毒罠
本日も拙作をお読み頂きましてありがとうございます。
なぜ思うようにいかぬ。根津丸の想念にあるのはただそのことであった。
感情の手綱を絞り、ちらともおもてにも出さぬのは妖使いの修行の第一歩。
だが、根津丸はおのれの形相がぎりぎりと音立てるほどに変じていくにまかせていた。
もともと根津丸の予測では、とうに馬を金に変え、二人てくてく境に戻る途中であったはず。
なのにおもうように道ははかどらず、あれほど苦労してここまで馬を牽いてきたというに、四頭は茶屋に置き捨てたまま。
頭で描いた策がただひたすらに甘かったというはあるが、仲間に堂々策を説き、手柄を描いたを思うほど、たかが茶屋の婆に謀られ、かように追い込まれたことにも胸が煮えた。
婆が逃げたと察した時、妖使ってでも辺りを捜しおけばよかったかとも今さらに思う。遠くにはまだ逃げておらなんだはず、馬追どもがみな発ったのち、手早く斬ればよかったと。そうすればさらに時間は稼げたはずなどと、後知恵湧けばいよよ腹が立つ。
気が波立てば、抑えたはずの妖がもぞりとみじろぐ。慌てて安寧安寧と内心に呪を唱えれども。
こうも予期せぬ事に足をとられると、たくんだことがうまくいかぬのは、轟天丸がおらぬゆえのような気さえしてならぬ。あやつさえおればと頼む心根、おのれの弱さと噛みちぎりたくなるのは、己の策が思うようにいかぬわけがないという壮烈な自負心のゆえ。
轟天丸には二度と頼らぬ。挙ぐるはこの根津丸が名。
それゆえにも、なんとしても、かようなところで何もかも失うわけにはいかぬのだ。
自尊の牙をぎりりと噛めば、怯えたように馬が足を速めた。見れば口の端に泡を吹き、茜の馬もつられて疾走する。
すでに小半時は駆け続けている。山道ははかゆかぬものとは知りながら、それでもやはり気は焦る。
再び雨脚の強まる中、昼過ぎだというにあたりは夕暮れ時ほどにも暗い。
根津丸は息を少しずつ吸い込んで気を落ち着けた。まだすべてが破れたわけではない。
茫々漠々たる雨煙を透かし見れば麓は近い。だがこのまま素直に降りては追っ手もかかりやすい。根津丸は腕を振って茜に合図した。
濡れていっそう古代紫鮮やかに群れなす片栗の花蹴散らして、二頭は小径へと逸れた。
正街道へ向かうのではない。見る間に馬の足は鈍ったが、馬や牛で荷駄を運ぶ山越えの田畑を伝えば三十以上は谷のあるというこの関山、高砂を通り越して、より京寄りに離れたところへ出てしまうこともできるのだ。
もはや高砂で太翁の鼻を明かすことにはこだわらぬ。
そのまま京で乗る馬を売り、身なりを変えていっそのこと川船で海へ出てしまおうか。後は近々このわたりに寄らなければいい。
そう考えを纏め。己をなだめた根津丸の身体が不意にぐらりと揺れた。
春先とはいえ歯が鳴るほどに雨は冷たい。凍えて感覚も失せかけていた指先に水を含んで草鞋の重みがかかる足先に電撃が走り抜けた。見れば指先は赤黒い。
「こ…れは」
冷たい脂汗が汗と混じって顎を伝う。手綱を握るどころではない。茜がかっぱらった食い物の包みを取り落とし、馬の首にしがみつくのが斜めに視界の隅をかすめた。
「あの…糞婆ァめがッ」
痛みに息も吸えぬ、罵りも声にはならぬ。
蕈の煮物と見て、口にしたのは間違いではなかった。だが黒くなるほど煮染めて峠の茶屋の婆が出したは。
おそらくは、毒蕈。
鐙も満足に踏めず、苦しがって捩れた身体。支えもならず鞍は滑り、茜だけでなく根津丸さえどうと地に這った。
のたうちまわる二人の耳にどろどろ去りゆく雷か、下り坂を蹄の音の遠くなりゆけば。ようやく頭をもたげた時には、二頭の姿はすでになかった。
苦痛に息の荒い茜を支え、根津丸は道脇に湧く石清水に近寄った。妖はこのようなときには役にもたたぬ。
凍えるような雪解け水を茜に掬って飲ませ、おのれも飲むと根津丸は思いきり戻した。少しでも蕈の毒を体内より出さねばと、胃腑を洗えど、指先はすでに骨が焼け火箸と化したような痛みをぢんぢん響かせている。
「茜、動けるか」
水より他に出るものもなくなり、よろよろ頷く茜を支え、もつれあうように一歩、また一歩と山道を二人は進みはじめた。
白く煙る雨帳、透かしみればまだらな荒れ地は山焼きの跡か。境界を示す杉以外に遮るもののなく、なだらかな段々畑がだらだらと見える。
狭い枝沢までもが段々に切り開かれては、身を隠すものとてない。これでは遠目にも目立つことは間違いない。
もはやこれまでか。
絶望に眩みかけた根津丸の目が留まったのは、滝と流れ落ちる谷川の境であった。
見上ぐれば、その急斜に貼りつくように、邑から遠い山畑にはつきものの小屋ひとつ。
ここは隠れて身体の回復を待つのが上策であろう。
「茜、もう少しだ」
痛みに萎えかかる膝をこらえ、茜を先へと渡す。この激痛には丸木橋のかかる細流も通常ならばなんということもないのだが断崖絶壁の心地すらした。
畑道は山道よりもはるかに急でなお細い。石を踏めば草鞋越しでも針の山登る亡者の思いをする。土ばかりとはいえ、地に着くだけで灼けた鉄泥を踏む思い。
ましてや戸など腫れ上がった手では開けようもなく、もつれころがるようにぶつかれば、戸板ごと二人中へと倒れ込んだ。そのまましばらくは身動きもならなかった。
土の床だがよく盛り上げて踏み固めてあるのか、すっかり乾いて風がないだけ温かい。火を焚くのはさすがに煙を見とがめられるおそれがあるからまずかろうが、人目も惹かぬと思えば心底ほっとした。
本当にそうだろうか。荒らいだ息が整うとともに不安が湧いた。
この小屋は道に近すぎる。追っ手が気づけば捕まりかねぬ。根津丸は段々畑を睨んだ。その下の谷川にかかる橋は丸木を数本渡しただけのものだ。
蔓橋ならば、叩き壊してでも道を絶とうものを、丸木橋ではそうもいかぬ。いずれにせよこの動かぬ身ではなんともできまいか。
いや。一つだけ手はある。
根津丸は雨に凍えてかたかた鳴る歯に震える指を近づけた。
茸の毒で異様に赤黒く脹れあがった指先は、吐息が触れるだけで火花が散るかと思われた。歯が触れれば蒼白な頬どころか脳天まで血の気が引いた。
それでも動かぬ指を噛み、無理に鬼手に結び妖を橋へと走らせば。
爪の残影一閃、二閃。
縄もろともに断ち切れて、丸木のなれの果てばらばら流れゆく。
見送って、ようやく根津丸は長々と息を吐き出した。
橋流れては、追っ手が渡るもなかなかかなうまい。これで少しは時を稼ぎうるかと。
「のう、婆よい。ほんまにこっちでええのんか」
「まちがいないわ。こっちの方に走ってゆくのんを見たでな」
奇妙な一行が春雨やまぬ山道を下ってゆく。
竹鞭腰に差し、短刀を懐に呑んだ屈強な馬追どもに、鍬を担ぎ鎌を背にさすのは近くの邑人か。
皆が馬上の真中に、このあたりの長老らしき古老が一人、馬追に後ろから支えられて乗っている。その隣の馬にはてんと構える茶屋の婆。
なんとこの婆は、茂みに隠れ怪しい二人連れが逃げ出すを確かめてから、よちよちと馬追どもの後を追っかけて助けを呼んだという。
なんとも根性が据わっているがそれも当然といえよう。物騒な近京のわたり、このように人里離れた峠の茶屋を九十九髪になるまで一人馬追どもの相手をして暮らしているのだから。
「そんでも婆が毒蕈喰らわせたんじゃお手柄じゃの」
それには邑人たちも一斉にうなずいた。
炎の揺らぎか目の間違いか、囲炉裏の影がうねうねと蠢いていたと出立の馬追に囁かれ。こっそり馬間に回ってみれば、粗末な洗い轡の裸馬、わずかに二頭だけ鞍置いてあったという。
金焼(烙印)を確かめれば売られた証の消し金がない。これはとたまたま山畑を荒らす猿や猪を追うに、山の獣が好むとかいう濃味で煮立ててあった毒蕈をば供したと聞いた時にはさすがの馬追の荒くれどもも肝を潰した。
近隣の山畑に泊まりがけで来ていた邑人たちを加勢に頼み、話をしたところ、古老が蠢く影は妖使いの証じゃと見破った。
妖使いが並の馬追をするわけがない。よもや、あの緒宇摩が馬盗人ではあるまいか。色めき立った一同はてんでに棒やら縄やら持って、追いかけることにしたという次第。
「いくら茶屋の婆がうまく毒喰わしたというても妖使い、油断は禁物じゃ」
ふがふがとそういう古老の歯抜け声が真っ先に震えている。
蕈の毒が回れば指は腫れ上がり、いかなる手妻がいるかは知らねども、妖使うにも難渋するに違いないとは言いながら、なおも先頭を固辞する臆病な老人をしかし馬追どもも笑えぬ。
「妖使いと言うがよう、妖ちゅうんはどんな姿じゃかも知らんしな」
「おなごがいたというがそれが妖ではなかろか」
「ばか」
やりとりとは裏腹に真剣な顔、所々で先を行く者が馬から下りて地を睨んだ。道具こそ畑仕事のものしかないが、雪融けきらぬ初春には、高山に分け入って熊をも狩ろう猛者たちだ。獣の痕を読むことには長けている。
斜めに小径に走り込む蹄の跡、まともに考えればこのような細い山道を馬で逃げるのは得策ではないのだが。
笠をはねのければ、異教の燭台のように膨らむ辛夷の蕾でおさまりかけた薄鼠色の雨は明るい。
そのせいか、道の彼方に妙なものを見つけた。
近寄れば、包み布のほどけてちりぢり栃団子。取り落としたなら拾いもしよう、拾えもせぬは蕈の毒が回った馬盗人らの落とし物か。
勢い込み、先を争う目にまたもや妙なものが留まった。
「おい」
「のあ」
道の側を流れる谷川が岸にかかるはまことに奇妙。
指さすものを得物を使って器用に拾い上げ。思わず同じ表情を浮かべた。
「なんだ、これは」
磨き抜かれたような断面の丸木の輪切りである。
雨で水嵩が増し丸木の橋が流れるのはままあることである。縄がぷっつりと切れるのも、まあ手入れが不十分ならありうることだろう。
だがこのような、いかなる刃物を使ったかわからぬほど滑らかな丸太の輪切りなど見たことがない。
見合わせた顔は強張っていた。
谷川べりから目を上げれば。蕎麦に粟、荏草に大豆、蕪大根。山畑のひろがり、はるかかなたに小屋一つ。
種蒔きには泊まり込むこともある小屋のその戸板は外れ、心張り棒がだらしなく放り出されて雨に打たれていた。
近づき見回せば泥の底に草履跡。車軸を流すような雨の後、いまだ残るはつけて間がない証。
「こりゃぁ…」
一同は声をひそめて動き出した。
怖さは怖し、しぜん得物を握る手に汗と力がこもる。だがいずれにしても多勢に無勢、緒宇摩の殿さまより褒賞も出るとあれば、一働きの価値はある。
急ぎ縄張り境木倒し、葉つきのままに渡した瞬間。
小屋が爆発した。
「ふひえぇぇ」
真先に古老が肝を潰した。
備中鍬に葉絡鋸 、手鉤鉞包丁木椀。
ぐわらぐわらと飛んでくる、山仕事用の重い道具をかるがる飛礫のように投げつけてくるかと、追う勢いも消し飛び荒くれ馬追さえも肝を潰してうずくまる。
雨の中にも灰神楽だか塵埃か、もうもうと舞い上がるのをつっきって飛び出してきた木橇が丸木と衝突しへし折るのを婆は見た。
野良が昼餉の支度のために置いてあったと思しき鍋釜一つ二つ、かんからと転げてゆくのをやりすごし。
おそるおそる邑人たちが頭を上げた時には、小屋はまったく四方に潰れきっていた。
求める相手は如何にと見れば、曖昧とけぶった靄の向こうによろめきよろめき畠端の笹群さしてゆらめく影二つ。
「やらせな」
男達はおのれらを鼓舞するように声を上げた。
もはや橋など渡しているいとまはない。足に自信のある者は、狭い山道谷まで下がり、はずみをつけて蛙のように四つん這いに飛び移った。深い谷川じりじり下がり、ころあい見計らって逆の絶壁に飛び移る者、まったく自信のないものは、谷川の底まで降りて大岩伝いに這い上がる。
見上げれば、段々畑の中腹に、貼りつくように男女の姿。男の朽木色の袴は落ち葉と若葉まじりの野辺には保護色となるが、まとう闇と妖気はあまりに異質でありすぎた。
追い来る細道山畑のつね、棚田のあいまを斜めにうねくり曲がれば追う声も離れては近づく。
斜面に拾った石を積み、畦を練って田畑を成したはおのれらだ。水利の悪い山上まで、水を運ぶ労苦を思えば他人の畑とて踏み荒らすには気が引ける。あぜ道を行こうとするほどには。
遠慮斟酌ないままに、さみどりの新芽もくろぐろとした畔土ももののかは、蹴りたて斜面を這い上るは土を耕すことも知らぬ道々の者ら。
死にものぐるいの四つん這い、すっかり蕈の毒が周ったか、小気味いいほどきゅっと引き締まっていた女のくるぶしは、ふくらはぎどころか太股より太いほどに赤黒く腫れ上がり、立つもままならぬのか、ずるずる畑を這い上る。
業を煮やした馬追らも畑に入って追いかける。耕した土はぬくく軟らかく、すぼりすぼりと足をとられて追いつくよりも早く。
畑端の急斜にとりついたは、男女が先。雨霧にけぶって枯れた芒に笹の葉混じり、みるみる血の筋手足に浮かぶも構わず這い行くは。
「待て、そっちは――!」
ようやく気を取り直した邑人が声を上げる間もなく。
ひともと山桜の若木の根元、前触れもなく霞む笹波に二人の姿が呑まれた。
「根津丸!」
茜の叫び声に、ぎちりと幹の削れて驚くほど強く桜が香った。
耕せば天に至るとかいう段々畑は山々すべてを切りひらくわけではない。周囲の木々を必ず残して拓かれる。
それが山崩れをも防ぐ手立てであると知らず、倒れ込んだ先はただ虚空。一寸先は白き闇。隠していたは谷より立ち上る濃霧と知ったは足元がなくなってのこと。
咄嗟に飛ばすは手練の茜蔓。二つに切られた髪縄を、右手は山桜に、左は袖ごと根津丸の胴に絡ませ。かろうじて二人の墜落を免れたとはいうものの。
山崩れの間際、若木とあっては花の色さしのぞく梢さえ頼りなくゆらゆら揺れる。
額に汗を滲ませる茜に根津丸は淡々とした声音で囁いた。
「茜。髪縄を解け」
茜の汗は冷や汗にあらず。両腕に巻いた細縄に二人の重みがかかっているのだ。みるみるうちに血の気が失せ死人の肌のような沈んだ色あいに変わる苦痛をこらえる脂汗。
「俺のこの指ではすでに鬼手も利かぬ。妖はもはや使えぬ。二人共倒れになるよりおのれの身を図れ」
その声音こそは穏やかに、すべてを諦悟したようにすら思えよう。
だが、その身に今も貼りつく妖の目こそはいよよ血色に輝いていた。
実際根津丸は言うくらいならば己の舌を噛みきりたいほどどろりと憤激を燃やしていた。
とうとう己の力では何も果たし得なかったことを認める屈辱の敗北宣言など、己だけなら死んでも吐かぬ。だが、己の不始末に巻き添えをつくりたくはない。
応えず茜の呻くと同瞬。イヤな音がして不意に二人の体が三寸ほど沈んだ。
見上ぐれば、異様なほど茜のその右腕が長く見える。肩が外れたのだ。
「早く髪縄を解け。これ以上はお前が耐えきれぬ」
聞こえるのは、はっはっという茜の荒い息ばかり。
もは苦痛に声も出ぬのか。
根津丸はそろりと懐の小刀を握ろうとした。もはや根津丸の腕も付け根か手首かわからぬほどに腫れ、痛みの塊である。下手な動きをしようものなら、根の浮いた木がいつ耐えきれなくなってもおかしくはない。
だが、その時。根津丸の胴に茜が足を絡ませた。
「茜」
「アタシはやだってさ。根津丸とじゃなきゃいやだってさ。自分だけ助かったって何が嬉しいもんか」
四肢は毒と重みで変色し、椿の蕾のような唇からは、苦痛にかみ切ったのか、いつのまにか血の二筋三筋。脂汗したたるかんばせに、だが茜は笑みを浮かべてみせた。
「根津丸は、アタシのもんなんだから、アタシの好きなようにする。死のうたってそうそうたやすく死なせるもんか」
口にした言葉に茜の心は定まった。さんざん持ち上げようとも猿女のわざを使おうとも根津丸が無表情なのは妖使いゆえとは知りつつも。
それが嫉妬を口にし、己を捨てても助けようと案じるようになったと知れば。情には情で応えるのが猿女の性というもの。
「茜」
まぐあうごとくにねっとりと足を絡めば、濡れそぼった衣はべったり張りついて、強く巻き付けられた豊満な肉のあわいから茜の匂いが移り来った。
毒のせいか、それは驚くほど熱かった。
「さ、早く。アタシの身体を伝って根津丸が上れば、のぞき込んでる連中が引き揚げてくれるさ。したら、逃げよ、ね」
低い囁きに頷こうとした根津丸がはっと目を見開く。
浮いた根っこがずるりと抜け、とうとう真逆様に木が二人の頭上に降ってきたのだ。
茜の悲鳴が山肌に撥ね、はたと消え。
あとにはただ、霧がうずまくばかり。




