それはナシでしょう 2
周囲が、ざわついている。
気づいてはいたが、気にしてはいない。
テレンスは、頭を下げているティファナ・リドレイを見下ろしていた。
(叩くつもりはなかったのに……なぜ、すぐに詫びなかった、ティファ)
まるで泥のような茶色いパサパサとした髪が、顔の前に垂れていて、ティファの表情を隠している。
同じ色の瞳は眼鏡の奥にあり、常に濁って見えた。
令嬢だと知らなければ、貴族だとは思えないほど、ティファは美しくない。
貴族教育の場で知り合ってから、6年が経つ。
4つ年下のティファも、もう16歳だ。
だが、当時と外見は、さほど変わっていない。
ほかの子息は、地味で華やかさに欠けるティファとつきあいたがらなかった。
令嬢らも、ティファとは距離を置いている。
彼女は「変わり者」だからだ。
一般の貴族学校でも、1人で黙々と勉強している彼女は、周囲から浮いていた。
上級教育の場では、なおさら浮いている。
なにしろ、ここには裕福な貴族しかいないのだ。
身につけている物も、すべてが一流品。
ティファのように、民服と見間違えそうなドレス姿の令嬢はいなかった。
それでも、テレンスは、ティファを気に入っている。
聡明で、物怖じしない性格が好ましい。
堅苦しい会話は必要なかったし、ティファの前では気取らずにいられる。
ティファと一緒にいるのが、ほかの誰といるよりも楽しかった。
とはいえ、だ。
テレンスは、アドルーリットの次期当主となることが決まっている。
そして、アドルーリットは、女系とはいえ王族の血が入った公爵家なのだ。
ほかの公爵家とは「格」が違う。
そのことに、テレンスは誇りを持っていた。
ティファのことは気に入っている。
さりとて、正妻候補には成り得ない。
彼女は、正妻とするには爵位が低過ぎるのだ。
貴族にとって、婚姻における爵位は、重要な役割を担っていた。
より高位の、もしくは「格」の高い身分の相手との婚姻は、家そのものの利益に繋がる。
本来なら、高位の貴族令嬢と婚姻関係を結ぶべきなのだ。
だが、アドルーリットよりも高位の貴族は、現状、ウィリュアートン公爵家しか存在しない。
にもかかわらず、アドルーリットは、ウィリュアートンとは仲が良くなかった。
とても姻戚関係を結べるような間柄ではない。
となると、次に高位の貴族となる。
同じく公爵家のイアンベルかシャートレーの、どちらか。
ちょうど年頃の令嬢がシャートレーにはおらず、イアンベルにはいた。
それだけの理由で、メイヴェリンド・イアンベルが選ばれている。
選んだのは、テレンスではないが、それはともかく。
メイヴェリンドは艶やかな金髪に、琥珀色の瞳をしており、とても貴族的だ。
しなやかでほっそりしていても、男性を惹きつける魅力的な体つきでもある。
夜会でも人気の高い女性だった。
あちこちの子息から求婚されているのも、知っている。
テレンスとて、魅力的でない、とは思っていない。
ただ、気が進まないだけだ。
メイヴェリンドは気が強く、押しつけがましいところがある。
何度か2人で会ってはいるが、どうにも好ましく感じられずにいた。
「もういいよ。わかってくれたのなら。今後は、気をつけてくれるね?」
「はい、テレンス様」
ティファが、顔をあげずに答える。
思わず、顔をしかめそうになるのを、我慢した。
ティファに、よそよそしく呼ばれたのが、思いの外、堪えたのだ。
突き放された気がして、少し不安になる。
(いや、彼女だって、わかっているはずだ)
貴族にとって、なにより重んじるべきことは体裁だった。
それが、ティファに手を上げてしまった理由でもある。
テレンスは、最初に、謝罪を要求した。
それに対して、ティファは、こう答えている。
『え? なんで?』
2人きりの時なら、気にはしなかった。
対等な口をきくことを、ティファには許している。
けれど、ここには大勢の貴族の子息や令嬢がいた。
教育の一環で開かれた、お茶会の席だったからだ。
しかも、王宮の内庭だ。
お茶会に出席していない貴族らの姿も、ちらほらと見える。
つまり、アドルーリットの公爵子息に、伯爵家の令嬢が、対等な口を利くことが許される場ではない、ということ。
ましてや、反論じみた言葉を返すなど、もってのほかだ。
その行動を許せば、伯爵家から公爵家が軽んじられていると、とられかねない。
それで、つい手が出てしまった。
「リンジー、彼女も謝罪している。許してやってほしい」
「ええ、あなたが、そう仰るのなら、もちろん許しますわ」
するりと腕に、メイヴェリンドの手が絡んでくる。
まだ婚約にも至っていないのにと、不快に感じた。
とはいえ、人前なので、振りはらうわけにもいかない。
ゆくゆくは、正妻に迎える女性なのだ。
(ティファを、側室に迎えるまで我慢するしかないな)
テレンスは、ティファを側室に迎え、寵愛するつもりでいる。
メイヴェリンドとの間に子をもうける必要はあるだろうが、それだけのことだ。
後継ぎ問題が解消されたあとは、通う必要もなくなる。
それだって、必要最小限に抑えようと考えていた。
「それでは、あちらにまいりましょう。あなたのおかげで、私の憂いも晴れましたから、お茶会を楽しめそうです」
「そうですね」
答えながらも、テレンスは上の空だ。
気持ちは、ティファに向いている。
彼女の頬を叩いた手も、胸も、じりじりしていた。
すぐにでも、2人きりになって、ティファに説明がしたくなる。
それは説明というより、言い訳なのだけれど、テレンスに自覚はない。
ただ、叩いたことについて、ティファにわかってほしいと思っているだけだ。
けれど、メイヴェリンドに引っ張られ、その場を離れざるを得なかった。
周囲の目を気にして、振り向くこともできずにいる。
別のテーブルに移動しながらも、ティファのことを考えていた。
明日、リドレイ伯爵家に出向くつもりでいる。
ちゃんと話をし、必要であれば謝罪してもかまわない。
ティファとの縁が切れるのだけは、避けたかった。
(彼女は、聡明な女性だ。きっと、わかってくれるさ)
ここは、本来、伯爵家では入ることができない教育の場だ。
かなりの高額で、リドレイ伯爵家は、相当な無理をしているに違いない。
それほどの対価を支払ってでも、良い嫁ぎ先を、と考えているのだろう。
もうすぐ卒業の時期となる。
どこに嫁がせようとしているのかはともかく、アドルーリットの側室ならば不足はないはずだ。
そのことも、明日、話をつけたほうがいいかもしれない、と思う。
ティファに興味を持っている子息はいないが、それでも安心材料はほしかった。
(明日は、ティファの好きなケーキを持って行こう。彼女、あれが好きだからな)
とても美味しそうに喜んで食べてくれるティファの顔を思い浮かべる。
それだけで、心が落ち着いていていた。
(イアンベルを敵に回すのは、リドレイも本意ではないだろう。僕は、ティファを守っただけだ。やりかたは良くなかったかもしれないが)
テレンスは自分の都合の良い方向に、思考を向ける。
単に、テレンス自身の体裁を守ったに過ぎないということを、彼は気づいていなかった。
テレンスは、長く己の心の脆弱さから、目をそらし続けている。