるんですか?」
「それ以外、というと……?
一応剣以外でもナイフや槍、斧あたりは使えますが」
「弓とかは?」
「あぁ……教わりはしましたがあまり得意ではないですね……」
「そうなんですか。
じゃあ剣だけを窮めていく感じで?」
「それは勿論」
「徒手空拳とかはどうなんです?
私のおじいちゃんは一通りの武器も使えましたけど、結局最後にものを言うのは己の拳だって言ってたんですけど」
「……聖女様のおじいさまはなんというか……豪快、なんですかね……?」
「豪快、まぁ、そうでしょうね。
そう言った時って丁度クマと遭遇しちゃって。おじいちゃんは素手でクマを仕留めてました」
あ、ほら、あれくらいの、あんな感じの。
そう言いながら聖女が指さした先に現れたのは、魔物の中でもかなりの強さを誇るブラッドベアだった。中途半端な強さでは楽に死ねず苦しんで死ぬだけという、出会った時点で死を覚悟しなければならないとされている魔物である。
咄嗟にイリアス以外の仲間たちも戦闘に加わったけれど、手こずったのは言うまでもない。
五体満足で勝てたのは運が良かった。
ぜぇはぁと肩で息をしながらイリアスは琴理を見た。
この人のおじいさん、これを素手で!?
彼女を守りつつ、己の強さを見せつけてそれを切っ掛けに彼女との仲を深める事ができたら……と内心で思いつつそれとなく実行していたイリアスだったが、しかし実際まったく手応えを感じていなかった。
わー、流石騎士様おつよーい、と言っていた聖女の声が棒読みだった気がしたのは、全然気のせいではなかったのだと思い知る。
ブラッドベアを素手で倒せるような祖父がいるのなら、イリアスなど足元にも及ばないのではないか。
おつよーい、と言ってた時の声を思い出す。
凄く……気遣われていたのでは……?
イリアスは勿論知らない。
確かに琴理の祖父は素手でクマを倒したことがあるけれど、そのクマはブラッドベアなどという獰猛な魔物ではなく普通のクマだという事を。
琴理があんな感じの、と言ってブラッドベアを指さしたものだから、それと同じだと思い込んだだけである。
「琴理殿のおじいさまは、騎士だったのですか……?」
「いいえ? 若い時に軍隊っぽいところに所属してましたけど、騎士と言うにはちょっと……」
「兵士ではあったと?」
「まぁ、乗り物操縦するパイロットだったみたいです。
第一狂ってる団とか言われてたみたいです。そこ」
琴理は自衛隊の説明が面倒になったので適当に省略した。
その結果、イリアスの脳裏に想像されたのは狂戦士のような何かだ。狂ってるとか琴理が言うから。
他の仲間たちもちょっとドン引きしていた。
「どうせならおじいちゃんも一緒に呼ばれればよかったのに。そしたら野宿の時も楽だったのになぁ」
琴理のおじいちゃんはサバイバル知識も豊富だった。琴理が小さい時、夏休みになったらキャンプにだって連れていってくれた。それを思い出して、つい懐かしんでかすかな笑みがこぼれる。
だがしかし、今の今までのアプローチがまったく効果なしと知ったイリアスにとって、その言葉はおじいちゃんより弱い相手が護衛とか不安だなー、という風にしか聞こえなかったのである。
被害妄想と言ってしまえばそれまでだが、しかし今に至る積み重ねがあった。
そのせいでイリアスの心にはほんのりと傷がついたのである。ナイーブ。
護衛として任命された四人のうちの誰か一人でも琴理をこちらに残ってもいいと言わせることができれば彼らの勝利であるのだが。
他の三人は確かに見た。
イリアスの心に深い傷がついたのを。
心なんて目に見えるはずがないのに、それでも見たのだ。
聖女をどうにかしておとそうとしていたけれど、イリアスはここで戦線離脱した。
仲間たちはそれをしっかりと把握したのだ。
立ち直ればまた復帰して聖女を口説くかもしれないが、しかし当分は無理だろう。
次に犠牲になったのは、魔法使いだった。
魔法使い――クラウスは別に聖女に興味があったわけではない。
けれど、魔法の探求において聖女の力には興味があった。聖女本人に興味はなかったが、しかし聖女と自分が子を作りそうして生まれたならば。
血統においては優れたものになるのでは。親子で魔法の研究とか下手な助手より役立つことになるだろうし、捗るに違いない。
そんな風に思いを馳せたのである。
聖女という外枠だけを見て、琴理という一個人にまるきり興味はなかった。それこそ、出会った最初のころは。
クラウスにとって興味があるのは、あくまでも研究であってそれ以外はどうでも良かったのだ。
今回聖女の護衛として選ばれた事も正直言うと研究時間が潰れるだけの無駄な時間でしかなかったのだが、いかんせん報酬が良かったので。
研究には色々と金がかかる。
机上の空論だけ並べ立てるのならそうでもないけれど、研究結果が正しい事を実証するためには、いくつものアプローチが必要とされる。
そのためには、それこそ金はあればあるだけ困らない。無いと困るが、ありすぎて困るという事はないのだ。
王家からの依頼というのもあって、金払いは良い。
下手な依頼人からの仕事は最悪払い渋るなんて事にもなるが、王家がそれをすれば権威は失墜、忠誠も失われる事となるので、払われないなんて事はない。こちらが余程の失態をしでかさなければ。
クラウス本人は今の今までなんとも思っていなかったが、顔立ちは抜群に良い事もあって常に女性からきゃあきゃあ言われてきた。本音を述べるのであれば鬱陶しいし研究にかける時間を無駄に費やされるだけの邪魔でしかないのだが、しかしここにきて己の顔の良さには感謝した。
人はまず見た目で物事を判断する事が多い。
大切なのは中身だと言われていようとも、中身を知るためにまず外側から得られる情報でもって判断するからだ。
研究において大切なのは結果であるけれど、しかし途中経過で何をしてどのような事があって結果に至ったか、というのは決して疎かにしてはいけないものだ。
何故って次にまた研究をする際、それらが役立つ事もあるのだから。
もう一つ幸いな事は、琴理はクラウスに言い寄る頭の軽い女どもと違い、それなりに会話が成り立つところだった。
口を開けばやれドレスだ宝石だといった話しかでない女より、クラウスの研究の話にも耳を傾けそうしてあれこれ質問をし、自分なりに理解し解釈を話す。
今まで自分の周りにいた女のせいで、女というのは馬鹿しかいないと思っていたが、琴理は違ったのだ。
だからこそ、クラウスは彼女を口説く事もそこまで苦ではなかった。
そんなある日、琴理がふと口に出したのだ。
「そういえば、私の故郷で割と有名な問題があるんですけれど。
クラウス様ほどの偉大な魔法使いであり研究者でもあるのなら、あっさりと解けるかもしれませんね」
そんな風に言われて、悪い気はしない。
異世界にある有名な問題か、やれやれ一体どのような難問だというのだね、と余裕たっぷりに「して、その問題とは?」と口にした。
あっさりと解けるかも、なんて琴理に言われて、ではその期待に応えてやろうくらいの大らかな気持ちで。
そうして琴理がその問題を口にした直後、クラウスの思考は固まったのである。
「3 以上の自然数 n について、xn + yn = zn となる自然数の組 (x, y, z) は存在しないというのを証明せよ……っていうやつなんですけど」
にこりと微笑む琴理に、クラウスはなんだ大した事のない問題だな、なんて最初は思った。
しかし脳内でいくつかの数式を組み合わせていくうちに、どんどんこんがらがってくる。
すぐに解けるんだろうなぁ、なんて期待に満ちた目でワクワクしながらクラウスの答えを待っている琴理に、しかしクラウスは「ふむ、少し、待っていてほしい。いくつか整理したい」と言うのがやっとだった。
簡単に答えられるだろうと思っていたが、これ案外ややこしいぞ……? となったのである。
ちょっと紙などに書き記して途中の考えが別の部分とまざらないように纏めて考える必要があるなと思ってしまったのだ。
その会話を聞いていた他の面々は「わかったか?」「いやさっぱり」なんて小声でやりとりしていたが、まぁそれも仕方がない。
琴理が口にした問題はフェルマーの最終定理と呼ばれるもので、世界的に有名な代物だがそれを証明するまでにかかった時間はざっくり三百年程とされている。
存在するという事を証明せよ、であれば話はもっと早かったかもしれないが、存在しないという事を証明せよ、となると途端に大変な事になるのだ。
存在する事が目的ならどれか一つでも当てはまるものが見つかった時点で証明完了となるけれど、しかし存在しないことを証明するためには無数の組み合わせを試さなくてはならない。どれか一つでも当てはまった時点で存在する事になるのだから。
クラウスの頭の中では複数の組み合わせが展開されていたけれど、流石に限度はある。
頭の中だけで処理しきれずに、紙に書き記して計算することにしたようだ。
その日から、彼はその問題に憑りつかれる事となった。
「兄が学校に通ってた時の研究レポートに提出したやつなんですよね、これ」
そう言われたから。
琴理は意図的に言葉を省いている。
だからこそクラウスは琴理の兄がこの問題を考え付いて、それが世界中に広まったと大いなる誤解をしていたが、実際は夏休みの研究レポートにフェルマーの最終定理を実際数学が得意ではない奴がやったら何をどこまでできるのか、というチャレンジであって内容としては途中まではあれこれ考えていたけれど、段々面倒になってきてここらへんで挫折しました、とかいう人によってはゴミみたいなレポートであった。
数学が好きな人はもうちょっと頑張れるかもしれないけれど、数学が苦手な奴がむしろここまで頑張った時点でほめてやるべき、とかいう教師が見てもお前ちょっと待て、と突っ込みが入ったレポートだった。
ちなみにこれはおふざけレポートで、真面目なやつも提出したため単位は落とさなかったのだとか。
琴理はそういった部分を意図的に伏せた。
結果としてクラウスは、優秀な魔法使いにして研究者を名乗るなら琴理の兄が考えた問題など一瞬で答えられるだろうと思われている、と勝手に重圧を感じ始めるようになってしまったのだ。
答えるためには様々な可能性を考えて組み合わせて当てはめて……寝ても覚めてもそちらの問題が頭を占めるようになってしまって、琴理を口説くどころではなくなってしまった。
彼は魔法だけではなく数学といった学問も得意としていたため、答えられない、なんて言うのは己のプライドが許さなかったのである。
聖女を口説き落としてこの世界に留まらせよう、と思っていた人物のうち、これで二名が脱落した事となる。
そして次に脱落する羽目になったのは神官のヨハンだ。
神に仕える身であれど、結婚をしてはいけないというわけではない。
ただ、結婚を仄めかされても自身は神に仕えておりますので……と言葉を濁して避ける事ができるから、という自分本位な理由でヨハンは神官の道へ進んだ。
何故ってそうやって神殿に引っ込まないと、やけに気の強い女性が自分に言い寄ってくるからだ。
ヨハンはどちらかといえば控えめな女性が好みなのに、しかし言い寄ってくるのはどいつもこいつも気が強く自分が尽くされて当然だと思う気位の高い人ばかり。
ヨハンからすると大層めんどくさいのである。
聖女はそういった気も我も強い女性と比べると、まだマシに思えた。
聖女と結婚するのだとなれば、流石に今までヨハンを虎視眈々と狙っていた女性たちも諦めざるを得ない。聖女を害するような真似をすれば最悪女神からの神罰も下るのだ。国からも神からも敵視されるとなれば、社会的にも肉体的にも死が待っている。
ヨハンに言い寄る女性は流石に己の身を犠牲にしてもこの愛を貫くわ! と言い出す程の殊勝な性格はしていないからこそ。
聖女の護衛となった者の中で何気にヨハンが一番張り切っていた。
そうはいっても、向こうが乗り気じゃないのにガツガツ寄ってこられたらうんざりするのはヨハン自身、実体験でよく理解している。
だからこそヨハンは神官という立場から想像される穏やかな人物として琴理に接し、頼れる大人として、男として見てもらうために頑張っていたのだけれど……
「そういえばヨハン様。私の故郷で割と知られた問題があるんですけれど、ちょっとヨハン様も答えてみてもらえませんか?」
「問題、ですか? 私の答えがお役に立てるかはわかりませんが……えぇ、はい。よろしいですよ」
内心で「来た」と思ったものの顔には出さない。
クラウスみたいに難解な問題だったらどうしようかと思いながらも、しかしクラウスと同じ問題ではないだろう事はわかる。
門外漢な質問はしてこないだろうと思いながらも、ヨハンは琴理の出す問題をいかにスマートに答えられるかを気にしていたのである。
「えっと、ヨハン様がいる場所に、トロッコの切り替えスイッチがあります。
トロッコはこのまま進むと、奥にいる人を轢いて死人が出ます。
スイッチを切り替えればその人たちは助かります……が、切り替えた先にも人がいます。
この場合ヨハン様はどちらを助けますか?
ちなみにスイッチを切り替えない場合、そこにいるイリアス様、クラウス様、シリウス様が、切り替えた場合は私が死ぬこととします」
「……は」
その問題に、ヨハンはわかりやすいくらいに固まった。
だってそうだろう。
問題文に実在する人物で出されたら、嫌でもその面々で想像してしまう。
名前を出されなければ、数が多い方を救うとか、犠牲がどうしても出るのなら少ないほうを、とか答えたかもしれない。
しかし被害に遭うのが誰であるのか、まで言われてしまえばそう簡単な話ではなくなってしまった。
シリウスは王子である。
王族としてこの中では最も尊き血を引いた存在だ。
聖女の護衛とはいえ、イリアスもクラウスも聖女だけではなくいざという時はシリウスの身を守らなくてはならないと知っている。それはヨハンだってそうだ。
もっとも、シリウスは己の実力を過信して馬鹿みたいに突っ込むような無謀な事はしないから余計な手間がかかったりはしていないけれど。
それでも、聖女の次に守らなければならないのである。この場においては。
聖女がいないのであれば、最優先で守らなければならないのは当然シリウスだ。
本来ならば、見捨ててはならない存在ではあるけれど。
では、だからといって聖女を犠牲にするとなると話は別になる。
王子と聖女がともにいるのなら、それ以外に犠牲になってもらうという答えもできただろうけれど、トロッコの速度は問題の内容からして相当速いだろうし、そうなれば我が身を犠牲にしてどちらかを助けにいくなど無理だろう。
仮にヨハンがドラゴンよりも速く移動し両方を救う、とか言い出したとして琴理はきっと無表情で、
「できたら、いいですけどね……」
と、お前実際そんな速く動けないだろ、という反応をするに違いない。
断腸の思いで王族を助けるという答えを選んだとして、そうなれば聖女を見捨てる事になる。
その答えを出した後、どう考えてもヨハンと琴理の仲が進展するとは思えなかった。
多くの犠牲を出したとしても大切な人を助けたい。
そういう風に琴理を助けるを選べば、ヨハンが琴理の事を大切に思っていると伝わるだろう、とは思う。
思うのだけれど、それは神に仕える身として答えとして正解なのか。どちらかしか救えないにしても、では一人でも多くの人を救うべきではないのか。
大切な人を救うという気持ちを蔑ろにするつもりもないけれど、しかし己の欲望に従って犠牲者を多数出すような選択は許されないのではないか。
どうしたってそういう考えはちらつく。
そうでなくとも。
仮にここで堂々と貴方を助けます、と答えたとしよう。
その場合ここにいる他の連中を堂々と見捨てますと宣言するようなものなのだ。
イリアスとクラウスだけなら別に見捨てるという宣言をしてもまぁ、ヨハンの心もそこまで痛まないかもしれない。
だがそこにシリウスがいるとなると話は微妙に変わってくる。
王子本人がこの場にいるのに、王子を見捨てる、という選択肢を選びあまつさえそれを口に出すのは果たしてどうなんだろう……?
不敬にならないだろうか。
この場では不問にされるかもしれないけれど、しかし事が終わった後、禍根が残りはしないだろうか。
生憎とヨハンは若さだけで突っ走るような年齢はとうに過ぎて成人を迎えているので、勢いに任せた選択もできなかった。
「難問ですね……どちらを選んでも後悔しそうです」
「まぁそう簡単に答えられるものじゃありませんよね。
悩むのは当然ですよ。ま、あくまでも可能性の話であって実際そんな事態が起きるかもわかりませんしね。
ただ……もしそういう状況になったときに、答えを出せなかったら。
誰も救えなかった、なんて笑い話にもなりませんよね」
いや笑ってる、笑ってますけど!? とヨハンは突っ込みたかったが、しかし言えなかった。
ヨハンは答えを出せなかった。
悩むのも仕方ないと言われてしまったけれど、これが単なる問答ではなく本当に今まさに起きている事実だったとするならば。
ヨハンは悩んだ結果どちらも救えなかった事になっているのだ。
琴理の言葉がそう示している。
「ちなみに兄の恋人に同じように質問した事があるんですよ。
人数が多い方に友人を、一人の方に恋人である兄を。
どういう答えを出したと思いますか?」
「それは……恋人、では?」
どちらを助けるか、で友人と恋人なら、それも恋人の家族から聞かれたならばそう答える可能性が高い。
これが家族と恋人であるならまた悩むところだ。
家族仲が冷え切っているなら見捨てる可能性もあるが、この話の中に出てくる助ける相手はどちらも大切な者だという前提があるのだろうとヨハンは思っている。
どうでもいい人間と大切な人間、どちらを助けるかとなればそこまで悩まず答えを出しているだろうから。
「彼女の答えはまず友人を犠牲にし兄を助け、その後友人を見捨てた事実を受け止めた上で自らの手で兄を殺して自分も死ぬ、でした」
色んな意味で熱烈ですね、なんて言う琴理にヨハンは閉口した。
どちらも選べず両方救えないならまだしも、片方は助かったのにあえて手にかける意味が理解できなかったからだ。
しかも自らの命を絶つという問題の中になかった答えまで出てきている。
答えを選べず両方死なせるよりも更に犠牲者が一名増えている事に、最悪の答えじゃないかと思う。なんというデストロイ。
神に仕える身としては、絶対に考え付かなかった選択である。
「まぁでも、わかる気がしますよ私。
下手に助かったら、助からなかった人の身内に八つ当たりとか、無いとは言えませんからね。
全員助ける事ができないのなら、全員助からない道を選んだ方が遺族も諦めがつきますからね」
挙句の果てにヨハンが到底受け入れられそうにない選択を琴理があっさりと受け入れてみせた事で。
(あ、無理だ。彼女と自分とではあまりにも考え方が違いすぎる……!)
ヨハンはそう理解して、仮に彼女を口説き落として結婚したとしても、間違いなく自分の精神が病む事を察し身を引くことを決めた。戦略的撤退である。ついでにもっかい戦線復帰することはない。
シリウスはそんな光景を、どこか死んだ目で見ていた。
聖女。女神の救いによってもたらされる異世界からの稀人。
魔王の封印が弱まった時だけ訪れる事を許され、そうして役目を終えれば帰さなければならない存在。
滞在が許されるのは、聖女の意思でここに残りたいと望んだ時だ。
聖女の力はパッと見強大ではない。
身体もこちらの世界の人間と比べれば弱く、肉体的にも精神的にもこちらの世界の人間と比べるとほとんど違いはないように思える。
聞けば向こうの世界は色々な道具が発展しているからこそ、あまり体力を鍛えなくても問題がないのだとか。
こちらの世界でそれを再現できるようになるまで、果たしてどれほどの年月がかかる事か……聖女は使う側であって作る側ではなかったから、詳しい仕組みは知らないのだと言う。
過去の聖女たちもそうだったのだろう。だから、この世界は昔と比べてそこまでの発展はない。
ただ、魔法を使う事ができる者が増えてきて、少しずつそれらを用いての発展はしているけれど。
けれども聖女のように強大な魔力を扱う事はできない。聖女もまた、魔法がない世界で生まれ育ったのもあって、魔法そのものに詳しいわけでもない。
けれど内包している力は確かに強大なもの。
その血を受け継ぐ事ができたなら、今は無理でも子孫たちが繁栄するのなら。
今すぐの恩恵がなかったとしても、有益であるのは確かで。
だからこそ、シリウスだって聖女の護衛として彼女を口説くべく行動に移っていた。
あちらの世界では平民だという割に礼儀作法はそれなりにあるし、教養もある。知性も……こちらの世界の常識に疎い部分もあるけれど、教えればすぐに理解を示した。
正直貴族の家に生まれ育って甘やかされてきただけの令嬢や令息と比べればマシだと思う。
思う……のだけれど。
シリウスにはわからなくなってきていた。
王族にとって、というか貴族にとっての結婚というのは財を成し繋げる事である。
だからこそお互いの利になるような家との政略結婚は今もなお存在するし、王家の結婚などその最たるもの。
聖女の血が王家に入るのは、利となる。
今すぐでなくたって、子孫に受け継がれるのであれば、それは間違いなくこちら側にとっての利益につながる。
けれど、彼女にとっての利益になるか、と言われると……
三人が撃沈したのを見て、シリウスにはわからなくなってきていた。
勿論、最初のころはそんな事考えたりもしなかった。
王家と縁づくのであれば、それこそが最大の利点だと信じて疑わなかった。
だが、琴理との会話をしていくうちに、シリウスはその利点が本当に利点かわからなくなってきたのだ。
何故って、あまりにも向こうの世界と違いすぎて。
生活水準の低い平民と比べれば、飢える事だけはない。
ないけれど、それだけだ。
城で働く料理人たちはいずれも一流ではあるけれど、しかし琴理と話をしていると、なんていうか料理のメニューが少なく感じられてしまったのだ。
世界各国のグルメ。
この国ではそういった物を食したいと思ったとして、ならば直々にその国へ行くか、もしくはその国で働いていた料理人を招いて作ってもらうかではあるけれど。
琴理の世界ではむしろそんなことをしなくても繁華街に行けば大体の世界の料理は食べられると言うではないか。
魔王の封印を強めるために神殿へ向かうのだって、こちらは徒歩だが琴理の世界なら交通機関を使ってその日のうちに到着していた、なんて言われてしまえば。
こちらの世界では陸路と海路を使って何か月もかかる移動距離であっても、むこうの世界では飛行機というものを使えば一日もあれば着くと言われてしまえば。
それ以外にも色々、向こうの世界の話を聞けば聞くだけ、シリウスにはこの国に残って私と結婚し王妃となってほしい、なんて言ったところでそれが果たして受け入れられるのか……さっぱり自信がなくなってしまったのだ。
王妃ともなれば最高の栄誉だと思っていた。だがそれはあくまでもこの世界の人間だったならであって、役目を終えれば帰る事ができる琴理にとっては何の意味もないのではないか。
王妃になれば豊かな暮らしができると言っても、正直あちらの世界に帰った方が琴理にとっては余程裕福な暮らしができるとシリウスは知ってしまった。
宝石やドレスを好きなだけ……なんて言われたところで、琴理はそこまでそういったものに興味を持っていないようだし、わざわざドレスを仕立てなくても好きなデザインの好きな服を着られる暮らしをしているのなら、そこもやはり旨味にはならない。
あちらの暮らしに不満があって……というのであればまだしも、琴理の話を聞く限り家族仲は良好。生活に不自由もしていない――どころかむしろこちらでの生活の方が不自由しているくらいだ。
そうなってしまうと、シリウスは琴理を口説こうにも何も言えなかった。
彼は王子として生まれ、いずれ王となるべくして育てられてきた。
国を導くために相応しい女性を妻にすることは当たり前の事で、そこにシリウスや妻となる女性のお互いへの愛はなくたって問題がない。あからさまに不仲であると見せつけるような事にならなければ、大した問題ではないのだ。
王妃ともなればその分重圧も確かに存在はするけれど、それ以上のメリットがあるとシリウスは信じて疑う事すらなかったけれど。
琴理にとってはきっと、デメリットでしかない。
王子という事実と。
彼と結婚すれば王妃になれるという部分しか、シリウスは己に誇れるであろう要素が見つけられなかったのだ。
彼は愛というものをよく理解していなかったので。
そうでなくとも琴理の兄は投資などをしてその年の割にはかなり稼いでいるような事も言っていた。
その恩恵を受けて琴理自身も生活に困っていないような事も。
充分贅沢させてもらっている、と言われてしまえば、王妃というものに果たして琴理がどれだけの価値を見出してくれることか。
そうして琴理が何かを言うでもなく、シリウスは戦う前から敗北を悟ってしまったのである。
彼女が王妃になって得をするのはシリウスやこちらの世界の人間であって、琴理にとっての利があるわけではない、と知ってしまったから。
無理矢理彼女の意思に反してでも手に入れる……なんて事をしようとすれば女神からの天罰が下る事を知っているだけに、彼らはいずれも玉砕したのだ。
神殿へたどり着き、魔王の封印を強める。
そうして役目を終えた琴理は、未練などないとばかりにあっさりと。
本当にあっさりと元の世界に帰っていった。
「――っていうか、封印されてるならその間に魔王弱体化させる方法とか考えとけばいいのに。呼んだ聖女だって役目を終えたら帰れるってなってるなら、それこそ本当に向こうに残るのなんて、こっちの暮らしに嫌気がさして誰も自分を知らないところに逃げてしまいたいって思ってる人か、頭の中身お花畑か、向こうで好きな人ができて残ろうと決めた人くらいだろうし」
「あらあらまぁまぁ、そう言うものではありませんよ。そうでなくとも琴理ちゃん、あなたそれは伝えたの?」
「んっ? あー……言ってないかも。だってあっちもどうでもいい話ばっかりぐだぐだしてきてたから、こっちも話そらそうとして家族や友人の話ばっかりだったからね。
今後の有益になるかもしれない真面目な話とか、どうせ異世界人にはわかるまい……みたいに向こうは向こうでたまにしてたみたいだけど、流石にその空気の中で私がまーぜーて、とか言うのもさぁ」
「言えばよかったじゃないの」
「簡単に言うけどさぁ、ばあちゃん。私そこまで社交的じゃないもん。
そうでなくたって仲のよくない男の人と話盛り上がれって難易度高すぎるんだわ」
「言うほど琴理ちゃんは引っ込み思案じゃないのにねぇ……」
「むー」
にこにこと微笑んだままの祖母に、琴理はそれ以上の話題はしませーん、とばかりに頬を膨らませてみせた。
孫のわかりやすい態度に祖母は昔から変わっていない癖を見て、更に笑みを深める。
琴理の家族は琴理と比べるとどいつもこいつも癖のある人物だった。
向こうの世界でよく話題に出したのは祖父と兄だが、それ以外も大概である。
特に祖母。
彼女は未来を予知しているわけではないけれど、時々実は見えてるんじゃないか未来が……と疑う事がある程度には、それらしい事を言うのだ。
若い時は占い師などで生計を立てていたとも言われて、それはとても雰囲気たっぷりだったんだろうなと納得した。
異世界に召喚される前、琴理は祖母に言われたのだ。
「ちょっと遠くに行く事になるかもしれないけど、帰る道はちゃんとあるから、悔いのない選択をするんだよ」
――と。
異世界をちょっと遠くで済ませるのはどうかと思ったが、祖母の言葉を信じるなら帰る手段は残されている。
その言葉があったから、琴理は召喚された直後に暴れだしたりしないで済んだのだ。
だって向こうはそう思ってなくても実際やってることは拉致なので。
悔いのない選択、と言われて護衛にと琴理につけられた四名の男性を思い出す。
確かに面は良かった。
そんな男性が琴理に乙女ゲームのような甘ったるいセリフを吐いたりしてきた事に、思わず悶えそうになった事だってある。
だが。
あちらはあくまでも聖女の血が欲しいから。
子孫にその血を受け継がせたいから。
だから琴理に言い寄っていた。
琴理が聖女でもなんでもないそこらの村娘とかであったなら、彼らはきっと見向きもしなかったという事を琴理はよく理解している。
口先だけで愛を述べても、心の奥底にそれがないというのを知ってしまえば、どれだけ甘い言葉で囁かれても虚しいだけだった。
たとえ琴理に聖女としての力がなくたって構わない、聖女ではない貴方が好きです。
そんな風に言われていたなら、きっと琴理は向こうの世界に残るという選択をしたかもしれない。
その後の暮らしがどれだけ大変な事になろうとも。
家族や友人に二度と会えなくなったとしても。
けれども。
上辺だけの言葉でもそういう事は言われなかった。
愛しているかのような素振りであったけれど、彼らの言葉はどれもこれもどちらかといえばビジネスの匂いしかしなかったのである。
聖女の血を継いだ子が生まれたら、琴理の事などもういらない、なんて事になるのではないか。
そうなると異世界で生きていくのはとてもじゃないがやっていけない。
この人のそばに何が何でもいたいの、と思えるだけの熱量を持てるほど琴理の心境に変化はなかったし、であれば役目を終えれば帰ってくるだけだ。
家に帰ってきて琴理はだからこそ、祖母にまるで嘘みたいな話だけど……と異世界に行った話をしたのだ。
ちなみに召喚されてから戻ってくるまで、こちらの世界で経過した時間は半日である。
来た時と同じ時間に戻っていたならともかく、半日が過ぎていた。
下手をすれば授業をさぼる事になっていたかもしれない。
土曜の夕方に召喚されて、帰ってきたのが日曜だったからどうにかなっていたが、そうじゃなかったら面倒な事になるところだった。
「ねぇばあちゃん」
「なぁに琴理ちゃん。言っとくけど恋愛運は占わないよ」
「えっ、それつまり、占うだけ無駄って……こと……!?」
ガーン、という効果音でも聞こえてきそうな勢いで琴理は項垂れた。
妥協してあのイケメンの誰かとくっつくべきだったのかな、いやでも異世界生活は流石にちょっと……と今更のように悩み始めている琴理に、祖母はにこやかに微笑むだけだ。
当面恋愛面での変化はないのだと思い込んでいる琴理だが、祖母は知っている。
こっちの世界にだって琴理の事を恋愛の相手として好意的に見てくれている人がいる事を。
琴理がそれに気づきさえすれば。
別に異世界のイケメンとやらを選ばなくたって何も問題がないという事も。
ただ、下手に口に出せば浮かれて空回るだろうことがわかっているので。
祖母はただただにこやかに孫を見守るのだ。
彼氏欲しいよぅ……という孫の呟きに内心で頑張れ! とエールを送りながら。
次回短編予告
聖女とは神に選ばれた存在。
しかしそれが良い事とは限らなかった。
次回 それでしたらお譲りいたしますけれど
でも、あげられるものとそうでないものがあるのです。
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