-後編-
##8.送別会##
三月の半ば。卒業のシーズン。
最後の日、俺たちはお別れパーティーと称して簡単な送別会を催した。送別会と言っても、メンバーは四人だけだ。俺とミヤコさんとその婚約者の橘さん。あと、なぜか鳴海さんも。
集まる日や時間、場所などは、事前に社内メッセージを通してやりとりがなされた。けれども途中から「ただ集まって雑談するだけでは芸がない」という話になり、食べ物だけは「一人三〇〇〇円までの予算で好きなものを持ってくる」という条件を設けることにした。
当日、俺が馴染みの喫茶店で注文しておいたキッシュとプリンを抱えながら試験室に入ると、テーブルの上には、既に他の人たちが用意したと思われる料理が所狭しと並べられていた。中央にはローストターキーが丸々一羽。紙のお皿の横には、エスプレッソを入れるような小振りのマグカップが人数分置かれていた。
ん――? そのカップの風合いに違和感を覚えた俺は、近くに寄って顔を近づける。茶色で艶がなくごつごつと歪な形をしていたそれは、まるで縄文時代の土器を思わせた。
何だこれは、と思って手にした瞬間、ボロっと縁が欠ける。
(……もしかして、壊した……のか?)
思わず周りを見渡すと、奥の部屋からミヤコさんがティーポットを片手に近づいてきた。
「気をつけてね。『それ』、壊れやすいから」
もう壊れているのだが……。
彼女は俺の苦い顔に気が付くと、「あーあ。駄目じゃない」と、子供を叱りつけるような口調で声を上げた。
よく見ると、机の端にはカップがしまわれていたであろうケースがそのままになっていた。どうやらこれは、クッキーでつくられた《食べられるマグカップ》らしい。
「基っち先輩、もしやわざと壊して二個もらうおつもりですね」
一足先にソファーへ腰かけていた鳴海さんが、にんまりとした表情でこちらを見た。
「一個で充分ですよ。そういえば橘さんはまだみたいですけど、何か聞いてますか?」
「たち兄なら、さっき鳥だけ置いて事務所に戻りました。少し遅れるそうなので、『先に始めといてくれ』って」
「あ……そうなんですか」
橘さんまであだ名で呼んでいるのか。しかし今さら驚くことでもない。
彼女の斜めに腰掛けて、料理を眺める。ガラスのテーブルには真っ白なクロスが引かれていた。
「鳴海さんは何を持ってきたんですか」
「お菓子の詰め合わせです。……って言っても、おつまみがほとんどですけど」
彼女はソファーの陰からパンパンに詰まった袋を取り出して、お気に入りの縫いぐるみのように隣へと置いた。
「すごい量ですね」
思わず見たままの感想を述べる。あの中の大半は、明日間違いなく給湯室へと並べられるのだろう。四人の胃袋で処理できる量ではない。
けれども、彼女はまだ何か言いたげな表情で、嬉しそうにこちらへ顔を向けた。
「実はまだあるんですよ」
「もう食べられませんよ」
「いや、食べ物じゃないので大丈夫です」
何が大丈夫なのだろうか。
俺の顔を見てから、彼女は「ちょっとお待ちください」と言って、奥の部屋へと引っ込んでしまった。その後ろを、なぜかミヤコさんまで慌てて付いていく――。
一人残された俺は、気になって耳をそばだてる。衣擦れのような音と、二人のかすかな笑い声――。
楽しそうな雰囲気を遠巻きに肌で感じながら、誰が書いたのか分からないホワイトボードの似顔絵を眺めて、時間を潰すことにした。
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一〇分後――。
「お……お待たせ、いた……しました」
鳴海さんらしき人物の声が聞こえて、俺は並べられた料理から顔を上げる。
いつも以上に巨大化した彼女の姿が、そこにはあった。
「どうですか?」
両脇に手を当てて、懸命に笑顔をつくりながらこちらに問いかける。しかし全身が圧迫されているためだろう。声にはいつものようなハリがなく、台詞もどこか途切れ途切れだった。明らかに、サイズが合っていない。前が見えているかもわからないような潰れた表情を見て、俺は思わず吹き出してしまう。
「『メデタイ』、ですか?」
着ぐるみ姿の彼女に問う。全身を足から鯛に食われたような姿に変身した彼女は、唯一自由である指をぐっと天井に突き上げ、何とか肯定を示す。
「こっち向いてください」
俺は笑いを堪えながらも、テーブルの上に置いてあったデジタルカメラに手を伸ばす。……が、デカすぎてフレームに入りきらない。
「鳴海さん。規格外です。申し訳ありませんが、もう少し下がってください」
俺がそのように指示を出すと、彼女は手を左右に振りながら、こちらに何かを訴えかけてきた。
当然、その意味などわかるはずもなく――。
ひたすら空を切る両腕を無視しながら、次いで何かしらのリアクションがされるのを待った。
しかしこちらの期待に反して、彼女の動きは止まってしまう。いや、この場合、期待通りと言うべきか。
やがて彼女は、キッチンの排水溝を流れる水のような声で、小さく呟いた。
「みやこ……しゃん」
そのSOSが上手く聞こえたかどうかは怪しい。なので、彼女の厚ぼったい陰の横から、ミヤコさんがひょっこりと姿を現したとき、俺は正直安心した。
「だから言ったじゃない。『半分にしときな』って」
ミヤコさんは呆れたような表情を見せながらも、鳴海さんに抱きつくような形で、彼女の身体をゆっくりと反転させる。
その際、正面ではなく横からのシルエットも拝むことができた俺は、また吹き出すことになる。チャックで閉じられているであろう側頭部から、束ねた髪がちょこんと飛び出していたのだ。
ぴちぴちに張った背中にメスが入れられて、上半身だけ何とか自由になった鳴海さんは、すぐさまその場に座り込み、大きくふっと息を吐いた。
「……っぷ、はぁー。死ぬかと思いました」
ぐんにゃりと上半分だけ折られた鯛が、彼女の胸の前で不気味に笑っている。
「どうでしたか。私の渾身のサプライズは」
「どう?」と言われても、面白かったとしか言いようがなかった俺は、苦笑する。
「色々と不完全で、逆に笑えました。そんなのよく見つけましたね」
「大変だったんですよ。顔だけじゃなくて、全身包まれるようなものはなかなかなくって。ようやく見つけたと思ったら、今度はサイズが合わないし……人生で初めて『痩せたい』と思いました」
そう言って彼女は、足を伸ばしながら横に並んで座っているミヤコさんの方をちらりと見る。彼女はっとしたあと、軽く笑いながら首を横に振った。
「私は着ないわよ。それ着て何を喋れっていうのよ」
「むしろ何も言わなくて良いんじゃないですか。ただ、いるだけ。ミヤコさんならそれだけで笑える気がします」
俺は鳴海さんに乗っかるように、彼女の方を見る。
「それなら基ちゃんが着れば? そしたら私も考えるから」
いたずらっぽく言う彼女に、俺は返す言葉が見つからなかった。
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余興が終わったところで、橘さんが戻ってきた。部屋に入るなり、無惨にも床に脱ぎ捨てられた着ぐるみに釘付けとなる。
「『メデタイ』か……」
一人言のようにぼそりと呟いたかと思うと、それ以上は何もコメントされなかった。既に興が冷めていた俺たちも、その言葉は聞かなかったことにした。
四人でテーブルを囲み、持ち寄った料理を眺めた。橘さんの持参した鳥が思いのほか本格的だったので、どうやって食べるのだろうと一人不安に思っていたのだが、それも杞憂だった。
鳴海さんが全部やってしまったのだ。
彼女はミヤコさんが用意したナイフとフォークを受け取ると、まるでプラモデルを解体するかのように、器用な手つきで目の前の塊を捌き始めた。綺麗に肉と骨に分けられたそれらをみて、俺たち三人は感嘆の声を上げずにいられなかった。
開始から一時間経ち、お酒がいい具合に回り始めると、ミヤコさんと橘さんの話題になった。考えてみれば、橘さん以外は、もうこの会社からいなくなるのだ。今更何を言ったところで、問題にはならない。隠し立てするような必要は、どこにもないのだ。
聞くところによると、橘さんは俺がここにくる前から、既にミヤコさんと付き合っていたらしい。このまま結婚まで隠し通すつもりだったが、俺という邪魔者が突如現れたため、途中でその計画も頓挫せざるを得なくなったと、嫌みっぽく言われてしまった。
橘さんが会社でミヤコさんと会うのは、基本的に定時以降で限定していたとの事だ。それはまぎれもない俺への配慮で、ただ結構頻繁に会っていたようなので、俺がミヤコさんのことを気になっていたのは、ずいぶん前から知っていたらしい。橘さんが途中から急に俺へ興味を持ちだしたのも、おそらくミヤコさんの口添えによるものだろう。
「そういえば、鳴海さんはどうするんですか?」
冷蔵庫から取り出したプリンを皆に配りながら、俺は訊ねる。
「私ですか。私はですねー実はもう、自動車工場に内定もらいました」
渡されたスプーンを顔の前で前後に揺すりながら、彼女は自慢げな表情を浮かべた。
「自動車工場って、まさか整備士にでもなるつもりですか?」
「その『まさか』ですよ。女性初の現場担当者になりますから、サインもらっとくなら今のうちですよ」
「確かに、女性の整備士ってあまりイメージないですね」
「でしょう」
俺は驚かずにいられなかった。彼女が車好きなのは知っていたが、まさか趣味の範囲を超えてまで「こちら側」の世界に足を踏み入れるとは、思っていなかったのだ。それをやろうとする意気込みも、周りの男性社員についていくための労力も、全てが俺には計り知れなかった。その報告から、彼女が内面にため込んでいるエネルギーの大きさを、改めて感じさせられたのだった。
「あれっ? でも他の資格はどうしたんですか? 簿記と秘書検定でしたっけ。それに大型バイクも」
「ああ、それなら二勝一敗でした。秘書検定と大型は取れたんですけど、簿記は駄目でした。どうやら私、数字扱うの向いてないみたいです」
口にくわえたままのスプーンを舌に見立てながら、彼女はコツリとわざとらしく自分の頭を小突いた。
「充分じゃないですか。この短期間にすごい成果ですね」
「いやいや、ミヤコ姉や基っち先輩には及びませんよ。所詮私は、レールがないと進めない普通列車ですから」
プリンの崖を崩しながら、俯きがちに彼女は答える。
「謙遜しないでくださいよ。鳴海さんの場合は、鈍行っていうよりもSLじゃないですか」
「それって誉めてるんですか」
「ええ、誉めてます。お祝いに、もう一個どうぞ」
俺が箱の中から余ったプリンを差し出すと、彼女は表情を途端に明るくさせた。
「うぉっ! いいんですか、頂いちゃって。こんなことされたら、また頑張っちゃいますよー」
俺は笑う。やはり間違ってはいなかった。石炭ではなく食べ物をエネルギーに変えるという意味で、やはり彼女は普通ではない。嬉しそうに笑う彼女の周りは、ほっこりと暖かい空気で満たされている。
「じゃあ、これ……遠慮なく頂きますね」
渡されたプリンを丁寧に鞄へしまいながら、彼女は訊ねる。「……基っち先輩はどうするんですか? 仕事辞めるって、お聞きしましたけど……」
中山さんから広まったのだろう。今さら隠すようなことでもないし、彼女であれば教えてあげても良い気がした。
「俺は小説家になります。……というか、実はもうなってるんですけど」
「うそっ!」
その声に、俺は思わず左を向く。鳴海さんだけでなく、窓際にある自分の席に座っていたミヤコさんまでもが、驚いた顔でこちらを見ていたのだ。
「すみません。ご報告が遅れまして」
「いや、いいんだけど。どこの出版社?」ミヤコさんは立ち上がり、鳴海さんの隣へと移動する。俺の向かいから食い入るように見つめてくる。久しぶりの感じだ。
「○○出版っていうところです。今回はスポット的な発行で専属契約ではないんですが、筆の続く限りは協力してもらえるみたいです。なので今後はそちらをメインに兼業を予定しています」
高見さんからは、「執筆活動を続けるかどうかは、自由にしていい」と言われていた。当然辞める予定などなかった俺は、迷うことなくその道を進むことにした。レールが敷かれたのであれば、そこに乗らない手はなかった。
「また変なところに拾ってもらったわね」
不思議そうな表情を浮かべるミヤコさん。
「基さんの人柄じゃないですか」鳴海さんは隣でくすくすと笑う。
適材適所とでもいいたいのだろうか。しかし、否定もできないのでコメントは控える。
「なので俺の手元には今、同じタイトルの本が二冊あるんですよ」
俺は膝を打つようにして二人を見る。軽く笑みを浮かべながら無言で頷くミヤコさんに対して、何のことやら眉根をしかめる鳴海さん。二人の表情の違いが面白い。
「すみません、同じ本が二冊って、どういう意味ですか」
顔の形を「?」で固めたまま、鳴海さんが訊ねる。
「一冊は、俺が自費製作で手がけた原本といえるものです。色々あって、出版社の方に声をかけてもらう前に、一度自分で外注に出して製本してもらっていたんですよ」
「そんなことできるんですね」
鳴海さんは深く頷く。確かに読むだけの人にとっては、斬新なことなのかもしれない。俺はプリンの紙蓋を丁寧に剥がしながら、説明を続ける。
「もう一冊が、今お話した出版者の方たちの手によって製本された、もうすぐ市場に出回る予定の本です」
タイトルだけの原本からは、見た目が大分改良されていて、こちらには表紙のイラストもしっかりと入っている。中央には大きな窓が描かれており、その外側が事務所棟の俺がいたデスク、内側が品質管理棟のミヤコさんのデスクとなっている。席にはそれぞれ俺とミヤコさんが座っていて、窓越しに向かい合いながらお互いを見ている構図となっている。
「えっ、もう持ってるんですか。見たい! 是非見たいです!」
突然、鳴海さんは立ち上がって、俺の隣に迫り来る。「ねぇ、お願いします」
「ちょっ、近いですよ。っていうか今は持ってません。家です」
思わず身体を横にずらす。圧がすごいのだ。主に物理的な意味で。
「じゃあ、家行って良いですか」彼女は食い下がる。そして更に身体を寄せてきた。さっきよりもうんと距離が近くなる。
「駄目です。ちょっ、勘弁してください、ホント……無理。ミヤコさん、すみません! 見てないで、助けてください!」
鳴海さんの勢いに飲まれて、気がつけば俺はソファーに押し倒されていた。
ミヤコさんからの反応はなかった。完全に観客と化してしまった彼女は、俺の持ってきたプリンを口に含み、とろけそうな顔で一人唸っている。
「約束してくれるまで今夜は返しませんからね」
笑顔で語尾に「☆」をつけながらも、組み交わした腕の力には容赦がない。
いつかの約束がここで果たされてしまうのか――。諦めて崩れた足元に力を入れかけたその時、ミヤコさんから救いの言葉が発せられた。
「いつ発売なの?」
二人同時に彼女を見る。鳴海さんが固まっている隙をついて、俺は再び身体を起き上がらせた。
「……三月末。来週の、月曜日です」息も絶え絶えに、俺は答えた。
「お二人には俺からプレゼントさせて頂きます。ミヤコさんの分は橘さんにお渡しします。鳴海さんは……後ほど俺から直接お渡し致しますので」
……なので、もう許してください――。そういう意味で言ったつもりだった。鳴海さんの方を見る。
願いが伝わったのか、彼女はにっこりと表情を変えた。「発売日に頂けるのであれば、それで手を打ちましょう」
そのまま俺から少しだけ身体を離すと、背筋を伸ばして、膝をそろえた。
「……なんていうのは冗談です。いいんですか? なんだか頂いてばかりで申し訳ないんですが」
ころころとした瞳で首を傾げる。
プリンのことならどうでもいいが、彼女の気遣いは心に染みた。
「良いんですよ。それに俺だって鳴海さんからはたくさん頂いてます」
「何ですか。もしかして『愛』、受け取っちゃいました?」
「違いますよ」
また押し倒されそうな気配を感じで、思わず身体に力が入る。
「じゃあ、何ですか。『元気』とか、『やる気』とか言わないでくださいよー? 私政治家じゃありませんので」
「それも違います。まあ、本を読んだら分かりますよ」
「もー。お上手なんですから」
時代劇に出てくる悪徳商人のような口調で、彼女は言った。
しかし、事実なのだ。俺は鳴海さんから、しっかりと《ネタ》をもらっていた。それは俺が文字にすることによって得られた、確かに《形のあるもの》だった。彼女の存在だけでなく、強烈な言動や動作には、これまで何度と助けられたか分からない。プリン一つで申し訳ないのはこちらの方である。
「私からもひとつ、いいかしら」
いつの間にか席から消えていたミヤコさんが戻ってきた。手には、何かが入った袋を持っている。
「良い話ですか。それとも、悪い話ですか」
彼女から聞かされる報告で、良かったものなどあまりない。疑心暗鬼になるのも仕方ないだろう。
「良い話に決まってるじゃない。私だって空気くらい読めるわよ」
彼女はわざとらしく眉をひそめる。それもそうだと思い直して、頭に手を当てながら「すみません」と小さく詫びた。
「何ですかー? ミヤコ姉も私に何かくれるんですか」
鳴海さんは姿勢を正して目を輝かせる。もしそうだとしたら、全く理由が分からないので、俺はきっと驚くのだろう。
しかしミヤコさんは、立ったまま首を小さく横に振る。
「ごめんね。鳴海ちゃんじゃないの」
申し訳なさそうに、彼女は言う。だとすればそれは……。
彼女はテーブル越しに俺の正面に立つ。
「はい。三冊目」
「俺に……ですか?」袋から出された『それ』を、恭しく両手で受け取る。口を開けたまま、彼女の方から目が離せなくなる。「三冊目って、何ですか」
「いいから、見てみなさいよ」
見る? 読む、ではなく? そう思いながらも、裏返しのまま渡された本をひっくり返す。
堅く結ばれた蝶の結び目をとくように、頭の中の疑問が一瞬でほどかれた。
思わず俺は、口にする。
「マドギワの……セン、セイ」
「そう。『窓際の先生』」
彼女の柔らかな笑みが、俺を包み込む。「基ちゃんと同じで『オリジナル』だけどね」
自費製作。そういえば、彼女に本を手渡したときに、その作り方をさりげなく聞かれていたことを思い出した。
座ることも忘れ、その場でページをめくり出す。
違う。全然違う――。
書き出しも文字の字体も。ページの色だって、俺の書いたものとは大違い。完全に別物だ。これは、『彼女の本』だった。しかしどういうことだろう。
「……ちょっと、すみません。読ませていただきます」
ソファーに腰を落ち着けて、深呼吸を一つしてから、夢中でページをめくった。
速読並みのスピードに「もったいないことをしているな」と思いつつも、それ以上に先が知りたくて、手を止めることはできなかった。
また、繋がってゆく――。
内容は俺が書いたものと同じで、この会社が舞台の物語となっていた。俺が試験室を訪れた際、ミヤコさんがしきりにメモをとっていたのは、このためだったようだ。
また、工場見学の内容もしっかりと文中に採用されていた。屋上のサプライズが大分効いたようで、物語中では、元々予定していた設備の説明はほとんどされておらず、屋上の描写をメインに書いてくれていた。
俺が書いた本とミヤコさんの本で大きく異なっていたのは、「誰の視点で物語が書かれているのか」ということだ。ミヤコさんが書いた方は、主人公がおそらく彼女として描かれていた。対して、俺が書いた方は……言うまでもない。
後は表現技法だとか、演出だとか、物語の組立方法なんかは、駆け出しの俺とは全く比べものにならないほど秀逸で、同じ景色を見て書いたはずなのに、こんなにも違う物語が書けるものなのかと、嫉妬で途中から読むのを止めたくなるほどの出来映えだった。
<p><br /></p>
三分の二ほど読み終えたところで、鳴海さんのささやくような声が耳に入ってきた。
「でもミヤコ姉、なんで書籍化しなかったんですか? もったいないじゃないですか」
ページをめくる手が、自然と止まる。視線はまだ、手元に落としたままだ。
「それはね……」彼女は声を潜めながら言った。
「基ちゃんに先越されちゃったからかな」
違う――。
即座に思ったが声には出さない。
最初から売る気なんてなかったのだ。だったら別のタイトルで出せばいい。同じ書名でなければ、店頭にだって並べることはできる。彼女であればそれくらい、いくらでも思いつくはずだ。
にも関わらず、彼女が趣味の範囲に止めたのは、「このタイトルだから意味がある」と思っていてくれたからだろう。俺のつくった本と全く同じ表題である必要性を、彼女は強く感じてくれていたのだ。
読んで理解した――。
それは同じ世界を見て書かれたものだから。
同じ先生の物語だから。
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結末を残したまま、俺は本を閉じる。
「……ありがとうございます」
身体を深く曲げ、二重の意味で礼を言う。サプライズで本をくれたことはもとより、機会を譲ってくれたことについて。
「いいのよ。元々これを機にしばらく筆を置こうと思っていたから」
窓の外に視線をやりながら、彼女は言った。出産と結婚を節目に作家を休職する、ということなのだろう。
「後継者もいることだし」彼女はふふっと笑いながらこちらを見る。
そういうことか――。
俺も同じように笑ってしまう。
「策士ですね」
彼女が俺に小説家を勧めた理由。それは俺の適正を見ただけではなかったのだ。そのやり口に、かなわないと舌を巻く。
せめてもの抵抗の証として、俺はふやけて柔らかくなってしまったカップを、彼女の前で乱暴に口へと放り込んだ。
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送別会は予想以上に長引いた。
それは「幹事がいなかったから」という理由よりも、「誰もさして終わりを望まなかったから」という点の方が大きいように思えた。
開始から二時間、三時間と経っても、皆帰ろうとはしなかった。好きなように会の余韻に浸り込んでいた。
ミヤコさんは自分のデスクに戻ってなにやら書き始め、鳴海さんは残ったおつまみとキッシュを組み合わせて、創作料理の真似事をしていた。謎のオブジェを作りだし、嬉々とした表情を浮かべながら、写真に収めていた。後でSNSにでも投稿するのだろうか。
仕事で再度抜けていた橘さんも戻ってきた。
肩を鳴らしながら首を回す彼の様子を見て、俺は労うつもりで傍まで寄った。
しかし、それがまずかった。徳利と猪口を持って現れた俺の姿を見て、普段以上に気を良くした橘さんは、それからぐいぐいと煽るように飲み始め、ついには俺を離さなくなった。
最初はテーブル越しに向かい合って座っていたのだが、気が付けば斜め四五度、最終的には隣で肩を組むような形で、完全にロッキングされてしまった。逃げ場を失った俺は、橘さんから一方的にのべつまくしたてられる書評に、あるときは頷き、あるときは感心しながら、目の前に盛られたピーナッツの山を減らしていくのだった。
<p><br /></p>
「もうそんな時間なの?」
〇時ちょうど。夜勤の開始を告げるサイレンの音に気づいて、ミヤコさんは我に返ったように顔を上げた。いつの間にか鳴海さんはテーブルに突っ伏しており、橘さんはソファーにもたれ掛かって寝息を立てていた。
少し前に解放された俺は、ミヤコさんからもらった本の続きを読んでいた。もうすぐ結末に入るところだ。できれば今日のうちに最後まで読んでおきたかった。
彼女が声を上げたことで、俺はあることを思い出した。鞄から一冊の本を取り出す。
「そういえば『これ』、ありがとうございます」
「ああ、別に返さなくてもいいのに」
以前彼女から受け取った『物語のススメ』。それをやっとのことで、彼女に返す。
『コイツ』が結構やっかいだった。いつ返すべきなのか。半ば強引に受け取ってしまったとはいえ、返すタイミングに思いのほか悩まされたのだ。
当然、物語を書き進めていく上で役に立ったのは言うまでもない。けれども、「参考になりました。ありがとうございます」と言って返すだけでは、あまりに忍びない。それなりの成果を証明してからでないと、返してはいけないような気がしていた。
だから、俺は本が完成したとき、二重の意味で安心した。「自分の存在価値を彼女に証明できる」ということだけでなく、「借りていた本を返すための証拠ができた」という意味でも。彼女からもらっていた形ある借りを、ここにきてようやく返すことができたのだった。
「そういえばこの本、ミヤコさんが書いた本だったんですね」
すっかり使い古して味の出た『それ』を手渡しながら、俺は確かめるように言った。
「えっ、ああそうよ。やっと気づいたの?」
丁寧に受け取ってから、彼女は懐かしそうにページをめくる。
「気付けるわけないじゃないですか。何せ本名と全然関係ない名前なんですから」
あまりにも乱暴に思える伏線に、俺は小さく抗議の色を示す。三冊目を受け取っていなければ、俺は彼女のペンネームも、『物語のススメ』を書いていたことも、まず気が付かなかっただろう。二つの著者の名前が全く同じだったことで、ようやくその答えにたどり着くことができたのだ。
「そんなことないわ。基ちゃんとの会話の中でも結構引用してたのよ」
そのことには薄々気がついていたが、まさか自分の書いた本から引用するとは思わないだろう。それに彼女がこういう本を書くということも、想定外である。
「てっきりミヤコさんは小説しか書かないのかと思ってました」
彼女といえば、万年筆と原稿用紙。そこから連想されるのは、いつもなぜかファンタジーな世界だった。
「確かにこういうハウツー本みたいなのは、あまり得意ではないわ。一つの挑戦としてやってみただけ」
「以降は小説一本ですか」
「ええ。基本的には」
「じゃあ貴重な一冊ですね」
「そうかもね。《ここ》に置いていくから、いつでも見て良いよ」
その言葉に違和感を覚える。それではまるで、俺がまたこの場所に居続けるみたいじゃないか。
けれどもそれは違う。彼女が会社を辞めてこの試験室から姿を消すのと同じように、俺だってこの職場から消える予定なのだ。
しかし、それを今さら訂正するまでもない。虚しくなるだけだ。
「あれからすり切れるほど読み倒しましたんで。もう、たぶん読み直すことはありませんよ」
俺は自分の肩に視線を落として言った。
すると彼女は「いずれまた使うときがくるかもよ」と、意味深に笑う。
スランプにでも陥ればその可能性はあり得るのだが……。あまり想像したくはなかった。
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「帰りましょうか」
彼女は立ち上がり、天井に向かって大きく身体を伸ばす。振り落とした両腕とともに、ふっと息を吐いてこちらを見る。「二人、起こして」
目配せに無言で頷く。まずは隣でソファーと肩を組みながら気持ちよさそうに眠っている橘さんの肩を叩く。瞼が半分だけ開いたかと思うと、むっくりと背中を起こした。「腹減ったな」
「……もう、勘弁してください」
まだ、船を漕いでいる途中のようだった。そっとしておくことにする。
続けて、向かいに崩れている鳴海さんの肩に触れる。こちらはすぐに顔が上がった。ぱっちりとした瞳が、俺を捕らえる。
「……どっわぁああぁっ!」
大げさに驚かれてしまった。頭の中で、その声がぐわんぐわんと放射状に反響する。
「鳴海さん、酔ってないんですね」
「まあ、飲み慣れてますから。っていうか、基っち先輩! いくらなんでも酒と寝込みはやりすぎですよ。サッカーなら警告二枚で即一発たいじょ……」
「まだ寝といて良いですよ」
どういう思考回路をすれば、そんなたくましい妄想ができるのだろう。諦めてミヤコさんと二人で片付けることにする。
つまらなそうに顔を膨らませる彼女を後目に、机の上に散らかった皿や空き缶をテーブルの一カ所にまとめ始める。
「もー冗談ですよぉ」
鳴海さんも立ち上がり、自分の頬を一度両手で叩いてから、「よし」と、大きく声を上げる。
「じゃあ私、床に落ちたゴミ掃除しますね。ミヤコ姉、箒ってありますか?」
「箒はないけど、モップが入り口の棚にかけてあるから、それ使って」
目の前で余った食べ物をタッパーに詰め込みながら、ミヤコさんは言った。
「承知しました!」
彼女はひとつ形のいい敬礼をしてから、鼻歌交じりにモップを滑らせ始めた。
一通りゴミがなくなった後でも、その歌はなかなか終わりを見せなかった。彼女はアルト的な声にときとして鼻歌を織り交ぜながら、エドウィン・ホーキンスの『オーハッピーデイ』をサビの部分だけ永遠と繰り返した。それらをBGMにして、俺とミヤコさんも同じように部屋中をしこしこと雑巾で磨き続けた。結果、後片づけというよりも年度末の大掃除に近くなってしまった。
そのあと、眠気眼の橘さんをたたき起こし、ようやく会はお開きとなった。
べろべろに酔った橘さんを肩に担ぎつつ、俺たちは最後に、正門の前で四人、団子になって向かい合った。
「ミヤコ姉、次いつ会えるんですか」
「わかんない」
「落ち着いてからじゃないですか。ゴールデンウィークとか?」
「えーそこまで先ですか。寂しいですよぉ」
「ごめんね。やることいっぱいあるみたいだから。出産が終わっても、家事と育児が待ってるのよね。しばらくは様子見ってとこかな」
「絶対連絡しますね」
「また復帰する予定はあるんですか」
「ええ。もしかしたら戻ってくるかも」ミヤコさんは、俺の横で潰れている橘さんに、ちらりと視線を送る。「彼もこの会社に骨を埋める覚悟があるみたいだし」
「それまで試験室なくなってなければ良いですけど……」
本気で心配をする俺に対して、彼女は「大丈夫よ」と、明るく笑う。
何を根拠に――。と思ったが、それ以上追及することもなかった。たぶん、俺は願っていたのだろう。たとえ会社からいなくなろうとも、またここでお互い顔を合わせる機会に恵まれることを。曖昧にしておくことで、その可能性を少しでも残しておきたかった。
「じゃあ、ミヤコさん……」全員が自然と顔を見合わせる。
「「「おつかれさまでした」」」
「ありがとう」
彼女は小首を傾げながら、いつものようにふふっと笑った。
一歩引いてから、ゆっくりとお辞儀をする。街灯に照らされた髪留めが、一瞬のうちだけきらりと輝く。
ゆっくりと身体を起こした彼女は、目を伏せたまま、背中を向ける。そのまま、門の外へと離れていく。
「駐車場まで、送っていきましょうか」
「いいよ、すぐ近くだから」
振り向く彼女は、既に闇の中だ。口元だけが、かろうじて笑っているように見えた。
その瞳が陰で隠れて見えなくなっていたことに、俺は少しだけ、安堵していたのかもしれない。
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三月の後半。月曜の朝。桜のつぼみが見え始めたいつもの道のりを、俺は悠々とした気分で走っていた。
有給を行使できたおかげで、中山さんと対峙したあの日以降は、ほとんど会社に出ないで済んだ。
本ができるまでの間、中山さんをはじめとした一部の人たちによる圧力から逃れることができたのは大きかった。内容が内容だけに、発売日までは社内で噂になることもないだろう。
今日は最終日だ。デスク周りの掃除と、残った簡単な事務処理をする予定だった。
軽やかに駐輪場へ自転車を滑らせ、タイムカードを押す。
最後だ――。今日ここでやることは、何もかも、最後になる。そう思うと、スッキリとした気持ち以外にも、どこか寂しい複雑なものがあった。
正門くぐってすぐ、通路左手には場内の伝言掲示板がある。来週から俺の名前も社員名簿から消えるのかと、入社当時の自分に思いを馳せながら、ふと掲示板に目をやると、一枚のA4用紙が張り付けられていた。
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退職通知
水野 宮子(所属課:品質管理課)
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そうか――。もういないんだった。
ミヤコさんとは、結局三月の初めに開いた送別会以降会っていない。念のため連絡先は聞いてあるのだが、橘さんの存在もある。以前のように身近でなくなってしまったのは確かだった。今は「執筆で本当に息詰まったときの神頼み」程度に考えている。
結局、これで良かったんだと思う。俺たちは、「生徒と先生」だったのだ。俺が望んだ関係にならなかったのは、必然といってもいい。そういうことにしておきたい。
掲示板から目を離して、進行方向に目線を戻そうとした瞬間、ふとその横にもまだ紙が貼ってあるのに気がついた。
何気なく目をやったのだが、その内容を確認して、俺は驚愕することになる。
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異動通知
葉慣 基 (異動先:品質管理課)
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何だこれは。
信じられないその中身に、思わず大きなため息が出た。面倒だ――。最後の日くらいは平穏に過ごしたかったのだが、これでは確認しないわけにもいかないではないか。一瞬で気分が萎える。
しかし、作成したのは総務だろうか。どうせ辞めるのだから今日は挨拶だけのつもりだったが、一言くらいは何かしら文句を言ってもいいのかもしれない。ただ、恣意的に作成されたものだとしたら……。そこに含まれている意図までは、さすがに推測できなかった。
もんもんとした気持ちのまま、これまで通り作業着に着替えて事務所棟に入る。
週の初めだというのに、珍しく俺以外のメンバー全員が既に揃っていた。
しかし、というよりもやはり。誰も話しかけてこない。そのまま席に着こうとすると、総務に所属する派遣の女の子から、声をかけられた。
「おはようございます基さん。総務部長がお呼びです」
会社の「ナンバー2」から、お呼びがかかった。
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「まあ、座れや」
部屋に通された俺を待っていたのは、陰で社長の右腕とも囁かれている総務部長様だった。
第一応接室――。そこは工場の中でも聖域と言える場所だった。他の部屋とは違って、重要な取引先との会合や、役員同士の打ち合わせでしか使われることのない場所だ。普段扉には鍵がかけられており、使用する際は総務課の承認を得なければいけないほどだった。
部屋に入ってまず、その雰囲気に飲まれてしまった。置いてある家具から違うのだ。革張りの黒いふかふかしたソファーに、檜の重厚なテーブル。机の上には、像の足くらいありそうなガラスの灰皿がどんと置かれている。壁には、誰が書いたか分からない抽象的な油絵が金の額縁に収められており、棚の上には、これまた金色をした怪しげに鈍く光る花瓶が置かれていた。
そんなところに役員から直接お呼びがかかったのだから、俺は驚きを隠せない。これまで良いことをしてきた記憶が全くないため、なおさらだった。大方、呼ばれた理由としては一か月ほど前に中山さんと対峙したときの延長戦になるのだろうと予想はついていた。
「掲示は見たか」
膝よりも尻の方が深く落ちてしまうようなソファーに腰を掛けながら、総務部長の地を這うような低い声に、思わず息をのんでしまう。
怖い。ただただ、怖い――。
役員なのだ。そもそも、イチ平社員が、まともに話して良いような相手ではない。こうして面と向かって会話するなんて、面接の時以来だ。つまり、生涯二回目ということになる。そうなれば、初対面とさほど変わりない。
「拝見しました。しかし、私は今週いっぱいで辞めると事前にお話したはずですが、何かの手違いでしょうか」
頭で一度考えてから喋ってしまったせいで、少し発音がカタコトになってしまった。そして俺の態度が裏目に出たのか、露骨に眉をひそめられてしまう。
「それは受理できない」
「なぜですか」
すぐに反応してしまう。受理しないなんて、そんなテレビドラマのような展開があるのだろうか。二週間前どころではない。一ヶ月以上前から、中山さんには伝えてあるのだ。まさかここにきて忘れていたとは言わせまい。
「…………」
しばし無言のまま、時が流れる――。
時計の針の音が気になりだした頃、総務部長は突然動き出した。一瞬俯いたかと思うと、おもむろに『それ』を、机の上に置いた。
俺の本だった――。
この人が持っているということは、話自体は中山さんからしっかりと伝わっているようだった。
しかし、本の発売日は今日だったはずだ。わざわざ調べて取り寄せたのだろうか。それが今ここにあるという事実に、並々ならぬ執着を感じた。
「仕事の他に『こんなモノ』を書いていたとはな」
嘲るような口調に少し抵抗を感じたが、たぶんプライベートで会話をしたとしても、こんな感じになるのだろう。この人と俺では、年が離れすぎている。経験値に差がありすぎる。この人にとって俺は、全てが足りない人間に見えるはずだ。
ただ、『こんなもの』という言い方には、さすがにカチンときた。
「趣味で書いていたものが偶然拾われただけです」
気持ちを抑えながらも、俺は冷静を装って答える。間違っても戦ってはいけない相手だ。もうトラブルを起こすわけにはいかなかった。
しかし、総務部長から出てきた言葉は、意外なものだった。
「とりあえず読ませてもらった。随分とやってくれたな」
ん――? これは、誉められたのだろうか。
嫌みにも捉えられるが、相手が何を基準に物事の善し悪しを決めているのか分からないため、言葉の解釈に困る。相手は蚊に噛まれた程度だと思っているのか、蜂に刺されて内心では怒り心頭に発しているのか、判別がつかないのだ。
このくらいの地位になると、許容量、つまりは笑い飛ばせる範囲というのが、平社員である俺のもつ感覚とは、ずいぶん違っているような気がするのだ。
「何か影響があるのでしょうか」
会社が進んで騒ぎたてない限りは、何も問題ないはずだった。
「まぁ、いわゆる法的には、影響がないのだろう。ただ、社内的には大問題だ。異例の事態と言っても良いくらいに、上ではこの話題で持ちきりになっている」
やはり、やりすぎだったのだろうか。前代未聞だと言われてしまうと、さすがに少し怖じ気づいてしまう。しかし、後悔はないのでそのまま黙ることもない。
「内容には充分に配慮したつもりです。事前に了解も得ています」
「それも橘からは聞いている。しかし、当のお前は辞めると言うじゃないか。そうなると話は別だ。このまま黙認するわけにもいかなくなった」
「はい……」
もう、「会社は関係ない」とは言わなかった。まだ相手の心理は見えないが、今回は何か先がありそうな気がした。俺は固唾をのんで次の言葉を待った。
「……緊急で会議が開かれることになった。社長を含めて俺たち役員全員で、だ」
ついに、会社を動かしてしまったのか。事の重大さに今頃気づく。
「その結果、お前を辞めさせることはできないという結論に至った」
「なぜ、そうなるんでしょうか」話が繋がらなかった。
総務部長は、鼻筋をぎゅっとつまんだかと思うと、片目を開いて俺を見た。
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「影響力がデカすぎる」
<p><br /></p>
思わず、喉を鳴らした。
「辞められると、迷惑なんだよ。お前を野放しにして、またこんな風に会社をネタに好き勝手書かれたら、たまったもんじゃないからな」
そんなことをするつもりはなかった。もう一冊書くだけのネタはさすがにない。
しかし無意識に笑みがこぼれそうになり、慌てて俯いた。自分は評価されている――。そう強く感じた。
それは、与えられた仕事が誰よりもできるとか、会社の業績に人一倍貢献しているといったような、他人と比較して得られる「相対的な評価」ではなかった。それよりも今の俺が欲していたのは、自分の存在価値を示す「絶対的な評価」だったのだ。
俺は本を出版することで、自分が与えてもらうばかりではなく、与える事もできるのだということを、暗に会社側へと訴えた。総務部長は、その俺の『証明』に対して《○》をくれたのだ。
しかも、その《○》はただの《○》ではない。逆境の中、ただひたすら自分を信じながら進むことによってようやく勝ち得た、何物にも代え難い《○》だった。その事実が、ただ誇らしかった。
「その席では、同時にお前の処遇についても話し合われることになった」
「はい」
胸の高鳴りはまだ止まなかった。自然と背筋が伸びる。四年前に受けた面接を思い出す。緊張と期待が混じり合った、プラスともマイナスとも捉えようのない感覚。
「ここからは相談なのだが……」
刹那、総務部長の目が鋭く光ったような気がした。今朝の掲示板の謎が、ついに解き明かされることになるのだろうか。
「お前には、ミヤコ君がいたポジションについてもらいたいと思っている」
「俺が彼女と同じ扱い……ですか」
話の流れが変わった。彼女のポジションとはどういうことだろうか。
というより「ミヤコくん」って何だ。ここは「水野さん」だろう。総務部長の知ったような口振りが気になる。とにかく、今の状態とは全く異なる扱いになるということは察しがついた。
「実はミヤコ君とは繋がりがあってな。俺は彼女が執筆活動をしているのを『知っていた』。もちろん、身体のこともだ。それを踏まえて、あそこで働いてもらっていたわけだ」
どうやらミヤコさんは、この会社で昔から続くコネ入社組の一人だったようだ。試験室登校の黒幕はこの人だったのか。
ただ、俺はもうケリをつけたのだ。彼女の会社での仕事量は定かではなかったが、少なくともこれまで通りの成果を期待されるようでは、到底飲めるような要求ではなかった。
「申し訳ございませんが、ここで他の方たちと同じように仕事はできません。身体のこともありますので、これ以上迷惑をかけることはできません」
そもそも、俺は人間関係よりも、自分の身体に限界を感じて、この会社に終止符を打つと決めたのだ。だから会社と言うよりも、「働き方」を変えないと改善されない問題なのだろう。
しかし、総務部長は話をやめようとはしなかった。
「だから彼女と一緒で良い。仕事量については、極力『そちら』に影響がないように考慮しよう。ただ、書いた原稿だけは内容に関わらずその都度見せてもらう。心配せんでも橘を通してくれればそれで文句は言わん。相変わらず窓際に変わりはないが……」
総務部長は大きく一つ咳払いをした。そのまま、両肘を机に付きながら前屈みになって、ぎょろりとした目で俺を見る。「……これでも、まだ何か異論があるのか」
「そこまで言われますと、困ります」
正直、あるはずもなかった。
辞める理由が、なくなった。
身体の負担も。
仕事の量も。
精神的な苦痛も。
全部取り除かれてしまった。
しかし、困惑していた。納得できないでいた。
「話が上手すぎると思うのですが」
俺は眉に力を入れて、不信感を表明する。必要以上に相手を疑うということも、この会社に入ってから自然と身についた技術のひとつだった。しかし、今ではそれも行きすぎて人間不信になっているのかもしれなかったが。
「そうだろうな」
総務部長は自分でも信じられないといったように、軽く笑って頷いて見せた。
「しかし、彼女から聞いているんだよ」
「どういうことですか」
「私の後任はお前しかいないんだ、と」
「彼女がそんなことを言っていたのですか?」
「ああ、推薦だ」
「だとしたら……」俺はいつものように答えを探す。
しかしもう、分かっていた。いつだって俺に、選択の権利など与えられてはいないのだ。
そして、今回もまた――。
「断れません」
笑うしかなかった。断れない。「上司の」命令なのだ。肩書きだけではない、心から尊敬できる直属の上司による命令。彼女が敷いた道を、俺は知らない間に歩むことになっていた。
仕組まれていた。最初から。
見透かされていた。最後まで。
本当に彼女は終わりまでぶれなかった。何よりも、俺のためになることだけをやってくれていた。こうなることが必然となるように、彼女はひっそりと姿を消したのだろう。
けれども、困った。だとしたら、俺はまた借りを作ってしまったことになる。この借りはどうやって返せばいいのだろうか。彼女はもういないのだ。
「まぁ、一日時間をやるから、ゆっくり考えると良い」
総務部長は、なぜか笑っていた。そのしわの深い笑顔を見て、小さい頃によく遊びに行った祖父の笑顔を思い出した。見た目以上に良い人なのかもしれなかった。
そのまま、今日は帰ることになった。さっき通ったばかりの道で、自転車のペダルをこぎながら、ぼんやりと思う。
俺はこの四年間、何と戦っていたんだろうか――。
しばらくはこの会社でいるのも悪くない。そう思った。とりあえず次の後継者が現れるまで、待つのもアリだ。彼女がそうしていたように。
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##9.エピローグ##
静まりかえった部屋の中で、カタカタとキーボードを打つ音だけがかすかに響く。
時刻は午前六時前。こんな時間にもう会社にいるなんて、一年前までの自分なら、考えられないことだった。でも、今は違う。新しい仕事は、物音一つしないこの時間帯が一番捗るのだ。
椅子から立ち上がり、小さく開けていた窓を閉める。そろそろ蝉も起き出す頃だろう。
俺は結局、会社に残ることにした。執筆活動に専念すると、時間はあっという間に過ぎていった。
異動から一年。気づけばこれがもう、三冊目の作品となっていた。
俺は品質管理棟の二階で、新しい小説の続きを書き進めていた。二階といっても、新人教育研修の際に使用していた会議室ではない。その隣にもう一つ部屋があることを、偶然発見したのだ。
ミヤコさんが去った後、管理棟内を一通り掃除していた際に、見慣れない扉が目に付いた。扉には鍵がかかっておらず、簡単に中に入ることができた。
置かれていたのはテーブルと簡単な事務机が一つだけ。部屋の中は綺麗に掃除されており、頻繁に使用されていた形跡が伺えた。おそらく、彼女もここを利用していたのだろう。
何もない分、よく集中できるので、毎朝五時から始業開始までは、ここで作業するのが日課となっていた。
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ラジオ体操の音楽が鳴り終わってからしばらく経った頃、一階の入り口の扉がゆっくりと開かれる音がした。
物音一つしない品質管理棟の中では、「雑音」がよく響く。俺は手を止めてその人物を確認するために、まだ身体に馴染まない白衣をひらひらと揺らしながら、音もなく階段を降りていく。
ふもとまで降りて、突き当たりからそっと顔を出すと、通路の奥に向かって進む人影を発見した。心なしか足元が覚束ない。
その人物は、そのまま試験室の前あたりで立ち止まると、扉についた窓から中を覗きこむようにして、ドアノブに手をかける。中に入ろうとしているのだ。
俺はその姿を見て、自然とほほえんでしまう。
迷わず、声をかけることにした。
「開いてないよ」
こんな感じだっただろうか。その小さな陰にむかって、ゆっくりと歩みを進める。
近くまで行くと、あまり見覚えのない顔だった。確かこの前の社内通信で、似たような顔を見た気がする。おそらく新入社員だろう。ヘルメットにそれを示す赤線のラインが入っていた。しかし、顔色にまるで精気がない。そこまで身体は細くないのに、顔だけが随分と痩けて見えた。
「開いてないよ」
俺はもう一度、優しく問いかけるように言う。
その子は俺の目をじっと見たまま、固まっていた。
無理もない。この会社の《普通ではない人間》に出会ってしまったのだ。どう反応していいかわからないのだろう。別にこちらは取って食おうというわけでもないのに、そんな風におびえられると、何だか申し訳なく思ってしまう。
「何か用かな」
俺はいつの間にか再現していた。忘れもしない、あの日のことを。もらった言葉が、一字一句、鮮明に思い起こされる。
その子はまだ、黙ったままだ。やがて、俯いてしまった。
「カウンセリングでも、受けてく?」
俺は無言で扉を開く。藁にもすがる思いで開いたこの扉――。
中に入って彼を待つ。これから生まれるであろう物語に、胸を膨らませる。
彼女にやっと、恩を返せた気がした。