謀疑
本日も拙作をお読み頂きましてありがとうございます。
春とはいえ、山中、しかも谷あいにあっては暮れるも早い。
雀色も瞬時に変じ、日没も過ぎなば己が身さえ輪郭を失うほどにとろりとした濃い闇がまつわりつく。
火の色が遠目に付かぬよう、選んだ宿りの場ですら、さらに石で囲んだ火の光の向こうは、木々も岩根もみな黒々とした影の塊。
だが、爛漫と開く辛夷の白い花さえ見えぬ、暮色蒼然たる山の風情にもののあはれを感ずるよりも、足元からそくそくと立ち上る寒気と夕餉の支度が喫緊を要す。
「うむ、たらの芽はこれだけあればよいか」
「笹の巻葉の芯抜いてもアクがございませぬが。まだ老葉ばかりでございますな。根曲がり竹も採るには早うございます」
「笹葉の芯なぞ何に使うのだ」
「えごみがほとんどないのでな。巻葉は筍より柔らかく、火を通さなんでも旨い」
「……ほぉ、そいつは初めて知った」
轟天丸は半ば呆れながら火に粗朶をくべていた。それくらいしかできぬほどの二人の手際のよさである。
蕨や薇はうまいが、あくを抜かねば食べられぬ。手間をかけずに夕餉の支度をするには、いきおいあくの少ない山の菜を捜すしかないのだが。
木天蓼に藤の若芽、棘細枝から野茨の葉を欠き、ふいとしゃがめばこごみの群れと花筏。名は体を表すらしき破傘、春といえども紅葉傘。
右近が歩きながらも目敏く摘みためていたそれらの山菜と一握りの干飯を取り出し、沢の水とあわせてそれぞれ幅の広い朴葉に包み、焼石で蒸せばたちまち野趣ある菜飯ができあがる。
望輝はといえば、さらにその上をいくのだからおそれいる。
京に上り、典薬寮別曹で本草学を修めた文人であるとはいうが。
旅に日を暮らす轟天丸どころか山育ちの右近さえ息を切らすほど、沢なりに下っていく道をはやばやと歩くその足づよさ。右近の師匠だという印地打ちの腕前も学究肌の人とは思えぬ。
椿の花蜜吸って、花粉で鼻先を黄色く染めた栗鼠。
まだ枯れ色の濃い藪から走り出た、白い冬毛の抜けきらぬ兎。
的には小さく、鹿や狸よりも捕まえにくい小獲物をまったく歩調も変えぬまま、道々飛礫で気絶させて手足を縛っておいたものを、水場まで来て次々ひねり小刀一本でそりそりと器用に皮を剥いている。
かくしから取り出した塩をふり、栗鼠は椿の花で蒸し焼きに。沢の芹を詰めた兎は丸焼きに。くるくると熊笹の葉を巻いた器に盛りつけるも瞬く間の早業だ。
塩竃という呼び名からもわかるよう、岩塩塩湯を産する緒宇摩の所領に縁は深いが訳あって、草木鉱石探して諸国を歩き、山々を巡っていたというだけのことはある。
十有余年も緒宇摩を離れ、年に一二度しか顔を見せぬのも、ぱったり五年も絶えていたゆえ。
「まさかにかようなところでお会い申すとは思いませなんだが、なにゆえに」
手と口を忙しく動かしながら右近の問えば。
鉱脈をたどって山を歩くうち、いつしか緒宇摩近くまで戻っていたとという。
獣の近づく気配には存分に配慮していたのだが、足元が地面ごと流れるとは思わず。地滑りのてっぺんに乗ったまま谷底へ転げ落ちたと知った時には、なんと仔熊と顔つきあわせておったわと苦笑するさまは存外肝太く見ゆる。
「かほど突然でくわしたのでなくばな。嵐のにおいを嗅ぎ、熊どのから避けてくれるはずだったのだがの」
「嵐?」
「こやつの名だ」
もぞもぞ動くおのが懐を指し示す。
肉の焼ける臭いにすぽりと顔を出し、鼻を鳴らす姿こそ愛らしいが。
「山犬の仔ではないか」
一目で見抜いた轟天は目を剥いた。山犬は群れなすいみじき獣。熊さえ苦戦をするというその仔など、なまなかなことで手に入るものではない。
「山人よりもろうた。邪を祓うというてな」
「山人だと?」
飄々と言うさまに一瞬轟天の目がつよく光った。
「まあ、儂の話はさておいて……」
望輝は素知らぬふりで右近を見返した。
「此度はおぬしらがことじゃ。聞かせてもらおう。右近よ」
「は」
「なにゆえおぬしがここにおる。嫁入り前の娘が男と二人でかような人目もないところを歩いておっては欠け落ちと思われてもしかたがないぞ」
説教ではない。一瞬右近もいずまいを正したものの。楽しげな話は聞かいでおれぬと、笑みを浮かべた叔父の顔には苦笑した。
「これはしたり。いずれの辺りまで聞いておられます」
「そうさな、車返の山のくち坂辺りまで、そなたの高砂への嫁入りの話は聞こえておったわ」
わざと問いの中身を取り違えてみせるのも、叔父姪の戯れあいか。
「ではわたくしが拐かされたという話は?」
「ほう?」
実になんともおもしろそうな顔で望輝は隣の男を見た。
当人は気まずそうに横を向いている。
「なんでも馬盗みのついでに我を引き攫うつもりであったとか」
「おとなしく盗まれるような性ではないことも知らなんだと?」
迂闊よの、と大笑いする望輝に、右近も笑みを返した。
「だがこれは奇貨とするべきかと。我は、このままこやつに引き攫われまする」
「ほお」
望輝は片眉をつりあげた。
「攫われてどうする」
「この者らの頭領と手を組み、敢えて父上に叛きまする」
「「はっ?!」」
隈笹の葉を丸めて作った盃に焼いた小石を入れ、湯にして飲んでいた轟天丸が思い切りむせかえった。
望輝が取り落とした兎の肉に仔山犬が飛びついたが、誰も見向きもしなかった。
「ばっ…!なにょ言いやがる」
「当然であろう、緒宇摩をさんざんひっかきまわしてくれたのだから。そのくらいは我のため、とっくり働いてもらわねばな」
「……あああああ。長に話ってなそういうことかよ」
唸るしかない。
おのれのふとした悪戯ごころで、観月の輩すべてをえらいことにひきずりこんでしまったと、さすがの轟天丸も頭を抱え込む。
「安心せい」
「できるかこの猪娘!」
「誰が猪娘じゃ」
右近は半眼で轟天丸の鼻をねじりあげた。
「いだいだいだいだ」
「よいから落ち着け。かわりと言うてはなんだが、観月の者にも悪いようにはせぬ。むしろ儲けになることだ」
「なんじゃそりゃ」
手を振りはなした男にしれりとかえす。
「おぬしには言わぬさ」
「なんでだよ」
「観月の長にこそ話さねばならぬことであって、おぬしに話すと約したことではないからさ。言い置いておくが、賭けの料にもせぬぞ」
轟天丸がむっつり黙るを尻目に、望輝は身を乗り出した。
「観月の衆をまきこむ策とはな。わかる気もする」
「とは叔父上」
「わしにも策があってな。おぬしの策と見せ合うか」
「おもしろうござります」
にやりと笑うと、この息の合った叔父と姪は炭になった燃えさしをとった。
同時に見せ合った左掌にはいずれも「馬」の一文字。
ともに呵々大笑ののち、それをゆっくり納めた望輝は真顔になった。
「だが、これならば今からでも緒宇摩に帰ればすむことではないか。おぬしなら兄上に進言することはできように、それをなにゆえ婚儀を潰し邑を割る」
「は…」
ためらった挙げ句、右近は轟天丸に笑いの失せた眼を向けた。
「かばかりは聞くなと言うても聞くであろうな」
轟天丸は野太い笑みを浮かべた。
「今聞かいでも。いづれはとっくり聞かしてもらおう話でないか。ならば今聞かぬという法はないな」
確かに、知ること全て語ると言ったのは右近である。未だ果たされぬ賭けの条件ではあるが。
「猫のように好奇心の強い男じゃの…」
「賭けなら果たすぞ。必ずな」
「当たり前なことを胸張って言うではない」
じろりと見やった右近はちいさがたなの柄に手を掛けた。
「館に火をかけ、馬を盗ませ、我が乳姉妹の檀を当て落とし、我にも一撃喰らわしておいて、無理などと言うてみよ。この場で手討ちにしてくれるわ」
本当にやりかねぬ姫君だから怖い。
「なれど、確かにおぬしも聞くべきことではあるな。話してもよいが、生涯他言無用を誓約せよ」
「今さらなことを言うでないか」
「それだけ根の深いことではある」
そう返した右近はがらりと表情をあらためた。
「屋敷の裏山、五年ほど前より桜が見事に咲くようになりましてござりまする」
怪訝に轟天丸は右近を見た。
「だからなんだ」
「おぬしも見たであろう、あの山を」
確かに見た。残雪に覆われてはいても急峻な姿が人をよせつけぬ。禁足地を思わせるたたずまいにいみじく天狗桜の生え満ちて。
陽の差す具合か、ただ中腹のひとところだけ先んじるように綻んでいたが。
色濃き蕾と唐紅の雲の相混じったさまはどこか禍々しいほどの威容を誇る。
「あの山は岩山じゃ。大岩に囲まれて、獄がわりに使われておる窟は数多あれども、土壌は薄い。精の強い松の類はまだしも、桜など生えるわけもない。大木は育たぬ。だのになぜ、あそこまで多くの桜が育つと思う」
決まっている。根を張り、花芽吹かせるに足る、土となりこやしとなるものがあったからだ。
右近は能面のような顔で望輝に正対した。
「吾の近習は、叔父上が邑をお出になってから。三人姿を消しましてございます」
「…とは、よもや」
蒼鉛色の想像が胃の腑に詰まるのを覚えた望輝に、こわばった顔で右近はうなずいた。
思い返せば邑をあげての馬追の祭というに、緒宇摩に爺どもの多かったこと。
子どもはいた。壮年の男もいた。だが、烏帽子つけ初めしころの若丁はどうだったろうか。
「逃げた…わけではないのか」
「そうであれと望むが」
思わず轟天丸は顔をぬぐった。正面から血煙を吹きつけられたような気がしたのだ。
「我が進言など塵ほどにも役に立たぬ。父上にとってはな、命を果たせぬのも諫言も皆己が意に逆らうものじゃ」
「それこそ手討ちにでもするのか?」
「ならばまだ救いがあるわ」
手討ちにすれば、必ず死体の始末をした者の口から事は漏れる。力で抑えたとしても嘆き恨みは凝り残りいつしか憎悪となって噴出もする。
だが、単にいつの間にかふいと姿を消すだけとなれば、誰も何も言わぬ。いや薄気味悪さに言えぬ。
獄に置かれた証も無ければ訴えることもできず、囚徒はいわば人質、望満の意に逆らえばその身がかえって危うくなるか、それとも次に獄に下されるは我が身となるか…。
まことはただ増えた桜のみ知るとあらば。
「…よくまあ平然と言えるなおい」
「我が平然としているように見えるか。ならばやはりその目は節穴じゃな」
じろりとにらみ返されて轟天丸は目をそらした。
「しかし、なぜ兄上はさような真似を」
「おそらく、こたびの縁談につながりがあろうかと」
緒宇摩のように特産物のある邑は、どこでも喉から肩まで手が出るほど欲しい。これまでどこにも恭順することなくおれたのは、周囲の三すくみ、四すくみにたまたま難を逃れていただけのことというに。
何を勘違いしたのか、ここへ来て望満は、よその邑へと手を伸ばしつつある。右近の縁談を強引にすすめているのもそのためだ。
しかし、高砂と結ぼうとは。
望輝の目から見ても、緒宇摩にはまったくといってよいほど利がない話である。相手が長の三男であることは間違いないが、嫡男にはすでに子がおり、既に嗣子として認められている。
つまりは嫁いだとて、高砂の家子になりにゆくようなものだ。
血筋つながったとて主従の繋がりに縛られては、ただの傍流にすぎぬ。
おそらく望満は、緒宇摩と高砂の血を引く子を作り、強引にでも高砂の実権を握る手づると為す一石二鳥の策とでも考えているのだろうが。
「無理じゃな。高砂の方が京とのつながりも強い。力が違いすぎる」
ひどく醒めた声で望輝は評した。京も数多の武邑も知りたる目からは、無謀にすぎる企てとしか見えぬ。
緒宇摩の領内では効く力業も、高砂のような大邑に効くとも思えない。
右近を人質にとられ従属を強いられたとて、逆らうどころの話ではない。逆にじわじわつぶされるのが関の山、むしろ向こうこそ望満の暴発を誘っておいて郎党を送り込み、制圧する腹かもしれぬ。
もしそうなれば、馬を奪われ抗うこともかなうまい。
逆に、高砂に敵する邑や、高砂により近づこうとする邑にとっては、緒宇摩も目障りな存在となるだろう。京もまた、武邑同士が結びついて勢力を伸ばすのをひどく嫌う。
それだけではない。
望輝はかつて更衣として宮中に上がったこともある稚桜の母、御衣黄を知っている。
身分はさして高くはないが、宮腹の姫であった上に京にうたわれる才媛が、京とのえにし薄い緒宇摩へ下ったことさえどれだけ騒ぎになったことか。
その娘が実父に追われるように他の邑へ嫁がされたと京に伝われば、高砂だけでなく緒宇摩に対しても、反応を硬化させるだろう京人とそのまた縁に流れ、ざっと十指に余りある。
「いかにも。邑を滅ぼすがごとき愚挙をこのままにはしておけませぬ。それゆえ婚儀そのものを壊そうと画策しておりましたが、うまくゆきませなんだ」
婚儀の話の噂を聞くより早く、じゃじゃ馬姫の噂を自ら流したりもしていた右近である。早いうちなら潰れたとしても右近と望満の体面ひとつですむことだ。
その一方、邑内に誰彼かまわず高砂と結ぶ利損と理非を説いてまわったが、壮年の家子の中には、若輩のうえに女の身で馬に乗る右近を、ただそれだけのことで胡散臭く見る者もいる。
そうこうするうち話はちゃくちゃくと進み、今となってはわれから邑を出たとしても、緒宇摩を安んじうるとはとても思えぬ。婚儀を嫌って逃げ出したと、高砂の面子を潰したと難癖つけられては同じ事になる。八方塞がりとはこのことだった。
「そこへちょうど鴨が葱をしょって飛び込んできたというわけか」
通常、内紛を抑えるのに外部の力を借りるのは極めて下策と言われる。
だが、無用の争いの種を蒔けば、邑人をさらに死なせることになる。右近はそれだけは、避けたいと願っていた。
いつかは緒宇摩を守るためには望満と道を分かたねばならぬと覚悟はしていた。それゆえ、おのれの近習らを味方に取り込もうとした。
馬も持たぬような身とはいえ、才あらば目をかけ、ある程度知ることを打ち明けもした。
だが、彼らが姿を消した後、口を噤まざるをえなくなった。
おのれのしたことが彼らの命を奪うことになったのだと思うと、悔やんでも悔やみきれぬ。
望満が、牽制のためだけに彼らを桜にした以上。もはや乳姉妹の檀だけでなく、傅役のじいすら下手に動けばその身が危うい。それもあってこれまで動けずにいたのだ。
だが、これが、おそらく最後の好機だ。
実際に馬泥棒がいる以上、右近が真実攫われたのか、それとも右近自身が緒宇摩を逃げたのかはおそらく望輝にはいまだわからぬ。
破談を何よりおそれる望満は、おそらく事を隠蔽にかかるだろう。
たとえあからさまになったとて、馬盗人とともに右近の姿が失せたことは太翁という証人もいることだ。
おのれから逃げ出したのではなくば、総領姫を攫われた緒宇摩の面子は丸つぶれとはいえ、高砂の体面に泥を塗ったということにはならぬ。
さらに、馬盗人の探索の手は街道沿いに必ず伸びる。馬で道なき山野辺を通るはずがないからだ。
それゆえ、今、この山野辺を行かねばならぬのだ。このわずかな観月との縁をどうでも離すことはできぬ。
彼ら異能の者の長と手を組み策を為せば、高砂とも対抗しうる。
望満を押し込めにでも隠遁させうれば、凶行を止めることができる。
「これ以上、窟の桜を増やしてはなりますまい」
厳然と言い切って稚桜は望輝に目を据えた。
思うところを披瀝はしたが、今は望輝に見せうる証とてなく、おのれの言葉に重みも保証もないことは重々承知の上だ。
聞く耳持たずに望輝が、ここで二人をひっとらえて望満に突き出せば。
まずまちがいなく呪歌詠みは斬られ、謀叛者として右近は密殺されるか、政争の具として高砂に嫁がされよう。
息すら呑めぬ右近のおもてに、望輝は宙に据えていた目を戻した。
「嫡男が生まれたという話を聞いておったが、その子はいかがした。御衣黄どのの御子なれば、おぬしが後見につき、時をかけて緒宇摩を変えるということもできように」
「…母上は亡くなりました。叔父上が、緒宇摩を去られてから、すぐに。稚房は、京の少納言家の筋から迎えた藤御前の御子でございます」
「…そうか」
瞑目する望輝に右近はひたと手をつかえた。
「とはいえ、稚房もまた哀れでなりませぬ。父上に逆らわば骸も残らず、従えば吾のように道具に使われましょうゆえに」
不意にぐいと望輝は手を伸ばした。
「叔父上?」
ぎくとこわばる右近の肩をひきよせて。望輝は、子どもにするようにぽむぽむとその頭をなぜた。
「ようしやったな。まことようしやった。これまでようまあ頑張って、一人緒宇摩を守ってこられたの。離れておってまことすまぬことをした」
「叔父上…」
中天に白々と冴えるばかりの眉月が春の花闇に滲む。困ったような右近の声がなぜか湿りを帯びたと聞くや。
「だああっ!」
不意に大声上げた轟天丸は、手近な石を流れに投げこんだ。
そのままずんずんと川端を下っていく。
「どこへゆく」
「しょんべんだ、しょんべん」
「お、なら儂もついでに一つ」
望輝までもひょいと立ち上がる。右近はふかぶか溜息をついた。
それまでのしみじみした風情は蜘蛛の破れ巣のように跡形もなく、花冷えの山中は、いつしか震えが来るほど寒い。
轟天丸はにやりと右近を見た。
「なんなら姫さんもいっしょに来るか?」
涙もひっこんだか、無言で投げつけられた燃えさし一本。
ひょいと受けとめ紙燭代わりにかざしつつ。川下めざして逃げ出す背中に望輝はにやりと囁いた。
「おぬし、湿っぽいのは性にあわぬか」
「すまんな。なにやら、こう、むずがゆくてな」
轟天丸は苦笑した。
悲しければ歌い、憤れば踊るが自然の性である。
朗らかな喜怒哀楽しか知らぬゆえ、野趣あるとはいえ姫御前の複雑な感情と決意は観月の輩の理解に余る。
「にしてもさっきのあれにゃあ驚いた。あんな鬼姫どのの目にも涙か。存外しおらしいとこがあるじゃねぇか」
「なにをいう。わが姪御どのほど、ゆかしい娘はそうはおらんぞ」
「ぬかせ」
火が映り込んだ川面は意外と明るいが、彼岸は闇だ。
輝点がきらっと動き、すぐに消えた。
「珍しいか。獣の目玉よ。狸かもしれんな」
「このあたりは獣が多いのか」
昼間のことを思えば用心の一つも必要だろう。
熊も川を渡る。むしろ泳ぎは人より鮮やかだ。
しかし望輝は首を振った。
「おびやかさねばおとなしいものよ。人の声にも火にも近づかぬ。煙の臭いがあれば寄ってなどこぬ。獣はそういうものだ。よほど人間よりも賢いわ。まして嵐の臭いもあればな」
「そこだ。あんた、一体なにもんだ」
山人は山神とも書く。
人ならぬ人とも思われる、山に隠れる隠の民。鉄煮て岩焚き山を駆け、なまなかなことでは人前に姿を現すこともないという。
轟天丸ら観月衆もまた。人と交わる顕の民という違いはあれど、常人ならぬ一族ではある。
それゆえ同族以外にはうかがい知ることのできぬ民を知り、民と交わり、貴重な山犬の仔を手に入れうることができるとは、いかなる素性の者か見定めたくもなろうというもの。
二皮目でぎろりと睨めば、望輝は、そしらぬ顔をつるりと撫でた。
「何者と言われてもなあ。あの姫君の叔父じゃわ」
「ふざけるねい」
「まあよいではないか。ちっとくらい秘密があったほうが、おもしろみがあろうというものよ」
「…まあいい。あの姫さんの味方というなら、今しばらくはおれの敵にはなるまいな」
「おぬしが儂と右近の敵にならぬ限りはなぁ」
ぬらりくらりとかわされて、松明を岩に立てかけた轟天丸はとうとう呆れたように口元で笑った。
「ああもうなんだか気ぃ張ってるのが馬鹿らしくなってくるじゃねぇか」
「うむ、馬鹿だと思うぞ」
「をぃ」
「それにしても…」
轟天のこめかみに青筋が浮かんだのも知らぬげに、望輝はのんびりひとりごつ。
「何もなくとも平穏無事なら、民は生きていけるものよ。それをわざわざ乱を起こすか。我が兄上はいったい何をお考えなのかの」
自分にのみ従順に従うよう、恐怖で支配するなど、為政者としてはよほどでなくばしてはならぬことである。
一罰百戒というが、そうそう人が消えては邑そのものがやせ細るだけというに。
「いつでも乱を起こすは民じゃねぇ。上の者が何を考えようが知ったこっちゃないが、民びとが苦しむってこった、そりゃよくないことなんだろうさ」
望輝は袴をくつろげる手を止めた。
「何だ」
「いや、……おもしろい考え方をするものよの」
「俺は呪歌師ぞ」
民が苦しむのは天地が荒れるからだ。
いくさがあれば、人の思い、恨み、のろい、怒りは濁れる気と変わる。
血は流れずとも争いの種多く地に蒔けば。濁陰の気は凝って地を這い、寒害をもたらす。濁陽の気が高まれば天は畢り旱魃となる。
草木枯れなば人はたやすく餓え死ぬ。
それを避けるが呪歌師の本来の努めである。
そしてたしかに轟天丸にも濁りを祓い、願いをもって天に昇らせる言霊の力はあるの、だが。
「熊追うてくれたを見ても、まったくもってそうは思えぬからの。いやあ不思議ふしぎ」
「そりゃお互い様というものではないか。あんたが、あの緒宇摩の長が弟とは逆立ちしたって飲み込めねえや」
おのれも袴をくつろげながら、轟天丸はふと気になったことを聞いた。
「なあ、もひとつ不思議なんだが。なんであんな鬼姫どのが、京人の母君から生まれたか。よほどの枝変わりにしても変わりすぎだ」
枝変わりとは、もとは同じ木に咲く花にも色や形の変化の突然出ることをいう。
そもそもこんな武邑に、京人を迎えるなどということ自体、珍しいことではあるのだが。
素朴な疑問に肩を揺らして笑う気配がした。それはどこか暗かった。
「それを儂に問われてもちと答えにくい。しかし、ほんにあやつは御衣黄殿に良く似ておるよ。久方ぶりに会うたが、ますます生き写しのようだ」
「どこが」
「顔もそうだが魂が。まっこと双なきところがな」
「…変わっとったは母君譲りか。おもしろい」
轟天丸はにやりと笑んだ。望輝も同じ笑みを向けた。
「そをおもしろいと見るか。物好きよの。おぬしも十分変わっておるわ」
「観月の者、かぶかずしてどうする」
「観月の者の性か。ならば、さしずめ目指すは境かの」
「どうしてそれを」
ぎょっと轟天丸はふりむいた。観月の輩の根城を観月ならで知る者はほとんどおらぬ。
場所など右近すら知らなかったことである。
それに答えずしばらく思案をしていたが、望輝はやがて顔を上げた。
「ここよりならば、不断街道におりるより。灼岳の牧を抜け、燧谷を下りるが人目につかぬでよかろう。おぬし、灼岳に入ったことは」
「いや」
「よし。ならば儂もしばし同道しよう」
「あんたが?」
まじまじと凝視されて望輝は苦笑した。
「嫌か」
二人だけの道行したくば、無粋な邪魔者はただの迷惑かと。揶揄の口調に轟天丸は鼻息を吹いた。
「足手纏いは困るだけのこった」
「ほ。これは軽く見られたものよ。おぬしよりは役に立つと思うがな。いずれにせよ、じきに野焼き山焼きも始まる。その前に牧を抜けねばならぬ。深草の里の鶉になってしまう」
呵々と古物語の一節を引いて、丸焼きになるはごめんと軽く言うが、あり得ることだ、冗談ではない。
「まあその前に」
雪解け水の切れそうな流れに手を洗うと立ち上がり。望輝はちらと轟天丸の股に目をやった。
「どうでもよいと言わばどうでもよいが」
「なんだ」
「それはもうちと鍛えておけ。それではあの姪御どのにお気に召すも召さぬもないわ」
からからと笑われて。轟天丸は夜闇に色変わりした面をそむけた。
連れションシーンで幕。おそまつ。