祈願
本日も拙作をお読み頂きまして、ありがとうございます。
口と手を漱ぎ、簡単な禊ぎとなして。
轟天丸はお堂といった方が似つかわしいようなちんまりした鎮守の本殿に向かい、まじめくさった顔で柏手を打った。
そのような表情をすると、あのふてぶてしい野太さは片鱗も見えず。呪歌というわざの持ち主にふさわしく見えなくもない。
すべての動作がゆるゆるともったいぶっているのは、背後の邑人たちの眼があるからだ。
すでに、呪歌詠みは始まっている。
願いや祈りとは、向けられる存在が示されることで収束する人の心の力。
相手がありがたいほど、よく集まるものだ。
呪歌詠みも同じこと。ある程度儀式ばらねば信頼されぬ。信頼されねば始まらぬ。要はハッタリが効くか効かぬかが分かれ目だ。
もともと、「うた」とは呪術的な色合いの強きもの。
韻と律をあわせもつ言の葉を綾織って、人の心、すなわち「想い」をたねとして、喜怒哀楽の感情をゆさぶる。
願いや祈りといった強い思いを純化し、収束させることで威力を高め、天地に満ちみてる万象の気にはたらきかける。
呪歌とは、その「うた」の力をさらに強めるものであった。
言霊を統べ、韻と律とをあわせもった言葉に二重三重に意味をとりこめて。
物事を関わりのしがらみにからませ、それを特定の発声によって天地をも動かす力に具現するため。
呪歌師は、しつらえたれた三宝より神弓を取り上げると、四方に向かって絃を鳴らした。
邪を祓い、場を清めるためという一応の理屈がついてはいるが、実際のところは神も仏も祖先への礼も渾然一体。
ありがたければ、それでいいのだ。
しんと静まり返った邑人たちを振り返り、呪歌師はびんと声を張った。
「一段高きところからもの申すは憚りあれど、この呪歌詠みが痩せ身を振りしぼりて方々の願いを上げまする。願いはきっと成就なりまする…………お力合わせのほどおんよろしくお願い申しあげん」
一礼のあと、しずしずと人の輪の真ん中に鎮足ですり入ると、呪歌師はぐるりを見渡した。
期待に満ちた邑人たちの顔、顔、顔。願いの立ち上る場は仕上がった。
よしよしと轟天丸は腹の中でにんまりした。ハッタリは張れば張るだけ真実に変わる。馬の暴走を止めたは思わぬ余禄になった。
「方々願いを申し賜え、申し賜え。満願成就は間違いなしぞ」
蝙蝠扇をすらりと抜いた呪歌詠みは、声を凛と張った。
呪歌を詠むには、祭は絶好の場だ。
人が集まるからだけではない。祭そのものが感謝の思いと祈願に満ち満ちているからだ。
呪歌の験力は呪歌詠みの才ばかりでなく、願いの量と質でも変化する。
一月もの日照りの後の、せっぱ詰まった雨乞いならば、実はどんな案山子呪歌師にでも、必ずある程度は雨降らしうる。
強く一つに結びついている邑一つ分の思いが集まれば、たいていの雨乞いや雨止みほどなら一日にしてかなおう。
逆に、人一人の思いほどでは、さこそ呪歌師でもなきかぎり、草葉もゆらがぬのが当たり前。
そして、このような公の場で集められる願いは、当然邑全体の福を招来するものとなる。
一月もたたぬうちに始まる馬の産が軽くすむように。
子馬が良く育つように。
去年生まれた若駒が高く売れるように。
母馬が良く孕むように。
この邑が富むように。
この邑が繁栄するように。
ばらばらな思いを願いにまとめあげるがために整えられた場に、願いが熱気となってたちのぼりはじめた。
それを効率よく遍く天地を振るわせる力と変えるのは、歌の出来。
「よき馬を」
「馬を」
「うまを」
「馬恵ませたまへ」
「よき馬を得させたまへ」
邑人からぽつぽつ起こる神下ろしの声。
「願いを上ぐるにまだ足らぬ。まだ足りぬ」
轟天丸はなおも煽り立てた。
願いをどれだけ強く結びつけ、一つの祈りの形にきりきりと純化してことができるかもまた、呪歌師の腕の見せ所。
『天地を感じ、天地を知り、天地とともに揺れることができて初めて天地を動かすことができる』という奥義の域に達するがためには、人だけでなく天地をも共振によって揺るがすほどの歌の才と、人々の祈願の高まりを感じ取りその願いをとりまとめる力が必要。
人の心を知らずして、人の願いを知ることができようか。
人を感じさせることなくして、天を動かすことはかなおうか。
心と力と技と。どれが欠けてもいけない。それが呪歌師という存在である。
「良き馬をめぐませたまへ」
「めぐませたまへ」
応じてさらに民から熱をはらんで声がたちのぼる。このかけあいもまた、言霊が籠もった呪歌の一部。
「良き馬の子が生まれるようにお願い申しあげます」
「お願い申しあげます」
「お願いもうしあげます」
息が揃ったころあいを見て、呪歌師は扇を天に掲げた。
「方々、ご唱和くださりませ」
一呼吸置いて、呪歌を発する。
『緒宇摩 の邑に良き駒を』
ぱちり、と呪歌師は扇を広げた。
あの、馬を止めた白扇である。
『緒宇摩の邑に良き駒を馬頭観音恵ませたまへ』
一度、朗々と吟じた呪歌詠みは、ゆっくりと舞い始めた。
巨大な扇は、もともとは詠じた歌をその場で書きつけて周囲に示すためのものであった。
転じて、未熟な呪歌詠みは舞うことによって祈願を高めるようになった。それが邑々をめぐる呪歌師に広まってすでに久しい。
それに対し、都の歌詠みは、詠じつつ舞うことを下司のまねとて忌み嫌う。
しかし、邑の民相手に格式豊かにしずしずと祈ったところで、どれだけの生の感情がわきおこるものだろうか。
舞うほどに、詠じるほどに、願いの力は地に満ち充てる。
地に足を擦りつける鎮足から次第に踏みならしつつあった足の音も、土に響くとは思えぬほどに高い。
跳ね足、翔足、四方八方飛びに飛ぶ。
力のこもった手足のさきから汗が散る。
かざした扇が巨大な白蝶のようにへんぺんとひるがえる。
舞いながら吟じ、吟じながら舞うその姿にひきこまれたか。次第に邑人たちも手足おのずから動き、呪歌師をとりまくように踊り始めた。
『しるせしたまへ』
「しるせしたまへ」
『めぐませたまへ』
「めぐませたまへ」
轟天丸の声に邑人達が唱和する。
その様子は近年流行りだした踊り念仏にも似て。
されど武家屋敷の庭先などを借り、僧も尼僧も武士も一つ輪に入って踊るだけのものと明らかに違う。
踊りは踊り念仏の方がよほどに激しい。なかば絶叫するように経を唱えつつ、烏帽子も飛ぶほどに頭をぶんぶんと振り回す。脛どころかふとももの上まで見えるほどにはしたなくも裾を短くたくしあげ、足は跳ね上げ、地を踏み鳴らす。
しかし、それは読経の声に酔うだけのものでしかない。
あるのは宗教的法悦と渾然一体の憂さ晴らし。
衆生のこころは広められた仏の教えを受け入れるというよりむしろ、娯楽として踊り念仏を捉えていたのであった。
ただの不満の発散方法としての踊り念仏から「踊り」をいち早く取り入れ、祈願のエネルギーを高めるのに使ったのは、この地下なる呪歌師たちである。
「『緒宇摩 の邑に良き駒の』ソリャッ」
かけ声まじりの呪歌に煽られて、唱和する声も急調子になってゆく。
「緒宇摩 の邑に良き駒の」
「良き駒の」
『良き駒の生まれて今日は祝いなり』ッホッ」
「良き駒の生まれて今日は祝いなり」
「祝いなり」
『祝いなり馬頭観音恵ませたまへり』ッセヤッ」
「馬頭観音恵ませたまへり」
「恵ませたまへり」
『恵ませたまへや』
「しるせしたまへや」
『恵ませたまへや』
「しるせしたまへや」
『恵ませたまへや良き駒を』
「良き駒を」
『良き駒を馬頭観音緒宇摩の邑へ』
「うらが邑へ」
かけあいのうちに、呪歌は姿を変える。
それは舞とて同じこと。
詠じつつ轟天丸は人の輪の隅から隅まで激しく跳ねまわった。
我の中心から人々の中に混じり、飛び出ては戻り、また両足を揃えてはとんととんぼをきる。
もはやそれは定められた所作を舞っているのではない。不定型な踊りはすべてが破調に変わってゆく。
ひたすら邑人を煽り、煽り、煽り、願いを最後の一滴まできりきりと搾り取るため、轟天丸はなおも踊る、踊る、踊る。
それにつれて祈りが高まる。唱える声もどんどんと急調子に。もはやなんと言っているのかもわからぬほど。
言葉も為さぬ叫びに天も地も奮へ山々さえも激しくどよもして。
それが最高潮に達したとき、だだっと轟天丸は狂ったように本殿の前に駆け寄った。
そこに備えられていた真木矢をつがえるや否や、神弓をばきりきりと月の如くひきしぼりひょうど空に放つ。
るーるーと鏑矢が、鶴のように鳴きながら昇ってゆく。
その音に。
はっと、我に返った邑人たちが空を仰いだ。
汗みずくの視界に誰もがみな、矢を追って宙に駆け行く、巨大なすきとおった若駒を観たように思った。
祈願は天に届いた。そう、誰もが確信した。