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無明抄  作者: 輪形月
第二章
8/27

薄明

本日も拙作をお読み頂きまして、ありがとうございます。

 誰かが小さく咳をした。

 それはいがらっぽい曲母屋(まがりおもや)の軒先にひどく響いた。

 水をぶちまけ大勢が踏み荒らし、泥濘(ぬかるみ)と化した庭おもてには、炎に当たり変色した瓦の破片が散乱したまま。

 黒く焼け落ちた台盤所の梁は今もぶすぶすとくすぶり、小手毬の花は見るも無惨に踏みにじられている。

 しかし、夜闇に怯えた火に比べ、薄くさしそめた朝日の元で見渡せば、驚くほどに被害は少ない。


 周囲に巡らせた堀の水をせっせと汲みかけたこともあり、この総家の台盤所が焼け落ちた以外は、せいぜい消火に当たった者数名と暴れた馬がやけどを負った程度、他の家々には火の粉も飛ばずと思われていた。

 何よりも、焼け死んだ馬は一頭たりともなかった。


 しかし、すっかり動顛(どうてん)した馬たちを抑え、あらためて数えなおすとなんと五頭が姿を消しているではないか。

 いずれも並び劣らぬ優駿(ゆうしゅん)が己の(うまや)から姿を消したのだ。

 これだけでも望満が怒らぬわけがない。

 しかも、台盤所から出た火は、外に積まれた柴に付けられた火であった。

 また、すべての馬が厩から引き出され、座敷表に暴れこみ、上客たる太翁すら踏みつぶしかねなんだという不始末。

 どれもこれも外から入ってきた馬盗人の仕業と知って望満は激怒した。

 扇を握り壊さんばかりに、こぶしどころか腕にまで血管が浮かんでいる。


「こうれはこれは望満どの」

「これは太翁どの。ご無事だったか」


 小太りな翁の姿が、煙と山里特有の濃い朝霧が入り交じった向こうからにじみ出た。

 石置き木羽板葺きの大きな屋敷、八百坪は越えようかという広大な敷地の正面に、この山里の総家などは比ぶるべくもないという立派な母屋(おもや)をでんと構え、ずらりと並んだ厩舎数多に、飼いたる馬のその数は、葦毛鴾毛に黒鹿毛月毛、粕毛鮫馬名馬駄馬、三百余頭を優に超え、奥向き仕えの顔さえも数の多さに判じかねるというたいそうな羽振りの馬商人だが、その身も今は灰と泥とに塗れるばかり。


「いやはや、昨日は大変な賑わいにございましたな。少々わたくしどもも息を切らしましてございまする」


 一見温顔なだけに鋭きは、太翁の目と舌の()に浮かぶ侮蔑と嘲笑。

 傷に塩をすり込まれたごとく、ぎりりと望満は奥歯を噛みしめた。

 なれど不快に思うは太翁とて同じ。己が葡萄茶(えびちゃ)直垂(ひたたれ)どころか、(みやこ)まねびの錆烏帽子(さびえぼし)まで泥まみれ、縁の前に延べられた(むしろ)の下は、足首と喉を鋭利な刃で刈られた己の配下が(むくろ)とあらば機嫌のいいわけがない。


「さすがは名にし負う緒宇摩に似合いの勇ましさ。もてなしはこの目でとっくり見せていただき申した。高砂にもよい土産話ができましたゆえに、まもなく立ちまする」

「左様か。では、道中気をつけられよ」

「二十分に」

 小針の突き立つ嫌みにも望満は無言でいたが、おのが檜皮色(ひわだいろ)直衣(のうし)が焦げ臭いのさえいっそう腹ただしく思われる。


「そうそう」

 振り返った太翁が嫌な笑い方をした。

「見張りの者を襲った者のうち、一人は女で鞭使いであったとか。よもや右近さまではございませんな?」

「無礼であろう」

 右近が婚礼を嫌がって逃げたかのように言われては、さすがに望満のこめかみにも青筋が浮かぶ。

 だが、なおもつけつけと太翁は毒を吐いた。

「これはご無礼を。なれど、花嫁がおらぬでは婚礼の話も白紙に戻さざるやもしれませぬなぁ」


 もちろん、たやすく話を壊すなどもってのほかである。

 望満の娘であることに、出奔しようが傷がつこうが代わりはあるまい。

 むしろ傷の多い相手であれば高砂の立場が強くなることは互いに承知の上ではある。

 だからこそ、望満にしてはこの話にこれ以上傷が付くのはなんとしてでも避けねばならぬ。


「無論のこと。追っ手を出した。街道に出ても牧を出ても、生きてようと死んでようと逃がすまい。馬盗人めら、捕まえたら骨の一筋一筋に己の愚かさを焼き付けてくれよう」

「さなれば帚木(ははきぎ)を置いてまいりますゆえ。ぜひとも探索にもお使い下され」

「…む」

 気ぜわしく太翁の一行が立ち去り、郎等達も帚木と呼ばれた女を連れて探索の支度に散ってゆく。


 わずかに家内の家の子らしかおらぬようになった瞬間。

 望満は奇声を上げて足下に平伏していた(まゆみ)を蹴り倒した。


 望満が荒れ狂う鬼気のあまりに郎党どもも居並びながらも手も出せぬ。ひたすら狂乱の嵐が過ぎ去るのを待つばかり。

 ひたすら平伏する檀の脇腹と言わず、腰と言わず蹴りつけ、髪をつかんで扇もささらと砕けよと殴りつける。

「この役立たずめが、このうつけ者めが」

 脇に控えていたからには、盾ともなって主を庇うのが当たり前。

 なのに、乳姉妹(めのとご)でありながら右近が(かどわ)かされたも、影が飛び込んできたと思った瞬間気絶していたため、わからぬという。

内々に事を運べば責を取って姿を消した右近の身代わりに立てることもできたろうに。

 なれどここまで大きな騒ぎともなればいまさら隠し立てもならぬ。


 それはこの女房だけでない。

 色仕掛けでたぶらかされたり、投げ鞭で倒された見張ども、たかが馬商人の身でありながらこの武邑の長たる身を面と痛罵してきた太翁も、聞いていた邑の者も皆すべて叩き切ってやりたいところだが、それでは手勢がいなくなる。それだけがかろうじて望満の正気をつないでいた。


 女房装束を縁から庭へ蹴り落とし。望満は肩で息をしながら低い声で呼ばわった。


河久万(かわくま)

「は」

「檀の失態、ぬしの責とす。よいか、必ず右近を連れ戻すのじゃ。馬盗人らは殺してもよい」

「ははっ」

言いも果てず奥へと入る荒々しい足音に、紺色も()めきった水干(すいかん)は平伏した。

 その袖に裂けた常磐(ときわ)色の小袿(こうちぎ)が触れた。

「父上。誠に、まことに申し訳ございませぬ」

「檀よ、おぬしの責ではない、姫さまの敵わぬ相手におぬしがどうこうできるはずもあるまい、の」

 涙に暮れる一人娘に邑内一(むらうちいち)の豪槍使いといえど、なすすべもない。

 むしろ右近の乳母である母をも早くになくした檀に不憫がかかる。


「河久万どの」

「おお。(はじ)麻呂どの」

「此度は檀どのもたいそうつらき目に遭うたの。よもやあの右近さまが不覚を取るとは」

 櫨麻呂もまた、右近の傅役(もりやく)ゆえにその武芸の腕はよく知っている。なまなかな男に引けを取るとも考えづらい。

 だが姫の気性ゆえに、もしや乳姉妹を庇って不覚を取ったか。ならばいたしかたもあるまいとも思うが口には出さぬ。

「わたくしがいたらないばかりに。姫さまは、いかなるつらき目をみておられるかと思うと」

 激しく泣きむせべば、慌てて櫨麻呂も襁褓(むつき)の頃から知った子を父親ともどもなだめにかかるしか手はなくて。

「ああこれ、若い娘がそんなに泣くではない。花と競って露をやどしてどうする。泣くまいの、な、泣くまいの」

 武骨な男たちが慰めれば慰めるほど、歔欷(きょき)に有明の月が空へと滲んだ。

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