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無明抄  作者: 輪形月
第二章
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夜叉

本日も拙作をお読み頂きまして、ありがとうございます。

 ぱち、と(はさみ)の鳴る音がした。

 藤御前(ふじごぜん)の住む北の方は、裏山の裾際にある。

 京より下向の際には、曲家(まがりや)の同じ屋根の下一つに馬と暮らすのは耐えきれぬと驕慢にも言いつのり。

 あえて作らせたという離れは、母家(おもや)とは壷庭を隔てて離れており、宝蔵(たからぐら)の影ともならば、なかなかに人目も届かぬ。

 周囲は立ち入りをさりげなく禁じる小柴垣をめぐらせており、表の喧噪は潮騒のように遠く。

 ここだけは、小火騒ぎすらも空気のざわめきにすぎぬ。

 紅梅香の空薫物(そらだきもの)が漂うこの庭には桜も小手毬も一つもない。

 名残の山椿を切って袖に捧げるように運んできたのは、(まき)()稚房(わかふさ)に呼ばれていた侍女であろう。

 ほとんど白粉も掃かぬ実直なおもては、三十を過ぎたか。雅な所作にもかかわらず、この地に根付いた(しょう)の強さを思わせる。

 槇の葉が離れの脇にて山椿を差し出せば、するするときざはしの際まで来て無言で受け取ったのは紫匂(むらさきにおい)の袿の袖。

 青女房というには少々年のいった、紅の(あこめ)(みやこ)めいた白塗りも、朝とはいえ陽の下では鮮やかすぎて能面のようだ。

 無言のまま御簾内に入れば、ゆるやかに紙を広げて歌を書き散らしていた垂髪の女性が顔を上げた。

 掛香の香が動くたびに漂うが、桜の咲き始めたころに夏の白藤の(かさね)はいささかそぐわぬ。

 すべてみな藤を好むをもって藤御前と呼ぶが、それもこれも桜散りての藤波の立つを願っての呪いであることを知るは、藤御前その人とこの女房の五条ばかり。

 確かに京ふうの、肉厚な長房の白藤を思わせる濃厚な美貌。ぼったりとふくふくした手の甲。

 しかし切れ長な剃刀色のまなざしに、その印象はみなすべて裏切られる。


「若木よりなおいつくしき乙葉かな花あるばかりが桜ではなし」

 京ぶりと称される歌は、(あわせ)によりて優劣をはっきりと明らかにされるものである。それゆえに、中味はいらぬとも公的な鑑賞に耐えうる美術工芸品としての歌が求められるものだ。

 なれど、ちらと紙上を見やった五条は何も言わぬ。典雅であはれな詠みぶりを誉めることはない。

 右近が帰ってこなければよいという呪詛をこめてあるのだから。


 山深い土地に春は遅い。

 それさえ藤御前の機嫌を損ねるもととなるのがいつもの春なのだが。

「臭き山里の煙も今朝は風情ある朝霧とも思えるの」

「まことに」

 満足げに主従は微笑んだ。

「昨夜の騒ぎ、右近さままで馬盗人に馬もろともに盗まれはったとやら」

悍馬(かんば)と間違われたとは。おいたわしやの」

 つつましげに扇で隠した主従の口元は確かに笑んでいた。

 京育ちの藤御前は、歌にも管弦のあそび()にも高い教養を持つと自負するだけに矜持のこわい女人である。

 いかに京人の血が入っているとはいえ、いやだからこそ、持つべき教養のない能なし風情と軽んずる右近が目障りでたまらぬ。

 やつした網代車といえども、牛車こそ乗るべきものでこそあれ。馬などそばに寄るのもあらあらしい。


「母上」

 てとてとやってきたのは稚房である。桜襲の水干に、若緑色の袴が似合い、女の子と見紛うほどにかわいらしい。

「ともあれ、右近どのが姿を消したとは嬉しいことじゃ。稚房が望満さま亡き後はこの邑すら統べてくりょう」

「稚房さまの御代ともならば、なお安泰かと」

 安泰も何も、今の時点では右近と稚房以外に継嗣はおらぬ。

 稚房は五歳になったというに、邑の外へ出るどころか、他の子どもと遊ぶことすらままならぬ。

 右近は衛士としてだが山すら見回りに出ているというに、藤御前たちはねばい糖蜜のように我が子をずるずると絡めて、いまだ表に出したことすらないのだ。


「稚房、もっとちこうお寄られ」

 優雅に招く扇からも目に痛いような原色の袴からも。贅弱な綾で装った経典にでもするように、しこたま炊きこめた香が障気のように立ち上る。

 稚房は思わず咳き込んだ。

「ああ、これ。おまえは病弱なのだから。五条」

 言いも果てず、腹心の女房がするすると御簾を下ろす。

 ぴたりと締め切れば、いっそう頭が痛くなりそうなほど濃厚な香に稚房はくらくらとした。

 天井を張り、部屋を間仕切りして使うふすま障子に明障子。

 当代風の山風防ぐ実用的な調度を覆い隠すように置かれているのは唐櫛笥に鏡筺、鏡台。脇息、二階厨子に文台唐櫃。

 京ふうの女くさいきらびやかな室礼は、いっそ古代じみて祭壇のようである。

 右近の部屋に漂う青草のすがしい香りなど、知るべくもない。 


 笑みの滴る母の顔に姉贔屓な稚房は眉根を寄せた。

「ははうえさま、なぜお笑いになどなられます。さほどあねうえがおきらいなのですか」

「さようなことは。よもや」

 おのれの子どもを見返ってにっこりと笑った目は笑っていない。

「ただ、邪魔なだけじゃ。戻って来ねばよいとも思う。身も汚されてしまっておればもっとよい」

 おっとりと微笑む様子は鬼か蛇か。

 口は耳まで裂けたかと、目をそらした稚房の手は震えていた。


 最初から右近に心など許していなかった藤御前である。

 それでも子どものうちは愛想も良く手駒にしようとしていたが、稚房が生まれたら当然そちらを邑の長につけたいと思う母心。

 つけてしまえば無位の身分や(ひな)ぶりはどうしようもないが、富と権力(ちから)はわずかなりとも手に入る。

 稚房の乳兄弟はおらぬ。乳母の夫が望満に諫言したのを憎まれて、乳母もろとも斬られた。

 槙の葉とて、ただ稚房づきの侍女にすぎぬ。

 近習もそろそろつけねばならぬのだが、それすらおらぬは猫かわいがりのゆえか、それとも駒として見るゆえか。


「稚房、おまえのためなら母者は鬼にも夜叉にもなろう」

 薄笑いを浮かべる母。おびえる弟桜。

 将来の当主の姿を陶然と描く目には、現実(まこと)稚房(我が子)が鬼と見るにも気づかぬものか。


 ふいに時外れの虫が御簾内へと飛んできた。

「えい、なんと見苦しや」

 しかし薄羽蜻蛉が硯に飛び込めば、五条も口をつぐんだ。

 しかも這い出た蜻蛉が「来」一文字を描き力尽くともあらば。

「槙の葉」

 扇を鳴らされ五条が言いも果てず、槙の葉は無言で稚房を毒々しい離れより連れ出さんとす。

 そこに五条が釘を刺した。

(まゆみ)などにはよも近づけまいぞ。毒を飼われもこそ」

「は」


 毒を盛られたら大変と言うが、右近が稚房を害そうとしたことはない。むしろ藤御前よりも何心なくかわいがっていた。

 だが藤御前の命を受け、五条が右近に盛ったことで檀の母たる乳母が毒味で死んだがゆえに、藤御前らは同じ事をやられかねぬと断じている。

「外に出たと見せかけたのも策略やもしれぬでの」

 さこそあらめとうなづく主従。心の鏡に映った影は、己そのものであるのを気づかぬ。


 いつのまにか、樋洗(ひすま)しの女が庭の木陰にうずくまっていた。

 目の大きな、猫背の骨ばかりの細い女である。黒目ばかりの目は藍とも納戸色ともつかぬ。黒天目の極上品のようだ。

「高砂の太翁(たいおう)が出立いたしました」

女の言葉を眉をひそめて五条が繰り返した。

 腹心の侍女などわずかにしかおらぬ。五条にすれば、主の乳姉妹(めのとご)であるおのれが端近(はしぢか)にまで出て伝奏をせねばならぬも腹ただしい。

 なれど端から見れば、声の届こう近間にもかかわらず、わざわざ伝奏をおこなうばからしさ。

 主従はしかしまじめである。おのれらが愚かであるとも思わぬ。

「その際、帚木(ははきぎ)とかいう女ながらも刀を使う者を置いてゆきました。お館様は緒宇摩(おうま)に置かず。即刻、河久万(かわくま)らにつけて探索へと出されるようで」

 ほう、と藤御前は悩ましく息を吐いた。

「面倒じゃの」

「とは」

「腕が立たずとも太翁の手の者というだけで面倒じゃ。どうせなら殿が寝所に引きずり込んでおいてくださればよいものを。腕が立たばなお面倒、かといってこちに引き込むのもまた面倒というもの」

「左様にござりますれば、いかがいたしましょうか」


「邪魔になるようならば、邪を除け」

 それはつまり殺せと言うことだ。だが樋洗し姿の女も表情を変えず頷いた。


「右近さまの事はいかがいたしましょうや」

「殺されたならそれでよい。(むくろ)のありかを明らかにせよ」

「生きておりましたなら」

「二度と戻らぬようにせよ」

「御意」


 扇一つふって樋洗しの女を追いやり。


「ちょうどよい機会。おなごの身で馬に乗るなどあらけない者は……」

 彼方の山はいまだ白い。先初めの桜を見つつ藤御前はうっすらと微笑んだ。

「消えてしまえばよいのじゃ」


言い切れば、そこには一匹の生成(なまなり)がいた。

生成は鬼になりかける最初の段階だそうです。

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