第四章 ゴブリンの姫君
耳許で樹々が飛ぶように過ぎて行く。音だけでそれを感じている。ゼノの目線は足下を追うので精一杯だった。踊るような傍らの二人の足捌きなど、真似ようにも到底及ばない。身体能力がまるで違う。
三人の壌血衆の女性に連れられて、ゼノとフィンクは山守りの小屋を目指していた。あくまで互いの目的が共通のものと仮定したうえで、食事と話し合いの場に落ち着こうという段取りになったのだ。
荒い息の切れ目にゼノが前を窺えば、フィンクと壌血衆の少女は肩を並べて危なげなく走って行く。
少女の名はエネピア・グルンシルト。ゼノの両脇で呆れたように歩調を眺めるのはエネピアの御付きのキアスティとベンティーネだ。
随分と歳若い頭領に比べて、傍らの二人は地球原種の基準でも妙齢、豊満かつアスリート体形だった。難路を駆けても無駄に肉が揺れない。筋肉質だが硬さもまるで感じさせない。美容改良の発達なしにこれほどの天然美女が育成するとは驚愕だ。
しかも彼女らの身体を覆う生地が少ないせいで、素肌の下の動きが手に取るように分かる。実際、目の遣り場には相当困っていた。前を行く少年少女の健やかな露出とは意味合いがまるで違う。
何となく地肌が多いのは道々でも感じていたが、壌血衆だけの集団ともなればさらに徹底している。身形も種族に寄ってより特色が出るのかも知れない。こと彼女たちは少々特殊なようだ。
〈何だってみんな道を歩かないんだ〉
頭の中でさえ切羽詰まって焦りながら、ゼノはアタランテにぼやいた。とたんに木の根に蹴躓く。
宙に泳いだゼノの身体を柔毛に覆われた腕が両脇から掬い上げた。ゼノの脚が宙を掻く。キアスティとベンティーネは自分たちより上背のあるゼノを軽々と抱え上げた。
「高台衆は歩くのが下手だな」
キアスティが鋭い目を細めてゼノに言う。彼女の髪は青みがかった灰色で、肘と脛の柔毛は先の房が白い。服の布地も抑えた青が基調だ。
「このまま運んだ方が早いわねえ」
一方のベンティーネは艶のある目をゼノに遣った。彼女は赤に近い金髪と体毛だ。同じく肘と脛の柔毛の先の房は白い。身体を覆うのは抑えた赤と黒の布地だった。
〈人通りのある山道を避けたのは念のためでしょう。何せ、あなたも高台衆ですからね〉
アタランテはそっけなく言った。
〈人気者は大変だな〉
〈自業自得です〉
チクリと痛覚を刺激されたのはゼノの注意を引くためか、それともゼノが両の腕に天然の緩衝材を意識したせいだろうか。
「ありがとう、確かフィンクにもそんなことを言われた」
ゼノはぎこちない笑顔でキアスティとベンティーネに礼を言う。前を行くフィンクが振り返り、呆れたような目でゼノを見ていた。
〈だって一〇〇〇年近く舗装路の上を歩いて来たわけだし、しかも自走路だし〉
〈身体機能に不備はないはずです。そもそも、郷に入って郷に従わないのが悪いのでは?〉
〈僕にこんな格好をしろって?〉
ゼノは明後日の方向に拗ねる。確か彼女たちの後ろにいた壌血衆の男衆も半裸だった。およそ薮歩きには不向きに見えるが、彼らには肘と脛にふさふさとした毛も生えている。
〈壌血衆は晒した肌に傷を負わないのが優劣の証だそうです〉
〈美肌自慢って何の優劣だ。一妻多夫の女系社会だから?〉
もちろんそれは身のこなしを競うものだが、二人の美女に抱えられて跳ぶように山道を下るゼノは、どうでもいいやといった体で思考もやさぐれている。
〈そう考えると執政官は反社会的ですね〉
アタランテはさり気なく当て擦るようなことを言った。
ミドルアースの執政官、彼らにとってはいわゆる審神者は壌血衆を妻に娶った。だが実情は一妻多夫ではなく一夫多妻の状況にある。尻に敷かれているという意味では女系社会と言えなくもないのだが。
そうなった責任の一端はゼノにもあるのだが、自身はそこまでミドルアースに入り込めるとも思えなかった。それはどの世界でも同じことで、何処に行っても今の名の通りでしかない。
ゼノは前を行くフィンクとエネピアに目を遣った。背丈や歳の頃は似通った二人だが、顔立ちも身体の端々もずいぶん造りが異なっている。もちろん衣装もだ。やはりエネピアの方が壌血衆らしく派手だった。
エネピアの胴衣は短く肩と臍が剥き出しで、腿の付け根で切ったズボンの上に短いパレオのような布を巻いている。足は爪のある指を剥き出しにした薄いサンダルだ。
話によると壌血衆の間で尻尾の飾りが流行しているらしい。見れば彼女らにも毛皮の尻尾飾りがあった。ナイフと大振りの山刀を下げた革帯に愛らしく跳ねている。
〈しかしこれだけ系統が分かれていて、よく一緒に暮らせるもんだな〉
出会ってまだほんの少しにも拘わらず、並んで樹々の中を駆けるフィンクとエネピアは、まるで一緒に育った兄弟のようだった。
〈郷は種族ごとに分かれているようですが、共感性のおかげでコミュニティ形成が早いのでしょう。もっとも、身体的、社会的な差異も今の地球原種の多様性に比べれば非常に僅かです〉
あなただってそうでしょう、とはアタランテは口にしなかった。ゼノは何やら別のことを考えている様子で、少し呆れたように独り言ちた。
〈まるで小さな村だな〉
ゼノの呟きにアタランテは一拍ほどネットワークから語彙を辿った。
〈そうした惑星規模の社会モデルを扱うには、まだ対象が少なすぎます〉
ゼノはアタランテにだけ僅かに肩を竦めて見せた。
〈執政官の第一夫人は特殊な家庭環境にいたこそうですから、彼女も標準的なモデルではありませんね〉
標準的というのであれば、子を成せば郷で産みそれで縁が切れるのがミドルアースの常識だ。その反動か血縁への拘りは一般的に忌避されている。
〈確か、彼女の郷だけ長が血縁で決まるのだったかな〉
〈優良種を残すための因習だという話です。ミドルアースでは社会的地位を血族に因らないのが普通です。確かに血縁を優先して役職に登用するのは個々の適性として非効率ですからね〉
〈合理性も善し悪しだ〉
〈そうでしょうか?〉
疑似人格として無駄や余白を学習してきたアタランテだが、やはり効率面には厳しい。それは多分に宿主のせいでもあるのだろう。
〈嘘の吐けない人たちが正直に生きられる世界なんて、きっとどこか歪んでるさ〉
ゼノは呟いて笑った。
高台衆が宙に向かって微笑んでいる。傍らでそれを見て、キアスティとベンティーネは互いの耳を動かし合った。きっと彼女らなりに怪訝な顔をしたのだろう。
フィンはエネピアの歩調を真似て下生えに隠れた木の根を跳んだ。エネピアはさすがに径を探すのも迅くて正確だ。壌血衆にしてみれば、それでもフィンに合わせて歩調を落としてくれているに違いない。
これならフィンもまだ難なく付いて行けるが、ゼノにはきっと難しいだろう。振り返ってみれば案の定、ゼノは子供みたいにキアスティとベンティーネに抱え上げられていた。
フィンは呆れて笑う半面、知らずもやもやとして拗ねた顔になる。
右も左も分からないゼノを世話してきたのは自分だった。何となくそれを奪われたような気がした。二人に抱えられて相好を崩すゼノにも、もう少し威厳を持てと腹を立てる。これでも高台衆なんだから。
ゼノが素性を明かした直後、確かにエネピアたちには畏怖があった。ゼノが空腹を隠さなかったせいで、あっという間に失墜してしまったが。
ゼノの手拭いを巻き直す間、フィンは誇りと気恥ずかしさが半々だった。
「フィンク、おまえも居留地で働いているのか?」
足下を見ることなく駆けるエネピアが、ふとフィンに訊ねた。
ゼノはエネピアの姉を知っている様子だったし、同郷が高台衆の知人ともあれば居留地にも関心があるのだろう。
「ゼノとは調停場の近くで会ったんだ。人捜しを手伝うことになったのはたまたま」
フィンも言葉にしてみれば、実はたったのそれだけだ。自分はゼノの何なのか、それすら少しあやふやだった。フィンの立ち位置は自身の中にも確かな名前がない。
「たまたま高台衆の手伝いって、スゲエな」
エネピアはフィンの運と無謀を面白がっているようだった。
確かに、感情も共有できず、ミドルアースとは素性のまるで異なる高台衆に付いて行こうなどと、普通の人なら思いもしないだろう。
フィンも相手がゼノでなく、自分が忌子でなかったら、決してそうはしなかったはずだ。
「エネピアだってその歳で郷長なんて、スゲエだろ」
フィンはエネピアの口調を真似て言った。
子供が壌血衆の頭領格というのも奇異だと思ったが、エネピアは自身を黒顎の郷長だと名乗った。
確かに壌血衆の成人の仕方や郷の慣習は樹蟲衆のそれとは異なるが、黒顎は壌血衆の中でもかなり変わっているようだ。
「本当は下の姉様が継ぐはずだったんだが、色々あってあたしにお鉢が回って来たんだ。ただのとばっちりだよ」
「血縁の? 生まれも同じなの?」
「親が一緒で育ちも一緒なんて何か気持ち悪いだろ?」
エネピアは口許を苦くして言う。しかしその耳先は少しはにかんでいて、通念に反しても自身はそれを決して不快に思っていないのだとエネピアは主張している。
「そうかな、郷の姉妹とどこが違うの?」
フィンは素直にそう問い返した。
エネピアは虚を突かれた様子だった。フィンの耳先は純粋な驚きと関心と尊敬に揺れていて、上辺だけの取り繕いや皮肉は欠片もなかったからだ。
もちろんフィンにも実際に血の繋がった姉や肉親という感覚はよく分からない。それでもエネピアはフィンに言い返す前に照れて真っ赤になってしまった。
「高台衆も昔はそれが当たり前だったんだって。ゼノが言ってた。そう考えると黒顎の郷って何だかすごいね」
エネピアによると郷長も同じ血縁がずっと続くわけではなく、選出された英傑の次代だけが役職に差し出されるのだそうだ。エネピアの姓のグルンシルトはその英傑に選ばれた親の名で、それを姓として使うのもエネピアの一代きりらしい。
「うちの郷は御山の守護職もやってるからな、宮司と郷長の二人を出すんだ。霊山八峰の今の宮司は上の姉様だ」
どうやらエネピアの黒顎は思った以上の格の郷のようだ。フィンは素直に驚嘆したが、微かに抱いた感情はあっけなくエネピアにばれてしまった。
「見掛けに寄らなくて悪かったな」
エネピアが口を尖らせて小突いた。ゼノはともかく、ミドルアースでは感情は隠しようがない。
「おまえなんか、まだ――」
「もう大人だよ」
互いに頬を膨らませて睨み合う。堪え切れず二人して噴き出した。エネピアもフィンの訳ありを知っていて受け入れている。
フィンとエネピアの互いの距離は、あっという間に歳の差ほどに縮まっていた。それがどんなに唐突で、樹蟲衆と壌血衆の違いがあっても、耳が見える限り互いの相性は明確だ。隠しようがないし、隠す必要もない。
思えばゼノともすぐに仲良くなれたが、本当はどうなのだろう。
フィンはふと思い返して不安に駆られた。耳を見ても分からないゼノには、エネピアのように互いを受け入れた確信がない。
フィンの動悸が激しくなったのは、山を駆けているせいだけではなかった。
山中を歩いて辿り着いた小屋は小綺麗に整えられていた。黒顎の衆が管理する拠点のひとつで、旅小屋のように道に面しては建てられておらず、エネピアたちの守護職の専用らしい。
招かれて扉を潜れば、食事も既に十分すぎるほどの用意があった。どうやら先に出た男衆が準備を済ませておいてくれたらしい。
時刻は昼を過ぎていたが、みな食事の時間には頓着しなかった。壌血衆は食べられるときに食べる質だったし、フィンとゼノは単に空腹だった。
いささか豪勢に人心地を付けたあと、エネピアたち三人、フィンとゼノは粗い生成りの卓を挟んで本題に入った。男衆は銘々の勤めがあるらしく、小屋への出入りはあってもこうした話には噛まないらしい。
「実際、本物を見るのはあたしも初めてだが」
エネピアはそう切り出したが、微妙にゼノからは目を逸らしている。
食事のときからそうだった。キアスティとベンティーネはさすがに堂に入って落ち着いているが、やはり高台衆との会話には違和感があるようだ。感情の分からない相手は誰だって怖い。
つい耳を探ってしまうのはよくあることだが、フィンにはゼノに対してそこまでの忌避感がない。慣れてしまったのか、ゼノの人となりを知っているからか、あるいはフィンが人と変わっているからだろうか。
「審神者の調停以来、主だった郷里は居留地に人を遣ってるんだ。何せ自分らの存続が懸かってるからな。それは御山も同じだ」
エネピアは当然のように言ったが、ゼノはきょとんとしている。何を考えているかは分からないが、たぶん本当に何も知らないのだろうとフィンは思った。
「上の姉様の霊山八峰も当然そのひとつだなんだが、姉様は居留地のベダって奴と繋がりが太くなった」
名から察するに壌血衆の男だろうか。フィンがゼノを窺うと無意識に頭を掻いている。それが困惑したときの仕草だとフィンは知っていた。
「その、ここからは身内の恥の話だが」
エネピアは言い淀む。その耳は戸惑っているがゼノにはそれが分からない。フィンが代わりにエネピアを促した。
「姉様はそのベダを御山に上げたらしい」
代わりに驚いたのもフィンだった。エネピアが気後れして言うのも頷ける。それは宮司の域を逸脱しているとフィンにも思えたからだ。
御山は禁足地だ。行き来できる役職は薬師と守護職だけだし、天露を汲み渡してよい種族も限られている。
高台衆の関係者と知って御山に上げたとなれば、その手に渡る可能性もある。確かに厄介な状況に違いない。
「どうしてそんな」
つい口にしてフィンは後悔した。エネピアは耳を伏せている。
「そのベダとやらが三人組の一人かな?」
ゼノが訊ねた。本人は全く意図していないだろうが、危ういところから話が逸れて、フィンは内心安堵した。こと身内の話は立ち入りどころが難しい。
「エウリス、ヴァレイという名の二人が一緒だそうだ。ゼノの追っている連中で合っているだろうか?」
キアスティがそう確認する。名からすると樹蟲衆と岩焔衆だ。その組み合わせは里で聞いたものとも合致する。
「どうなの?」
フィンは傍のゼノを見上げて意見を促した。
「どうだろう?」
フィンは机の下でゼノの脚を蹴飛ばした。飛び上がり、脛を押さえて呻いたゼノは前髪の下で眉の根元を真ん中に寄せた。
「たぶんそうかも知れないが、名前も姿も変えているだろうからね、確信がない」
「ふざけないで」
真面目な話をしているのに、とフィンが詰め寄る。そもそもゼノは樹蟲衆に似た高台衆だから耳を隠す程度で何とかなっているが、ミドルアースの住人が他の種族を装うなど無理な話だ。
「本当だ、姿を変えるなんて何てことないさ。ごく当たり前の技術だもの。それに彼は僕よりずっと外交的で交渉にも長けている」
困惑するフィンに気付いてゼノははたと手を打った。
「そうか、そもそもそんなことができるなら僕も最初から耳を大きくしてるはずだって思ったんだろう」
ゼノはひとりでうんうんと頷き、得意気に言った。
「真面目に異種接触憲章を守るとね、そういうのが持ち込めないのさ」
「違う」
言葉で話を切るが面倒になったフィンは、またゼノの脚を蹴飛ばした。ゼノが悲鳴を上げ、フィンに向かって目許を顰める。耳が読み解ければ最初から話がずれていると分かるのに。
「ぼくらが他の種族の変装するなんて無理だよ、絶対ばれるもの」
ゼノはきょとんとフィンを見つめた。
「そうか、言ってなかったっけ。僕が追っているのは君らと同じ種族じゃない。高台衆だ。少なくとも一人はね」
フィンを含めた全員にあれこれと詰められ、ゼノは言い訳がましく話を続けた。
「そのベダが彼だとして、こんな山奥に何の用があるのかが分からないんだ。てっきり大きな街で交易権を握ろうとするのかと思ったんだが」
「ベダは商人なの?」
膨れっ面のままフィンが問う。
よもや御山に上げた相手が高台衆そのものかも知れないとあって、エネピアたちの状況はいっそう面倒を増した。だが、いちばん腹を立てたのはそれを聞かされていなかったフィン自身だ。
「商人というか領主というか神さまというか」
役職や立場がしっくりこないのかゼノは説明に困っている。
「例えて言うなら気のいい名家の末っ子だ。何か目新しい取引先を見つけて皆をあっと言わせたい、なんて健気に暴走するような奴だ」
分かるような分からないような人物評だった。ただフィンにも少しだけちくりと刺さるものがある。そんな夢を抱いたこともない訳ではない。
「だが御山は商売と無縁の場所だ」
当然エネピアも困惑している。理由が分からないのは同じだ。
「信仰的な影響力が目的かな、聖地を押さえるとか何とか」
フィンが思うにゼノは精霊に相談しながら話しているのだろう。
だが鎮守や御山や審神者については旅の道々で話もしたが、フィンにはゼノの言う信仰というものがよく分からない。
ゼノが言うには信仰とは手の届かないものと約束してできた規律や道徳や仕来りのことらしい。だとしても、鎮守を祀るのは仕組みの話だし、御山の天露は生活に必須のものだ。審神者だって目の前に本物の高台衆がいるではないか。すべて手が届くところにある。
つまり信仰かと問われても御山や審神者はそこにあり、信じる信じないの問題ではない。段取りに決め事ができるのは当然のことで、それを仕来りと呼ぶのは単に言葉の問題に過ぎない。
ここでベダの目的を考えてみても、答えが出るとは思えなかった。
「どうあれ御山に何かある前に厄介事は摘まねばならん。そのためにあたしらの郷もあるんだからな」
エネピアは言い切った。
「何かあったら蟲の髭みたいな薬の犠牲者は減るかも知れないけどね」
ふと留子の郷で飲まされた薬湯を思い出してフィンは口許を窄めた。
「樹蟲衆のはそんな味なのか。あたしらのは泥と胆嚢を混ぜたみたいなやつだった」
エネピアもフィンと同じ顔をした。
うーんと唸ってゼノは頭を掻く。まだベダの目的を考えていたようだ。
「薬師がどうとか言ってたね。霊験あらたかな薬で商売でもしようとしたのかな」
「そんな馬鹿なことするわけないでしょ」
「そうだ王里のバルターだってするもんか」
二人に揃って責められて、ゼノは大きく息を吐いて机に突っ伏した。
「だってさ、ここまで彼の目的だけを頼りに捜していたんだ。名前も姿も分からないんだもの」
確かにゼノがフィンに案内を頼んだのは大きな集落だ。ベダが交易を望んでいたならそれは間違っていない。だとしても天露は売り物にはならない。そんなことをしたらまた審神者の審判を仰ぐ騒動になるだろう。
「ああ、嫌な予感しかしない。まさか厄介なものに唆されたりしていないよな」
ゼノは机の上に身を乗り出したまま、ひとりぶつぶつと喋っている。エネピアもキアスティとベンティーネもゼノの奇態を呆れたように眺めていた。
今となってはフィンにも分る。耳を窺えば理解できる悶々とした感情を高台衆たちは誰も共有できないのだ。
「それって、もしかして高台衆より広くて遠くて古いあれのこと?」
「そうだよ、よく憶えてたね」
ゼノは頸を捻ってフィンを見上げた。
「厄介なの?」
「みんなと同じさ、厄介なのもいる」
「それがベダを唆したの?」
「分からないよ、まだ仮定だから。でもそうだとしたら、もっと面倒なことになる」
「面倒って――」
フィンは思ったままにゼノに問い続けようとして、ふとエネピアの表情に気が付いた。呆気に取られたその耳先に、フィンは真っ蒼になって口籠る。無意識に自分の耳を押さえた。
知りたがりだ。そう言われる。きっと皆がフィンの好奇心を責める。それは不和の元凶だ。抑えられなければ一緒にはいられない。
きょとんとしているゼノにフィンの視線が泳いだ。離れていても聞こえそうなくらい胸が大きく打っていた。怖くてエネピアたちの耳を確かめることもできなかった。
「ぼくは――」
そのあと何と言って部屋を飛び出したのか、フィンはよく覚えていなかった。
火を落とし、もう寝ようかという頃合いだった。湯気も薄れた釜屋の裏には開けた作業場があり、壌血衆の男衆が調子に乗って割った薪木が山のように積まれていた。
とぼとぼ。そんな情けない音が似合う歩調で、ゼノは作業場を横切って行く。
薪の山に行き当たると、その天辺を見上げて頭を掻いた。丸く抜けた樹々の間は夜の色も濃くなって、星が零れ落ちそうなほど輝いて見える。そこにぽつんと蹲る人の形で星あかりが黒く抜けていた。
「ずいぶん長い厠じゃないか」
そう声を掛けるとフィンクはびくりと身を縮めた。何故だろう、何処からともなくゼノの無神経を詰る声が飛んで来たような気がする。ゼノは辺りを見渡して、もう一度弱り果てたように頭を掻いた。
下手な嘘をついて卓を離れたフィンクは、あれからずっとここにいたようだ。逃げ出そうにも行き場はない。壌血衆がいるならなおさらだ。山と積まれた薪木の上でじっと蹲っている。
〈児童コミュニケーションマニュアルをダウンロードしましょうか?〉
どうしたものかとぐずぐずするゼノを、アタランテは思い切り責め立てた。
こうしてゼノの尻を蹴飛ばしたのは彼女だけでない。エネピアをはじめ全員がゼノにその役割り押し付けて、ゼノを小屋から追い立てたのだ。
〈樹蟲衆用のがあったら頼むよ〉
ゼノは小さく息を吐いて、積まれた薪を用心深く登り始めた。薪の軋む音が近づくにつれ、フィンクは小さくなって行くようだ。
辺りには窯と炭と乾いた木の匂いが漂っていた。ゼノは用心深くフィンクの隣に腰掛けて、ぼんやりと真っ黒な森を眺めた。
ゼノは話し掛けもせず、フィンクに返事を促そうともしなかった。そのままじっと隣に座っている。
ゼノにたいした意図はなかった。本当に言葉が思い浮かばなかっただけだ。
枝葉を擦る風の音の中に、途切れとぎれに整えるような吐息が混じった。先に苦しくなったのはフィンクの方だった。
「知りたいのが止まらなくなるんだ」
ゼノの隣で聞き取れないほど小さな、喉の奥に詰まったような声がする。
「ぼくは知りたがりなんだ」
それはたかが好奇心だ。少なくとも人類版図ではそうだった。なのにミドルアースではそれが抑えられない者を忌子と疎んでいるらしい。当然、ゼノにはその感覚がまるで理解できなかった。
もちろん件の薄っぺらい公式レポートにもそんな記載はなかったし、誰も積極的に教えてはくれなかった。ミドルアースの住人だけの禁忌だ。彼らは自分たちの禁忌に対して一様に固く口を噤むのだ。
フィンクが飛び出して行ったあと、歯切れのよいキアスティも、物怖じしないベンティーネも口が重くなった。エネピアだけが小さな声で、フィンクはそうかも知れないと教えてくれた。きっとそう話すことも本来は下世話なことなのだろう。
ゼノにはその重さがよく分からない。彼はこの世界に属していないからだ。
「知りたがりって?」
だからゼノはゼノらしく、フィンクにそう訊くしかなかった。
その問いにフィンクはびくりと肩を震わせた。ゼノの真意が分からないのだろう。動かないゼノの耳をつい星あかりに探ってしまう。
「みんなを悪くする子のこと」
囁くように答えたフィンクに、ゼノはもう一度訊ねた。
「それはどうして駄目なんだ?」
もう訊かないでとフィンクは睨んだ。しかしゼノはその理由を示す耳先を見ようともしない。もちろんゼノには読み解けないが、耳に目を遣りもしなかった。ずっとフィンクの目だけを見ている。
〈彼らの――〉
ゼノはアタランテの声を遮って言った。
「どうして?」
フィンクの苛立ちが堰を切った。
「何でも知りたがるようになったら、ぼくらの耳はどんどん勝手に嫌なことを喋り出すんだ。そうしたらみんな嫌いになって、一緒になんていられなくなる。どうしてそんなことが分からないのさ」
鼻を詰めたようなフィンクの荒い息をゼノはじっと聞いている。
〈彼らの共感が不随意だからです〉
アタランテは息苦し気な声でゼノに囁いた。
〈人が法や信仰で行動を制御するように、彼らは思考を制御しなければならなかった。でもその方法は法でも信仰でもなく、同調圧力です。彼らの共感性の高さがその方法を選ばざるを得なかったんでしょう〉
ゼノはただ肩を竦めるような感情をアタランテに送って寄越した。
〈この世界全部が小さな村社会なんです。――ゼノ、あなた最初から?〉
「そうやって自分勝手になって、みんなを巻き込んで、周りが壊れて行くんだ。審神者が降りたのもそんな王里の里ノ王が郷を欲しがったせいなんでしょう? 高台衆なら知ってるよね?」
フィンクの声は呼吸と鬩ぎ合い、喉で掠れた。
「だからみんな、ぼくが大きくなっても郷の外に出したくなかったんだ。ぼくが何でも知りたがるから、そんなのが郷の外に出たら――」
「フィンク」
少し声が強過ぎただろうか。フィンクはゼノの声に身を竦め、両手でしっかりと耳を隠して身体を縮めた。
「フィンク」
もう一度呼んで、ゼノはフィンクの顔を覗き込んだ。フィンクは耳を押さえたままゼノを睨んだ。だが、いくら耳を隠したところでゼノは最初からはそんなものを見ていない。
「確かに僕は余所者だ。君らの世界にはあまり深入りしたくない。それは高台衆の決まりごとでもあるからね」
〈ゼノ〉
「だって、そもそも僕にはフィンクの悩んでいることがまるで理解できないんだ」
洟を啜ったフィンクは鼻の奥で泣くような音を立てた。
「僕らの世界は最初から耳が嫌なことを喋るのさ。だから妬んだり奪ったり殺しあったりが当たり前だ。こことはまるで反対なんだよ」
「そんなはずない」
フィンクが声を上げる。
「本当だ。だから世界が壊れないように、みんな我慢したり、諦めた振りをして大人にならなきゃいけない。これがさ、何て言うか実に面倒なんだ」
フィンクは大きな目を見開いてゼノを見つめている。じっと瞬きを堪えたせいで、ぼろぼろと涙が頬に零れ落ちた。
「何てことはない。大人になる方法なんて、ここでも同じだったんだな」
「ぼくは」
フィンクを遮ってゼノは言った。
「フィンク、君の知りたがりがこの世界を悪くするんじゃない。この世界が君を悪くするんだ。それと折り合って行くのが大人のやり方だけれど――」
ゼノは微笑んだ。
「できないなら諦めろ」
頑なに耳を押さえ込んだフィンクの手を両手で覆うと、ゼノはそのまま手を解かずに言った。
「そしたら僕のところに来い。居留地じゃない。高台衆の世界でもない。僕のいるところだ。僕が叱ってやる、君が僕を叱ってもいい。僕もそれなりに長生きだからね。フィンクが僕に飽きるまで、一緒にいろんな世界を見て回ろう」
風が遠くの枝葉を揺らし、ざわざわと音を立てて流れて行った。
〈そんなこと、異文明接触憲章の重大違反か、もしくは児童略取ですよね〉
アタランテは静かに囁いた。フィンクのすすり泣く声を消してしまわないように、ゼノに呆れたような言葉を投げた。
〈何とかしてよ、アタランテ。君は僕と一緒だろ、共犯じゃないか〉
ゼノはアタランテに囁き返した。
〈あなたは狡い。いつもそうです。しかもまるで自覚がありませんよね〉
アタランテは諦めたような大きな吐息を真似て、ゼノにそう言った。
〈いいでしょう。せいぜい私とこの子のために腕の良い弁護士を探すとしましょう〉
どれほど住む世界が異なっていようとも、人の生き方の根幹と、そこから辿るひと続きの結末は同じです。どれだけ奇異に見えたとしても、お互い様。いつかゼノがそう話していたように、自分とどれだけ違っていても、けして相手が変ってるわけではありません。
フィンはようやく自分の居場所を見つけました。たとえそれが自分の生まれた世界でなくても、そんなことはどうでもいいのです。言葉を返せば、余所者もまたフィンに自分の拠り所を見つけました。とはいえ、彼が自分からそれを口にすることは絶対にないでしょう。ことそうした類に関しては、いつだってゼノは狡いのです。