6 束の間の夢 1
リリス視点
私たち鬼の一族は魔王が敗れた後、南の大陸アウロスから逃れ、海を渡ってこの地、ガーナット大陸に行き着いた。各地を人族に追われながらも、転々と住処を移して生きてきた。そうしてたどり着いた場所、ガーナット大陸最北端にそびえる大きな山脈、雪竜山脈を超えた先、人族の寄り付かない一年中雪が降り続ける秘境にたどり着いた。そこで、一生の平穏を手に入れた。
その場所で、私は生まれたんだ。
平和だった。絶対に山を越えてはいけないという掟はあったものの、姉と、父と母と四人で暮らす日々は何事もなく幸せで、私はここまで育った。人魔大戦のことは寝物語に聞くだけで、私はあまり実感がなかった。
私が五歳になったころ、外から流れてくる魔族も多くなり、里と呼べるまで大きくなったここから、外の調査をする部隊が派遣されることになった。その部隊には父も加わることになった。私は止めたかったけど、里一番の実力者だった父が選ばれるのは必然で、父自身も、里のためにと調査隊に入ることを拒むことはなかった。
外にはまだ生き残った魔族たちがいるかもしれない。正義感の強い父はそう言った。
『長い旅になる。帰ってくるのは少し、遅くなるかもしれない』
待っていてくれ、と。父はそう言って、里の調査隊約十人と里の外へと旅立ってしまった。
帰ってきたのは、それから一年後。
知らせを聞き、駆け付けた先にいたのは、片腕を失いボロボロになった父一人だけだった。
里のみんなが何があったのかと問う中、父は涙を流しながら、すまない、と膝を折り、力を失った人形のように頽れていた。
私は父が帰ってきてくれたことが、何よりもうれしかった。でも、それを伝えることはできなかった。父の暗い表情を見ると、何も言えなくなってしまったんだ。
何をすることもなく、ただ、幽鬼のように動く父を見ているのは辛かった。周りにいる人たちは、父を見ながらひそひそと話し合う。
曰く、里に帰る途中で人族に襲われたらしい。
曰く、調査隊のみんなは父を庇って死んだらしい。
みんな、憐れみの表情で父を見る。私は、それが、とても耐えがたいほどに苦しかった。
無力だった。それを恨んだ。父をこんな状態にした人族を憎んだ。でも、こんな私にできることはないと、また自分の無力を呪った。
しかし、これだけで終わらなかった。私たちに平和など訪れないのだと、嘲笑うかのように、突然、あの悲劇は起こった。
――
窓を割るような轟音が里を揺らした。里の人たちの動揺や悲鳴が肌を震わせる。外に出た私が最初に目にしたのは、一面の白銀を染める鮮血だった。
人肉が壁にへばりつき、異様な鉄の臭いが喉を咽させる。息は荒く、鼓動が早まる。私の頭は何が起こったのかわからず、固まってしまった。
酷く煩い耳鳴りと、赤い煙が周囲を漂う中、遠くで私を呼ぶ声が聞こえた。
「――リスっ!!……リリスっ!!」
「……っ?!……お姉、ちゃん……?」
そこにいたのは、体中を深紅に染めた私の姉だった。血に濡れた一振りの細剣を持ち、長く綺麗だった白髪は見る影もなく真っ赤に染まり、服には誰のものとも知れない肉片がこびり付いていた。
「リリスっ!よかった、無事なのね。父さんと母さんは?」
「わ、わかんないよ!!ねぇっ、なにがあったの?!」
「説明をしている暇はないわ。リリスよく聞いて」
「待って、ちゃんと説明して!!なにがおこって――」
――ギュッと胸の中に抱きしめられる。ドクドクと唸っていた鼓動が静かに落ち着きを取り戻していく。やがて、荒かった息が静かに整うと、抱擁を外し、瞳をじっと見つめ、姉は確かな声で語りかけた。
「いい子ね。リリス、よく聞いて。今から、私が合図をしたら全力で走って。東の門から出て“禁樹の森”まで行きなさい。振り返ってはだめよ。今は生き残ることだけを考えるの。いいわね?」
「……お姉ちゃんは?」
「私も、後から行く―――」
―――カ”ア”ア”ア”ア”アアアアアァァァッッッッ!!!!!!!!!!!!!
二度目の轟音。大地を揺るがす獣の咆哮に震えあがる。暗雲が染める空が轟き、地に落ちる雷が眼前の家屋を薙ぎ払った。そして、私は目にした。白い鬣に金色に光る獣の瞳。赤黒く浮き出た血管は、全身をドクドクと駆け巡り脈打つ。朱く染まる鋭い爪。黒い嵐をその身に纏う獅子の王、地を睥睨し、他を蹂躙する災禍の権化であるその化け物を。
「あ……あぁ……」
そいつと眼が合った瞬間、私は全身の力が抜けたように立つことができなくなった。本能で悟ってしまったのだ。私は被食者なのだと。奴が向ける目は捕食者のそれだ。私のことなどただの食料としか見ていない。そうわからせるように、金色の瞳がじっと私ををねめつける。
「くっ!はあッ!!」
動けない私を後ろに庇い、姉はその手に持つ細剣を閃光のように煌めかせ飛び出した。しかし、その攻撃は届かず、獅子の纏う嵐に阻まれる。
ジリジリと火花を放ち、鬩ぎ合う風靱と閃剣。剣を持つ姉の右腕は螺旋のように抉り切られ、舞う血の煙と、焼け焦げる臭いが周囲を満たす。しかし、その手を放そうとはせず、押しとどめ続けようとする。それを鬱陶しく感じたのか、獅子が吠えた。
その咆哮は獅子が纏う黒い嵐を膨張させ、鬩ぎ合っていた剣を押し返す。均衡はあっさりと覆され、あたり一帯は根こそぎ弾き飛ばされた。
「――がはアッ?!」
立ち並ぶ家を貫いていく姉を視界の端で捉える。私は何もできず、ただ茫然としていた。
瓦礫に埋もれる姉が、ヒュウヒュウと途切れた息を漏らす。足は小刻みに震え、吐き出した空気には血が混じっていた。
手足が冷たく凍ったように動かない。長時間雪に埋まっていたからか、恐怖からか。もう、何も思考が回らなくなっていた。逃げるべきだと頭ではわかっていた。でも、体が思うように動かない。
「に……逃げ……なさいっ……リ、リリスッ……!!がはっ――っ?!」
ゆっくりと、薄皮を剝ぐように迫る死神を、瞳孔が開いた瞳で見つめる。その獣は嗤っていた。
――何もできないだろう?
そう言っているかのように、その鋭い牙を歪め、その顎を開く。
(……ああ、ここで終わるの……?)
喉を鳴らす音が眼前に迫る。目の前を暗黒が支配した。