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無明抄  作者: 輪形月
第四章

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22/27

薄霞

本日も拙作をお読み頂きましてありがとうございます。

 風野を過ぐる間に、草野辺流るる三春滝河も、ゆるやかに流れの太くなる。

 ひろびろとした田は万鏡湖とも呼ぶほど広く、くさぐさの川の氾濫でかつての湖が埋もれ田圃になった。

 しばらくは美田だったというが、人が立ち退き治水もおろそかになれば氾濫は繰り返されますます邑は痩せゆく。

 邑はもとより神社仏閣すべて浚われ、どこまでも野は川に呑まれ濁流は暴れ龍となる。逆鱗は滝の飛沫か。

 人畜の死傷数うべからず云々という水害ののち、今とてほそぼそと見える邑すら辺りに余計なものはない。

 このあたりのことは山吹は行き来する土地であればよく知っており、轟天丸もまた、境を知るゆえにここが豊かに見えるのは見せかけのみと知っている。

 流されることを覚悟で、それでも田畑を作らねば生きてはいけぬのだ。

 雪溶けて緑少ない野に吹く風は、細かい土埃を含む。田畑の広がる野辺ではあるが、田起こしもいまだなされておらぬゆえ、荒野のようだ。

 つちふる黄砂の曠野をゆけば、枯れ草の玉が瞬く間に転がりすぎてゆく。この季節特有の荒れ風であるが、この野に入ってから吹き渡るとは不運な。

 田起こしを行き過ぎればいっそう目潰しのように吹き付ける土埃の幕。

 耳も木枯らしのような音立てて吹き過ぐ風にふたがれて。かすむ彼方は土埃。それゆえにこそ、顔隠しても疑われることがないのが辛うじて救いではある。


 風の止む夜は戸外とはいえ火を焚くこともかなうゆえ、轟天丸はこのときとばかり温石を作って右近にも抱かせた。

 おのずから手も動かすようになってはいるが、どうにも茫茫然とした目は夜の闇、何思うとも見えねば見知ったときの右近はいまだおらぬように思えてならぬ。

 ここは日数を費やしても、本復させるが得策と轟天丸はみた。

 どうで馬と牛とでは足に差があるのだ。

 気は急くが、足の落ちたことにも日数を賭けに急がせた右近は気づかぬていで揺られているばかり。

 これまで日に夜を継いできた馬たちの骨休めのついでとでも思うことにした。 


 今の風野辺は、枯れ草の根にわずかにふいた芽しか青いものはない。人の食うにはまだいいが、馬や牛の餌には足らぬ。

 だが、さいわい雑穀、刻んだ木の実、ずんと持ち重りするほどに十六夜の辻で馬の餌も手に入れてあったのが命の綱だ。

 塩ばかりはさすがに手に入れづらいが、これも山吹がたんと持っていた。

山吹に同行を頼んだは、道案内と目眩ましのためでもある。

 追っ手がどれほどこちらを知るかはわからねど、人が増えたも減ったもさんざん頭をひねるタネにはなるだろう。

 右近の世話をかいがいしく焼いてくれるのも、ありがたやとつい手を合わせる。

 己が世話をすればいいのだろうが、手を伸ばせば魂も半ば虚ろの右近はあらがえまい。組み敷く隙は今ならいくらでもある。行き着くところまで行き着けば、それこそあの喰えぬ叔父御どのの言葉の通り、ただ一夜の戯れでは済まなくなってしまうと思えば轟天丸とて手は出さぬ。いや出せぬ。

 今の右近は、枯芒がぼうとひとむらあるように気配すら薄いのだ。

 だがなぜそれほどまでにひどく崩れた。

 同じ言葉を聞き、同じように術にかかり、同じように薬をかいだ轟天丸にもわからぬことであった。


 行き悩む間も右近はひたすら上下に視界が揺れるのを眺めていた。

 靄と霾に沈んだ野辺は、ときたまぼうと黒く影を浮かべまた沈める。おのれが揺れているだけで、進んでいるのか、後退しているのかもよくわからない。

(まるで己そのものの生き様ではないか)

 ふと想念が浮かんでは消えたが情はぴくりとも動かぬ。

 それは幻を見ても変わらなかった。

 前ゆく牛の尻に揺れるは虚ろな瞳の稚房。

 目を落とさば、よしろが蹄にかかるは、傅役の首か。

 夜となく昼となく浮かぶ幻を右近はただ眺めていた。

 血塗れの太刀を握りしめた望満の足下に倒れるは檀とその父。

 叔父の望輝は胸に突き立った矢を不審がるようにうなだれて。

 ふと喉が締め付けられるよう感じれば己の首に指が絡んでいる。目をやれば望満がぎりぎりと締め上げながら引きつった笑いを漏らしていた。

 偽りであるのだろうとどこかに残った理を判じはすれど、真実であろうと虚偽であろうと、己が手でなしえるものと信じたものは木端微塵。

 靄にじっとりと濡れた華衣も土埃にさらされ、見る見る色を失ってゆく。それもまた己が崩れていく証のようだ。

 道とも野ともわかたぬ平野を土埃が流れるさまは河にも似ていたが、気まぐれに四方八方に流れを変え、ささやかな風紋はさらさら崩れる。

 ぼんやりと見るともなく見ていると流れているのは風なのか、流されているのがおのれなのかもわからなくなる。

 よしろの背からぼんやりと水底より岸を覗く心地こそすれ。道連れができてから見るからにやや晴れも見え。

 底冷える地も日中陽に照らされれば、それだけぬくもるのか、靄がかかれば道すら見えぬほどになりて。

 やわやわと。薄紙を剥ぐように己が身に右近は還りつつあった。

 どこかに欠けの生じたままに。


 山吹は、ようよう遠霞晴れゆく華衣の君を見ていた。

 靄の中では轟天の青毛の馬は影と消え、むしろおのれの牛と、それより色の濃い栗毛四白な姫の馬ばかりが野を行くようにさえ思う。

 風に耳は塞がれて、道知る牛はのすのすと、歩み確かともあれば。

 ただ見ることしかできぬ暇つぶしとも思っていたが、見れば見るほど、異様の姫君。

 目に力が戻りつつあるのは()いことだ。椀を渡せば礼も出る。

 なれども、どうにも目が離せぬのは散る寸前の桜とも見えるがためか。

 轟天丸が呼ぶ、うこん、というのが名であるらしいが、男名というも面妖である。

 そもそも、迂闊にもくらったとかいう毒が解けた以上、こうも大人しく轟天丸や山吹のように道行く者と同道するわけがない。

 根無し草の身からどう見ても、うこんは一つ里に根付いて離れることなどない、花木の一本にしか見えぬ。

 毒くらわせたは誰かはわからぬが――轟天丸でないだろう、気性もあわぬがそのような手を使うなら五体に物言わすか、呪歌詠むがよほどに早い――我と我が身に還った以上は、恐れもなそう、最寄りの里に助けを求めようものを。

 なれど、いくつ邑を過ぎようと、山吹や轟天丸が寄ろうと言い出さぬ限り、何も言わぬさまはなんとも山吹には奇妙であった。

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