書類上は
『我が国のより良き発展を願い、ここに王命を宣言する。ミスティナ・カフシー。我が息子、ディミオ・アルムとの婚姻を義務付ける。これは王命である。何人たりとも逆らうことは許されない』
殿下の信頼している従者が、嘘の王命が記された書物を私達に渡すはずがない。
両親は娘が王族の仲間入りを果たす事に飛び跳ねるほど喜んで嬉し泣き。お姉様は無表情。そして、情緒不安定なお兄様は──
「何人たりともは許されない?はっ。オレが王命に逆らった、唯一の男になってやるよ……!」
お兄様は私を抱きしめたまま、全力で王命に逆らおうとした。
殿下と私が出会う前から、私に優しくしてくれたら──お兄様の手を取ることだってあったかもしれないけれど……。
突然情緒不安定になったお兄様は、お気に入りの転んでもただでは起きないお気に入りのおもちゃが、殿下に取られてしまうと駄々をこねる小さな子どものようにしか思えなかった。
本当は私のことなどどうでもいいくせに。
気軽に痛めつけられる相手がいなくなるのを恐れているだけで、好きでも何でもないでしょう?
地獄耳の魔法を使って私の安全を確保してくれたことには感謝しているけれど。意にそぐわない婚姻から私を守ろうとして、命を落とすようなことなど、あってはならないわ。
「お兄様」
「嫌なんだろ?嫌って言えよ!ミスティナを守るのはオレだ。誰にも渡さねぇ!」
「……もう、いいのよ」
「てめぇの夢は、あいつの元じゃ叶わねぇんだぞ!?オレなら叶えてやれる!ずっと、今まで通り、やりたいことやればいいじゃねぇか!なぁ、そうだろ?」
「お兄様。私は大丈夫よ。殿下は私を、愛してくださっているし……」
「ミスティナ……!」
殿下のことを好きになれるかどうかは、わからない。一度彼との婚姻を了承したら、私はアクシー家の娘として名乗ることは二度となくなるでしょう。わかっている。家業を告げなくなるし、私の夢だって、叶えられない。
「愛のない婚姻でも、いいのよね?」
私を抱きしめるお兄様ではなく、殿下の瞳をまっすぐと見上げた。
殿下の瞳は、ゆらゆらと揺らいでいる。
本当は私に心の奥底から殿下を求めて欲しいと思っているけれど、私に嫌われたくないから、頷くしかない。
頷きたくないと逡巡している姿は、とてもこの国を担う王になれるとは思えない。彼は優しすぎる。
すぐ泣くし、私の体調があまりよくないと知れば、自分のように心配してくれる人。
いざという時、彼は私を切り捨てられるのかしら?
「了承したら、ミスティナはおれのものになる?」
「いいわ」
「わかった。おれのこと、好きにならなくてもいいよ」
彼は私が、愛を返す必要などないと認めた。
お兄様は、私が誰かのものにことを恐れている。
婚姻した後私の気持ちが変化して、彼のことを愛おしいと感じる時が来るかもしれないけれど──少なくとも今は、お兄様と殿下に、愛情を抱くことはない。
「私は殿下に嫁ぐけれど。私は、誰のものでもない。私は、私だけのものよ」
「ミスティナ……!」
「お兄様。今までありがとう。これからも、兄妹としてよろしくね」
私達は離れていても、血の繋がった兄妹だわ。兄妹の絆は、離れていても永久に不滅よ。
「ミスティナ……オレは……」
お兄様は今にも泣き出しそうな声音で私の名を呼ぶと、力強く抱きしめた。
お兄様は私に、何かを伝えたがっていたけれど。
私は、その言葉を聞いてはいけないと思った。
その言葉を耳にしたら。
私達の関係が、兄妹以外の何かへ変化してしまうような……予感がしたの。
「オレは……!」
「──私が背中を蹴飛ばしてやらないと、自分の気持ちすら伝えられないの?兄妹ごっこを止めて妹を求めたなら、最後まで貫き続けなさい」
「……お姉様……?」
ハイヒールの音を響かせ私達の元へ颯爽と姿を見せたお姉様は、お兄様を庇うように、殿下をまっすぐ見つめた。
私を抱き締めている手を緩めていたお兄様は、お姉様の声を聞いた瞬間から、私を抱きしめる手を強める。離れないように、強く。
この状態では、変身魔法を使わなければ逃げ出せそうにないわ……。
「申し訳ないのだけれど、その王命は無効よ」
「星空の女神と僕の結婚は、王命で定められたものだ。何人たりとも、拒むことは許されない」
「それはミスティナが、独身であった場合にのみ適応される。ミスティナはすでに、カフシーの人間ではないわ」
「お姉様?何を言っているの?私は、カフシーの娘よ?」
「テリアム……てめぇ……」
「持つべきものは、頼りになるお姉様よね?」
お姉様は懐から紙を取り出し、殿下へ掲げた。
お姉様は私に背を向けているから、私とお兄様には紙に書かれた内容を確認できないのよね。
「ミスティナ……。オレはお前を、愛してる……っ!」
お姉様が殿下に掲げた紙を確認している時間が、私を引き止める最後のチャンスだと認識していたのでしょうね。
お兄様は私の耳元で、苦しそうに愛を吐き出した。
どうして、かしら。
殿下に愛を囁かれても、何も感じなかったのに……。
お兄様に愛を囁かれたら、鼓動が高鳴る。
お兄様と私は、血の繋がった兄妹。好きになってはいけない人だと気持ちを押し留めていなければ、自分でも理解しがたい感情が──零れ落ちてしまいそう。
「駄目よ。お兄様……。私達は……」
「血の繋がりがあんのは、テリアムとミスティナだけだ。オレとの繋がりは、そんなに濃くねぇ。オレは、お前の兄貴じゃねぇんだよ……っ!」
お父様とお母様は、血の繋がりがあると言っていたじゃない。お兄様だって、そうでしょう?
私はずっと、信じていたのに。
皆、私に……嘘をついていたの?
「オレとミスティナを隔てる、壁なんざねぇ。行くな、ミスティナ……っ。愛のない婚姻なんざ、許さねぇ!あいつよりもオレが、ミスティナを愛してる。ぽっと出野郎に……っ。奪われて堪るか……!」
お兄様は耳がタコになるほど聞いた言葉を私へ紡ぐと、もう二度と離さないと殿下を鋭い瞳で睨みつけた。
お兄様の視線に気づいた殿下は、肩を竦めて天を仰ぐ。
お兄様から強引に、私を奪い取るつもりはなさそうね。
「強引にアプローチをし過ぎた。僕も君のように、秘密裏に事を進めればよかったのか……」
「私は妹の幸せを、誰よりも願っているわ。何十年と長い時間を掛ければ、あなたとミスティナの間に愛が芽生えるかもしれないけれど。テイクミーとミスティナの間には、すでに愛が育まれている。その愛を捨て去ってまで、あなたとの婚姻を許すわけにはいかないのよ」
「最初から、今すぐ手に入るとは思っていない。ミスティナが自称お兄さんに愛想尽かして、逃げ出した時を狙えばいいだけ」
「ごちゃごちゃうるせぇぞ……!オレがいる限り、ミスティナは渡さねぇ!」
「ミスティナ」
私はお兄様に抱きしめられたまま、お姉様の背から顔を出して、殿下の様子を窺う。彼は困ったような、寂しそうにも見える笑みを浮かべると、優しい声音で私に告げた。
「自称お兄さんと離縁したくなったら、すぐに僕の所に来て。僕はいつでも、君を待ってる」
「さっさとミスティナ以外の人間と、婚姻しやがれ!クソが……っ!」
お兄様の咆哮に肩を竦めた殿下は、転移魔法を使い去って行った。
お姉様とお兄様に阻まれたせいで、殿下に別れを告げる暇さえなかったわ……。
私はお兄様とお姉様に、感謝するべきなのかしら。
どうしてこんなことをしたのかと、怒り出すべきなのかすらもよくわからないわ。
「さあ、家族会議と行きましょう。テイクミー。自分が置かれている状況は、理解しているかしら?」
「テリアムが裏で手を回したお陰で、ミスティナは奪われずに済んだんだろ」
「人聞きが悪いわね。裏で手を回したのではなく、王命が降る前に正規の手続きを踏み、あなた達の門出を祝福して差し上げたのよ。感謝なさい」
「お姉様。簡潔に説明してくださらないと、わからないわ」
「私から説明してもいいの?」
「クソ野郎に見せた書状を、確認させろ」
「いいわよ。ミスティナには、見せないで」
殿下とお兄様には見せられるけれど、私には見せられないことが書かれている書状……。何が書かれているのか、気になるわ。
お姉様から書状を受け取ったお兄様は、身長差を利用し顔の前へ持ってきた。
お兄様が内容を確認するまで、私は力強く片腕だけで抱きしめられたまま、身動きが取れない。
「お姉様。私、待ちくたびれてしまったわ」
「私が何もかも説明してしまったら、テイクミーに良い所などなくなってしまうじゃないの。もう少しだけ、我慢なさい」
「けれど……」
「ミスティナ」
お姉様が答えを知っているなら、お兄様の口から打ち明けなくたっていいじゃない。
私が勿体ぶらないで教えてほしいと、お姉様へ懇願しようとした時だった。
お兄様は私の名を呼ぶと、書状をお姉様へ突き返してから両腕で強く抱き締める。
「お兄様」
「兄なんて、呼ぶんじゃねぇ」
「お兄様は、お兄様でしょう?」
「言ったろ。血の繋がりは、婚姻を許されぬほど濃くはねぇ。オレとミスティナは、もう……」
「私とお兄様が、どうしたの……?」
「──書類上は、夫婦だ」
お兄様は私の耳元で、嬉しそうに囁いた。