これってやっぱりあれですか? 2
今日のティファは、いつもと少し違う気がする。
あの日、頬を叩いてしまってから、4ヶ月以上が経っていた。
これだけ間が空いたのは、知り合って以降、初めてのことだ。
そのせいで、印象が変わったように見えるのかもしれない。
テレンスは、ティファの顔を見つめる。
泥のような色をしたパサパサした髪と、濁った瞳。
眼鏡をかけていないのは、夜会だからだろう。
質素で目立たない薄い黄色のドレスは、公爵家の基準で言えばドレスというより室内着に近い。
(伯爵も、ずいぶんなことをする。息子には、それなりのものを仕立てさせているのに、ティファにはこれか)
ほんの数回しか会ったことのないリドレイ伯爵に、軽い憤りを感じる。
今夜も、本当はティファのエスコート役は、テレンスがするつもりだった。
が、メイヴェリンドと、その父親からエスコート役を頼まれ、断りきれなかったのだ。
ともあれ、メイヴェリンドが言ってしまった「婚約」の話は本当だったし。
それで、しかたなくメイヴェリンドを伴い、夜会に出席している。
ティファは、兄のリーヴァイがエスコートしていた。
ほかの男でなかったことに、テレンスは、ホッとしている。
この4ヶ月、ずっと苛々していたからだ。
何度、伯爵家を訪れても、双子は「妹は体調が悪い」の一点張り。
見舞うことさえできなかった。
公爵家の名で圧力をかけ、無理を通そうかと思ったほどだ。
とはいえ、ティファに悪く思われたくもなかったので、我慢した。
もしかすると他に男でもできたのではないか。
そんな不安もあった。
だから、テレンスは、たびたび勤め人に、伯爵家を見に行かせている。
結果、ティファが外出することも、伯爵家に男の出入りがある様子もなかった。
そして、いくつもの考えから、テレンスは、こう思ったのだ。
自分に叩かれたことがショックで、ティファは寝込んでいるに違いない、と。
大人しくて地味な彼女にとっては、好きな男性から手をあげられたのが、相当に堪える出来事になったのだ。
失恋したと思い込んでいる可能性もあると考え、このひと月半ほどは熱心に手紙を送り続けている。
ほとんどは、テレンスが、どう思っているかを綴っただけのもので、ティファがどう思っているかを問うものではなかった。
だが、テレンスの中では、それで自分の気持ちは伝わったはずだと思っている。
ティファからは、1度も返事が来なかったというのに。
それでも、テレンスには、自信があった。
ティファの周りに男の影はない。
公爵家という身分であれば、伯爵家は喜んで自分の申し出を受け入れる。
貴族令嬢の婚姻とは、そういうものだからだ。
下位貴族は、どこも高位の貴族に娘を嫁がせたがっていた。
側室であっても、公爵家なら申し分はない。
今後、ティファが夜会で「恥」をかくことはなくなるのだ。
伯爵家だって鼻が高いだろう。
思えば、たかが勉強会の卒業記念の夜会など、たいしたことではない。
メイヴェリンド連れでの出席は、今後、公の行事以外はするまいと思う。
そうすることで、自分がいかにティファを尊重し、大事にしているか、わかってもらえるはずだ。
今は、ちょっぴり落ち込んで、ヘソを曲げているかもしれないけれど。
(今後、僕と夜会に行くことも増える。その時には高級なドレスを贈るとしよう)
そう思いつつ、テレンスは、さりげなくメイヴェリンドの手を引き離した。
嫌な顔をされるのはわかっている。
だとしても、アドルーリットのほうが、爵位の「格」は上なのだ。
同じ公爵家であっても、イアンベルにとやかく言わせはしない。
「ティファ、せっかくの夜会だ。僕と踊ろう」
「でも……あの……」
「きみは、高位の貴族教育を優秀な成績で卒業しているし、ダンスも得意だった。体調も戻ったのだから、なにも心配はないさ」
ティファは、気後れしているのか、視線をさまよわせている。
きっとメイヴェリンドより先に踊ることに、気が引けているのだろう。
けれど、それこそがテレンスにとっては、ティファを尊重している証なのだ。
メイヴェリンドよりティファが大事なのだと、公言しているに等しいのだから。
にもかかわらず、ティファは、もたもたしている。
テレンスの出した手を握ろうとしないことに、わずかな苛立ちを感じた。
ここまでしてやっているのに、との気持ちがあったのだ。
正直、伯爵家相手に、下出に出る必要などない。
だいたい、ティファに手を差し出したままでいるのは、体裁が悪かった。
「ティファ、行こう」
強引にでも、この場をおさめる必要がある。
見た目の悪いティファと踊るだけでも、注目を集めるのはわかっていた。
が、それは、どうとでもなる。
むしろ、見た目の悪いティファに、ダンスを拒まれるほうが外聞が悪い。
差し出した手を伸ばし、ティファの腕を掴もうとした。
パシッ!
手を弾かれた衝撃と痛みに、驚く。
見れば、テレンスよりも背丈のある男に睨まれていた。
ひどく威圧感のある男だ。
その瞳に、テレンスは怯む。
「俺の許婚に手を出すな」
「い、許婚……っ……?」
「お前のような者がふれてよい相手ではない」
なにがなんだかわからず、テレンスは、口をぱくぱくさせた。
言葉が出て来ないというより、思い浮かばない。
銀色の長い髪と瞳。
まるで、冬の夜空にかかる月の光のような色をしている。
瞳には、艶やかな輝き、そして、厳しさが混在していた。
その堂々した姿に、テレンスは気圧される。
「……ティファの許婚ですって……?」
後ろからメイヴェリンドの声がした。
周囲も、突然に現れた男に、ざわついている。
瞬間、テレンスは正気に戻った。
ここで怯んでいては、無様を晒すことになる。
「そのような話は聞いていない。そもそも、名乗りもせず、人の手をはたくなど、不躾だろう」
「なぜ、俺から名乗らねばならん。名を聞きたければ、お前が先に名乗れ」
カッと、頭に血が昇る。
自分は、アドルーリット公爵家の次期当主なのだ。
そして、テレンスは、現状、ここにはアドルーリットより高位の者などいないと知っている。
ウィリュアートンが、この夜会に参加していないのは承知していた。
「失礼にもほどがある。私が、誰か知らないというのか」
「知るわけがない。お前になど興味はないからな」
体が、ぶるぶると震えた。
手にしていた手袋を、ぎゅっと握り締める。
剣の腕には、それなりに自信があった。
万が一のことがあれば、護衛の、おかかえ魔術師がなんとかするはずだ。
アドルーリット公爵家に対しての侮辱を許せば、面目に関わる。
手袋を投げつけようとした、まさに、その時だった。
周囲の様子がおかしいことに気づく。
「あの、紋章は……」
「まさか、そんな……」
そうした声に、男の姿を、今一度よく見てみる。
それとなく上品に、襟元に紋章が刺繍されていた。
「あり得ない……こんなことが……」
テレンスの唇が、色を失う。
顔も引き攣り、蒼褪めていた。
これまで、1度も、これほど近くで見たことはない紋章だ。
誰でもが知っていて、けれど、ふれられるほどの距離で見られるのは、ごくごく限られた者しかいない。
「どうした? 俺の名を聞きたかったのではないのか?」
テレンスの体が、怒りとは違うものにより震えはじめた。
もう男の顔を見ることもできずにいる。
男の襟元についている紋章。
それは、王族にしか身につけることが許されない、ガルベリーの紋章だった。




