思い出さないで
「おい、お前、シオンじゃないか?」
長谷紫苑はその声で、我に返った。
――誰だ、俺を呼び捨てにしたのは。
紫苑はむっとして、声のほうを見た。自分と同じ制服を着た男子達、それに同じジャケットでスカートをはいた女子達が、ぞろぞろと学校目指して歩いていた。ゆるい坂がいつまでもだらだらと続くので、紫苑はぼんやりしてしまっていたのだ。
生徒達の間から、やはり同じ制服の男子が飛びだしてきた。
――誰だろう。
どことなく見覚えのある顔だ。顎が小さく、切れ長の目で、鼻筋の通った、ごく整った顔立ち。眉は太めで、やけに長い髪をセンターパートにしている。その髪は、赤茶けていた。
そいつは紫苑の腕を掴み、嬉しそうにいった。
「シオン! 久し振りだな。お前、戻ってきたのか?」
――戻る……。
間近でそいつの顔を見詰めた。どこかで見たことがある。なにか、いやな記憶がある。思い出したくないことだ。
「あ」
――こいつ。
紫苑はぽつりといった。
「お前、タツキか?」
そいつ……新條樹は、満足げに微笑んだ。
「まさか、シオンが戻ってくるなんてな。お父さまの仕事、またこちらに?」
――いまだに、お父さま、か。
シオンは緩慢に頷く。タツキは嬉しそうににこにこしている。
ふたりは学校へ向かいながら、喋っていた。次の三叉路で右を行けば、すぐに学校だ。
喋りながらゆっくり歩くので、遅刻は確定したようなものだった。だが、シオンはそう焦っていないし、タツキにも焦りは見えない。どちらも、七年ぶりの再会を喜んでいた。しばらく、その再会を邪魔されたくない。
紫苑はタツキを、目を細めて見た。タツキは美少年だったが、今でもそれはかわらない。まぶしいくらいに綺麗だ。
――俺はずっと、こいつのことが。
「シオン?」
「……ああ」
「しばらくこちらに居られるのか、と訊いたんだけど」
「高校卒業までは確実に居られる。そのあとは、進路によるかな」
タツキは目をまるくする。「成績、落ちたのか」
「そんなことはないけど……」
「じゃあ、内部進学できるだろ。大学も一緒だな」
タツキは勝手に決めてしまって、声をたてて笑った。紫苑はタツキの言葉を否定しない。
七年前まで、紫苑はこの街に暮らしていた。小学校から大学までの一貫校があり、寮生活をする生徒・児童も多く、タツキは当時、寮生活だった。
紫苑は小学一年生から、同じクラスになったタツキと親しくしていた。そのクラスは、学習障害のある児童達のクラスだった。タツキと紫苑は、IQが高すぎるので、そのクラスで特別授業をうけていたのだ。
なかには、読字障害や、発達にむらのある児童も居たが、人数が少ないし指導する教師が多く、平和で楽しい小学校生活だった。幼稚園でうけたようないじめはなかったし、紫苑の成績が上がっていったので、父親が紫苑を殴ることも少なくなった。学校は紫苑にとって、一番の逃げ場だった。
紫苑は、クラスのなかでもひときわ賢く、それなのにいたずらで、可愛いところのあるタツキが、大好きだった。いつもその後ろをついてまわって、タツキがいたずらをしたら一緒になっていたずらをし、タツキが叱られそうになったら自分がやったといって庇った。そうすると、そのあとになって、タツキは紫苑を誉めてくれる。いいこいいこ、といって、紫苑の頭を撫でるのだ。
紫苑はそうされるのが好きだった。だから、タツキの悪さは全部紫苑が肩代わりした。タツキが、あいつきらい、といえば、そいつを攻撃した。
でも、それでよかったのだ。
関係性が少し変化したのは、三年生の時だ。
その時、もうタツキは中学生レベルの勉強をしていた。それまでを楽にこなしていたタツキにしては、つまずくことが増え、沈んだ雰囲気だった。
それで紫苑は、ずっと寮に暮らしていたタツキに、一度泊まりに来ないかと誘った。タツキは喜んで、先生の許可もおり、その週末の金曜日から日曜日にかけて、タツキが泊まりに来ることになった。
紫苑の親も喜んだ。タツキの親がやっている会社と、紫苑の親の会社とは、付き合いがあるのだ。だから、ふたりが親しいことは、どちらの家族にも喜ばれるものだった。いつも厳しくて、すぐに紫苑を殴ったり、怒鳴る父親も、紫苑がタツキと親しくしているのは手放しで喜んだ。
タツキが小さなバックパックに荷物をつめてやってきて、紫苑の家族に挨拶した。紫苑は当時、義理の母と折り合いが悪く、その場でも義理の母とは口をきかなかった。
そのあと、タツキとふたりで部屋に行くと、タツキが不思議そうに、どうしてシオンはお母さまには黙ってるんだ、と訊いてきて、自分の生みの母ではないことを説明した。タツキは、離婚とか、離別というのは、概念として知っていても現実にあると思えないものだったようで、とても驚かれたことを覚えている。
タツキはお行儀がよく、言葉もしっかりしていて、貴公子然とした態度を崩さなかった。
でも、シオンの部屋でふたりきりになると、子どもらしく大きな声で笑い、一緒にベッドでころげまわり、なにかくだらないことをして遊んだ。
その晩、タツキは紫苑と同じ部屋で寝たがった。お手伝いのおばさん達に頼んで、客室にある子ども用の小さなベッドを運んでもらった。
なのに、よなかに、タツキは紫苑のベッドへはいってきた。
寝ぼけて勘違いしたんだ、と思った紫苑は、タツキに、タツキのベッドはあっちだ、とかなんとかいった。でもタツキは、紫苑にしがみついて離れない。
紫苑はベッドサイドの灯を点した。光量の乏しい灯の下で、タツキは昼間とは別人のように見えて、紫苑は口のなかが乾くのを感じた。下腹部に妙な感覚がある。
タツキは紫苑にのしかかってきて、紫苑がかたまっている間に、紫苑にキスした。
次の日、紫苑は心の底から楽しい気分にはなれなかった。タツキは普通にしていて、宿題を一緒にやり、くだらないテレビを見て、外で遊んだ。
紫苑の家の庭はひろくて、子どもふたりが駈けまわっても、一日では全部の場所を見てまわれないくらいだった。タツキは野うさぎみたいにはねまわり、それを見ていたら紫苑も段々と気持ちが解れてきて、藪のなかでタツキに飛びついた。
タツキを体の下に敷いて、紫苑はこれは昨夜とは反対だ、と思った。
キスする? とタツキが訊いてきた。
紫苑がなにもいえないでいると、タツキは逃げてしまった。笑いながら。
それから、ふたりのなにかが決定的にかわってしまった。
紫苑は冗談みたいに背が伸び始め、タツキよりもたくましくなった。タツキは成績が持ち直し、つまずくことはなくなった。
相変わらず一緒に居たけれど、なにかがふたりの間にあって、その言葉にできないなにかが自分とタツキを遠ざけていると紫苑は思っていた。
四年生になって、転校することが決まった。次の学期には別の学校だ。紫苑の父親の会社が、アメリカに支社をつくることになり、紫苑の父親含む数人がそちらで仕事をすると決まった。紫苑の父親は単身赴任をするつもりはなくて、だから紫苑もそちらへ行くしかない。
それに、紫苑の成績は、身長とは反対にのびなやんでいた。アメリカでもっと集中的な教育をうけさせたほうがいいと、父親は判断したのだ。
紫苑に逆らうすべはない。
タツキに伝えると、そうかあ、と、タツキはぼんやりした返事をした。哀しんでほしいのに、怒ってほしいのに、タツキはそうしてくれなかった。
八月になったら街を離れる、というのをタツキは覚えていた。
転校のことを伝えて以来、タツキを避けていた紫苑は、家具がほとんどなくなり、お手伝いさんも居なくなって、がらんとした家で、ひとりで居た。どうしてひとりだったのか、思い出せない。
そこに、タツキが来たのだ。
寮で暮らしているタツキは、門限の六時が近いのに、ひとりで紫苑に会いに来た。紫苑は胸が詰まって、言葉が出てこなくて、泣いた。タツキは紫苑の頭を撫でて、いいこいいこ、といった。
紫苑はタツキを抱きしめて、キスした。
タツキがどんな気持ちだったのか、紫苑は知らない。きっと、紫苑の気持ちに気付いていて、からかっていたのだ。
紫苑は、その時は自覚がなかったけれど、タツキが好きだった。友人としてではない。
――いや、今も好きだな。
なんでもないようなことを喋っているタツキを見ていると、胸がざわざわして落ち着かない。――こいつ、覚えてるだろうか。
「お前がいきなり、転校するなんていったから、僕、ショックだったんだぞ」
「え?」
「でも、戻ってきてくれたからいいや」
タツキはにっこりして、紫苑の腕を掴んだ。「ほら、いこう」
ひっぱられるまま、紫苑は歩く。
学校は、あまり変わった様子はなかった。かなり女子生徒が増えた、と紫苑は思う。タツキがその思考を読んだみたいに、少し離れたところにあった女子校が一緒になったんだと教えてくれた。
タツキの教室は、やっぱり学習障害児のクラスで、紫苑は数年ぶりに会う先生に驚かれた。いまや、先生の誰よりも背が高く、たくましくなった紫苑は、年少の生徒や児童から少しこわがられてしまった。
紫苑は通常クラスに編入する。テストはパスしたものの、日本へ戻ったばかりなので、半年は通常クラスで様子を見ることになっていた。タツキに送られてきた紫苑を、クラスメイトは奇異の目で見た。異常なIQの高さで、タツキは昔から、学校の有名人だった。
紫苑は居心地が悪くて、昼休みには学習障害児クラスへ逃げた。――どうせ、半年たてば、こちらへ編入されるだろう。
タツキが紫苑をやけにかまうので、学習障害児クラスの後輩達は、紫苑をこわがらなくてもいいとわかったようだ。放課後はパズルやチェスで遊び、下校時間にはもう打ち解けていた。
「じゃあ、また明日」
校門の傍で、タツキが立ち停まる。紫苑はそれを振り返った。
「タツキ?」
「僕、まだ寮なんだ」タツキはくいっと肩をすくめた。「今朝は、たまたまはやくに目が覚めて、散歩してただけ」
――一緒に帰れないのか。
――タツキの家族がここに越してきたか、寮を出てひとり暮らししているかだと思ったのに。
だが、今朝会えたのは運がよかったからだ、と思うと、少し気分がいい。紫苑は頷いて、タツキに手を振りながら学校の敷地を出た。寮は校舎の裏にある。
高校生活は、紫苑には凄く居心地のいいものだった。勉強はそこまで難しくないし、気が滅入るようなことがあったらタツキのところへ逃げればいい。
もう勉強したところを延々聴かされるような授業がいやで、学習障害児クラスへ行くと、タツキが出てきて散歩へ誘ってくれる。先生達は、ふたりが授業をぬけだしても、本気で叱りはしない。
「みんな、僕らのことを、珍獣だと思っているからさ」
タツキは温室をぶらぶら歩きながら、そんなことをいう。「僕らを叱って、逆ねじをくうのがいやなんだ。僕らはそんなことしないのに。なあ、シオン?」
「ああ」
紫苑はタツキの後ろ姿を見ている。タツキはみぞおちよりも下辺りまであった髪を切ってしまっていた。うなじが見える。
「タツキ、髪、切ったんだな」
「ああ。ヘアドネーションだよ」
――もったいない。
タツキの長い髪は、とても綺麗に、丁寧に手入れされていた。その髪が誰かの手に渡るというのに、紫苑はどうしようもない嫌悪と嫉妬を覚える。
タツキがくるっと振り返った。ロサ・ルキアの棚の前だ。彼は紫苑を見詰めたまま手を横へ伸ばし、ロサ・ルキアを一輪、もぎとった。それは乱暴な手付きで、ロサ・ルキアは潰れて落下した。
「願掛けしてたんだ」
「願掛け?」
「シオンが戻ってきますようにって、神さまに祈ったんだ。ずっと。ずっと。なにもいらないからシオンを戻してって。救いを求めたんだよ」
紫苑は鼓動がはやくなっていくのを感じていた。タツキは、紫苑から目を離さない。
「ばかみたいだろ。僕からシオンをとりあげたのは神さまなのに。でも僕は祈り続けたんだ。毎日お祈りした。シオンが戻ってきますように、シオンが僕のことを忘れませんようにって。そうしたら本当にシオンは来てくれた。だから髪は切った。神さまとの約束だから。破ったら、またシオンをとりあげられるかもしれない」
「タツキ」
「僕のこと、また好きでいてくれる? あの時みたいに?」
紫苑はタツキに近付いて、ロサ・ルキアの花弁がへばりついた手を掴んだ。そのまま引き寄せて、抱きしめる。切ったばかりの髪は、ちくちくと紫苑の頬を刺した。「あの時とかわらない。ずっと、好きだった」
「シオン、いやだったら、辞めていいぞ」
辞めない、と紫苑は答える。
ばれたら怒られるかな、とタツキは考え込むみたいにいう。
どうだろう、大丈夫じゃないか、と紫苑は答える。
タツキの部屋は寒かった。気温だけの問題ではない。寒々しい。ベッドと机、クロゼット。それだけの部屋だ。タツキがこの学校に莫大な寄付をしているひとの子どもだからか、それとも寮はどの部屋もそうなのか、寒々しいがシャワー室とトイレもついていた。
実際のところ、タツキが充分な教育をうけられるように、タツキの親がこの学校に金を注ぎ込んだのだ。タツキの入学と同時に学習障害児のクラスができた。彼はこの学校の王子さまだ。
紫苑はタツキの手を握る。二度とはなさない、と思う。あの時みたいにはなしたりしない。見捨てたりしない。
――あの時?
タツキがすり寄ってきた。紫苑は考えていたことをすべて投げ捨てて、タツキを抱きしめる。痛かったらすぐにいえよと警告する。
「大丈夫」タツキはくすっとする。「あの時は、逃げてごめん。僕、泣くと可愛くないからさ、それを見られたくなくて……」
ふたりの関係はまた、変化した。外では友達同士のように振る舞って、でも、シオンはたまに、タツキの部屋へ行ったし、タツキも門限までに帰れる日は紫苑の家まで来た。
温室の、ロサ・ルキアの棚の前で、ふたりでなにも喋らずに座っていると、満足感がある。すべてがあるべきところへおさまったのだと紫苑には感じられた。――俺とタツキは、同じ気持ちだったんだ。
――ずっと、お互いに、好きだった。
――どうしてあの時、わかってやれなかったんだろう。
饒舌なタツキが、黙った一瞬。あれが、別離の瞬間だった。
――あの時タツキがひとこと、なにかいってくれていたら、俺はタツキを見捨てなかった。あのあと、手をはなさなかった。
――タツキを傷付けたりしなかったのに。
「長谷くんじゃない?」
既視感のある言葉に、温室へ行こうとしていた紫苑はびくっとかたまる。
右方向へ顔を向けると、女子生徒が走ってきた。浅黒い肌と、低い位置でふたつのお団子にした髪型に、見覚えがある。
「あ……安藤?」
「わ、覚えててくれた?」
安藤美耶子は、にこっと笑う。
安藤は、学習障害児クラスに二年生の半年間だけ居た。読字障害があったのだが、特定の色の下敷きをテキストにかぶせるとまったく普通に読めるということがわかり、通常クラスに編入したのだ。
二回、タツキと一緒に家まで遊びに行ったことがある。安藤の家では元気なポインターを飼っていて、一度一緒に散歩に行った。
安藤は嬉しそうに目を細めた。
「わたし、転入してきたんだ」
「え?」
「長谷くんの次の年に、一旦ここを離れたのよ。父の仕事の都合で……でも、やっぱりここが一番! 寮はあたらしくなっててびっくりしたわ。ひとりだから、寮にするか迷ってたんだけど、ご飯がついてるから」
安藤はいたずらっぽく、ぺろっと舌を出した。
「それに、変な目で見られないしね」
彼女は苦笑いして、脇に抱えたノートや教科書からはみでた、緑色の下敷きを示す。紫苑もちょっと笑った。
安藤はけれど、表情を曇らせた。
「長谷くんがまたここに来るなんて、思わなかったな」
「どうして?」
「だって」
なにをいっているの、とでもいうような、なにか咎めるような表情で、安藤は紫苑を見ている。「新條くんのことがあったでしょ。新條くん、どうしてあんなところに行ったんだろうって、わたし今でも考えることがあるの。ここから公園まで、距離もあるし、あの池は危ないから近寄るなっていわれてたでしょ。死んじゃった子も居たらしいし……池に落ちるなんて……」
紫苑は温室へ向かって走る。
温室にはタツキが居た。彼はゆっくりと振り返り、紫苑を見て微笑む。
――あの日。
紫苑は自分の記憶が、巧妙に偽装されていることに気付く。
それは、誰がやったことでもない。自分が忘れたくて、改竄した。
――タツキが来た時、俺はひとりだった。
――父さんに殴られたんだ。
――引っ越したくないといって。
――頭をひやせって、一晩ここに居ろって、怒鳴られた。
――電気も水道も停まってたのに。
――そこにタツキが来た。
――タツキに泣いてほしかった。
――行くな、転校するなって、いってほしかった。
ただそれだけだったのだ。それだけが、紫苑の態度をかたくなにしていた。
タツキはそれをいわなかった。温室からとってきたと、ロサ・ルキアを二輪持っていた。別れの花だ、別れることを惜しんでくれないのだと、紫苑は判断した。
紫苑の強引なキスのあと、言葉が途切れ、沈黙が一瞬あった。それも、紫苑にはつらかった。受け容れてくれないのだと思った。
公園まで歩こう、といったのは、タツキだ。
紫苑は承知した。
紫苑の家の裏から、公園はすぐだ。
ふたりは庭を通って、そちらへ向かった。
紫苑は自分の感情を、まったくコントロールできなくなっていた。
藪のなかで、いつだったかにタツキを捕まえ、キスする、と訊かれたあの藪のなかで、紫苑はタツキに組み付いた。
タツキは抵抗らしい抵抗をしなかった。
気色の悪い沈黙のあと、タツキが泣いた。
親友に裏切られ、蹂躙された、それに対する怨嗟だと思った。
タツキは泣きながら、公園へ向かって歩いていった。
紫苑はそれを追った。
でも、捕まえるつもりはなかった。
捕まえたところで自分のものにならないと思ったからだ。
タツキは公園にはいり、紫苑もそうした。
少しだけ距離を置いて、タツキを歩かせた。
タツキは泣いていて、足を踏み外し、池に落ちそうになった。
紫苑は走っていって、タツキの手を掴んだ。
ロサ・ルキアがまだ握られていた。
紫苑に酷いことをされた時に、タツキはロサ・ルキアを握りつぶしていた。
紫苑はタツキを見た。タツキは泣いていた。それでもまだ、紫苑に対する期待、もしくは信頼のようなものが、タツキの目にはひらめいていた。
でも、タツキはどうせ手にはいらない。
紫苑は手をはなした。
失うことができないものを得る為に、持ちきれないものをさしだした。
それが愚かな行いだとは、思わなかった。
「どうしたんだ、シオン」
タツキは微笑んでいる。
紫苑は震える。過去の亡霊に。
彼はまさしく亡霊なのだろう。
タツキが近付いてくる。
紫苑は震える声でいう。
「お前、どうして生きてる」
「……どういう意味?」
「お前は俺が殺した」
紫苑はがたがたと震えている。震えが停まらない。自分の愚かさや、おぞましさに、吐き気がする。
「七年前。俺はお前を犯して、殺した。お前が足を踏み外して池に落ちた時に、俺は助けられたのに助けなかった。手をはなした」
「……僕が、死んでるって?」
「ああ!」
紫苑は自分の喚きに、びくっとする。
タツキは微笑みを崩さない。
「僕が殺した。お前を。手にいれられないと思ったから」
「僕は、シオンのこと、昔も今も好きだ」
「嘘だ。お前はタツキじゃない。お前は俺のつくりだしたものだ。僕がタツキにゆるしてほしい、タツキに生きていてほしいと思っているから、だから出てきたんだ。消えろ。消えろよ。タツキのふりをするな。タツキをけがすな。タツキが俺なんかを好きになる訳ない。だから嘘だ。お前は偽ものだ」
息が切れた。
タツキは哀しそうだ。
「そういうことだったんだな。僕がちゃんと、好きだっていえばよかったんだ」
「なに……」
「なあ、シオン、僕は死んでなんかないんだよ。僕は生きてる。僕を殺したっていうのが、お前の妄想なんだ」
シオンはベッドの上に居る。点滴がぽたぽたと滴りおちている。つながれた電子機器が、絶え間なく音を立てている。
ベッドの足許で、樹と安藤は並んで立っていた。
「わたしが、あんなこといいだしたから」
「いや、安藤の提案は、ありがたかったよ。おかげで、シオンの妄想がはっきりした。やっぱり、シオンは僕を殺したと思ってたんだ。安藤のいうとおりだった」
樹はシオンの顔を見詰めている。シオンは半分だけ目を開けて、眠たそうだ。鎮静剤がきいているのだろう。
安藤が不安そうに、樹を仰ぐ。
「やっぱり……ねえ、どうして長谷くんは、そんな妄想を? あの時新條くんが何度も、長谷くんに、大丈夫だっていってたのに」
樹は頷く。自分のなかがからっぽになってしまったみたいな心地がしていた。中身がこぼれて、戻ってこない。
樹は安藤を見る。
「シオンは、僕がシオンをきらってるって思ってたらしい」
安藤は眉をひそめ、口許へ手を遣った。
「そんな……新條くんは、誰が見たって長谷くんのこと好きだったわ。今だって、そうじゃない」
「そうだな。でもシオンは、鈍いから」
笑った。乾いた、哀しい笑いだ。「でも僕だって、卑怯だった。シオンにいえばよかったのに、好きだっていわなかった。シオンにいわせたかったんだ」
――それが、僕の、愚かなところだ。
樹は目を瞑る。先程、シオンを診察した医師に、話を聴いた。ここは新條の家の病院だ。樹に隠しごとをできる医者なんて居ない。
「先生は、僕にきらわれるくらいなら、僕が死んだことにしたほうが楽だったんだろうっておっしゃってる」
樹は一回、ぎゅっときつく目を瞑る。「それと、シオンのお父さまは、シオンに、ああ……」
安藤が憐れむように息を吐いて、樹の腕を軽く叩いた。安藤は樹の味方だ。シオンを救うと決めた樹の。
樹は泳げる。
――シオンも知っている筈なのに。
それに、あの池では死亡事故があったから、はしごが設置されていた。樹はそこまで泳いで、池からあがった。シオンはそれを見ていた筈なのだ。
彼は樹が泳いで池からあがったのを見ているのに、樹が死んだといっていた。
安藤の家はあの時、公園近くにあって、彼女は犬を散歩させに来て、泣き叫ぶシオンと呆然とした樹を見付け、親を呼んだ。シオンはずっと、樹が死んじゃった、と泣き叫んでいた。樹が、大丈夫だよといっているのに、目の前に居るのに。
シオンは新條の家の病院にいれられた。そこで、シオンは「まとも」に戻ったように見えた。樹が見舞に行けば喜んだし、安藤もほっとしていた。
シオンは順調に回復し、アメリカへ行った。手紙を書くという約束は、破られた。樹がどれだけ手紙を書いても、シオンはひとつも返事を寄越さなかった。
「ばかだな……」
樹はそういってから、それが自分にいった言葉なのか、シオンにいった言葉なのか、わからなくなる。
樹は三年前、中学生の頃、シオンに会いに行った。留学したのだ。
それくらいのわがままは、優秀な樹ならゆるされている。親は、樹がきちんと学業をこなし、家に役立つ限り、ほかの部分は口を出さない。シオンを好きなことも、シオンに執着していることも、なにも咎めない。
シオンはアメリカで、楽しくやっているようだった。樹と再会すると、喜んだ。久し振りだなと笑って、会わない間にたくましくなった腕で樹を抱き寄せた。
ふたりは順調に距離をつづめ、付き合うようになった。
シオンはまったく、普通に見えた。いい状態に。安定しているように。
でも、それはすぐに剥がれるメッキだった。
ある日、樹が女生徒から花をもらって困っていると、シオンが突然泣き叫びはじめたのだ。それは、まるで自分がこれから殺されるみたいな、おそろしい叫びだった。彼は恐怖に支配され、教室中を暴れまわり、机や椅子を投げ、かけつけた教師七人がかりでとりおさえられた。
死んだ筈の友達が居た。幽霊だ。亡霊だ。俺に復讐に来た。
シオンはそういっていたらしい。
隔離された彼には、直に会うことはできなかった。でもどうにか、先生やカウンセラー、心理学者や精神科医にまといつき、情報を聴きだした。シオンは樹が死んだと思っているらしい。しかも、自分はその友達をレイプしたとまで話した。
樹は訳がわからなかった。シオンはそんなことをしてはいない。樹が池に落ちた日、シオンは樹を抱きしめて、キスした。それだけだ。樹は別れが哀しくて、ふたりで並んで歩くのもこれまでなのだと思うとつらくて、そういう感情が体の痛みのように感じて、泣いてしまった。
みっともない泣き顔を見られたくなくて、公園まで逃げ、ばかみたいに池に落ちたのだ。
シオンのその妄想は、半月すると落ち着いた。そして、見舞に行った樹に、彼はいったのだ。久し振りだなあ、わざわざアメリカまで見舞に来てくれたのか、と、吃驚したみたいに。
シオンのなかから、樹の記憶は奇妙な形にぬけおちている。
安藤に相談したのは、シオンがおかしくなった瞬間に彼女が居たからだ。それに、彼女もシオンを心配していた。彼女がシオンに出した手紙には一度だけ、返事が来たのだ。シオンは不可解なことを書いて寄越したらしい。俺のかわりに樹の墓参りをしてほしい、と。
安藤は樹から話を聴いて、長谷くんは新條くんを殺したと思っているのじゃないかしら、といった。レイプ云々も、おそらく彼にとってそれは殺人同等の行為で、要するに樹を毀損したと考えているのだろう、と。だから、樹を異常にこわがる。でも、つらいから、すぐに記憶を塗り替える。
それをたしかめようと思った。妄想がなにか、彼がなにをおそれているのかがはっきりすれば、治療のしようもある。
樹は、もう二度と、シオンに忘れられたくなかった。
シオンは身じろぎした。安藤が樹へ頷いて、二歩さがる。
樹はベッドへ近付いていった。鎮静剤も打っているし、近寄っても危険はないと聴いている。
それに、シオンは樹を傷付けようとしない。ただ、こわがっているだけだ。
「シオン?」
「俺はタツキが好きでたまらなかったんだ」
シオンは呻くようにいう。うすく開いた目は、樹を見てはいない。どこかを見ている。どこか遠いところを。
「タツキを殺したら、俺のものになるって思った。でもそうじゃなかった。タツキは」
「僕だってシオンが好きだ」
シオンの唇が、縫い止められたみたいに、ぴったりと合わさった。
シオンの手を握る。樹は、涙をこらえていた。――僕の泣き顔は不細工だから。
――シオンには見せない。
「殺さなくてもいい。ずっと好きだよ」
シオンはかすかに、本当にかすかに微笑んで、目を瞑った。
声がして、紫苑は振り向いた。
「樹」
「おはよう。今日は、誰?」
「二宮先生」
「あたりだ。僕は清田先生だから、はずれだな」
樹は笑って、紫苑に並んだ。紫苑は頭ひとつ分小さい彼を見下ろす。
紫苑は学習障害児クラスに編入していた。通常クラスだと、紫苑には簡単すぎる。そう、学校が判断した。
「おはよう、長谷くん、新條くん」
笑うような声を出して、安藤が走ってきた。両手でノートや本を抱え、緑色の下敷きがそこから滑り落ちた。紫苑は笑いながらそれを拾い上げる。「ありがと」
「ああ。安藤、おめでとう。中間テスト、学年一位」
「凄いな」
「長谷くん達は除外されてるもの」
三人は並んで、温室へと歩く。朝のはやい時間、生徒は少ない。
移動しながら、他愛もない話をしていた。どの先生が好きかとか、どの部活が全国大会に行くらしいとか、そういう、別に話さなくてもいいような、でも話すのが楽しいことだ。
温室には誰も居ない。三人はまだ喋りながら、ゆっくりと歩く。こうやって温室を散歩するのは、このところの三人の日課だ。
紫苑は左手の甲を、撫でた。そこには、点滴の針が刺さっていた。ついこの間まで。――どうして、入院したんだった?
「紫苑」
樹が心配するみたいな声を出した。
――なにか忘れているような気がするけれど、そんなのは気の所為だろう。
――なにも忘れてなんかいない。
――大事なことは、なにも。
顔を上げる。樹がロサ・ルキアの棚の前に立っていた。
紫苑は大きく口を開けた。