1 それは雪のように軽く、重い
積もる雪が木々を覆い隠し、今なお降り続ける雪はやむ気配はなく少女の視界をふさぐ。白く短い髪は駆ける風に揺れ、吐く息は雪に溶け、鉛のように足を重くする。それでも少女は歩む足を止めず、駆ける、駆ける、駆ける。何かから逃げるように。
重く圧し掛かるような咆哮が遠くに響く。少女は顔を強張らせる。悴んだ手足は恐怖によって震え、生存本能が警鐘を鳴らす。だが、少女はただ走ることしかできない。それが託された命だと理解しているからだ。
どれほど走っただろうか。いつしか断続的に響いていた獣の咆哮は姿を消していた。曇天が地を埋め尽くし、光を隠す。少女の足が人形のように頽れる。それは安心か、諦観か。薄く霧がかかる風景を最後に少女は目を隠す。遠くから地を踏む音を耳に残して――。
「なぜこんなところに女の子が?それにこの子は……いや、そんなことは後でいいか。早く助けないと危険だな」
――
暖炉の火がパチパチと音を立てて燃える。森の中にあって村落とは少し離れたところにひっそりと建つログハウス。一室しかない部屋の一壁面を覆い隠す本棚に埋め尽くされる本は、ここに住む者の性格の一端を表していた。無造作に立てかけられる一振りの剣と、豪奢な魔法の杖が飾られた部屋の角に置かれたシングルベッドの横、ゆらゆらと揺れる椅子には一人の青年が座っており、本を読んでいた。幾何学模様の描かれたそれを青年は口元に笑みを浮かべ読み進める。室内には彼以外にもう一人、ベッドに横たわる少女がいた。うなされている様子はなく、静かに眠っている。まるで兄妹のようだが、そう呼ぶには少し似つかわしくない特徴が一つ、少女の額に生えていた。白く、処女雪を思わせる髪をかき分け、小山のようにたつそれは、異形、魔族の証明、角だ。しかし、青年はそれを気にする様子もなく、黙々と少女が目覚めるのを待っていた。
剣の鏡面が窓にさす月光を反射する。朝焼けの明かりと幻想的な光が少女の顔を照らし、瞼を染める。その呼び声に少女はゆっくりと目を覚ます。
「……ん、うぅ……。こ、ここは……?」
「おや、目が覚めたようだね。おはよう」
「っ!?」
瞼を持ち上げ、体を起こし周りを見渡す少女に声をかける青年に少女は驚き、怯えたように身を引く。困惑というよりも少女はその瞳に警戒や憎悪といった感情を表していた。青年に対してというよりも、人間という種族そのものに怯えているようだった。魔族としては当たり前の反応に、気にした様子もなく青年は優しく声をかける。
「あぁ、いきなり人間に話しかけられて混乱するのは理解できるけど、大丈夫だよ。僕は君に何かしようとか思ってないから。って、言っても信じられないよね……」
「……」
青年は自分の頬を指先で少し掻くと、困ったようにまた話し始めた。
「……うーん、まぁ、今はまだそのままでもいいか。あ、自己紹介がまだだったね?初めまして、僕の名前はマナト・カナミ。マナトでいいよ。よろしくね」
「……」
「あー、君の名前も知りたいけど、まぁ、今はいいか。随分と警戒されてしまっているようだし、気が向いたらでいいよ。安心して?しばらく君の面倒は見てあげるから」
「……」
「……う、小さい女の子にここまで警戒されるとちょっと落ち込むなぁ」
溜息をつき、肩を落とす青年、マナトを少女はじっと見つめる。言葉がわからないわけではない。ただ、少女は戸惑っていた。今まで彼のように、自分たちに話しかけてくるような人間を見たことがなかったからだ。人間は目が合うや否や、その手に正義を掲げ、同胞に殺戮の限りを尽くしてきた種族だ。魔族が人間に劣っているというわけではない。むしろ基礎的な身体能力は人間より遥かに優れている。しかし、少女は目が覚め青年を見た瞬間、死を覚悟したほどに魔族は人間を恐れている。少女たち魔族と呼ばれる人々と人間との関係はそれほどに凍っている。
少女がマナトの態度に困惑していると、マナトは落とした肩を戻し気になっていたことを訪ねた。
「それでなんだけど、どうして魔族である君が、人里があるこんなところまで下りてきて倒れていたのかな?……確か魔族って人間に見つからないように隠れ里に住んでいたんじゃなかったっけ?」
「……」
「あ、いや、純粋に気になっただけだよ?君たちを揶揄する意図はないんだ。ごめんよ?それで、君たちの里で何かあったのか聞きたいんだ。女の子一人、人里まで下りてくるっていうのは、相当なことだしね」
「……」
「もしかしたら、僕が力になってあげられるかもしれな――」
「……ない」
「え?」
「生きてるわけっ、ないっ!!」
「……」
その慟哭は、今までの沈黙を許さなかった。今でも耳に蘇る。一面の白銀を鮮血に染めていくあの悲劇を。自身を逃がした父の、母の、姉の命を背負っている。それを、その意味を、聞き流していいわけがない。
少女は滲んだ瞳を毅然とした態度で押し殺し、マナトを見つめ返す。
「……僕が無神経だったね、謝るよ」
「……」
「……今日はもう遅いし、また明日にしようか」
「……」
マナトは揺り椅子を動かし、自分の寝る場所を確保すると横になった。少女は歪む視界を袖で拭い、またベッドに潜った。疲れていたせいか、意識はすぐに闇の中に溶ける。それが、すこし怖かった。