哀れな子羊
「み、ミスティナ様……!」
テイクミーと一緒に、遠くで地獄耳の魔法を使いながら見守っていたツカエミヤが、青白い顔で私の元へ姿を見せた。ツカエミヤは声を潜めて、私に告げる。
「マズイことが起きた。上に報告しろ、作戦は失敗だと……。アンエム伯爵と、ミトラの声が聞こえました!ここから約300m先の地点です!」
「そう」
テルーゼンが、アンエム伯爵の名前を出したことは、ミトラにとっては計算違いだったのかもしれないわ。
アンエム伯爵との会話が聞かれているなど思いもしないミトラは、計画の失敗を直接雇い主へ告げるために姿を消した。
「どの面下げて、ラエトへ会いに来るつもりなのかしら」
ミトラとラエトに、血縁関係がないのなら……。
口封じのために殺害を企てるか……このまま会いに来ないかもしれないわね。ラエトがテルーゼンで働いているのは、本当だったけれど。
ミトラとラエトが兄弟であることは、嘘だった。
私を星空の女神と呼んだミトラは、王城に蔓延る悪魔として名を連ねる、アンエム伯爵に計画の失敗を告げている。
計画の失敗が、どんな意味を表すかにもよるわよね。
ラエトを助けたこと?
それとも……テルーゼンが私に危害を加えず、逃げたことかしら。
「テイクミーは?」
「テルーゼンを、自警団に突き出している頃かと……!」
「ありがとう。鬼退治と行きましょうか。ツカエミヤ。引き続き距離を取って、私の様子を見守っていなさい」
「ミスティナ様!?危険です!お兄様が戻って来るまで、ミトラさんとの対決は避けるべきです!」
「──女同士の、負けられない戦いがここにあるのよ」
この会話だって、テイクミーに聞こえているでしょう。
彼の到着を待たなくたって、きっと私が傷つかないように……最善のタイミングで、駆けつけてくれるはずだわ。
私はテイクミーを、信じている。
「ミスティナ様……!」
「私とテイクミーは、長年兄妹として過ごしてきたのよ。お互いの考えていることは手に取るようにわかるし…… 私達の絆は、悪魔に引き裂かれるほど軟じゃないの」
「ミスティナ様!しかし……っ」
「テイクミーは私が危機に瀕すれば、必ず私を助けてくれるわ」
私一人で解決するに越したことはないけれど。解決できなかった時は、テイクミーに頼るしかない。
一人で解決できたとしても、私を守る為に口を挟んでくるような人ですもの。
きっと、すぐに私の下へ駆けつけてくださるはずだわ。
ツカエミヤに背を向けた私は、ミトラの姿を探す。
彼女はすでにアンエム伯爵と分かれており、誰かを探しているようだった。
私はもう一度変身魔法を使ってアンエム伯爵の姿に成り代わり、ミトラの背中へ声を掛ける。
「まだ、始末していないのかね」
「あ、あ……!も、申し訳、ありません!」
「君は本当に使えないな。ミスティナ・カフシーの暗殺を命じ、実行するまで……何時間掛かっている」
「も、もう少しお待ち下さい!姿が見当たらなくて……!今すぐ見つけ出して、必ず暗殺してみせますから!」
先程別れたばかりのアンエム伯爵が、話しかけてくるわけがない。
すっかり本人と勘違いしているミトラは、私にはっきりと宣言した。
ミトラの目的は、ラエトを助け出すことではない。
アンエム伯爵に頼まれて、私の暗殺を企てていたんだわ。
ツカエミヤが耳にした会話は、私の暗殺を実行できずに、失敗したことを表していたのね。
「何度チャンスを与えれば、貴様は星空の女神を暗殺できるのだ。次はないといっただろう」
「この国を担う、尊きお方を誑かした売女は……!私が必ず天誅を下して見せますから……!ですから、ですからどうか……!私を捨てないでくださいませ……!」
反吐が出る程の邪悪とは、まさにこのようなことを言うのね。
アンエム伯爵は、娼館を運営している。ミトラがどんな立場の人間か、ずっと不思議でたまらなかったけれど……。殿下と一夜を共にし、虎視眈々と妻の座を狙う女か……。
純粋にアンエム伯爵へ入れ込んでいる気狂いのどちらかだと考えるべきだわ。
一人の女を始末すること、愛する男の大切になりたい。
覚悟を決めた女に、あなたは間違っていると告げるのは簡単だけれど──そんな簡単に終わるような話だとは、到底思えないわね。
哀れな子羊を騙った不届き者に……裁きを下すべきか、私は決めかねている。
「私の命令に従えぬ女は、いらん」
「お願いします!私はどんな罪でも、喜んで冒しますから……!お願いです!どうか……!」
「私を殺せるのか」
「殺す理由がありません!」
「私は、お前が始末すべき女であるというのに」
「な……!」
私は一瞬だけ変身魔法を解除し、すぐにアンエム伯爵に姿を変える。
アンエム伯爵の姿を偽る不届き者だと知ったミトラは驚愕で目を見開くと、懐から震える手で短剣を取り出した。
「ひ、卑怯よ……!私の愛するアンエム伯爵を騙るなど……!」
「あなたにただで殺されるほど、私も馬鹿ではないのよ」
「アンエム伯爵の姿で、気持ち悪い喋り方をするな!殿下を誑かす売女め……!」
ミトラの私に対する殺意は、かなり高いようね。
私はアンエム伯爵の姿を取ったまま、やれるものならやってみろとミトラを挑発した。
探検を持つ手が、震えている。
本物だったら、愛すべき人を自らの手で始末してしまう可能性に、怯えているのでしょうね。
愛する人が偽物だと知っていても、暗殺しなければならない人間をすぐに始末できなかった時点で、ミトラの負けは決まっている。
心が弱い証拠だわ。
百戦錬磨の兵士なら、この程度の揺さぶりに負けることなく、すぐさま剣を振るうはずですもの。
「アンエム伯爵の、何がいいの?」
「アンエム伯爵は、素晴らしい方よ!みすぼらしかった私に、美しいドレスを着せてくれた!醜い顔だって、見違えるほど美しい顔に作り帰ってくださったわ!」
「あなたはアンエム伯爵に、恩を感じているのね」
「あなたには関係ないでしょ……!?」
そうね。たしかに関係ない。
私はアンエム伯爵とミトラの馴れ初めになど、興味はないもの。
興味はない、けれど……必要な情報は、彼女の口から語られている。
「あなたは私に、助けを求めた」
「それがどうしたって言うのよ!?」
「ラエトをテルーゼンから助け出したいと思った気持ちだけは、本物のだったのでしょう。あなた達は本物の姉妹ではないけれど──孤児院で、姉妹のように育った。仲間ですものね」
「あなたは私の、何を知っているのよ……!」
ミトラは私の言葉を否定しなかった。
ラエトはミトラなんて姉はいないと、否定していたけれど。姿形や名前すら異なる人間と、幼少期姉妹のように過ごした娘を同一視する人間の方が珍しいわ。
私は質問を間違えた。
姉妹はいるのかと聞くのではなく、姉妹のように育った仲の良い娘はいないかと問いかけるべきだったんだわ。
「私はアンエム伯爵を愛している……!彼の命令は絶対よ!失敗など許されない!私は、あなたが偽物だと知っている……!殺せないはずが、ないわ……!」
「やってみなさい。やれるものならね」
ミトラが短剣を落とせば、私の勝ち。
ミトラが私を殺害しようと、牙を向けば私の負け。
5秒だけ待ちましょう。
──5秒。
震える手が、短剣を握りしめる。
──4秒。
ガタガタと手を震わせながら、ミトラは短剣を振りかぶった。
──3秒。
自身を奮い立たせるように、呪いの言葉が聞こえてくる。
──2秒。
彼女は目を瞑った。
──1秒。
震える手で、短剣を振り下ろした所で──私が避けるのは、そう難しくなかったはずなのだけれど。
「ミスティナ様!後ろに避けてはいけません!」
私はツカエミヤの叫び声により、慌てて真横に身体を捻った。
背後で短剣を振りかぶっていた男の剣先に、髪の毛が巻き込まれて切り刻まれる。
私の背後に迫った男は、私が姿を変えている男と、全く同じ容姿をした人物──アンエム伯爵だった。