婚姻宣告
春の午後の日差しは、どうしてこんなに気持ちいいんだろう。
ルーチェは目を閉じたまま顔を空に向ける。
暖かくやわらかな光が、顔の上で踊っているような気がする。
時折、吹いてくる春風がさやさやとルーチェの頬の産毛をなでていった。
テラスで日向ぼっこをしているルーチェが見えたのか、廊下を歩いていたソーレ公爵が立ち止まった。
窓を軽く叩き、娘に話しかけることにしたようだ。
「ルーチェ、ちょうどよかった。お前を呼びにやろうと思っていたんだよ」
ウトウトとしていたルーチェは、父親のくぐもった低い声にかろうじて反応を返した。
「……うーん、父さま。何かご用ですか?」
「ふっ、このまま良い午後を過ごさせてやりたいところだが、じきに母さまもやって来る。お前の婚姻が決まった。詳しい話をするから書斎まで来なさい」
「はぁ~い」
……え?
えぇっ?!
婚姻ですって?!!
ルーチェは一度ギュッと目を閉じると、パッと大きな目を開けた。茶色の優しい瞳の中に、信じられない話を聞いてしまったという驚きが宿っている。
風で乱れていた栗色の髪を両手でまとめて背中に流すと、手をそのままぷっくりとした頬にあてて、廊下にいる父親の方をうかがった。
しかし父親はもう書斎に向かって歩き始めており、ルーチェには少しまるくなり年老いてきた父の背中だけが見えた。
椅子の背にぐったりともたれかかったルーチェはもう一度、空を仰いだ。雲一つない青空には、さっき見た時と少しも変わらない、明るい太陽が輝いている。
ルーチェ・デル・ソーレ、とうとうくるべき時がきたようね。
どうやらこれから貴族の娘として、最大の難事に立ち向かわなければならないらしい。
相手の方はどなただろう? できたら少しは心を通わせられる方だったらいいのだけど……
ルーチェはため息を一つつき、敢然とテラスのドアを開けると、父親の書斎に向かってしっかりとした足取りで歩いて行った。
「どうして、急にこんなことになったんですか? つい先日までは、シャイン卿が仕事に慣れるまでと言われていませんでしたか?」
「シッ、そんなに大きな声を出すな。私だってこんなことはしたくない。けれど、今の状況を鑑みると仕方がないんだ」
……シャイン卿?
エリザベスのお兄さんがどうかしたのかしら?
「ですが、あ……」
ルーチェが書斎のドアをノックすると、何か言おうとしていた母親の声が止まった。
「ルーチェか? 入れ」
「失礼します」
母親が座っていたソファに向かい隣に座ると、父親は空咳を一つしてルーチェに対峙した。
「ルーチェ、お前の婚姻のことだが、レクス陛下の第三王妃になってもらう」
「え……」
思ってもみないことを言われた。
レクス陛下は親友のエリザベスの夫だ。
まさか、嘘でしょ?!
ルーチェは父親の目をじっと見つめたが、向こうも目をそらさずにこちらを見返している。
隣にいる母親の方を見ると、悲しそうな顔をして首を振りながらルーチェを見ていた。
マジですか。
一番ありえない結婚相手の名前を聞き、ルーチェの頭も混乱している。
我が国の王、レクス・エスタード・クエント2世には現在、二人の妃がいる。
第一王妃であるエリザベスはシャイン侯爵の娘だった。
第二王妃のクリスタルはホランド伯爵の娘だった。
つまり侯爵と伯爵の娘が先に嫁いでいる中で、それよりも家柄の良い公爵の娘であるルーチェが第三王妃として嫁ぐことなど、常識的にみてありえないことなのだ。
何かよほどのことが起こったとしか思えない。
「父さま、何事が起こったんですか?」
ルーチェが冷静にそう尋ねてきたので、父親もニヤリと笑って威厳のあるソーレ公爵の顔になった。
「オディウム公爵の娘が、先の王、ファサート様に嫁ぐことになった」
「「えっ?!」」
これは母さまも知らなかったらしく、息をのんでいた。
オディウム公爵自体は、ちょっと嫌味なおっさんというだけで、さほどたいした人物ではない。
しかしその妻であるオディウム公爵夫人は、恐ろしいほど権力欲が強い人だ。
娘をレクス陛下の第一王妃にしようと、あらゆる手を尽くして長年戦ってきていた。しかし第一王妃の栄冠を手に入れたのは、ルーチェの親友のエリザベスだった。
普通はそこで諦めるのだが、彼のご婦人は第二王妃でも良いと、さらにごり押しを続けていたらしい。
どうやら陛下も身の危険を感じたのだろう、多産系を言い訳にしてホランド伯爵の娘だったクリスタルを、サッサと第二王妃に据えたのだ。
そこまでして王家に売り込んでいた娘を、体調を理由に王位を甥に譲ったファサート様に嫁がせるというのは、ものすごく違和感がある。もちろんファサート様は、お年も召していて、ルーチェたちの親世代になる。
「父さま、オディウム公爵夫人はいったい何を考えているんですか?」
「ふむ、それは誰にもわからん。しかしな、シャイン宰相は、彼女がファサート様をたきつけて再び王位につかせようとしているのではないかと憂慮している」
「……おじさまの心配も、的を射ている気がしますね。そこで、私ですか」
「ああ、すまんな。こんなことになるのなら早く嫁に出しておけばよかった」
「あなた……」
ルーチェの婚姻を渋っていたつけがここにきて最悪の形で出てしまったと言って嘆く父さまは、ソーレ公爵ではなく、ただの娘思いの父親になっていた。
オディウム公爵の娘が先王陛下の子を産み、ファサート様が王に返り咲こうとすれば、王位継承の争いが勃発することは必至だ。
シャイン宰相は侯爵なので、娘の第一王妃が現陛下の子どもを産んでも、政治の流れによってはどうなるかわからない。
そこで「公爵の娘」としての、ルーチェの存在が必要になってきたのだろう。
この婚姻は、戦闘員としての召集令状なのね。
春のひだまりにまどろむ日々は終わったのだ。
ルーチェはこれから就くことになる難しい立場を思って泣きそうになりながら、果たすべき責任のことを自らに言い聞かせていた。