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無明抄  作者: 輪形月
第四章

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春雷

本日も拙作をお読み頂きましてありがとうございます。

 春雷が遠くで鳴った。

 山なみを濡らす雨帳(あまとばり)の裾がみるみる峠へと迫ってきた。

 追われるように二人の旅人が馬連れで慌てて飛び込んだ。

 閃く雷光に「むらさめの」と軒先に吊した古笠の文字が浮かび上がる。

 わずかな間だけ酔いをもたらす薄糟酒などを商うところから古歌の一節を踏まえ、俗に「露ノ屋」と呼ぶ峠茶屋は先を急ぐ馬追らを考えてのことだろう、一歩踏み込めば暗い馬土間は広く、屋根の下に入れるようになっている。

 茶屋ながらも曲屋仕立て、牛馬も家裡で暮らす土地柄ならではの構えである。

 旅人の一人が濡れた手足を手早く拭うと、背から湯気が立つ馬の群れをかきわけかきわけ囲炉裏間へと向かった。

 もう一人は戸口に立ったまま、しばし黙然(もくねん)と外を見ていた。


 雨雲は東海街道すらすっぽりと覆い尽くし、彼方の盆地を見やれば、綿を盛ったように茫々漠々、溢れるは雲か霞か。

 うっすらと淡紅に染まっているあたりは遅い山桜かとも思われる。

 関山峠を越えゆけど、春の長雨は当分切れそうにもないと見極めたか。

 男はむっつりと手拭いを取り出し、山風に真横へ雨に叩かれて濡れそぼった身体を拭き始めた。


 土に汚してはあるが細い鼻梁の月光を菩薩に固めたような顔立ちは端正である。ただふとした仕草にほのかにまつわりつく妖気のようなものに、懐のあわいの闇に瞬く赤い眼ふたつ。

 無感動な切れ長の目の主は根津丸であった。

 もっとも風体はもはや馬追のそれ。

 雛僧頭も、偽髷乗せて上からちりよけに布をぐるぐるまき固めてあれば、なかなかにあれが緒宇摩の馬盗人の雛僧とはそうそう見破ることもできまい。

どこにあるやら、ひえびえとした沈丁花の香りが茶屋の中まで漂いくるのがカンに障ったか、背後から聞こえてくる声に堪忍袋の緒が切れたか。

 鼻を皺めた根津丸が振り向くより先、馬どもが怯えたようにおのずから道をあけた。


 妖使いの不吉な影を隠すには、雨は都合がよいものではある。

 だが、山肌すら見えなくなりゆくこの雨脚の強さでは、山道は思うようにははかどらぬ。

 一刻も早く早く高砂へ辿り着かねばならぬというに、気ばかりがひどく焦る。

 吹雪と選ぶことなき雨の冷たさに濡れ凍えるせいもあったが、なにより根津丸が不機嫌なのは連れのせいであった。


 馬土間から板の間へは草鞋のまま上がれるようになっていて、囲炉裏に背を炙らせ押し合いへし合い、男達が板の間へ草鞋を投げ出してなにやらかっこんでいる。

 暗い家の中、火のある囲炉裏端だけが明るく、そこにたむろした馬追達の中に紅一点。

 根津丸が視線にも気づかぬそぶり、愛想良く良い場所を譲ってもらったか、濡れた衣がぴったりと張りついて茜の身体の線が丸見えなのが遠目にもよく分かる。

 そこへものも言わず踏み込んだ根津丸が当然のように茜の隣へと割り込む。隣の馬追らしき男がむっとした顔で睨もうとしたその時。


 囲炉裏の炎が大きさは変わらねど、周りがずうんと沈んで冷えた。 


 男達は一斉にキナくさげな顔になった。新入りを見定めんとするよりは怯えも滲む。怯えは自ずから敵意へと代わる。

 同業らしき姿をしているが挨拶もなし、馬追の荒くれとは思えぬ繊弱なおもてのくせに、険悪になりかけた雰囲気にも微塵揺るぎもしない横顔がいっそ薄気味悪く思われて。


「ささ、兄さんたちもお茶もう一杯いかが」

 甘い香りは熊笹茶であるらしい。茜が笑顔で急須を手に取った。ここで怪しまれては困るのだ。

 だが胸突きだして媚びを売れば売るほど、根津丸の不機嫌は加速する。茜の姿態に目もくれず無言で座を占めているだけなのだが、鉛と化した空気に馬追たちも口を開けぬ。

 とうとう鉄瓶の湯がなくなったのをしおに、男どもは雨やみを待たずぞろぞろと馬をまとめて茶屋を出た。

 後に残るはわずかに五頭ばかり、急にがらんとした馬の間は静かである。

「おや、おまんたらは発たぬのかえ」

 茶請けを運んできた婆がきょろりと二人を見比べた。

馬追は五六人の集団で数十頭の馬を追い追い移動するのが常道だ。

 たかだか五頭ばかりの馬を追い、それを巻髪の物売り女が手伝うとは奇妙も奇妙。

 馬飼の夫婦者ならさもあるかとも思われるが、それにしてはえらく若い女は所帯やつれもしておらず、妙に色気もありすぎる。

「あいな、雨が上がりきってからゆるりといこうとねぇ」

「今日は夜までこんなだや」

 この時期の雨は一度降りはじめると四五日は止まぬことも珍しくはない。それを知らぬとは。

「おまんたら、このあたりは」

「あいな、不案内でよ」

 愛想良く受けるも、それ以上詮索されるを嫌うように茜が銭を数枚取り出した。

 むっつりむっつり茶を啜る根津丸は無言のままである。

「婆、屯食(とんじき)(握り飯)(こしら)えてくりょ。それと腹にも入れたいで、何でもいい、つくろってくりょ」

「はいはいなぁ」

 銭に皺をゆるませた婆がよちよちと去ってゆくのを見届けて、茜はくねりと寄り添った。根津丸の指に己の指を絡ませ、小さく叩くように動かす。

 道々の者に伝わる指文字だ。


『もうちと愛想よくせんと。怪しまれとるわ』

『これが地だ』

 そう返したっきり、そっぽを向いてしまった根津丸の腿に茜の手がかかった。

 そこで指を意味ありげに動かすは猿女の技の下の下である。身をもたせかけ、羽毛で耳をくすぐるようにそろりと絶妙な重みをかけるが神髄、頑な思いのとろけるのを待てば、やがて向こうから折れてくる。


『横目を使うな』

『どうして?』

 横目を使わぬ猿女などあるものではない。答えを知りつつ見上げれば。

「おれがいやなんだ」

思った通り。ぼそりと根津丸が呟いた。


 茜は笑った。しょうもないだだも、じつにかわゆらしい。淡々とした口調ながらも焼餅を妬くほどには、ようよう根津丸の心を取ることができたかと思えば。

 なだめるように指からませていれば婆が盆を運んできた。

「煮〆でも食べたんせ」

 でんと置かれた無骨な重箱を並べれば、薄暗い茶屋のすすけた天井の低い裡はひどくあいまいで、盛られたものはいずれも深々と田舎仕立てのたまりかアクの色に染まり、ただただ真っ黒い塊である。

 湯気だけがほかほかとうまげな臭いを鼻まで立ち上らせた。

 口に入れれば二度芋と(きのこ)の煮物、蒟蒻(こんにゃく)(わらび)(ぜんまい)(たけのこ)(ふき)

 去年の春に採ったものだろう、やや小振りな椀は蜂の子の蜜漬けか。

 渡した銭には多すぎるほどの料理の数々に、夢中で二人は腹を満たした。

 春雨とはいえ身は冷えている。空きっ腹に温かい煮物は何よりの馳走だ。


 あらかた腹におさめ、塩漬け馬肉と青菜の味噌汁を飲みきった根津丸が不意に首を彼方へ向けた。

「根津丸、どうしたってのさ」

「気配が消えた」

 短く答えて飛び込む竈場、その奥には、さっきまでいた婆の姿はない。ただ裏口だけが開け放しになっていた。

 二人は顔を見合わせた。


 婆が逃げ出したは怪しんだためであろう。助っ人呼ばれて追われては、多勢に無勢。

「逃げるぞ」

「なら、その前に」

 手近に見えるは冬蓄えの残りであろう栃餅に、蝗の佃煮蚕の煮物。手早く朴葉で包み込み、土砂降りの中、根津丸が牽きだした馬の片方に茜も飛び乗れば。

 ばっと走り出した勢いに、ひなびた風情の紅椿が中有に舞った。

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