お釈迦様も百合好きだったのかな?
百合。
これがガールズラブの隠語であることは、その手の話が好きな人なら即座にピンと来ると思います。
いちおう知らない人のために言っておくと、ボーイズラブが少年愛を描いたものであるならば、
ガールズラブは少女どうしのイチャイチャを描いたものです。
このイチャイチャというのが絶妙なる空気感ともいえるもので、ガチレズは百合ではありません。
肉体関係はあってもなくてもいいが、ないほうが百合としての純度は増すといえます。
つまり、精神的な関係こそが好きなのであって、肉体的な関係が好きなのではありません。
裏返してみれば、たぶんすぐにわかると思うけど、例えばBL好きな腐女子のみなさんに、
実際のホモビデオを見せても、百億%の確率で、コレジャナイってなるに決まっています。
ギリ限界で、笑いながら、少し引き気味になにこれ~~~くらいが関の山。
仮に、見目麗しい少年然としているAVでも、求めているものが異なるのです。
これはTS=性転換ものにも同じことがいえるのだけれども、
TSものでリアルさの追及として、実際に『手術』したり、精神構造の差によって『抑うつ状態』になったりするのは
ほぼ求められていないと考えることができます。
ここでポイントとなるのは、読み手にとっての楽しさ・好きな点を抽出することにあるのではないでしょうか。
TSであれば、『かわいい女の子になりたい』とか、『女としての武器を使いたい』とか。
いずれにしろ、リアルでは現れそうな不都合な点は捨象され、都合の良い楽しい点をフォーカスすることになります。
百合やBLも同じです。
頭の中にあるのは、二次元的な――、リアルとはかけ離れたファンタジーです。
特に、BLがその昔、やおい(やまなし、おちなし、いみなしの頭文字をとる)と呼ばれていたとき、やおい穴なるものを設定した例もあったと聞きます。
まさに、やおい穴こそが虚像が虚像であることを端的にあらわしている。やおい穴はないけどあるみたいなもはや哲学みたいな論調もあったりしました。
百合についても、フタナリといって、ペニスをつけたりする場合もありますが、さすがにこれはリアルに寄りすぎた発想なのでしょう。
基本的にBLでやおい穴があったり、百合でフタナリをつけたりするのは稀です。
そもそも、BLや百合はファンタジーとしてのソレであり、リアルとしての同性どうしのイチャイチャには興味がないからです。
なぜ、リアルな同性同士のイチャイチャは忌避するかというと、『ファルス的享楽』を忌避しているからだと考えられます。
ペニスやセックスなどといった肉体的な関係は、ファルス的享楽と呼べるものです。
人を精神分析的に解剖すると、言語を獲得する段階において主体に斜線がひかれます。
言語を獲得し自我を得るのと同時に、かつて万能であった主体は永遠に失われる。
……主体にも穴はあるんだよな。
この穿たれた穴にうちたてられたものをファルスといいます。
享楽とは、快・不快原則を越えた先にある閾値を越えた刺激です。
刺激には快も不快もないことはご存じでしょう。
したがって、壮絶なる痛みであったり、壮絶なる心地よさだったりするわけです。
人は去勢された段階で、この閾値を越えないようなショックアブソーバーが自然と構築されます
ファルス的享楽は、このショックアブソーバーの検閲をわずかながら漏れ出た刺激のことを言うのです。
斎藤環先生は、このファルス的享楽を射精と表現したが、まさに射精のように一瞬、真白になるような忘我の瞬間をファルス的享楽であるとしたのだろうと思います。男性しか射精できないという点も表現としてポイントが高いですね。
なぜなら、ファルスというのは抹消された主体の代補的に打ち立てられるものであり、去勢がトラウマ的に行われる男性主体のほうがファルスに対する吸引力がすごいからです。ものすごい勢いでファルスを追い求めると言い換えてもいいです。つまり、男はファルスの呪縛から逃れられません。
ファルス的享楽はファルスの影響下を脱し切れていません。
つまり、どこまでいっても、結局のところ、根本にあるのは『わたし』。
わたしの、わたしによる、わたしのための享楽に過ぎません。
だって、射精するのは、わたしの勝手なわけです。
仮にセックスしていても、それが和姦かレイプかはわからないわけです。
そういう言い方をしたのは、要するに主体にとって、現実界とは到達しえないものであって、我々は脳内で再構築した映像を見ているにすぎず、主体どうしは永遠に会えないからです。接触ができない以上、性関係は存在しない。
したがって、ファルス的享楽は――、ファルスの奴隷です。
ものすごく卑近な言い方をすれば、男は女の子とエッチすることばかり考えていて、ラノベでも主人公とかに感情移入して(つまり、作内の『わたし』になって)ヒロインとエッチすることを夢見ているというような言い方が当てはまります。
とりあえずのところ、お好みの少女を抱けば、それで一応の永遠の愛を得たということにする。
まやかしなのは、上で述べた通りですが、対象аは永遠に辿り着けないゴールなので、それでヨシとするのもわかります。
エンタメとしてはまちがってるわけではないのですよ。
このファルス的享楽と対比する概念が、『他者の享楽』です。
百合やBLはこの『他者の享楽』を追い求めるものではないかと思います。
ファルス的享楽から抜けて、他者の享楽を追い求めるというのはどういうことかというと、
ファルスの影響域から逃れるということを意味しています。
これは、男性主体からしてみれば、相当困難なことはもうおわかりでしょう。
解剖学的男性→去勢がトラウマ的に行われる→対象аを追い求める
というふうになりがちだからです。
対象аとは欠如であるから、想像しやすいのは儚げな美少女あたりを思い浮かべればいいと思います。
男は自立した女性よりも儚げでいますぐに消え去りそうな妖精的美少女を好む傾向にあるということです。べつにロリコンではなく。
なので、美少女のことを表現するに際に、『妖精のような』と言うのは的を射た表現といえるのです。
逆に、解剖学的な女性は、去勢が曖昧に進む結果、必死に自我の帝国を創らなくてもいい。
フワッとした彼我をわける境界線さえあればいい。
そそり立つ塔は要らず、壁もいらず、ただ曖昧な線があればいい。
正義も真実も宗教も、ただ唯一愛する人も、愛さえも要らない。そういったことを象徴する言葉さえも要らない。
女性がBLを読むとき、そこに彼女自身はいないのです。
ファルス的享楽ではなく、他者の享楽であるから。
つまり、自我を散逸させて、宇宙と合一化を果たしているといえます。
彼女は"壁"になれます。
女性だけがもつ男性とは非対称的な『特典』。
去勢が曖昧であることからもたらされるフワフワな超自我(無意識)と、
プラスして異性である少年どうしの愛ということで、ファルスを隅っこに追いやることができるのです。
BLでやたらとカプ本が多種多様でまくるのも、このファルスの影響下にない=感情移入を固着させない女性特有の性質によるものでしょう。
他方で、百合好きな男性諸氏は、まず、ファルスを捨てるということからして、おそろしく困難なのです。
この精神の構造的な困難さが、男性をアイロニカルな行動に駆り立てるのでしょう。人参をぶらさげられたウマのようにわかっていても走るのをやめられません。
『飛べない豚はただの豚』みたいな男性特有の皮肉っぽさ。わかりますでしょうか。
ともあれ、ファルスを捨てなければならない。壁になりたければ、つまり他者の享楽を得るためには。
あらゆるキャラクターの中に『わたし』を混入させてはならないのです。
感情移入してはならない。
唯一異性性であることがファルスを阻害する要因となりえるが、腐女子に比べて百合男子があまりにも少ないのは、
結局、超人的な能力がなければ、ファルス的享楽へと堕してしまうからなのです。
あれ、タイトルの話はどこに行った。(ちょっと焦るわたし)
そうそう、お釈迦様が百合好きかもって話だったね。
まず、仏教って何を求めているのかという個人的感想だけど、ファルスはほとんど煩だと思います。
仏教というのは色素是空。
つまり、すべては煩悩による妄想の産物であるということから始まっています。
じゃあ、仏教も妄想なの?
そう。そうお釈迦様も言ってる。自分の説法は単なる方便だって。
方便でもいいから苦しみについて少しでもやわらげようというのが仏説の目的だろうと思います。
では、ファルスを否定することでそれをなしえるかというと、必ずしもそういうわけではないかな。
いくら念仏唱えても、火に焼かれたら熱いわけで、全部妄想だから問題ナシなんていえるわけない。
ただ、ファルスを擦り切れさせようという方向性はあると思う。
ファルスから多くの苦しみが生まれているのも確かだから、原因を断つことで苦しみの多くを断てると考えている節はある。
解脱とかまさにそれっぽいじゃん。
煩悩に濡れるというような表現があるし、煩悩は漏れるというような表現もあることから、
湿度の高さがよろしくないという発想が根源にありそう。
ファルスをウンコだとすれば、それを乾燥させてしまえば、少しは綺麗になるだろう的な。
つまり、仏教とは乾いたウンコである。
お、怒られそう。さすがに。
でも、そういうところはあると思う。もう少し格式高い表現とかできればいいんだけどね。
わたしの表現力ウンコだから……。まだわたし幼女で肛門期だから。
ともかく仏説のいう煩悩を無くそうっていうのは、ファルス的な享楽へとついつい手を伸ばしがちなところを、グッとこらえようってことかもね。
でもファルスというのは去勢済み主体にとっては、いわば自然な成り行きだから、これは不断の努力みたいなのが必要になってくるのかも。
他者に「わたし」を投影することなく、他者を他者として愛すること。
手塚治虫がマンガの仏陀で描いてたと思うんだけど、冷酷な王様が仏陀の治療を受けて笑うときに、仏陀は王の中に仏を見たんだ。
要するに、それこそが他者の享楽であり、百合にもつながる精神性なのだと信じたい。
したがって、百合てぇてぇというのは、悟りの境地である、とわたしは思うわけです。
お釈迦様は百合好きだったんだよ。
うーん、涅槃に到達……。