第六章 第三部 鶏鳴
アタランテに身体の制御を委ねた途端、フィンの体調は目に見えて良くなった。
彼女が言うには、フィンの身体は基本的に高台衆と同じ地球原種の延長線上にあり、先鋭化は激しいもののゼノに比べて格段に扱い易いらしい。
ならばゼノは何なのかと問うと、今の人類版図の地球原種は人の手で身体を変えており、同じ種と思えないほど多種多様なのだそうだ。
その割にゼノは体力もなく、何かにつけすぐにサボろうといていた。案外、高台衆といえど優れている訳ではないのかも知れない。フィンがそう言うと、アタランテは曖昧な溜息を送って寄越した。
ミドルアースの特異性は、人為的な操作なく地球原種から大きく変異している点にある。例えば樹蟲衆などは、多種の蟲、いわゆる菌類や微生物を共生体として取り込むことで特異な身体機能を獲得しているらしい。
フィンの理解するところ、どうやら地球原種は本来、麹を見分けたり靴下で苗床を作ったりができない。一方で人類版図には水の中で暮らせたり、どんなに空気が薄くても普通に暮らせる人もいる。つまるところ、天然か人為かに関わらず優劣を問うのは無意味なのだ。
ただ地球原種が大きく違うのは、どれほど異なっていても子供が作れることだ。ミドルアースでは種族の血統が混ざらない。異種族の縁組は多いが、子を成せば母方の種族になる。つまり壌血衆と樹蟲衆の夫婦でも、片方が女ならその種族の子が生まれる。
そんな話を聞きながら、フィンは相手が高台衆ならどうなるのだろう、などと余計なことを考えてしまった。慌てて頭の中からゼノを払い落とし、気を落ち着ける。身体が成長したせいか、時々そんな想像が湧いてしまうのだ。どうかアタランテに気取られていませんように。
〈フィン〉
「な、なに?」
〈誰かがあなたを呼んでいます。近づいて来るようですよ〉
「耳がいいね、アタランテ」
〈あなたの耳です、フィン。さっきのは落ち着いたら話してあげます〉
フィンの考えていることが筒抜けになる状況をアタランテに問い質そうとすると、フィンにもその声が聞こえて来た。
「どうしてすぐに郷に帰さなかった。留子郷とことを構えるつもりか」
扉幕が乱暴にたくし上げられ、長身の樹蟲衆が飛び込んで来た。
メティスより少し年嵩だろうか。怜悧な顔つきの女の人だ。目尻、鼻筋、頬の輪郭が切れるように鋭い。こと樹蟲衆は成熟して暫くすると外見がひどくゆっくり老いるため、同族でも齢が分からなくなる。
濃い緑の瞳はフィンと同じ色だが、ぷよぷよとしてやせっぽちの自分とは大違いだった。でもなぜだろう、どこか見覚えのある風貌だった。
「フィン」
女の人は名を呼ぶなり膝をついてフィンを抱き竦めた。呆気に取られて抗う間もなく、気付けばすぐさまフィンを突き放して頬を両手で挟み込む。
大きくて、しなやかで、少し冷たい指先だった。
女の人はそのままフィンの瞼を抉じ開け、口の中を覗き込み、挙句はゼノの外套を剥ぎ取ろうした。フィンが我に返って抵抗すると、ようやく手を放した。
女の人が背に立つメティスを振り返る。
「いつこうなった」
半ば呆れたように眺めていたメティスは、心なしか気圧されて応えた。
「四日ほど前だ、と思う」
「そんなに放っておいたのか」
女の人は御山の宮司を怒鳴り付けた。
「いや、それは」
「誰、ですか?」
助け舟ではないものの、フィンは慌てて口を挿んだ。フィンが放置されていたのはメティスのせいではない。フィンが誰も近寄らせなかったせいだ。
「この人はティーアだ。転身の際にこの社に駐留していた縁があってな。エネピアに使いを遣ったら勝手に山に上がって来た。前の名はターヴだ」
「ターヴ? え、ターヴなの?」
フィンは思わず声を上げ、目の前の女の人をまじまじと見つめた。
ターヴは留子の郷に出入りしていた広域商人だ。だが郷を訪れるたびフィンに旅の話をしてくれたのは男の人だったのだ。
「転身したの?」
「そうだ。性を変えてから合うのは初めてだな。ようやく留子郷に行った矢先、郷を抜け出したと聞いてずっと捜していたんだ」
〈家出していたんですか、フィン〉
「えっと」
「ガリオンの奴が気付いていれば、もっと早く来れたのだが」
〈何てこと、本当に児童略取になりかねませんね。郷に確認が必要です〉
「ぼくは留子郷には帰らないからね。それよりガリオンと知り合いだったの?」
フィンは二人を相手に早口に言った。
「あれは私の連れ合いだ」
「え?」
〈え?〉
呆気に取られたフィンとアタランテを尻目にティーアは立ち上がり、もう一度フィンを上から下まで眺め回した。フィンの抱えたゼノの左腕に顔を顰めたものの、それについては何も言わなかった。
「それより食事が足りていない。湯浴みももっと必要だ」
ティーアはメティスを振り返り、フィンの待遇に注文を付けた。
「わかった、すぐに支度しよう。湯殿は私のを使うといい」
諦めたように応えてから、メティスは盾のように立ち塞がるティーアの横から顔を出してフィンを覗き込んだ。
「山に皆を呼んである。落ち着いたら彼らを居留地に連れ返す術を探すつもりだ。君も同席して欲しい」
フィンが頷くのも待たずティーアはメティスを追い払うように手を振った。
「さっさと用意を。それと誰だろうと男衆は立ち入り禁止だ、分かったな」
メティスは二人に目を遣り諦めて吐息を漏らした。
「仰せのままに」
メティスはそう呟いて扉幕を手繰った。
その部屋の中には黒顎郷の三人、居留地の使者が二人、御山の宮司と論算鬼の側仕え、そしてフィンとアタランテがいた。
ティーアはガリオンと同じく居留地で審神者に仕える高台衆の一員だった。メティスの明かした状況とゼノの死の顛末に二人は血の気を失ったものの、事態の危うさに無理やり前を向かざるを得なくなっていた。
各々が整理を付ける暫くの間は、言葉少なく多くの情動が飛び交っていた。その一部はフィンの変化と今も抱えた包みについてだ。
時おり見せるフィンの態度や独り言に危うさを感じる者もいたが、フィンはアタランテの存在を明かさなかった。高台衆の法のひとつである異種接触憲章に触れるためだ。それを盾に闘う以上、万一にも付け入る隙を与える訳にはいかなかった。
フィンを気遣う皆の耳先に自身が戸惑っているうち、エネピアがフィンの傍に寄り、少し迷ってから、その包みごとぎゅっとフィンを抱きしめた。
〈あなたたちの情動の交感は複雑ですね。不随意と随意の表現の組み合わせは文学的ですらあります。あの人との会話なんて案山子と話しているようなものだったでしょう? フィンはよく平気でしたね〉
「平気だったよ? どうしてかな」
フィンは口の中で小さく呟いてアタランテにそう訊ねた。
〈どうしてでしょうね。今度会ったら聞いてみては?〉
アタランテは自分から訊ねたくせに、含み笑いをするようなもどかしい感情をフィンに送って寄越した。
「この際、審神者の手を借りるのは問題ない。厄介なのはむしろお前の妹だ」
こうして始まった協議の冒頭、ティーアは真顔でメティスにそう言った。
「ゼノのことが知れたらこの御山ごと消し飛ばしかねん」
ガリオンを除く皆はティーアの耳先をまじまじと見つめた。冗談の気配がまるで感じられなかったからだ。
〈信じられないかもしれませんが、執政官の第一夫人には力も権限もあります。どういう訳かゼノには懐いているので、恨みを買えばただでは済みません〉
アタランテは溜息混じりにフィンに囁いた。
〈私たちが居留地を出たとき執政官は不在でした。今もそうなら歯止めが不在です。端的に言えば、不機嫌極まりない猫の尾を掴むようなものです〉
ティーアに言葉を向けられたメティスも、やがて微かな理解を示した。宮司はエウリスらの示威行為として森の一部が消え失せるのを目の当たりにしている。高台衆という存在そのものが常識の枠に収まらないことを承知していた。
「ともかく居留地との往復に六日は欲しいな」
ガリオンが遠慮がちに言った。居留地までの三日、何らかの対抗手段が得て戻るまでのもう三日がガリオンの試算なのだろう。
ガリオンの口調が妙に大人しいのは、ティーアの様子を窺いながら喋っているせいだ。どうやらフィンの一件で相当に責められたらしい。居留地も 壌血衆のように女系支配の気質が強いようだった。
「今のところ連中に動きはないのだろう?」
ティーアが訊ねる。
「ベダによるとそうなのだが」
メティスの耳先は複雑だ。
メティスが最初に接触したのは 壌血衆を装ったベダで、最初に入山を許したのも彼だった。だが今の主導権はエウリスにあり、ベダは従者に成り果てている。単なる伝達役だ。
ただ、ベダはそうした下達以外の情報もメティスに寄越しているらしい。それがメティスへの贖罪のつもりかは分からないが。
「そこだ宮司殿、連中はいったい何をしている」
問うたのはキアスティだった。エネピアの二人の副官は黒顎の郷の頃からの知人で、畏まって呼ぶのは区切りと揶揄いが半々らしい。
「見当も付かん。我らと天露の関係を調べているというのだが、脅した後に彼らのしたことと言えば、幾人もの血と肌を採っただけだ」
〈社会学的な調査かと思いきや、何ともはや。本気で天露の薬効を調べているのでしょうか〉
アタランテが呆れたように呟いた。
「本当にそれだけなら、居留地に帰るまで待ったらどうかしら」
ベンティーネが相変わらず気怠げな口調で言った。
「ゼノが追って来たことを知っているのに、居留地に帰るはずがない。きっとここに居座るか逃げるかすると思う」
フィンがそう意見する。胸があんなに大きいと喋るのも考えるのも億劫になるのだろうか。フィンはぼんやりと、だが半ば真剣にそう思った。
「それなら森に追って捕らえるのはどうだ。多少はこちらにも地の利があるだろう」
ティーアの意見に黒顎郷の守護職は耳を伏せた。
「いまは駄目だ、何が起こるか分からない」
エネピアは憮然とそう言った。まるで言葉足らずだが、メティスの傍で緊張しているのが丸分かりだった。ベンティーネにからかわれて余計に真っ赤になっている。
「森がざわついているのは知っていると思うが、鎮守が代替わりしたらしい」
キアスティが見かねてエネピアの言葉を補足した。
「この時期にか」
メティスは素直に驚きを表した。
「まだ四百年ほどの御勤めだろう。代替わりは私より後だと思っていたが」
「あたしらも守護職を拝任した折に挨拶に伺ったが、よもやだな。ともかく代替わりが落ち着くまで森で事を起こすのは避けた方が無難だ」
そう言ったキアスティの後を継いでベンティーネが口を挿む。
「だから薬師も麓で止めているの。今は森もまだ吃驚するくらい大人しいけど、怖くて誰も近寄れないのよ? 当分はご挨拶も無理じゃないかしら」
「つまり山を下りたところを狙うのも」
「無理ねえ」
ベンティーネの言葉にティーアが返し、そのテンポの違う掛け合いに皆が唸った。森がその状態では守護職も地の利を活かせない。むしろ行動に支障が出る恐れも多分にあった。
「アタランテから居留地に連絡はできないの?」
フィンは口の中でそう囁いた。
〈あなたの理解力は素晴らしいですが、居留地の外は異種接触憲章に則って交信が無効化されています。第一夫人のようなミドルアースの執政者は別ですが、ゼノや私にはその権限がありません〉
議論が泥濘に嵌っている間に扉幕の端が揺れた。側仕えの論算鬼がその呼び出し応じ、幕を手繰って遣り取りをしていた。扉幕から戻った論算鬼は、メティスに歩み寄ると何事か囁いた。
メティスの耳先が微かに強張る。抑えた困惑と苛立ちの中にフィンは自分を指しているのを見て取った。
「ぼくのこと?」
メティスは一拍ほど躊躇ってからフィンと皆に告げた。
「エウリスがあのときの子供を寄越すようにと言ってきた」
怒りと困惑の情動が飛び交う。
「残念だったな。四日前ならまだ子供だったのに」
ティーアが肩を竦めた。その仕草はゼノにも見たことがある。
「どうしてぼくなんだろう」
〈彼らがミドルアースで見た子供があなただけだったからでしょう。どうやら検体を集めているようですからね〉
「子供に用があるってこと?」
「おまえはもう子供じゃない」
ティーアは頑なだ。
「少し血を取られるくらいならどうってことないよ。それに、それだけ足止めできるなら時間も稼げる」
フィンがそう言うとエネピアが口を尖らせた。
「待て、それならあたしだってその、小さい」
さすがに自分を子供とは言い澱む。フィンは意地悪く耳を揺らして見せた。
「血を取るのは一瞬だ。祠を塞ぐくらいでないと足止めにはならん」
メティスもあっさりフィンの申し出を却下した。
フィンはふと耳を欹てた。
「ここに来たとき見かけたんだけど、治山職の岩焔衆がいるよね?」
何を問うのかとメティスが怪訝な耳をする。
「その人たち発破は使えるの?」
訊ねる際に皆がフィンの耳を読み取り、唖然とした。揃ってフィンに反論するなか、メティスだけが考え込んでいる。
「仕掛けの時間は少ないぞ、準備の間に気付かれたらおしまいだ」
呟くメティスにフィンが応える。
「ぼくが中にいる間は、あいつらだって中に籠ってるはずだよね」
「待て待て待て」
フィンの案を払い除けるようにティーアは首を振った。しかしメティスは更に思案する。
「フィンならあるいは」
「メティス」
口を挿むティーアを制し、メティスは論算鬼を呼び寄せた。砂盆に古井戸の祠に図を描かせる。
「祠には二つの口がある」
ひとつは断崖に面した洞門。もうひとつは山の裏に掘り抜いた細い通廊で、随分前に閉じられたものらしい。古く、崩れる恐れがあったためだ。今は幾つも斜交いを天井に咬ませ、通気口として放置しているのだという。
「先に表を崩したとして、裏の通廊は柵は隙間が狭い。ヴァレイの身体でも太くて通るのは無理だ」
メティスはフィンを見た。子供なら、と言い掛けてメティスは言葉を選んだ。
「フィンなら出られる」
前を向くこと。責任を負い、責任を果たすこと。フィンは身体に追い付こうと、必死に大人になろうとしています。ほんの少しばかり手助けもありました。それは知識や健康ではなく、ゼノと再会できるかもしれないという希望でした。多少、効きすぎたかも知れません。むしろゼノの役割を担うことで、彼との距離と時間を縮めようとフィンは全速で走り始めてしまいました。
例え傍目に危うく映ろうと、フィンは皆を説き伏せて前に進んで行きます。原動力は呆れるほど単純でしたが、それ故にフィンは無敵でした。