山吹
本日も拙作をお読み頂きましてありがとうございます。
轟天丸は音高く舌打ちした。
十六夜の市より青毛の馬に、右近を乗せたよしろの端綱を結んで日に夜を継いだ。
右近は茫然自失の体のまま元には戻らぬ。
この状態で追撃など喰らわば、痛手はますます深くなりまさる。その前に二の矢の追っ手がいるなら距離をあけねばなるまい。
さいわいにも、魂の抜けたようでも緒宇摩の衆の性か、手綱を握らさば右近は落馬もせずゆえに、ようよう東海街道も霞野までは辿りきた。
薄墨色に夜が明けそめる前から地を這いだした朝靄しげく、天を仰げば陽は月に化けたまま。
霞野の名のとおり、時には乗っている青毛の馬の耳すら見えぬほどの濃靄のしわざだ。
これにはこの曠野をしたしく往来する轟天丸ですら手を焼いた。
なにしろ陽が昇り靄が晴れかけたと思えば風に霾が乗り、相変わらず地は数間先でとっぷりと白闇に閉ざされたままなのだ。
口に入る土埃にうんざりしつつ、最後の手段と呪歌を詠んで風を止めようとしてみたものの、これまたはかがゆかぬ。
もともと呪歌とは、人の心、すなわち「想い」をたねとして、韻と律をあわせもつ特殊な言葉を綾織り、鬼神をも動かし、天地をもゆるぎいださせんもの。
喜怒哀楽の感情をゆさぶれど、轟天丸一人の思いでは、いかに韻律により願いと純化し、収束させることで威力を高めても、馬の一頭ずつに言うことを聞かせるぐらいが関の山。
この霞野の天地に満ち巡る万象の気にはたらきかけるには、轟天丸一人の願いではどうでも呪歌の力に限りがある。
せめて同じ願いを持つものがおればと思うが。
脇を見ても、肝心の右近はが泣き止みはすれども魂はどこへやら。
十六夜の市を夜半に抜けたも覚えておらぬげな、今の右近に下手に魂振りしかけても、すっぱり元の鬼姫に戻るとも思えぬ。
馬上で悩み悩みゆけば、霞野を過ぐ。
山裾に下りし水が気を呼んで、霞と閉ざす野を下り、さらに平地を歩み行けば、追い抜くは山吹き下ろした風ばかり。風野へ馬の足は進みゆく。
「そこゆくは誰か」
風にまぎれもせぬ太声に目を細めれば、のすのすと寄り来る影は黄牛。
「山吹ではないかい。久しいの」
「こりゃ珍しや。轟天か」
この風野を行く者のつねでぐるぐると布でまきたてた笠の下、山吹は人の良い目をにっこり細めた。
山吹は牛貸をなりわいとする。
曳牛ともいい、邑から邑へ、畑の耕作、田の代掻きと、季節に合わせて平地からなだらかな山間まで牛とともに移りゆく。
旅から旅の暮らしゆえ、観月衆と同道することもまれまれよくある道行く者。
顔見知りと会えたはやれありがたやと轟天丸は内心安堵の息を吐いた。
だが、種蒔桜の咲くこの頃。山吹は田起こしから代掻きまで、相棒の黄牛ともどもそちの邑こちの邑とひっぱりだこではなかったか。
「どこまで行く?」
「このまま風野を川沿いに。下って淡墨が渡まで」
「なら一つ頼まれてくれ」
「おや珍しや。貸しを嫌う性の轟天とも思えん。明日は雨が降るかいな」
「降ってくれりゃあ、土埃もちったぁ収まってくれりょうに」
この埃っぽい風に吹かれ続けりゃ、黄粉まぶした粟餅でもならぁと轟天丸は鼻を皺めた。
「淡墨までともに行かんか。道がこれではようもわからん。銭は出す」
のっそりのっそり並びくる黄牛に驚いたか、そろって鼻を鳴らす馬はさておき。
銭で貸しを作らぬ理由もちらりと眼をやれば知れたこと。
「……あの遠霞の君がためか。さては盗んで来たか」
「そんなところだ」
「まあよいよぉ。轟天のためだ」
二つ返事で返したが。
「ありがえてえ」
心底ほっとした様子に、なにやら山吹はささくれを呑んだ気がした。
うっすら道の刻まれし、野辺の枯草原は川の芦原と一続き。水の出るたび野をのたうち回る川の流れは原をも均す。
この風野に邑が少ない理由である。
生い繁った芒がぼうぼうと枯れ残り、河原か川かそれとも沼か、全く見分けもできぬ。
目当ての山もなにも見えぬその道を、山吹の黄牛はよく道を見分けてのしのしとゆく。山吹が「水」と言えば川に寄り、止まればおとなしく塩を舐めた。
その尾がを見ながら、並足ぎみにぽくぽくと。
馬に揺られゆけば風野の名の通り、強い風に土埃が地を這った。
風野とて、日夜を問わず風が止まらぬわけではない。
夜になれば風もおさまる。なら夜の旅こそ上策、灯りをともしてでも行けばとも思うが、道は朦朧として下弦の月は弱々と、いっそう陰影を強めて人を惑わす。
風が強いために春蛍はおらず、点在するわずかな邑々は広大な野を得るもかなおうが、人は少ない。曳牛をなりわいとする山吹が重宝される土地柄であるわけだ。
わずかながらも風防ぎに植えられた家森を背負う家々は、樫の木をぎっしりと植え込んだ生け垣が屋根より高いせいもあり、ちょっとした緑の筺のようだ。
長の年月住み着く者は工夫のしようもあろうといえど、これほど風が荒れるゆえ、道も川も通れど市は立てられぬ。観月衆ら道ゆく者どもにはややつらい地だ。
激しい風に煽られながらも、家周りの畑では麦踏みをする姿も見えれば。
いつもならば山吹呼ぶ邑もあろうと思われて。
われから言い出したことだが、稼ぎ時にかかわらず通り過ぎんとするが轟天丸には気にかかる。
だが山吹は笑うばかり。
もとより淡墨が渡まで行き、またのっそりのっそり邑々を回るのだ、牛一頭人一人、食うに困らぬ旅の気楽さと。
真実、山吹は轟天丸との野辺行きを腹から楽しんでいた。
囂々と音立てて渡る風に邪魔されて、なかなか会話らしい会話もないが、相棒の牛のぬくみしか感じないいつもの旅に比べれば、人がそばにいることが嬉しい。
遠霞の君も邪魔もせで。
強い風とて、冬の骨身にしみるほど冷たくもない心地した。
「毒にでもかけてきたか」
夜になっても山吹の詮索はとまらぬ。
「己が迂闊だ」
短い言葉にみるみる気の毒そうな目になるのが人の良さ。
どこか相棒のなりに似た四角い背をかがめ、山吹はせっせこと鍋をかき回した。
屈に野豌豆。枸杞、野蒜。繁縷に薺、藪虱。アク抜きの手間のかからぬ摘草で、汁を作って身体を温める。
一日風に吹きさらされた身には、やはりぬくみが何よりの馳走。
それゆえ、鍋は山吹の数少ない財である。
汁に加えて野罌粟に垣通、苦菜といった苦みのある摘草を雑炊に入れてやるのも心づくし。
春菜の苦みは毒を払うというからに、いくばくなりとも遠霞なども晴れるかと。
せっかくの心づくしをさりながら。さかさかと味も感じぬほどにかきこんだ轟天丸は。
「鍋を借りるぞ」
手早く空けた鍋には水を汲み、現の証拠に蕺菜を荷から取り出し煮出したものに、道端で摘んだ蓬と杉菜を落として茶を煮込みにかかる。
「ありがてえ。石焼いて竹筒で湯にする手もあるが、薬湯を煎じるにはやはりとろ火がいいと聞く」
「あれ、気になどせんでええのに」
春の青気と解毒の薬草を取り込んだ残りは牛と馬の餌だ。
箸すらぼんやりともてあそぶように、握ったままの遠霞に近づけば、轟天丸は薬湯を口移しした。
魂のあく離れたがごと、茫々たるさまではそれもしかたもないこと。
が、思わず山吹は目をそらした。
匂う桜のかんばせより、霞も晴れよと願うも本心。
なれど胸内に立つ靄も次第に濃くなりまさる。
目を細める黄牛の角の間をごしごし掻けば、相棒は眠そうな顔でもうと鳴くばかり。




