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【名刺作品集】

恋人になってくれませんか?

 扉を開けると、咽せ返るような白粉や香水の香りがした。部屋の真ん中には一国の王が座るような豪奢な椅子が鎮座しており、そこには一人の男性がどっかりと腰掛けている。


 クシャクシャッと無造作にセットされた金色の髪の毛、夜空みたいな色をした深い青の瞳、整った目鼻立ちに端正な身体。大きく開かれた襟元からはのど仏や鎖骨が見える。

 普段グラディアが接している貴族の男性たちとは全く異なる、どこか退廃的な雰囲気。緊張で心臓がドキドキと鳴り響いた。



「あなた誰? 入る部屋を間違っていない?」



 声を掛けてきたのは、快活な笑顔が魅力的な美しい少女だった。彼女はグラディアのことを上から下まで遠慮なく眺め、面白そうに肩を震わせる。場違いだと、そう言いたいのだろう。けれど、グラディアはめげなかった。フルフルと首を横に振り、そのまま部屋の真ん中へと進んで行く。


 その間、すれ違う幾人もの女性たち。皆、グラディアと同年代の少女だというのに、美しく自信に満ち溢れていて、『女性』という呼称が良く似合う。未だあどけなさの残るグラディアとは正反対だ。それでも、グラディアは引き返すわけにはいかなかった。



「――――エーヴァルト様にお願いがございます!」



 この部屋で唯一の男性の目の前まで進むと、グラディアはそう口にした。彼にしな垂れかかった少女たちが目を丸くする。対するエーヴァルトは、涼しげな表情でグラディアを見下ろしていた。



「わたくしの恋人になってくださいませんか?」



 グラディアの声が木霊する。室内が騒然とした。女性たちの嘲笑にも似た声が響く中、グラディアは真っ直ぐにエーヴァルトを見上げている。



「――――話だけは聞いてやる」



 そう言ってエーヴァルトの口角がニヤリと上がる。信じられないといった少女たちを尻目に、グラディアは嬉しそうに微笑んだ。




「それで? どうして貴族のお嬢様が俺のところに?」



 エーヴァルトは頬杖をつき、面白そうに首を傾げる。煩かった女性たちの声は今はしない。エーヴァルトが人払いをしたからだ。



「別に本気で俺の恋人になりたいって訳じゃねぇだろ? っていうか、俺は遊びの出来ない女はお断りだ」


「とっ、当然です! だからこそ、あなたにお願いに来たのですから」



 グラディアはそう言って胸を張った。エーヴァルトは眉間に皺を寄せ、黙ってグラディアを見下ろしている。グラディアは玉座の前にちょこんと正座した。



「――――わたくしにはクリストフという幼馴染がいます。侯爵家の跡取り息子で、先日、わたくしの親友ロジーナとの婚約が決まりました。ロジーナは由緒ある伯爵家の御令嬢で、すごく綺麗で強い女性なんです。

ですが彼は、とある理由からロジーナとの婚約を拒否していまして……」


「ふぅん――――で、その理由ってのがあんたなわけ?」


「……話が早くて助かります」



 グラディアは眉をへの字型に曲げ、深々とため息を吐く。エーヴァルトは椅子から降りると、グラディアの前へしゃがみ込んだ。



「幼馴染に恋して婚約を拒否、ねぇ。それで、俺があんたの恋人の振りをして、クリストフって奴があんたを諦められるように仕向けたいってことか」


「はい。わたくしに恋人がいると分かれば、彼はすぐにロジーナと婚約をすると思うんです。……お願いできませんか?」



 グラディアの瞳は憂いを帯びて揺れていた。断られることに対する不安なのか、はたまた別の理由があるのか、エーヴァルトには判じられない。



(けどまぁ、貴族に恩を売っておいて損はねぇ、か)



 魔術科の不動のトップとして君臨しているエーヴァルトだが、あくまで平民の身分だ。今後の人生を考えれば、伝手は多い方が良い。見た目よりもずっと、堅実な性格をしている。


 何より、エーヴァルトはひどく退屈していた。才能が突出しているが故、周りには友達やライバルと呼べるような人間はいない。言い寄ってくるのはいつも、似たような少女ばかりだ。ほんの短期間、普段とは違うことをしてみるのも悪くはない。



「良いけど」


「本当ですか?」



 エーヴァルトの返事に、グラディアは瞳を輝かせた。ひどく純粋で、無垢な表情。エーヴァルトの取り巻き連中とは正反対の少女だ。



「良い()()! 絶対俺にマジになるなよ? 面倒ごとは嫌いだ」


「なりません! 絶対絶対、あり得ませんわ」



 そう言って満面の笑みを浮かべるグラディアの額を、エーヴァルトは指で弾いた。無邪気なだけに、何となく腹が立った。



***



「あぁ、僕のグラディア! 今日もなんて可愛いんだっ」



 それから数日後。エーヴァルトは魔法で姿を隠し、来訪者のことを観察していた。場所はグラディア邸のガーデンテラス。テーブルには三組のティーセットが並んでいる。



「クリストフ、急にお呼び立てしてすみません」


「僕がグラディアの誘いを断るわけがないよ。気にしないで?」



 そう言ってクリストフはグラディアの手を握る。グラディアの眉がピクリと揺れ動いた。



「それで? 今日はどうしたの? ……あぁ、制服のグラディアも可憐だけど、私服のグラディアは格別に美しいね。今度またドレスを贈るよ」


「いっ……いえ、クリストフにはもう、ロジーナという素晴らしい婚約者がいるのですから。今後はそういったことは控えませんと。こうしてお会いするのも、これを最後に……」


「ロジーナとの婚約は成立していないよ。グラディアだって知っているだろう?」



 先程までの調子は何処へやら、クリストフは急に真面目な声音で身を乗り出した。グラディアが頬を染め、気まずそうに後退る。



(ふぅん)



 エーヴァルトはそんな二人の様子を眺めながらふぅ、と息を吐く。事は単純なようでいて、案外複雑らしい。困惑しきったグラディアの表情に、エーヴァルトは唇を尖らせた。



「あの……実はわたくし、今日はあなたに紹介したい人がいるのです」



 そう言ってグラディアがエーヴァルトの方へ目配せする。打ち合わせでは、エーヴァルトの出番はもう少し先の筈だった。クリストフの人となりを見定めるためだ。けれど、間が持たないと判断したのだろう。グラディアは頻りに首をしゃくりながら、エーヴァルトへと助けを求めている。



「紹介したい人? 珍しいね。一体どんな……」


「グラディア」



 エーヴァルトは今まさに到着したかのように、庭園の入り口からグラディアを呼んだ。その瞬間、クリストフの瞳が驚愕に見開かれる。グラディアとエーヴァルトを交互に見ながら、ワナワナと唇を震わせる様子を、エーヴァルトは何とも言えない複雑な気持ちで眺めていた。



「紹介するわ。魔術科のエーヴァルトよ。わたくしの恋人なの」


「……どうも」


「こっ……恋人⁉ この男が、グラディアの⁉」



 眉間にクッキリと皺を刻み、クリストフは叫んだ。エーヴァルトがグラディアをそっと抱き寄せる。するとクリストフは、目にも留まらぬ速さで二人を引き剥がし、グラディアへと詰め寄った。



「ダメだよ、グラディア! その男は貴族科でも有名な女たらしだ! グラディア以外に何人も女がいるのに、そんな男を恋人だなんて……」


「しっ……知っています。それでもわたくしは、エーヴァルト様が好きなのです」



 クリストフの目を見ないようにして、グラディアは言う。



(嘘が下っ手くそだなぁ)



 エーヴァルトはため息を吐きつつ、真っ赤に染まったグラディアと、クリストフを見つめた。


 クリストフはエーヴァルトとは真逆のタイプだった。品行方正、一分の隙もなく整えられたヘアスタイルに服装。貴族とはこういう人間だろう、と世間が想像する通りの見た目をしている。短時間で性格までは分からないものの、恐らくは誠実で真面目な人柄なのだろう。だからこそ、グラディアは自分を選んだのだろうとエーヴァルトは思った。



「ですからもう、わたくしのことは忘れてください。どうか、ロジーナを幸せにして」



 グラディアの切実な声が響いた。聴いているこちらの方が、胸が張り裂けそうになる。クリストフは首を大きく横に振り、グラディアの手を握った。



「僕はロジーナではなく、グラディアを幸せにしたいんだ! 忘れるなんて、できるはずがないだろう!」



 クリストフの言葉に、グラディアは今にも泣きだしそうな表情でエーヴァルトを見つめてきた。感情の波に吞まれてしまいそうなのを、必死に堪えているらしい。



(そのまま呑まれてしまえば良いのに)



 そう思いつつ、エーヴァルトはそっと身を乗り出す。



「――――失礼。クリストフ様はロジーナ様との婚約が決まったとお聞きしました。それなのに、俺のグラディアを口説くのは止めていただきたい」



 先程ここで行われた二人の会話を、エーヴァルトは聴いていないことになっている。状況を整理するためにも、エーヴァルトは再度、そう口にした。慇懃な口調はグラディアからのオーダーだ。見た目とのギャップに、クリストフが少しだけたじろいだのが分かった。



「それは……父上が勝手にそう言っているだけだ! 僕はグラディアと結婚するつもりで、ずっと……ずっと…………」


「それは無理なお話ですわ。クリストフとわたくしでは家格が釣り合いませんもの」



 答えるグラディアの声は震えていた。エーヴァルトからは覗えないものの、今にも泣きそうな表情をしているに違いない。何だかなぁ、と思いつつ、エーヴァルトは眉間に皺を寄せた。



「そんな時代錯誤なこと、僕はちっとも気にしないよ。それに、それを言うならこの男、平民だろう? それこそグラディアとは釣り合わないよ」



 クリストフはそう言って、エーヴァルトのことを恨めし気に睨んだ。エーヴァルトはふぅ、とため息を吐きつつ、グラディアを自分の方へ抱き寄せる。グラディアはフルフルと首を横に振りつつ顔を上げた。



「そんなことはございません。エーヴァルト様は魔術科のナンバーワンですもの。将来は必ず爵位を授かる御方ですわ。名ばかりの貴族であるわたくしよりも、エーヴァルト様の方がずっと優れていらっしゃいますもの」



 グラディアの返答に、エーヴァルトはなるほどな、と思った。何故グラディアが自分を選んだのか、エーヴァルトはその理由をずっと考えていたのだ。


 第一に、恋人の振りをする男性は、彼女と同じ貴族が相手では難しい。例え振りでも相手の今後を左右する可能性が高いし、クリストフに対する信憑性が薄い。その点、エーヴァルトは幾人も恋人がいるから、その内の一人だと公言したところで、傷つくのはグラディアの名誉だけだ。クリストフとロジーナの婚約が成立した頃合いを見計らって『別れた』と言えば良いだけなので、事後処理も楽である。


 第二に、エーヴァルトの身分だ。エーヴァルトは今は平民だが、優秀な魔術師だ。この国の王は有能な魔術師たちに爵位を与え、彼等を側近くに置こうとする。国の護りを強固にするため、ひいては魔術師たちによる反乱を防ぐためだ。エーヴァルトにも十分、爵位を狙えるだけの実力があった。グラディアが『そこを見越した』と言えば説得力が少しは増すし、言い訳が立つ。少なくともグラディアは、そう考えたようだ。



「とにかく、わたくしはエーヴァルト様の恋人なのです。クリストフはロジーナと婚約を結んでください」



 グラディアはキッパリとそう言い放った。クリストフは瞳を潤ませ、グラディアへと縋りつく。



「そんな……ダメだよ、グラディア。僕が好きなのはロジーナじゃない。グラディアなんだ。それに、さっきも言ったけど、この男には君以外に何人も恋人がいるんだよ? そんな男がグラディアを幸せにできるわけが――――いや、元より幸せにする気だってない筈だ。君は遊ばれているんだよ」



 グラディアはエーヴァルトを見上げながら、表情を曇らせた。ここで『遊ばれたいんです』とでも言えば、火に油を注ぐようなもの。クリストフはグラディアの目を覚まさせようと、躍起になるだろう。

 けれど、『遊びじゃない』と主張するのもどこか嘘くさい。そもそもが嘘で塗り固められた関係だし、当然なのだが。



「とっ……取り敢えず、今日の所はお引き取りください。こうしてあなたと一緒にいること自体、ロジーナに対して申し訳なく思っているのですから」



 グラディアの言葉にクリストフはたじろいだ。グラディアとロジーナは親友だ。それなのに今、二人の関係がギクシャクしてしまっていることを、当然クリストフは知っている。全て、クリストフがロジーナとの婚約を保留にしているためだ。



「分かったよ」



 クリストフはそう言って、グラディアの頭をそっと撫でた。ビクリと身体を震わせ、グラディアがクリストフを見上げる。クリストフはエーヴァルトのことを憎々し気に睨みつけると、そのままその場を去っていった。




「なぁ、もう良いんじゃねぇの?」



 クリストフが居なくなった後、椅子の背もたれに凭れ掛かる様にして腰掛けつつ、エーヴァルトがそう呟いた。



「良い、とは?」



 グラディアはお茶を淹れ直しながら、そっと首を傾げた。緊張の糸が切れたのだろうか、どこか朗らかな表情だ。



「おまえ、あいつのことが好きなんだろ?」



 ストレートな問い掛け。グラディアの顔が茹蛸の如く真っ赤に染まった。



「なっ……な、な…………っ」


「良いじゃん。あっちもおまえのことが好きなんだし、奪っちまえよ。わざわざ俺と恋人ごっこするより、そっちの方が余程簡単だろ?」


「そんなこと、できませんわ」



 グラディアは眉間に皺を寄せ、首を横に振る。紫色をした瞳が薄っすらと涙で濡れていた。



「幼い頃からずっと、わたくしはクリストフと一緒に居ました。けれど、彼のお父様に選ばれたのはわたくしじゃない――――ロジーナだったのです。その現実をわたくしは重く、受け止めなければなりません。わたくしではダメなのです」



 エーヴァルトは悲痛な面持ちのグラディアをじっと見つめた。


『選ばれなかった』


 その事実はどんな形であれ、人の心を激しく抉る。ずっと側に居たが故に、尚更堪えたのだろう。そうグラディアの表情が物語っていた。



「それにわたくしにとってロジーナは、大事な親友なのです。それなのに、クリストフが彼女との婚約を拒否して、気まずくて……会話すら出来なくなってしまって。

――――わたくしは、彼女と仲直りがしたいと思っているんです」


(いやぁ……そいつは無理じゃねぇかなぁ?)

 


 吐いて出そうになった言葉を、エーヴァルトは必死に呑み込んだ。

 ロジーナがクリストフをどう思っていたか、エーヴァルトは知らない。けれど、グラディアと同じ『選ばれなかった者』の苦しみを、彼女も今まさに味わっているはずだ。クリストフが選んだのはグラディアだった。それは紛れもない事実だからだ。


 男女の痴情の縺れ程、簡単に友情を破壊するものはない。けれど、さすがに今、それを口にすることはあまりにもデリカシーに欠ける。己の領域(テリトリー)では何を言っても許されるだけに、エーヴァルトは何とも落ち着かない気分だった。



「……申し訳ございません。エーヴァルト様には今日、一度だけお付き合いいただければ、それで済むものと――――そう思っていたのですが」



 グラディアの表情は浮かなかった。今日の会合は物別れに終わってしまった。グラディアはエーヴァルトが今後の助力を断ることを危惧しているらしい。

 けれどエーヴァルトは、グラディアの頭をポンポンと叩くと、穏やかに微笑んだ。



「別に良いよ。おまえのお茶、美味いし。一緒に居るとぬるま湯に浸かってる感じがして落ち着くし」


「ぬっ……ぬるま湯ですか?」


「そう、ぬるま湯」



 そう言ってエーヴァルトは目を細めて笑った。人懐っこい年相応の幼い笑みだ。グラディアの心臓がトクンと疼いた。



「だけど、本当に良いんだな? あいつを手に入れないで、後悔しない?」



 最終確認とばかりにエーヴァルトが尋ねる。グラディアが頷くと「了解」と口にして、エーヴァルトは笑った。



***



 その日を境に、エーヴァルトは時間の許す限り、グラディアと一緒に居てくれるようになった。

 教室にもまめまめしく顔を出し、放課後も共に過ごす。クリストフが『二人は恋人』だと嫌でも認識できるよう、振る舞ってくれた。


 最初の内は、二人の身分の違いやエーヴァルトの素行を知っているが故に顔を顰める者もいたが、そういう者ほど早々に態度を軟化させていく。


 エーヴァルトは存外、誠実な人間だった。貴族たちを相手に変に謙るでもなく、かといって尊大な態度を取るでもない。身分制度が既に形骸化しつつある、という事情もあるが、皆がエーヴァルトの人柄に惹かれていった。



(彼はきっと、天性の人誑しなんだわ)



 そんなことを思いながら、グラディアは初めてエーヴァルトに会った時のことを思い返す。彼の側に居ることを望んだ幾人もの女の子たち。彼女たちが今、どうしているのかを想像すると、少しだけ良心が疼いた。



「あぁ、平気平気」



 ある日、思い切って彼女たちのことを尋ねてみると、エーヴァルトはあっさりこう答えた。グラディアにはどうして彼がそんな風に断言できるのか理解できない。ティーカップを差し出しながら、小首を傾げた。



「だってあいつら、俺のことが好きなわけじゃねぇもん」


「えっ⁉ そ……それはさすがに無いのでは?」



 あの場に居た女の子たちは皆、うっとりとエーヴァルトのことを見つめていた。それは恋する乙女の瞳ではなかったのだろうか。そう尋ねると、エーヴァルトはケラケラと楽し気に笑った。



「違うよ。あいつらは皆『俺に恋してる自分』が好きなの。顔良しスタイル良しステイタス良しの俺の側に居ることがファッションの一つで、そんな自分が一番可愛いの。

第一、あの時あそこにいた半分以上が彼氏持ちだぞ? 俺がいなくても平気平気。他の何かを見つけて楽しんでるって」



 そう言ってエーヴァルトは、グラディアが作った茶菓子を美味しそうに頬張る。素の自分を出せているせいだろうか。エーヴァルトはどこか楽し気だ。グラディアもつられて穏やかな笑みを浮かべる。



「それに俺、初めてだったもん」


「何がですの?」



 グラディアが聞き返すと、エーヴァルトは少しだけ顔を背けた。見れば耳のあたりがほんのりと紅くなっている。何だろう?と思っていると、エーヴァルトはポツリと、まるで独り言のようにこう呟いた。



「恋人になって欲しいって言われたの、初めてだった。あの瞬間、ちょっと痺れた」



 途端、グラディアの心臓がドクンと跳ねる。思わず立ち上がり、エーヴァルトの顔を覗き込むと、彼は恥ずかし気に眉間に皺を寄せていた。



(かっ……可愛い…………!)



 男性に対してこんな感情を抱くなど失礼じゃなかろうか、と思いつつ、グラディアはそっと胸を押さえる。「見るなよ」と言いつつも、エーヴァルトは困ったように笑った。心臓がドキドキと鳴り響き、収まりそうにない。



(あれ……?)



 その時ふと、グラディアは気づいた。あれ程胸の中を占拠していたクリストフへの想いが、今は靄が掛かったように遠くに感じる。確かにそこに存在しているはずなのに、形として見えてこないのだ。



(一体どうして)



 クリストフは学園内で、表だってグラディアに好意を見せることは無い。彼とロジーナの婚約が、既に社交界で噂になっているからだ。

 けれど彼は、時折グラディアの屋敷を訪れては、自身の想いを語っていく。自分はまだグラディアを諦めていないのだと、そう伝えに来るのだ。


 きっと以前までのグラディアなら、辛いと思っただろう。悲しいと思っただろう。

 けれど今のグラディアは、それらを何も感じない。そのことがグラディアには不思議で堪らなかった。



 その時、エーヴァルトがグラディアを見て、ニコリと微笑んだ。瞬時に心臓が早鐘を打ち、身体中が熱くなる。グラディアは思わず顔を背けた。



(なっ、何? 今の)



 未だに心臓はドクンドクンと大きく跳ね続けている。目を背けたいのに見ていたい。そんな相反する気持ちが、グラディアを突き動かす。まるで吸い寄せられるように、エーヴァルトを見ると、心臓は更に激しく動いた。



(わたくし……わたくし…………)



 それはクリストフの時には感じたことのない渇望だった。喉のあたりが熱く疼き、身体中で血が騒めく。身体が宙に浮いたみたいにふわふわして、思考が上手く纏まらない。



『遊びの出来ない女はお断りだ』



 けれど、頭の中でエーヴァルトの声が唐突に響き、グラディアはふと我に返った。彼に初めて会った時に交わしたやり取りが、鋭利にグラディアを切りつける。



『絶対俺にマジになるなよ?』



 エーヴァルトはあの時そう言った。面倒ごとはごめんだと、ハッキリそう口にしていたというのに。



(そうよ……約束を違えるわけにはいかないわ。わたくしのこの気持ちは、彼にとって迷惑でしかないのに)


「グラディア?」



 その時、エーヴァルトが怪訝な表情でグラディアを呼んだ。グラディアはゴクリと唾を呑み込み、無理やりに笑う。



「何でもありませんわ」



 恋心を隠すのは二回目だ。前回よりもずっと、上手く立ち回れるに違いない。そう思っているのに、グラディアは何故か前よりも上手く笑えなかった。



***



「ねぇ、今日もダメなの?」



 誰かがエーヴァルトの袖を引く。見れば、エーヴァルトの取り巻きの一人が眉間に皺を寄せ、彼を真っ直ぐに見上げていた。



「あぁ――――」



 そう口にしつつ、エーヴァルトは小さくため息を吐く。グラディアにはああ言ったが、中にはエーヴァルトに対してファッション以上の想いを抱く者がいた。



(参ったな)



 エーヴァルトからすれば、女の子は皆可愛いし、一緒に居ると癒される。チヤホヤされるのだって悪い気はしない。折角モテているのに冷めた対応をする男に対しては、馬鹿だなぁとさえ思う。

 だけど、自分が抱く以上の感情を寄せられると、途端に面倒に感じてしまうのだ。


 だからこそ、エーヴァルトはそういう人間を必要以上に自分のテリトリーに踏み込ませないようにしていた。自分は触れるに向かない偶像なのだと、相手に知らしめる。そうすれば、女の子たちが一線を超えてくることは無い。その筈だった。


 エーヴァルトを変えたのはグラディアだ。彼女がいとも簡単に線を飛び越えたから、エーヴァルトの調子がくるってしまった。あんな風に『恋人にしてほしい』なんてことを言う人間が現れるなんて、エーヴァルトは想像したことも無かった。



「悪いけど――――」



 けれど、グラディア以外の人間に、その距離を許す気にはなれなかった。これまで自分の周りに居なかった珍しいタイプだから。そう考えるのは楽だけれど、それだけじゃない気がしている。

 場違いだと震えながらも凛と立ち、エーヴァルトに真っ直ぐ向き合う強さ。自分の恋心を押し殺し、親友を優先しようとする意地らしさを好ましく思った。



「エーヴァルト様」



 そう言って目の前の少女は、エーヴァルトの手を握った。これまでのエーヴァルトなら、笑って受け流していた行為だ。手を繋ぐなんて当たり前のこと。感情が揺れ動くことも、身体が反応することも無い。



(でも、違うんだよなぁ)



 それがどうしたことか、グラディアに対してだけは違うことをエーヴァルトは身を以て知っていた。互いの手のひらの大きさ、体温、肌の柔らかさの違いを感じるし、触れているだけで心地良い。胸の奥にじんと温かな何かが灯る。触れ合っているという事実以外の何かがそこには存在するのだ。



(なんて、あいつはクリストフのことが好きなんだけど)



 そんな風に思うと、目の前の今にも泣き出しそうな少女が、自分の同志のように思えてくる。



「止めとけよ、見込みのない恋なんて」



 誰に向けた言葉なのかよく分からないまま、エーヴァルトはそんなことを呟いて笑った。



*** 



「話があるの」



 ある日のこと。そう口にしたのは、グラディアの親友ロジーナだった。険しい表情を浮かべ、辺りを窺いながらグラディアとエーヴァルトを交互に見ている。



(……ついに修羅場か)



 エーヴァルトはそんなことを思いつつ、グラディアを覗き見た。緊張しているのだろう。その表情は不安げに強張っている。



「なぁ、俺も付いて行っていい?」



 エーヴァルトが尋ねると、ロジーナは眉間にグッと皺を寄せた。どうやらダメ、ということらしい。とはいえ、こんな状態のグラディアを一人にするなど、到底出来そうにない。



「あぁ……ダメなら悪いけど、今は二人で過ごしてるから――――」


「お願い。こんな機会またと無いのよ」



 ロジーナは声を潜め、身を乗り出した。そのあまりの剣幕に、グラディアもエーヴァルトも顔を見合わせる。



「グラディア! ロジーナも! 二人とも落ち着くんだっ」



 その時、この場の状況にそぐわない、間の抜けた声が響いた。クリストフだ。急いでやって来たのだろうか、息が上がり顔面が蒼白になっている。



「今はまだ、二人とも冷静に話ができないだろう? 僕だってそうだ。君たちはもう少し、距離を置くべきだと思う。いつかきっと、二人が仲直りできる日が来ると思うし――――」

「それじゃ埒が明かないって言ってるのよ!

――――もう、この際だから、ハッキリさせましょう。全員一緒に来て」



 そう言ってロジーナはクリストフの腕をグッと掴み、踵を返す。

 クリストフはオロオロと視線を彷徨わせ、ロジーナの腕から逃れようとしていた。けれど、状況がそれを許しはしない。ここにいる皆がクリストフのことを凝視しているからだ。

 エーヴァルトはグラディアの手を握った。身体が小刻みに震えている。



「落ち着け。大丈夫だから」



 耳元でそう囁くと、グラディアはコクコクと頷く。ギュッと握り返された手を引き、エーヴァルトはロジーナの後に続いた。




「クリストフとの結婚のことなんだけど」



 校舎の裏、建物に寄りかかり、ロジーナは端的に話を切り出した。グラディアは何も言わず、黙ってロジーナを見つめている。クリストフはロジーナに腕を掴まれたまま、忙しなく視線を彷徨わせていた。



「グラディアはわたしと彼を結婚させたいみたいだけど……わたし、彼と結婚なんてしない。既にお断りしているのよ?」


「…………へ?」



 それは思わぬ言葉だった。グラディアとエーヴァルトは互いに顔を見合わせ、そっと首を傾げる。クリストフだけが何とも言えない珍妙な表情を浮かべていた。



「な……ど、どうして? もしかして、わたくしのせいで――――?」


「違うわ。単にこの男の性根が気に喰わないってだけよ」



 ロジーナははぁ、と嘆息しつつ、グラディアを真っ直ぐに見つめた。



「良い? そいつはね……わたしとグラディア、二人の女に取り合われる快感を味わいたいってだけの馬鹿男なの。

だって変じゃない。これまで碌にグラディアへ好意を示していたわけでもない癖に、急に『僕はグラディアが好きだから結婚できない』だなんて。

確かにあなた達は幼馴染だし、仲が良かったから、互いに好意を寄せ合うのも無理はないなぁって。だったら、二人が結婚できるようにしたいと思って色々調べてたの。

だけどこいつ、グラディアだけじゃなくて他の女にも似たようなことを言っていたのよ! 頃合いを見てわたしと婚約する気だったらしいけど、おあいにく様。こんな男と結婚生活を送るなんてごめんだもの。キッパリ断ってやったわ」



 溜まっていた鬱憤を吐き出すように、ロジーナはそう捲し立てる。グラディアは大きく息を呑み、ギュッと胸を押さえた。



「だったらどうして? どうして直ぐに教えて下さらなかったのですか?」


「――――だって、グラディアはクリストフのことが好きだったでしょう? こんなこと言って信じてもらえるか自信がなかったし、あなたを傷つけるって分かってるんだもの。とてもじゃないけど言えなかったのよ。わたしの方が婚約者に選ばれた負い目もあったしね」



 グラディアの瞳は困惑したように揺れ動いていた。

 確かに、エーヴァルトと出会った頃のグラディアが、今の事実を知らされていたとしても、信じることは難しかっただろう。案外プライドの高いグラディアのことだ。寧ろ、ロジーナとの仲は険悪になっていたかもしれない。



「それに、そこの馬鹿がわたしたちを分断するように画策していたの。自分のせいでわたし達の仲が拗れるのが余程面白かったのね。

いつの間にか家人を買収されて、わたしが書いた手紙も、グラディアが書いた手紙も、全部全部握りつぶされていたみたい」


「そっ……そんな!」



 あまりのことにグラディアは悲痛な叫び声を上げた。直接話せば感情的になるからと、グラディアはロジーナに向けて手紙を認めていた。けれど、返事が返ってくることは無く、落ち込んでいたというのに。



「おまけにこの男、他の令嬢達を使って互いの悪口を吹き込ませたりしてたのよ。さっきだって無理やり割り入って、わたしたちが会話をしないように仕向けていたでしょう? おかげで全部がこの男のせいだって確信が持てるまで、今日まで掛かってしまった。本当に質が悪いったらありゃしないわ」



 グラディアの顔面は蒼白だった。幼馴染からの信じられない仕打ちに、開いた口が塞がらない。呆然としたグラディアを、エーヴァルトが励ますように抱き寄せた。



「ごめんなさい、グラディア。あなたがわたしのことで心を痛めてるって知っていたのに――――だけど今なら、グラディアはきっと、わたしの言葉に耳を傾けてくれると思ったの。グラディアの側にはいつも、あなたがいたから」



 そう言ってロジーナはエーヴァルトを見た。生温かい視線。エーヴァルトは気まずさにそっと目を逸らした。



「そ……そんなの、嘘っぱちだよ、グラディア! 僕が好きなのはグラディアだ! ずっとずっと、君と結婚したいと思っていた! 本当だ! 僕にはもう、君しかいないんだ!」



 グラディアはゆっくり、静かに顔を上げる。すると、クリストフの強張った表情が目に入った。自己保身と欺瞞に満ちた笑顔だ。少し前まで真摯に響いていたセリフも、今は陳腐な嘘にしか聴こえない。



(エーヴァルト様が仰っていた意味が、今ならよく分かるわ)



 『誰かを好きな振りをした自分』が好き、という人間は一定数存在する。彼等は総じて己が一番好きなのだ。それを今、グラディアは身を以て実感している。クリストフの言葉からは、グラディアに対する愛情を一ミリも感じられなかった。



「グラディア!」



 グラディアがそっと、クリストフの手を握る。彼の手のひらは無機質で、温度も感触も、何も感じられない。それは、グラディアのクリストフに対する感情を如実に表しているように感じられた。



「さようなら、クリストフ」



 そう言ってグラディアは朗らかに笑う。クリストフの表情が絶望に歪んだ。



***



「本当に、ありがとうございました」


「……思っていたのと違う形だったけど、あれで良いのか?」



 グラディアとエーヴァルトは二人、並び歩いていた。二人の手は、しっかりと繋ぎ直されている。グラディアは穏やかに微笑みながら、エーヴァルトのことを見上げた。



「はい。あんな人に大事な親友を嫁がせるわけにはいきませんし、わたくしも彼と結婚したいとは思いません。これで全部おしまいです」



 そう口にしながら、グラディアの心がチクリと痛む。


 クリストフとの関係が終わること。それはエーヴァルトとの別れを意味していた。それだけがグラディアとエーヴァルトを繋ぐ鎖だからだ。グラディアは一人、密かに表情を曇らせる。



(これから先もエーヴァルト様と一緒に居たい)



 けれどそんなこと、とても言えなかった。


 魔法のおかげで一年中、全ての季節の植物が楽しめる学園内の庭園は、二人のお気に入りの場所だった。けれどエーヴァルトはもう、彼の元居た場所に帰らなければならない。どんな理由であれ、たくさんの女の子たちがエーヴァルトの帰りを待っている。そう思うと、心が痛くて堪らなかった。



「そうか」



 エーヴァルトは短くそう答えた。

 きっと彼にとっては、こうして女性と手を繋いで歩くことは当たり前で、何でもないことなのだろう。けれど、グラディアにとっては特別な瞬間だった。きっと一生忘れることのない。短くて、けれど大切な恋だった。


 立ち止まり、じわりと瞳に涙が滲む。手放さなければならないと分かっているのに、指先も手のひらも、ちっとも動きそうにない。



「じゃぁ、今度は俺から……グラディアにお願いがあるんだけど」



 エーヴァルトはそう言って、グラディアの顔を覗き込んだ。グラディアの両手をエーヴァルトの温かい手のひらがすっぽりと包み込む。


 少しだけ寄った眉間の皺。頬がほんのりと紅く、瞳が潤んでいる。それは己が今浮かべているであろう表情と、よく似ている。グラディアはひっそりと息を呑んだ。


 コツンと音を立てて額が重なる。息が交わる程の近さで、二人の視線が絡む。破裂しそうな程に、グラディアの心臓が早鐘を打っていた。



「俺の――――恋人になってくれませんか?」


「……え?」



 エーヴァルトの声は小刻みに震えていた。たった数文字の言葉なのに、それはグラディアの心を強く打つ。涙がじわりと込み上げてきた。



「俺の、本当の恋人になって欲しい」



 エーヴァルトはそんな風に言葉を重ねる。



「――――遊びじゃなくても……マジになっても、大丈夫ですか?」



 グラディアが身を乗り出し、エーヴァルトを見上げる。涙で顔がぐしゃぐしゃになっていた。



「当たり前だ。寧ろ、そんな気持ちでいられたら俺が困る! 誰だ、そんな馬鹿なこと言ったの」


「エーヴァルト様ですっ」



 エーヴァルトは自身の袖で、グラディアの顔をゴシゴシ拭う。そのままグラディアをすっぽり腕の中に収めると、ポンポンと優しく背を撫でた。


 グラディアの顔のすぐ側で鳴り響くエーヴァルトの心臓は、恐ろしいほどに早鐘を打っていた。それだけで今、彼がどんな気持ちなのかグラディアには分かる。



「それで、返事は?」



 焦れたようにエーヴァルトが尋ねた。百戦錬磨の彼らしくない、意地らしい問い掛けだ。

 グラディアはニコリと微笑み、エーヴァルトの瞳を真っ直ぐに見つめる。



「物凄く……痺れました」



 その瞬間、二人は声を上げて笑いながら、互いを強く抱き締め合うのだった。

 この度は本作を読んでいただき、ありがとうございました。


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― 新着の感想 ―
[一言] 最後に嘗て相手が言った台詞を引用しているところに痺れました(*´ω`*) このあと、グラディアとロジーナは親友に戻れたのでしょうか?
[良い点] この手の話には珍しい、良心の塊みたいな親友でしたね。 クソナルシストは一生孤独でいとけ
2023/12/17 01:36 退会済み
管理
[良い点] ロジーナかっこいいです!素敵! [一言] 最初にね、主人公が話を持ちかけるところでね…ええ、ラストはこうなるんだろうなって思ったんですよ。それがいいんですよ。ええ。そして途中経過の友情がた…
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