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無明抄  作者: 輪形月
第三章
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邂逅

本日も拙作をお読み頂きまして、ありがとうございます。

 道なき坂を下りかけ、轟天丸は山杖を不意にとめた。

 梢には柔らかに緑萌えなしつつあるとはいえ、このあたりの山野辺には未だ(はだれ)(ゆき)とて残る。

 くすんだ褐色の木々に鮮やかな色芽吹き、さしかわす枝々から洩れくる光の征矢(そや)に山桜や辛夷(こぶし)の花が白く浮き上がるが、草丈も短い山中の(まき)も閉じられたままである。

「いかがした?」

 下枯れを慎重に踏み分けていた右近が顔を上げた。

 木々の根元から融け行く雪踏めば足跡も隠せぬが、顔を出した落ち葉を踏めば跡は残らぬ。

 素直に山を降りるなら、緒宇摩から街道へ出るまでは羊腸の曲がりくねった一本道だ。

 山道に慣れた馬があるならまだしも、いやあったとしても土地に明るい緒宇摩(おうま)の者にかなうわけがない。足弱と言えぬ二人であったとて、徒歩(かち)ではいっそう不利である。

 道をはずれ隠れ隠れ行くならば、いっそのことと無人の牧を抜け、緒宇摩の邑とは反対側へと山を走破することにしたのだが。

「こっちに行かぬ方がいい」

「なにゆえじゃ」

「あー…桜が少ない。下りてもつまらぬ」

「たわけ。ここを下りねば牧野を抜けられぬ」

牧といっても、山中に平原がただ広がっているのではない。

 馬が逃げぬように、また山犬などが入り込まぬように谷津や柵で牧野を囲み、所々に戸締まりした木戸に牧の番小屋も要所要所にあるものだ。

 谷影などに雪まだ残るとはいえ、痕跡を隠すにはどうでもこの尾根裏を通らねばならぬのだ。


「待て」

 押し問答をやにわに右近が止めた。風に耳をそばだてる。

「何か聞こえなんだか」

「いや、きっと気のせい。たぶん空耳。おそらくやまびこ」

「たわけた事を言っとらんで、とっとと走らぬか!」

 言いも果てず、鹿の早さで急斜駆け下りる背に舌打ちひとつ。

「阿呆はどっちだ」

 口の中で罵倒して轟天も後を追う。

 こんなところで無駄にする時はないというに、かすかに聞こえた人の悲鳴一つに動くとは。

 お人好しにもほどがある。


 二人の後には人の胴回りより太い樹の。その幹によりそうように、箸にもならぬ細枝が伸びる若山毛欅(ぶな)一本。

 午後の光に照らされて、その根元には巨大な獣の新しい糞が生々しく転がっていた。


 走り出てみれば白妙の雪にもまごう山桜。

 花を雲とも見下ろすは、乾かぬ土の色鮮やかな地崩れ(ヌケ)の下。

 丈高くすっきりとした勢いの、黒々とした太い山桜の幹が奇妙に軋む。揺れる枝先は三分咲き、花と同時に萌え()むる、つやつやと赤みのさした葉芽の間に人の姿の見え隠れ。

 その根に春の陽ざしを吸い込む毛皮が二つ。


 穴を出たばかりの熊の親子である。


 馬よりも小柄とはいえ、猛獣は冬眠から覚めたばかりの空腹に、たやすく牙を剥くものだ。ましてや子連れの母熊は、手練れの狩師(マタギ)も敬して遠ざくるほど気も荒い。

 だが。

 幹に爪立てのびあがる、その母熊の鼻先にぴしっと弾けたのは右近の飛礫(つぶて)である。

 見事な腕に内心轟天は舌を巻いた。

 ただの石投げではない。印地打ちと呼ばれる武術によるものだ。

 最も原始的な武器でもあるが、高みからの投げ下ろしとはいえ、熟練なしには十間以上も、しかも(まと)にひたりと猛禽の勢いでなど飛びはせぬ。

 母熊はごうと吠えた。驚きと怒りに風もびりびりと震え、散りしだかれた山桜、花吹雪とも吹き上げて、地崩れを滑り降りる華衣にも舞いかかる。


「おい!」

 思わず轟天丸は叫んだが、それで止まるような姫君ではない。山杖を左小脇にかいこんだ右近は見る間に地崩れの下へと辿り着くやいなや、さらに石を投げつつ山桜から身を遠ざけた。

 身も世もない風情で縮まる樹上の人影ににはや目もくれようともせず、母熊が右近へと向き直る。鈍重そうなさまに似合わずその動きは機敏だ。

 右近が持つのは、道みち拵えた山杖以外には、短い山刀一本と投げ鞭ひとつ。

 力の強い熊相手では投げ鞭など一瞬で手の皮ごとひったくられる。

 飛礫とて目鼻にあたればまだしも、いかに鋭くとも倒すことなどままならぬ。怒らせることにしかならぬだろう。


「しようもねぇ」

 唾を吐き捨て轟天もまた、飛礫を放った。

 ただし、狙ったのは母熊の背後、仔熊の目の前。それも当てるためではない。

 がさりと飛礫に枯草折れて、驚いた仔熊の母呼ぶ声。

 さしもの母熊の気もそれたとみるや。

 誠心誠意、女を口説くよりも真剣に呪歌を放つ。


『時は今』

 ぴくりと母熊の耳が動き、急に突進の勢いが失せる。

『猛き心も母ゆえと 子を守りませ 山の御神(おんかみ)

 完全に動きを止め、きょろきょろと落ち着きのなくなった母熊から目を離さず。そろりと右近が遠ざかれば。

 仔と敵を見比べながらじりじりと。母熊もまた後退してゆく。


 手に汗の湧くような永遠が過ぐ。


 数十本もの木立を抜け、飛礫も届かぬほど右近が離れたを見極めて、母熊は仔を咥え走り去った。

 探る気配も遠くへ消えたと確かめたのち。ようやく轟天は詰めていた息を吐き出すと額をぬぐった。

 右近も山刀を握っていた手のひらを筒袴(つつばかま)にこすりつける。

「やれやれ、寿命がえらい勢いで縮んだぜ。まったく」

 今の呪歌は、轟天丸とてかなり肝を冷やしながら紡いだのだ。

 熊は木登りも人よりうまい。効かねばこちらが危ういとまことわかっていたのか。嫌みの一つでもと思ったが、当の相手はすでに眼中にない様子で、梢を見上げていたのに諦めた。


「花の中の御方。怪我はござらんか」

「な、何とか大事はない。礼を申し上げる」

「姫さんよ。人に礼もらうなら俺に言うのが先だろが」

「おお、すまなんだな」

 たった一言ですまされて苦笑しながら轟天も近づく。

「牧道を避けて界知らずの山野辺を行くとは、あんたも相当訳ありだな?」

「訳。言い訳ならばいろいろと聞かせもできよう言いもしよ……のわっ?!」

 つるりと手を滑らせて、真上に降ってはきたものの。下敷きになるような義理はない。

「痛てて。最後まで助けてくれんとは片手落ちな。受け止めてくれてもよいではないか」

 えらく虫のいいことを言ってのけながら、おきなおった男は凝然と右近の顔を見上げた。

 これはかの、親子熊にも劣らぬ髭男。中剃りもはやぼうぼうと。

 筋模様の小袖に袴、雨露よけの行縢(むかばき)頬貫(つらぬき)という山行き姿はまだしも。

「なんと……御衣黄(ぎょいこう)どの……いや、稚桜、か」

 幼名にて右近を呼ぶ、その声は。

 いや、蓬髪(ほうはつ)に似合わぬなきよげなその眉と目は。

「よもや、塩竃(しおがま)の……望輝(もちてる)叔父上?」

「叔父上ぇ?」

 目をば見開く二人をまじまじ見比べ。いち早く驚愕を脱したか、髭男は真顔で言った。

「欠け落ちか?」

「叔父上!なにをおっしゃいますか!」

 子どものように右近が勢いよくふくれる。

 それにようやく望輝は笑った。

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