第六章 第二部 黄昏
延々と続いた痛みと熱は、気付けばどこかに消えていた。それでも、身体の半分が毟り取られたような激しい疼きは依然としてフィンを苛み続けている。
フィンはメティスに抱えられ、そのまま大社に連れ返された。あれからどれくらい経ったかは分からない。フィンの意識は幾度も宙を漂って混沌としていた。
フィンは今もゼノの左腕を掻き抱いていた。引き離そうとした者すべてに抵抗した。叫び続けて枯れ果てた喉は息をするだけで鉄の味がした。
あの小さな岩焔衆に引き摺られた手足の傷も、そうしたフィンの抵抗に合って中途半端に膏を叩いただけで放置されていた。
ふと、誰かに呼ばれたような気がしてフィンは月明かりに目が覚めた。
身体を起こして辺りに目を遣る。寝具と水桶、手をつけようともしなかった食事と薬、替えの服が置いてあった。衝立の向こうは厠だろうか。
フィンはのそのそと身を起こし、背中を擦りつけるように壁に凭れた。ゼノの腕を抱いたまま、外套を引き寄せて体を覆う。月光の差すあかり取りを見上げた。
息をするたび喉の奥が引っ掛かかり、涙がぼろぼろと零れ落ちた。
また誰かがフィンを呼んだ。だが、ここはひとりきりの小部屋だ。
とうとう自分は壊れてしまったのだろうか。でも、それならそれで構わなかった。
不意に目の前が見えなくなった。驚いて目を見開くと視界が戻った。勝手に瞼が閉じていた。身体の不随意に驚いた虚を突かれ、今度ははっきりと声が聞こえた。
〈私の声が聞こえますか?〉
「誰?」
掠れた喉からは濁った息の音しか出ない。それさえ引っ掛かって咳き込んだ。
〈最初は口の中で話すようにしましょう。少し慣れが必要ですからね〉
それが耳に聞こえる音でないとフィンはようやく気が付いた。
「だれ?」
〈あの人が言うところの精霊です〉
声はそう名乗る。だが、躊躇い嫌がり恥ずかしがっているような感情が耳を通さずに伝わって来る。指摘されたにも関わらず、フィンはまた声を上げて咳き込んだ。
「アタランテ?」
〈それは私の名のひとつです。あの人が昔乗っていた船の名前なんです。当時の私は航法士の疑似人格で規定航路外の運航を――〉
「どうして、そんな、アタランテはゼノの」
フィンは混乱して辺りを見回し、アタランテは咳払いのような区切りを打った。つい調子に乗って喋り過ぎたことを恥ずかしがっている。その感情が分った。
〈ごめんなさいフィンク、私も興奮していました。ひとつずつ話しましょう〉
「う、ん」
フィンが息を整える。呼ばれたその名に胸が痛んだ。もうフィンクでなない。フィンですらなくなってしまった。また涙がぼろぼろと零れ落ちる。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
〈フィンク〉
「ゼノが」
〈フィンク〉
窘めるような響きに、フィンは震えながらゆっくり息を吸い込んだ。
〈それでは最初にいちばん大きな問題を片付けましょう。よく聞きなさい。聞いたらすぐに考えるのを止めなさい。いいですね? あの人は死んでいません〉
フィンは思わず息を呑んで立ち上がった。
「死んで――」
〈お願いだからそんなに考えないで、あの人が多すぎて話ができない〉
「でも、あのとき身体が」
〈静かに〉
不意にまた前が見えなくなった。脚の力が失せて身体がずるずると床に滑り落ちる。気が付けばいつの間にか心が鎮まり、すっかり気分が落ち着いていた。
〈あまりこういうことはしたくありませんが、暫くは特定の想起について情動を抑制します。共生者として不誠実であれ、私には冷静なあなたが必要です〉
アタランテの声が冷徹に響く。だが真摯で誠実だ。まるで耳先を見ているようにそれが分かる。頭の声だけでそうした感情が分かることにフィンは少なからず驚いた。むしろ、よりはっきりと伝わって来る。
〈あなたの言語はアナログ情報の量が多い。情動と不可分です。ですが信号としては明確で、これはむしろ私たちのような疑似人格に馴染みのある構造です。だから制御も容易いのです〉
つまり、いざとなれば勝手に黙らせるぞと言うことだ。
そんな空恐ろしい意味が含まれているにも拘わらず、アタランテの含み笑いにフィンは吊られて微笑んだ。アタランテの言葉は意味としての理解と感情としての納得が一体になっていた。
〈あの人もこうだったら私も苦労せずに済んだのですが〉
アタランテの言う「あの人」への愚痴にフィンの混乱は解れていった。
〈ゼノの身体は無条件で生態系を従属させます。生物相の豊かなこの世界であの人が死ぬことはありません。ともかく、あの人のことは心配しないで。むしろあの人にミドルアースの生態系が汚染される方が心配です。なるべく早急に事態を終息させたいものです〉
フィンの不安はいつもの疑問と好奇心に変わり、心がゆっくり前を向いた。
「ねえアタランテ」
〈いいえフィンク、今はあなたの回復が最優先です〉
口の中で呟くよりも早くアタランテは遮った。ゼノが死んでいないという理由、それを訊ねようとしたことを簡単に見抜かれてしまった。
〈今のあなたはまったくもって酷い状態です。まずは食事を摂りなさい〉
「でも」
不意にフィンの胃が縮んで大きな音を立てた。
〈さあ、あなたの身体は補給を必要としています。私はあなたが食べるまでお腹を鳴らし続けることだってできるんですよ?〉
フィンは慌てて放置していた食事に飛びついた。すっかり冷えてしまっているが香ばしいかおりのする粥だ。
「どうやぶ、ぶ」
〈口に出さなくても大丈夫です〉
〈どうやって、ぼくのところに、来たの?〉
それでも半分は口がもごもごと動く。アタランテは諦めてフィンに答えた。
〈あなたが後生大事に抱えているあの人の腕からですよ。いま私はあなたの中にいます。こちらでの私は樹蟲衆の言う蟲、微生物のようなものです〉
フィンは膝の上に置いたゼノの左腕に目を落とした。黒い袖の切れ端に包まれたそれは白く血の気がなく、手首に巻いた黒い帯がより目立っている。
〈俯瞰次元素子を着けた方の腕だったのが幸いでしたね。安心なさい、その腕はミドルアースの微生物では腐敗しません〉
食事を続けるフィンの身体は徐々に熱くなった。口一杯に粥を方張れば身体が一緒に食べている気がする。まるで食べたその場で力に変わっていくようだった。
〈時間は掛かりましたが私の端子もこうして話せるほどには増えました。今は損傷の修復に多くを割いていますが、あなたを理解するにはまだ足りない〉
フィンの食事を妨げないよう、アタランテは静かに話している。
〈特に記憶の関連付けには解析の時間が必要です。ですから当面は会話で学ばなければならないことが沢山あるでしょう、お互いに〉
アタランテは言った。
〈あなたはフィンカになりましたね?〉
フィンは粥を喉に詰めて咽た。耳が真っ赤に燃えて震える。
〈男の子だなんて嘘を吐いていたんですね、まさかまだ未分化だったなんて。ええ、今となっては私にもあなたの身体の変化が分かります〉
頬張った粥を言い訳にフィンは呻いて謝罪した。
〈それがどんなことであれ、あなたには理由があったのでしょう。ですが私には樹蟲衆の文化や因習についての情報がありません。特に二次性徴の対応は皆無です〉
この世界の種族はみな、互いの生態をはっきり口にしない。それは樹蟲衆同士でさえ同じだ。感情は隠しようがなく明け透けで、それ故に秘すべき所は頑なだった。踏み込むことをあえて避けている。
こうした不文律を弁えることは、知りたがりの禁忌にも通じている。例え高台衆であれ、新参の種族に明かすことはまずないだろう。アタランテが知らないのも当然だ。
「でも身体のことは、ぼくだって、その、初めてだからよく分からない」
口の中を空にして、フィンは途方に暮れてそう呟いた。
胸にそっと触れてみる。大きさはそう変わっていないのに生地の上からでも触れると痛い。下の変化はもっと大きくて、手洗いさえ怖くて泣きそうだった。正直小便の仕方も迷っているほどだ。
〈一緒に学びましょう、フィンカ〉
まるで胸を叩いて見せるような情動を込めてアタランテは言った。
「アタランテ」
〈樹蟲衆は長命なのでしょう? どうせ先はまだまだ長いですよ〉
「だったら、ぼくのことは大人になるまでフィンのままでいい」
〈フィン、まずは一刻も早く樹蟲衆の教師を見つけなければ〉
「うん、ちゃんと大人にならないと」
アタランテは小さく笑うと、ゼノがフィンにそうしたみたいに髪をくしゃくしゃと頭を撫でる感覚を送って寄越した。
〈ねえフィン、お願いがあるんです〉
アタランテは悪戯を唆すような声でフィンに囁いた。
〈私たちであの人の仕事を引き継ぎませんか? あの人に借りを作ってやるんです〉
メティスは我が目を疑った。これがあの獣のように歯を剥き出していた子供だろうか。目の前のフィンクはすっかり憑物が落ち、まるで曇りが晴れたような目をしていた。
「ようやく噛み付かれずに話せるようだ」
そう言ってメティスは小部屋の中に目を遣り、食事や身支度の跡を見て取った。目の前に佇むフィンクに目線を戻すと、フィンクは少し慌てて謝罪した。
「ごめんなさい。でも、もう大丈夫です」
痩せてはいるが肌艶は良い。不思議なことに膏が剥がれた下には傷痕もなかった。何よりこの数日の間に急激に身体の線が柔らかさを増している。
メティスの耳先が示した反応を受け取り、フィンクは小さくはにかんだ。
「それと、身体は少し変わりましたが、ぼくのことはフィンと呼んでください。まだ、その、あまり大人の自覚がないので」
やはり未分化だったらしい。匂いで大方の予想はしていた。樹蟲衆の性徴も知識としては知っているが、実際に壌血衆以外の子供を見るのはメティスも初めてだった。
だが、大人になる以上にこの子は変わった。姿形だけでなく情動さえ落ち着いて見える。樹蟲衆の成長はそれほど早いのか。それともこれはフィン本来の資質だろうか。もしかしたら、あの惚けた高台衆の死が影響しているのかも知れない。
「お願いがあるんです、宮司様。手を貸してください。ぼくはゼノの仕事を引き継がなきゃいけない。あの三人を居留地に連れ戻さないといけないんです」
そして、この子はまだ変わろうとしている。知らず感心と驚嘆と畏怖に似た感情がメティスの抑えた耳先から洩れ出した。
「余計なことはしない。我々はただ災厄が過ぎるのを待つだけだ」
だが、それはすぐにフィンの目の前で拒絶と絶望に取って代わった。ゼノをもってしても事態は変えられなかった。むしろ霊山八峰は高台衆の死という償い切れない罪を抱えることになってしまった。
「待っていたらもっと大きな災厄が来ます」
フィンが声を上げた。
「高台衆の法は、まだぼくらに優位です。あいつらがそれを変えてしまわないうちに何とかしないと」
「高台衆の法だと?」
「審神者の定めた法です。居留地の外なら例え相手が高台衆でも、煮ろうが焼こうがぼくらの自由だ。ぼくらの意思が優先される」
あの高台衆はフィンにそんな無意味なことを吹き込んだのか。メティスは苛立ちを募らせた。言葉はもはや何の役にも立たない。
「そんなものが何の役に立つ、現に彼らは――」
「まだ誰も殺していない」
フィンは時おり目に見えない何かを確かめるように瞬きより長く目を閉じた。
「そうでしょう? それはまだあいつらが法を変えられないからです。でもベダも長くは抑えられない。エウリスらはきっとぼくらを好きにしようとする」
奇妙な形と匂いの彼らが異人であることはメティスも知っている。現に幾度も言葉を交わしたベダは、最初から高台衆と知って御山に入れたのだ。
だがエウリスとヴァレイが現れてベダは彼らに従うようになった。ベダに彼らは留められず、ゼノに至っては最悪の結果に陥った。
「ぼくたちだけが、あいつらを拒める。高台衆はそれに従う義務がある」
だが、目に見えない法が残っているとしても、そんなものは何の盾にもなりはしない。御山には、もはや彼らを拒む術がないのだ。
「必要なのは法ではない、力だ」
呟いて拒むメティスの目を、フィンは怖じることなく真っ向から見上げた。
「裁きに差し出す力です」
そう言い切って、フィンは大きく息を吸い込んだ。
「御山の麓に居留地の使者がいます。エネピアと一緒に。高台衆にはまだあいつらを裁く力がある。ぼくらがやらなくちゃいけないのは、捕まえて突き出すこと。あいつらがどこへも行かないようにすることだ」
メティスの耳が揺らいだ。
「だが、おまえもあのゼノの姿を見ただろう」
メティスはあえて残酷なことを口にする。フィンはそれを受け止めた。
「ゼノは何も持って来なかった。あいつらは違った。でも今はそれを知っている」
フィンの耳には確かに不安があり、恐れもあり、ともすればぽきりと折れてしまいそうな虚勢があった。ミドルアースの者同士、それも互いに筒抜けだ。知っていてなおフィンは隠そうとしなかった。
「だが、それでは余計な血が流れる」
「我慢したって変えられない。もっと酷いことになる」
メティスはフィンに気圧されていた。不随意の耳先さえ互いに硬直したまま動かなかった。フィンは何度か喘ぐように息を吸い込んで、メティスに言った。
「ゼノが、宮司様はぼくと同じじゃないかって。知りたがりなんじゃないかって。いろんなことが知りたい。こんな山の中になんて籠っていたくない。そうでしょう?」
虚を突かれメティスは絶句した。
「だったら、あいつらなんか最悪だ。もっといい高台衆を掴まえなきゃ駄目だ。ぼくのゼノみたいに」
メティスはフィンをまじまじと見つめ、その真剣な目にとうとう堪え切れず吹き出した。せいぜい身体が大人になったばかりの小娘が人を知りたがり扱いした上に、まるで男を掴まえ損ねたようなこの言い草は何だ。
知恵があるのに無謀に過ぎる。心底不安がっている癖に折れない勇気がある。一体この子は何なのだ。
メティスは大きな息を吐くと、観念してフィンに言った。
「おまえの話を聞こう。だが判断は居留地の使者を交えてだ」
言われてフィンはきょとんとし、理解して子供のように跳びあがった。
「みんなを呼んでください、今すぐに」
フィンが声を上げる。不意にあっと声を上げて口籠った。つい先ほどまでの勢いとは打って変わって、遠慮がちにメティスを見上げる。
「それと、あと樹蟲衆の女の人を誰か呼んで欲しいんです。どうしていいか分からないことが一杯あるので」
そうぷちぷちと呟くように言うと、フィンは耳の先まで真っ赤になった。