分裂
本日も拙作をお読み頂きまして、ありがとうございます。
馬盗人の話が山沿いの邑々駆けめぐり、四、五日たった午のことである。
白妙の滝を見上げる不断街道の端に数人の男女の姿があった。
もの静かに晴れた日で、白けた河原の石の間から、河原のほとりに萌え出た蓬の芽が美しい。
水ぎわに芽吹いたばかりの藪萱草。蕗の芽ぬるりとした羊蹄の新芽、土筆に野蒜。
川に臨んだ胡桃の木は、太々と幹の影を街道に落としている。向こうに見えるのは緒宇摩の里ある双輪山。
曠野が緩い斜面をつくったところに雪枯れた草が紙のように張り付いているのを剥がし、火を熾すその姿は、春駒にのんびりと草を喰わせている馬飼が中食支度のようにも見える。
が、彼らは緒宇摩の里からまんまと馬を盗み出した五人である。
しかし、血眼の邑人たちも、そうと知らねばうかうか見逃しかねぬほど、彼らは形を変えていた。
歩き巫女だった茜は顔を洗って、目を強調する独特の化粧を落としていた。
それだけでもずんと顔立ちの変わる上に、髪はほどき編み込んだ色布をはずし、水をつけて編み癖を伸ばしたところで後ろで一つに束ね。
塵除けに布でぐるぐる巻き立てれば、近隣から歩いてきたような物売り女の顔にするりと化ける。
踊り坊主の根津丸は、五カ所結んだ髪を束ね髪に結い直し、首の後ろで結んだ大袖をほどいてさらさらと裏に返す。
裏地は墨染めとは縁もゆかりもなさげな、くすんだ刈安色である。
眉を太く描き、頭に布を巻く。
藁脚絆をつけ腰刀を差し、右手に竹の追鞭持てば、馬飼い姿は目にも立たない。
しまいこんだ鈴や鐘は、もとより音の鳴らぬよう。舌の抜ける細工が施してある。
かわりに背負い箱や布包みから笊に干魚や天草取り出し、頭の上に乗せれば行商人以外の何者でもない。
緒宇摩の手の届く邑々を走り抜け、ようやく一息ついたとはいえど。
彼らの表情は硬かった。
「やんなきゃよかった。貧乏くじもいいところだぜこんちきしょう」
愚痴る雉丸は柿衣色の直垂に膝の出るような袴姿である。
「茜ぇ。なんとか言ってやってくれよ」
「今さらさね」
くねりとよりそう茜がそう答えれば、根津丸はいっそひややかに雉丸を見た。
「一番乗り気であったのは、おのれであろが」
雉丸はふくれ面で黙った。
仲間内の賭け、というか腕試しで馬盗みをすることはままある。
だがそれも彼らの仲間、観月衆の手助け及ぶ境近辺でのこと。緒宇摩のような山里にまで足を伸ばすに決めたは根津丸だ。
なれどそれを言い立てる気にもなれない。妖使いを前にせば、冷気が背筋にのぼる。整ったおもてだが狷介な根津丸の眉間に時折ぴりりといなずまが走るのがおそろしい。
「だがよう、殺ったのはやりすぎだったんじゃねぇか」
笙哉もまた目をそらしたままぼそぼそという。
これも大童にしていた髪をきちんと結い上げて。地味な褐色の水干に、顔の隈取洗い消し、あの笛吹とは同一人とは思えない。
首尾ようなしたと思ったが、ことの顛末を聞かされて、仰天したのは笙哉だけではない。
荒働きのおかげで追っ手は殺気立ち、巫も幾度ひやりとしたことか。
緒宇摩を抜けてすぐさま身なりを変えたものの、馬は術のききめが薄れると仲間を恋うては嘶いた。追っ手が来ると逃げるどころか寄ろうとする気配さえ見せるのを、なだめるのにも苦労する。
そのたび耳に轟天丸が呪歌もろともにしかけた合言葉を囁いておとなしくさせてはいるのだが。
妖使いの根津丸に馬は近づこうとはせぬ。天地の理外にある闇に怯えるさま見れば、それが根津丸にははらただしい。無表情に感情をねじふせることに長けているとはいえ、苛立てばなお妖が情を吸い、馬がおののく悪循環。
「いまさら言っても仕方のない。顔も見られておった」
「顔なら。ばれとってもおかしはないわ」
頭や顔を隠す態はすぐ怪しまれる。それゆえ変装はすれどもあえて堂々と顔をさらして緒宇摩に入ったのだ。
それにしても、緒宇摩は祭りとは思えぬほど張り詰めていた。
旅の者はみな、とどまる場所をかぎられていた。閉鎖的な邑や屋敷ではよくあることだ。しかし緒宇摩のその警戒ぶりはあまりにも厳しすぎた。
「やはりあれかの。戦の備えか」
さらりと根津丸が言ったに一同目を剥いた。
高砂に名高いじゃじゃ馬姫を迎えるのをよしとしない者もおる。緒宇摩と高砂の結びつきを喜ばぬものもいる。
だが、それを見越して緒宇摩の長はあえて争いを起こそうとしていたのか。
京は穢れを喜ばぬ。ゆえに武邑を見下す。
いかにえにしをつなごうと、ひとたび諍いが起これば望満への覚えも悪くなるだろう。
それとも、そこまで見越して緒宇摩は京との縁を絶ちきるつもりやもしれぬ。
「根津丸。おのれ、まさか、そうと知っとって緒宇摩に盗みに入ろうと決めたのか」
「そのとおりだ」
詰め寄る寸前、鼻先に手をつきだされ。知らず雉丸は息を飲み込んだ。つくりもののような目が指の隙間から冷たく見返している。
「だからこそ選んだのだ。おのれらも反対はせなんだのう。なにゆえかは言わぬでもわかっておる」
腕試しは成し難いほどに評価も上がる。そう理詰めで答えられれば確かに理屈が通っている。間違いがないというのが欠点であるほどに。
「だがよう…。轟天丸のやつぁどうする気だ。ほっといていいのか」
落ち合うはずの轟天丸の姿が見えぬ。
「雉丸よ。それは轟天丸の身を案じてか。あやつがなまなかな相手にやられるたまなものか。それとも俺が策が気に喰わぬとでもいうつもりか」
昼間のことゆえ、いつもより小さな根津丸の影がぐねぐねと動く。雉丸は黙った。こうなっては根津丸の耳には何も入らぬ。
茜が笑いながら枯草を火に放り込む。
「なんだかんだ言うて、根津丸も轟天丸のこたあ見てんのさね」
「殺したって死にやせん、そういうやつだからだ」
揶揄にもぞりと妖が目を光らせた。
「まあ、そりゃ…けろっと境に先回りしててもおかしはないやつだがよぉ」
しぶしぶ笙哉が頷いた。巫は口もきかぬ。
「ならば、これからどうする気だ」
根津丸は答えずぐるりを見回した。
不断街道を右に行けば、京へ続く。左に行けば、境へ向かう。
ただしどちらも山の根回って、なかなか緒宇摩から離れるのは骨である。
いっそのこと川を下るかとも思うが、滝を見るようにこのあたりはまだ細い急流が多い。
「俺は高砂へ行く。馬を売りにな」
「ちょっと待て。そりゃ無茶だ!」
四人は目を丸くした。高砂の太翁があの日緒宇摩の長の館に逗留していたことは、ここにいる皆がすでに知っている。
その太翁がいる所へ行くとは、豪胆というよりば無謀であるが。
「だから行くのだ」
根津丸は胸を張った。
「なあある、だから馬飼いに化けたのさね」
「だから待てというに。茜も煽るんじゃねえ」
「だってさ。このまま厩飼いの逸物に乗ったまま境までいくわけにはいかぬだろ。それより早く銭に変えたがよいわ」
茜の言葉にも一理はあるのだ。
旅から旅の道々の者が馬に乗っているのはひどく目立つ。
だからといって、放してゆくのも確かに業腹。
それに、この辺りで馬を売るとなれば人はみな高砂へゆく。市の日には馬千匹人千人の賑わしさ。
太翁よりも素早く達し、うまく化ければ下手によそで安く売り払うより怪しまれることもなかろう。
「そういうことさ、ねぇ根津丸」
「まあそうだ」
「さぁすが、根津丸は度胸も頭もずんとよい。何つったっけ。ぐ、ぐんちょの」
「群鳥の計か」
「そう、それそれ」
姿は変えたものの、まとまって動けばそれだけで人目に立つ。それゆえばらけて別々の物売り馬飼いの中に潜り込んでしまおうという計略だ。
轟天丸の先走りも、囮になってくれるとはありがたいくらいなものだ。それを死んでくれてもかまわぬとさえ思うのは、雉丸らが不服そうなせいだ。根津丸の力を認めず、轟天丸になつきかかる姿がいっそう苛立ちを深める。
根津丸にもこれ以上、ともにこやつらと道ゆく気などない。
戦の気配がまことであれば、馬を求める者も多かろう。そのあたりも見て取りに行けば一石二鳥である。この思案は誰にも真似はできまい。
おのれの手柄をいやが上にも高めれば、轟天丸よりこの根津丸を誰もが認めずにおれまい。
「むろん、行くのはおれ一人でよい。かわりにすべての馬寄こせ。馬がなければ目につかず、ばらばらになれば逃げるも楽だろう」
半分は本心である。だが、根津丸は、ここでさらにばらけた仲間も囮にする気であった。
「やだよ、あたしは根津丸とゆくよ」
「……なら、茜はおれと来い」
一瞬根津丸の目に熱が生まれたのを三人は見ないふりをした。
「おい。ほんとにそれでいいんか、根津丸」
ぐちぐちと止める雉丸をぴしりと稚児姿の巫が制した。
「行かせよう。いいんでないか。行きたいというものがおるのだもの」
「ほ、巫は話がわかること」
ちらと茜が口の端だけで笑ったのをしおに、根津丸は話は決まったとばかり立ち上がる。
「ではな」
「あれ、待っとくれよぅ」
馬六頭の鼻面あっさり街道に向けるのも、三人は諦めたように見送った。
五人がこれまで乗ってきた馬に加えて、もう一頭は轟天丸のぶんにと連れ出したあまりである。
「気をつけてゆけよ」
雉丸が心細げに声を送った。
「あたしがいるから大丈夫さ」
「茜がいるから心配なんじゃろうが」
茜の笑い声が遠くなるのを聞きながら雉丸は肩を落とした。
「おぬしも苦労性だの」
「おお、苦労性にもならいでか。轟天丸といい、根津丸といい。女がおるとあやうすぎるんじゃ」
巫の慰め顔にやけになったようにわめきちらせば。高声に頬白がばっと飛びたつ。
「そりゃまあ確かにそうじゃが」
笙哉もふかぶかため息をつけば、巫もまた疲れた笑いをもらす。
「こっちに色気がないが幸いか」
「いや、それはどうかの」
笙哉がにやにやした。
「なに?」
「巫のその身なりではな。色気が抜きにできればよいが」
水もしたたるような色稚児姿であればさもあらん。
じろじろ眺められた巫が笙哉に蹴りをくれ、ひょいとかわされて音高く舌打ちする。
「じゃれとる場合でなかろ」
雉丸は空を仰いだ。
「やれやれ。それにしても轟天のあほうは、いったいどうしておるかのう」
嘆けども。山桜雪峰天に声もせぬ。