それはナシでしょう 1
ティファは、頬を押さえている。
ただ、ただ、びっくりしていた。
頬の痛みも感じないほどだ。
そのくらいに、驚いている。
「僕は、きみを、つけ上がらせてしまったようだ」
言われても、意味がわからない。
彼の言う「ツケ上がる」に対し、まったく思い当たるところがない。
あまりに、身に覚えがなさ過ぎて、言葉も出なかった。
自信のある記憶力で、頭の中の引き出しを引っ繰り返してはみたのだけれども。
なにもない。
ティファは、自分が頬をぶたれる理由を、見つけられずにいる。
そして、未だ、びっくりから抜け出せていなかった。
彼の顔を、ひたすら見つめる。
いつもは優しかった薄い青色の瞳にも、今は冷たさしか漂っていない。
金色の髪が輝きを増しているのが、怒りを表している気さえした。
頼もしく感じられていた高い身長も、威圧されているように感じる。
実際、ぶたれたのだから、威圧どころではないのか、と思い直した。
「いつも1人でいるきみを可哀想に思っていた。だから、なるべく優しくするべきだと考えていたのに。まさか、それで図に乗り、彼女を傷つけるような真似をするなんてね。もっと、きみは、立場をわきまえていると思っていたよ。ティファナ・リドレイ」
彼、テレンス・アドルーリットに名を呼ばれ、ティファは正気に戻る。
やっと頬から手も離した。
(隣にいるのはメイヴェリンド・イアンベル。私が彼女になにかしたと、テリーは思ってるわけ?)
公の場では使わない「民言葉」を、ティファは心の中でだけ使う。
ここロズウェルド王国には「民言葉の字引き」というものがあった。
そこには、貴族言葉にない様々な表現方法が記されている。
40年ほど前に出版されたもので、かなり普及していた。
ただし、貴族同士での会話では、ほとんど使われない。
貴族言葉とは違い、表現が豊かではあるものの、俗語という扱いだからだ。
巷にはあふれていても、公の言葉とはされていなかった。
そもそも貴族は、体裁にこだわる者が多いし。
が、ティファにとって「民言葉」は、とても馴染み深いものだった。
リドレイ伯爵家では、字引きの出版前から、日常的に使われている。
ティファも生まれながらに「民言葉」に囲まれて生活していた。
とはいえ、一般的ではないため、公の場では使わないことにしている。
ティファナ・リドレイは変わり者。
言葉の問題がなくても、そう呼ばれているのだ。
これで「民言葉」を多用すれば、もっと変わり者扱いされるに違いない。
一応は、ティファも、少しは気にしている。
「リンジーは、きみより高位の貴族令嬢だ。きみが馬鹿にしていい女性ではない」
テレンスに責められても、身に覚えがないので、ピンと来なかった。
どの話について言われているのだろうと、また記憶を引っ繰り返してみる。
(そもそも、私、あんまり彼女とはつきあいないし……もしかして、あれかなぁ? あれのこと?)
昨日のことだ。
ティファは、王都にある王宮図書館に向かっていた。
その時に、メイヴェリンドに会ったのを思い出している。
14歳までに、令嬢のほとんどが、貴族教育を受け終わり、ティファも例外ではなかった。
その後、ごく一部の裕福な令嬢のみ、さらに洗練された教育を受ける。
限られた者しか入ることのできない教育の場があるのだ。
そこで教育を受け、卒業すると、令嬢としての「格」が上がる。
そのため、高位の令嬢は、こぞって入りたがっていた。
噂によると、そこを出ていなければ正妃候補になれないのだとか。
ただ、ティファは、正妃になど興味はない。
というより、婚姻自体に興味がなかった。
そこでの教育を受け、王宮図書館に入りたかっただけだ。
王都には、誰でもが入れる一般図書館、貴族のみ利用できる王都図書館、それに許可を与えられた者しか入れない王宮図書館がある。
普通は、王宮勤めをしている者にしか入室を許可されない図書館だ。
貴族だから、というのは理由にならない。
だが、上級の貴族教育を受け、優秀な成績の者に限り、王宮図書館の利用が許可される。
ティファは、それだけを目的に、このつまらない勉強会に出席していた。
王宮図書館でしか目にすることのできない、貴重な文献や歴史書目的だ。
実のところ、ツテを使えばいくらでも入れる。
けれど、ズルをするのは、ティファの性分ではなかった。
正当な方法があるのなら、そちらを優先させる。
だから、婚姻などとは無関係に、ここにいた。
が、ティファは、優秀だったのだ。
優秀に過ぎた。
16歳になる手前で、すでに、すべての難関を突破。
すでに王宮図書館への許可証を手に入れられたほどに。
(でも、許可証がないと入れないのは、誰でも知ってることじゃん)
メイヴェリンドは、ティファに、一緒に図書館に連れて行けと言ってきたのだ。
しかも、お願いというふうではなく、命令といった言い様だった。
もちろん、爵位からすると、伯爵家より公爵家のほうが高位ではある。
だとしても、できないものは、できない。
許可証のない者を入れれば、ティファだって罰せられるのだ。
なので、できる限り、丁寧に断った。
メイヴェリンドが罰せられる可能性の高いことも説明している。
食い下がられて苦労はしたが、我慢強く諭し、解決したものと思っていた。
渋々といった様子であれ、引き下がってくれたので。
(え~、マジ、あれ? あれじゃないよねぇ……あれだったら、どうしよう)
ティファは、心の中で頭をかかえる。
もし、テレンスにぶたれた理由が、図書館の件だったとすると、なにをどう誤解されているのか、意味不明。
ティファには、メイヴェリンドを馬鹿にしたつもりは、まったくない。
むしろ、相手の高圧的な態度に対し、よくぞ低姿勢に徹した、と思っている。
途中、何度もブチ切れそうになったからだ。
はっきり言って、ティファは「大人しい」性格ではない。
「とにかく、彼女に謝罪してくれ」
は?と、思う。
なぜ自分が、と思う。
が、しかし。
ティファは、折れることにした。
謝ってすむのなら、それでかまわない。
大事になるのを避けたかった。
どうしても。
(テリーには、今まで、お世話になってきたもんね。これが餞別だと思えば、頭のひとつくらい下げたっていいよ)
テレンスは、ずっとティファに優しくしてくれている。
1人で黙々と勉強している彼女に、いつも声をかけてくれた。
通常の貴族教育の場で、知り合ったのが10歳の時。
14歳の社交界デビューの舞踏会で、エスコートしてくれたのもテレンスだ。
ティファにとっては、唯一の「友達」と言える相手だった。
確かに、そんなテレンスに、いきなりぶたれたのはショックではある。
だとしても、たった1度の誤解で、今までのすべてを否定はできない。
ただし、今後、これまで通りにつきあうことはできないけれど。
ゆえに、メイヴェリンドへの謝罪は、テレンスへの「餞別」なのだ。
金輪際、この2人とは関わらないことにしよう、と思う。
所詮、テレンスも爵位にこだわる「貴族」に過ぎなかったのだ。
ティファは、かけていた眼鏡の位置を直す。
テレンスにぶたれた際、少しばかりズレていた。
深々と頭を下げて、言った。
「申し訳ありませんでした。メイヴェリンド様」