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窓際の先生  作者: 立中詩色
2/3

-中編-

「すみません。あれ以上は食堂でできるような話ではなかったので」

 大皿に積み重なった肉の破片をトングで小皿に移し替えながら、橘さんへと手渡した。次いで自分の分もよそう。

「でも、仕事関係の話なんだろう」

 橘さんは受け取った皿から一枚を口に入れると、味付けが物足りなく感じたのか、テーブルの脇に置いてあったペッパーミルをがしゃがしゃと挽いて、胡椒を継ぎ足した。

「そうなんですが、個人的なお願いになりますので、仕事場で話すのも何かと思いまして……」 

「なんだ、おまえも煮え切らない奴だなー」

 橘さんはひょいと顔を上げると、レジ遠くで佇んでいる店員に向かって手を上げる。

「ビールとウーロン茶一つずつね」

「ワカリマシター」

 ブラジル人らしき店員は、カタコトの日本語で愛想良く答えた後、パタパタと厨房に向かって戻っていった。その背中を見ながら、俺はゆっくりと話を始めた。

「お昼にもお話しさせて頂きましたが、是非とも協力して頂きたいんです。正直、こんなこと頼めるのは橘さんくらいしかいないと思ったので」

 自然と少し俯きがちになってしまう。目線の先に見えるテーブルクロスの端に、茶色いシミを発見した。

 元々、事務所内で胸襟を開いて話ができる相手なんていなかった。たとえ仕事の話であっても、鳴海さんを除いていえば、こんな風に俺の話を聞いてくれるのは、橘さんくらいだろう。だから仕事の話というのは口実であり、必要最低限の建前だった。

「知っているよ。君が孤立していることくらい」

 橘さんは平然と言いながらも、笑顔を崩さない。

「せっかくの機会だ。正直に言っておこう。気づいているだろうが、今の君の社内での評価は最悪と言っていい。なんせあの中山さんを敵にまわしたのだからな」

 無謀なことをするよ――。そう言いながら小皿に乗った肉をぽんぽん口へと放り込んでいく。結構な大食漢なのかもしれなかった。

 完全に他人事のように聞こえるその言葉は、不思議と俺を少しだけ安心させた。言っていることは厳しいが、嘘ではない。今はそのことが何よりも重要だった。

「ただ、それにもかかわらず最近の君は、なぜかすごく楽しそうだ。一、二ヶ月前と比較すると明らかに違う。もしや、ついに頭がおかしくなったんじゃないだろうな」

 橘さんは一瞬本気で心配するような顔を見せたが、俺が笑って否定するのを見ると、安心して話を続けた。

「まぁ、今のは冗談だ。俺は逆に、そんな最近の基君を結構評価しているんだよ。基君の課内での様子をよく知らないからなおさらだ。最近仕事以外でも話すようになって、君のことが少しだけ分かったような気がする。君は多分、周りの皆が思っているほど悪い奴じゃない。要するに損な性格をしているだけなんだと思うんだ」

「そんなことないですよ」

 俺はそんな橘さんのまっすぐな言葉を、素直に受け入れられなかった。誉められるのは、慣れていない。

「事務所の人にそんな風に言われたのは、初めてです」

「いや、だから俺は君に全面的に協力したいと思っているんだ。何かできることがあれば一向に頼ってくれて構わない」

「そう言って頂けると、非常に心強いです」

 こちらが話を切り出しにくいと思って、気を使ってくれているのだろう。仕事ができる人は、こういうところから違うのだろうと感じさせられる。

 会話が途切れた直後、見計らったかのように先ほどの店員が注文していた飲み物を持ってテーブルに現れた。橘さんは空のジョッキを店員に渡し、すぐさま新しい方に口をつけて一口で半分ほど飲み干してしまった。

 先ほどの頼りがいのある発言も相まって、今自分の目の前にいる彼が、同じ会社で働いている人間だとは到底思えなかった。俺も一息ついてからグラスに口をつける。

「で、具体的に何をさせてくれるんだい」

 橘さんは、両肘をテーブルについて身を乗り出す。

「はい。会社に対して、根回しをしていただきたいんです」

「何の?」

「工場見学です」

「工場見学ぅ?」

 橘さんは片方の目をつぶりながら、不思議そうに俺の発言を繰り返した。

 俺は手にしていたフォークをテーブルに置いてから、用意していた理由を説明することにした――。

<p><br /></p>

「先日のことなんですが、俺、ちょっと風邪で体調優れなかった日があったんです。会社にはもちろん来たんですけど、ただ、やっぱり朝から気分悪くって。朝の現場の見回りから帰ってくる頃には、いよいよ倒れるんじゃないかと思いました」

 俺は橘さんの方をちらりと見る。真剣な表情のまま、軽く頷いて先を促してくれた。「それで?」

「はい。とりあえず涼しいところに移動しようと思って、近くにある休めそうな建物を探しました。保健室までは遠かったですし、事務所の他の方たちに余計な心配はさせたくなかったので。そこで偶然目に止まったのが、品質管理棟でした」

「うん。ああ……そういうことか」橘さんの口元が少しだけ上がる。話の大筋は伝わったようだ。

 しかし念のため、俺はそのまま続けることにした。

「中に入ってすぐの廊下で、偶然彼女に出会いました。そのまま試験室まで連れて行ってもらって、少しの間介抱してもらったんです。おかげで何事もなく、すぐに仕事へ戻ることができました」

「その彼女というのが、ミヤコ君というわけか……」

 橘さんは、顎に力を入れて皺を寄せ、「なるほどね」と小さく呟く。

「にしても、それと工場見学がどう関係あるんだ?」

 まだ、疑問は完全に解消されてはいないようだった。

「単なるお礼です。俺が何かお返しがしたいと言うと、彼女からそれを望まれました」

「彼女が?」

 橘さんは口をすぼめた。理由が分からないのだろう。

「なぜかは俺も分かりません。ただ、彼女の意見をできるだけ尊重させたいんです。あのときは本当に助かりましたから。お礼の内容自体は一応俺の守備範囲なので、後は扉の鍵さえ手に入れば、何とかなりそうなんです」

 橘さんの言葉を待つ。ここで断られたら、もう後がない。

 しかし橘さんはまだ、腕を組んだまま堅い表情を崩さないでいた。

「具体的なプランは何か考えてあるのかい。会社に承認を得るためのプランが」

「もちろんです」

 否定されなかったことに安心する。次の段階に入るチャンスを与えられたのだ。

 俺は一度姿勢を正してから、更に詳細を説明することにした――。

<p><br /></p>

《女性活躍推進法》という法律が、今年の四月から新しく施行されることになった。企業が自社で働く女性労働者の「採用比率・勤続年数の男女差・労働時間状況・女性管理職比率」などの現状を把握し、その改善のための具体的な行動計画を策定することで、女性労働者の労働環境を改善させていこうという取り組みだ。 

 策定された行動計画は労働局へ申請し、それが認められれば、厚生労働大臣から「認定」を受けることができる。認定を受けた事業者は、厚生労働大臣が定める《認定マーク》を商品や広告などに付けてPRしても良いことになっている。結果として会社側は、企業イメージの向上や、優秀な人材の確保がしやすくなるということだ。

 俺は今回、この法律が上手く利用できるのではないかと考えた。うちの会社が企業イメージの向上をはかりたいということは、前々からひしひしと感じていたからだ。会社周辺地域の土地を購入したり、最寄りのガソリンスタンドと提携したり、東日本大震災の時には大規模な寄付を行ったりしていた。

 それが功を奏してか、最近では県内でもそこそこ名が知れるようになったものの、どうしても鉄を造る仕事柄か、クリーンなイメージの定着までには至っていなかった。

 資金的にはそれなりに優良企業であったため、CMを打って新たな顧客を獲得しようとする必要はなかったし、イメージ戦略だけのために莫大な資金を投入するようなこともしなかった。株式だって上場していない。

 そこでこの法律だ。上手くいって国に認定されれば、驚くほど安いコストで女性社員の活躍といった華やかなイメージが、会社に植え付けられることになる。会社にとっては願ってもないチャンスであるはずだった。そこで俺の考えた具体的なプランはこうだ――。

 まず、工場内で毎月一回行っている、《課長安全巡視パトロール》というのがあるのだが、それと同じように、女性社員が主体となる《女性安全巡視パトロール》という取り組みを、新たに開始させる。

 点検項目は主に男性では見落としがちな細かな3S(整理、整頓、清潔)について。水回りやトイレ、物品棚など、細かいところまで目が行き届く女性ならではの視点を上手く取り入れた、場内巡視活動とする。

 期間は毎月一回、時間は彼女たちの負担にならないように、毎回場所を限定して三〇分から一時間程度で帰ってこれる範囲にする。社内の女性三人から五人くらいを1グループとして回り、必要があればその都度指摘して是正してもらうようにする。

 そのリーダーとして、ミヤコさんを推薦する。彼女は女性社員の中では比較的長いキャリアを持っていながら、そこまで年齢もいっていない。取り組みが決まれば、たぶん何も言わなくても彼女がリーダーになるのだろうが、そこは一応念を押しておいた方がいいだろう。

 晴れて巡視が決定すれば、一度下見をしておく必要が出てくるだろう。下見と言っても工場内は女性である彼女だけで回ることはできないので、そこに橘さんも同伴してもらう。しかし当日、橘さんは急用が入って一緒に回れなくなってしまう(ことにする)

 そこで登場するのが俺だ。社内で時間を持て余しているように見える俺に対して、橘さんが代理人として話を持ちかける。俺はそれを内心で感謝しながらも、快く了承する――。大まかに言って、そのような流れだった。

 <p><br /></p>

 俺は目の前のグラスを一気に飲み干して空にした。我ながらなかなか悪くない案だと思っていた。

 会社側はこの活動を国に報告し、上手くいけば企業のイメージアップに繋げることができる。橘さんはそのアイデアを出した発起人として、上司から評価を得られる。女性社員に対しては、ほんの少し仕事が増えることになるが、事前に聞いた限りでは月一回ぐらいであれば運動不足解消にもなってむしろ大歓迎だという声が多かった。

 もし必要であれば、二回目以降は任意という形で、一回目で同伴した俺から直接内容の変更を説得してみてもいい。ここまでくれば、それくらいはやってみせるつもりでいた。

「……すばらしいじゃないか」

 俺の話を聞いて、橘さんはゆっくりとかみしめるように言った。しかし、様子が少しおかしい。表情がやけに冴えないのだ。

「私情を挟んでいるとはいえ、れっきとした『改善活動』だ」

 そう言いつつも、まだ顔には陰を落としたままだ。話している内容と見た目に差がありすぎて、どちらを汲み取ってリアクションすればいいのか、反応に困ってしまう。

「賛成していただけますか」

「いや、もちろんその案自体には大賛成だ。上手くいけば影響力は社内だけに留まらない。やってみる価値は大いにある。しかし……」

 橘さんはテーブルに両肘をつきながら考え込む仕草を見せる。何か懸念事項があるらしかった。

「彼女たちの意見は聞いたのか」

 組んだ掌の上に顎をついたまま、ちらりと俺に視線を送る。

「もちろんです。事前にそれとなくですけど、全員から個別で意見を伺いました。幸い否定的な方は一人もいませんでした」

 根回しのための根回し。一度しかないチャンスだと見越して、考えつく限りの準備はしておいたのだ。

「そうか。それなら良いんだ。こういうのは計画だけが一人歩きすることが往々にしてあるからな。せっかくのアイデアなのに、否定するようなことを言ってすまなかった。さすが基くんだ」

 そういって、橘さんはいつもの笑顔に戻った。

「やはり君は面白い。協力しようじゃないか」

 その表情を見て、力が抜けた。一応は交渉成立と見ていいだろう。

「ただ最後に、もうひとつだけ聞かせてくれ」

「なんでしょうか」

 まだ何か心配するようなことはあっただろうか。今日の目的は、既に達成されたところだ。半ば浮かれている俺に対して、橘さんはまた、表情に陰を落としながら言った。

「どうしてそこまでする。どうしてそこまで、彼女にこだわる。君は先ほどただのお礼だといったが、俺にはどうもそれだけだとは思えないんだよ」

 視線は鋭いものへと変化していた。ただ、それに俺が影響されることはなかった。

「なぜでしょう。それは俺にも分からないんです。ただ、このままだと納得できないのは確かです。もしかしたら俺は、橘さんの言うように意外といい奴なのかもしれません」

「そう返されると仕方ないな」

 橘さんは今度こそ諦めたように、顔を上げてがははと笑った。

<p><br /></p>

 しばらくすると、また肉の塊を持った店員がテーブルまで歩み寄ってきた。

「オカワリ、イリマスカ?」

 俺はその言葉を聞いた途端、自分のお腹がまだ満たされていなかったことに気づく。

「大盛りで、お願いします」

「アイヨー」

 店員は嬉しそうににかっと笑うと、肉の塊にナイフを入れ始めた。

 その言葉のアクセントが妙にツボに入り、橘さんのほうをちらりとみる。すると彼も同じようなことを思っていたのか、お互いに目が合ってしまった。俺たちはニヤリと笑いながら、またそのだんだんと積み重なっていく肉のピラミッドを、しばらくの間黙って見続けた。


 橘さんとの密会から週末の休みを挟んだ月曜日。その結果は思いのほか、すぐに知らされることになった。

 昼休みに食堂から帰ってくると、パソコンに一通の社内メッセージが送られてきていた。

『任務完了!(^^)b”from:橘さん』

 どうやら上手くやってくれたようだった。しかし、どこまでを指して「完了」と言っているのか少し心配になった。疑っている訳ではないが、いくらなんでも早すぎる。どんな手を使ったというのだろうか。

「早速ありがとうございます」

 昼休みの第三応接室。食堂から事務所棟に戻ってきた橘さんを捕まえて、事の詳細を聞かせてもらうことにした。手にしていた缶コーヒーを手渡して席に着く。

「大したことはない。俺にとってはこれも仕事だからな」

 橘さんは椅子に座りながら腰を大きく捻った。どうやら仕事と割り切って、優先的に処理してくれたらしい。だとしたら成果もたぶん、俺の期待を上回るものだろう。

「なおさら助かりました。このお礼は落ち着いたら必ずさせて頂きます」

 俺は腰に手を当てながら、深く頭を下げる。

「日程などの詳細を彼女と事前に調整しなければいけないので、決まった内容について教えていただけますでしょうか」

 それとなく詳細を確認したいことを伝える。

 橘さんはもたれていた椅子からゆっくりと背中を剥がした。 

「ん。ではまず結論から言おうか。基君の希望通り、女性社員のパトロールは来月から実施されることになった」

「はい。ありがとうございます」

「その前に下見をする許可も降りた」

「ええ」

「日程は自由に決めてもいいそうだ」

「本当ですか?」

 思わぬ相手の回答に、俺は露骨に驚いてしまう。まさかこちらに選択権が与えられるとは思っていなかったのだ。休日出勤くらいは覚悟していた。

「時間とルートも自由に決めて良いそうだ。良かったな」橘さんは白い歯を光らせながら、拳の親指をぐっと突き立てた。それを聞いて、俺はいよいよ頭が上がらなくなる。

 これは完全に橘さんのおかげだ。俺だったら、仮に同伴が認められたとしても、ガチガチの制約で固められたプランになっていただろう。会社側は橘さんが一緒に回ると思っているからこそ、このようなゆるゆるの回答を提示したのだ。

「ありがとうございます。でも、そこまでしてくれなんて言ってませんよ」

 俺は半ば呆れたように言葉を返す。しかし橘さんはニヤリとした後、さらに言葉を続けた。 

「まだあるぞ」

「えっ?」

 餅は一つで充分なのだが。これ以上何も望むようなことはなかった。

「半年間はお試し期間ということにしてもらった。だから正式に導入するかどうかは、その後ということになる。ちなみにその権限は俺にある」

「ありがとうございます」

 気づけば、立ち上がっていた。思わず握手を求める。何も言葉が思い浮かばなかった。がっちりとした分厚い掌の力強さと、長い経験が生み出したであろう深い皺の感触に、俺の心は鷲掴みにされてしまった。

 何なんだこの人は。これは反則だろう。格好良すぎる。

 根回しの根回しの根回し……。もう訳が分からない。まるで心理戦だった。そのめまぐるしい戦いの渦中で、どうやら俺は心酔しているようだった。

 物語は自分を中心にして、着実に良い方向に進んでいる。その確かな手応えに、俺は興奮を抑えきれないでいた。

「要するにまとめると、基くんの好きにやって良いということだ。まぁ、ないとは思うが、万が一何かあった場合は俺が責任をとるから安心しろ」

 橘さんは胸を張ってみせた。

「本当に、何から何まですみません」

「それしか言えんのか」

 橘さんは、がははと笑う。しかし、今の俺に返せるものといえばそれくらいだ。

「すみません。正直、期待以上で混乱しているんです。よければ私にも仕事を下さい。雑用でも何でも引き受けますので」

「いいよそんなの。手は足りているからね」

 この余裕はどこから生まれてくるのだろうか。不思議で仕方なかった。

「そうですか。ではもし何かあれば、気軽に言って下さい。工場見学の感想については、また追ってご報告致します」

 俺はもう一度深く頭を下げる。

「せっかくのお昼休みに申し訳ございませんでした。私からは以上ですが、ほかに何かございますか」

「んーそうだな。では、一つだけ」

 橘さんは椅子から立ち上がる。

「せっかく案内するんだ。君も気負わずに充分楽しんでくるといい。ただ、目的は忘れるなよ。少なくとも、変な気は起こさないことだ」

 そう言ってからまた、がははと笑った。

 それが本気なのか冗談なのか、その笑顔の奥に秘められた想いまでを汲み取ることはできなかった。

「ご忠告ありがとうございます」

 去り際の彼に向かって、もう一度丁寧にお辞儀をする。

「うむ。じゃぁ報告楽しみにしてるよ」

 そういって橘さんは応接室から颯爽と出て行った。

 俺は後に続くことなく、先ほどまで自分が座っていた椅子に、もう一度腰掛ける。彼の最後に残した発言が、妙に気になった。

 納得しているのは自分だけかもしれない――。なぜかそんな不安が頭をよぎった。

 これほどまでに物事が上手く進んだのは、初めてだった。もしかしたら今自分が登っているのは、長い梯子の上なのではないか。後から大きなしっぺ返しを食らうのではないか。

 少なくともまだ、手放しで喜べる段階ではなかった。

<p><br /></p>

 翌週の日曜日。

「日程の調整をしましょう」

 俺が試験室に入るなりそう切り出したミヤコさんは、なんだか今までにないくらい気分が良さそうだった。じめじめとした梅雨の時季も終わって、少し過ごしやすくなったからかもしれない。

「その前に、一つだけ。巡視の件、ご協力ありがとうございました」

 半年間は試験期間といっても、負担にはなることは間違いない。にもかかわらず快く了承してくれたことに対し、俺は再度礼を言う。

「いいのよ。そもそも見学したいって言い出したのは私なんだから。まさかあんな方法で本当に許可が取れるとは思っていなかったけれど」

 彼女はそれなりに感心しているようだった。軽い驚きも入り混じったその複雑な表情は、普段の彼女からはあまり見ることのできないものだった。その珍しい顔を拝めたことを思うと、いろいろと立ち回った甲斐があったのかもしれない。

「俺も驚きました。こんなに上手くいくとは思っていなかったので。新聞で見たものをそのまま採用させてもらっただけなのですが……」

「それにしても、でき過ぎじゃない?」

 確かに、成功したのは偶然ではなかった。今回も壊れるとき同様、相当の下準備をしたのだ。閃きのみで行き当たりばったりに橘さんまで交渉して、見学の許可へとこぎ着けたわけではない。だから必然であるとも言えたが、それでもここまで上手くいったのは、あらゆる幸運が重なった結果としか思えなかった。

「印象に残っていたんですよ。記事を見たとき、この会社なら絶対飛びつくだろうなーって思ってたんです。でも、最後のきっかけの部分だけが欠けていたんです。それが頭の中に処理されないまま残っていて、今回の件と繋げられた訳です」

「また、『気持ち悪い』ってヤツね」

「そういうことです。おかげで頭の中が少しだけ軽くなりました」

「前向きで宜しい」

 彼女は声を弾ませながら、手にした万年筆でこちらに向かって空中でチェックを入れる。

 俺は彼女を斜めに見上げる形でソファーに腰掛けた。一つ、事前に調整しておかなければいけない点があったことを思い出した。

「それで日程の件なんですが。一つだけ条件を出させてください」

 彼女のスケジュールは全く把握していないので、基本的には比較的時間の空いているこちらが合わせるつもりでいた。

「なあに? 私も忙しい身だからどうかなー」

 彼女はくすくす笑っている。忙しそうなところなど見たことないのだが、たぶん深い意味はないので流す。

「日付と時間はおまかせしますが、できれば夜にしてください。できるだけ暗くなる時間帯が望ましいです」

 これは工場見学の《プラン》に必要最低限なことだった。楽しませろと言うのだ。それくらいは従ってもらおう。

「何それ怖い。まさか暗がりに任せていやらしいこと考えてるんじゃないでしょうね」

 ミヤコさんは肩を両腕で抱き、がたがたと震えて見せた。

「そんなつもりはないですよ。そこまで若くもないですから」

「まだ若いわよ。少なくとも見た目はね。それに基ちゃんが若くないんなら、私はどうなるのよ」

 ミヤコさんは腕を組んで怒ったような仕草を見せる。今日の彼女からは、ほんの少しだけ鳴海さんの成分を感じた。その発言は完全な被害妄想に思えたが、これも気にしないことにする。

「そういう意味で言ったんじゃないですよ。ミヤコさんは充分若いです。肉体的にも、精神的にも」

 俺は皮肉を込めて返す。すると彼女はすぐに反発した。

「精神的に若いのはイヤだわ。逆は良いけど、少なくとも今の私の身体に精神が伴っていないっていうのは問題でしょう」

「すみません、発想がフレッシュで若々しいと言いたかったんです」

「それも駄目」

 そうやって軽口をたたきながらも、俺は話を戻す。

「お時間の件、大丈夫そうですか。勤務時間外にもなってしまうと思うんですが」

「ええ、問題ないわ。つまんなかったらお金取るけど」

 どこの風俗嬢だ。少しやり返された気分になる。

「次の日は休みが良いわよね。今週末の木曜日はどうかしら。〇時頃。私も次の日はちょうど休みだから」

 彼女は社内カレンダーを見つめながら言った。自分の予定もしっかりと言ってくれるあたり、俺への配慮が伺えた。 

「その日だったら、都合がいいです。生産もありませんので」

「じゃあ決まりね。何か持ち物は必要かしら」

 俺は頭の中でもう一度プランを確認する。彼女が持ってくるようなものは、特になさそうだった。

「ヘルメットや作業着、懐中電灯はこちらで用意します。なので、何も持ってこなくて大丈夫です」

「ありがと」

 首を傾けてほほえむ彼女に、俺は無言で頷いた。

 <p><br /></p>

 木曜日。日付が変わるまであと二〇分といったところ。俺は待ち合わせ場所である守衛所前にいた。時間までずっと会社にいるわけにはいかなかったので、一度家に帰ってから、準備のために少し早く家を出た。

 荷物は彼女の分と自分の分を、それぞれ小型のリュックサックにひとまとめにして入れておいた。

 中身を再度確認する。ヘルメット、作業着、マスク、軍手、小型の懐中電灯、安全帯、携帯電話、ハンドタオル、ビニールシート、水筒。それに濃度計。大丈夫、漏れはない。

 空を見上げると、雲は一つも見あたらなかった。天気予報でも晴れだと言っていたから、雨具は必要ないだろう。

 準備が思っていたよりも早く終わったので、彼女が来るまでのあいだ、守衛のおじさんと時間を潰すことにした。

「基ちゃんももう四年かぁ。早いもんだねぇ」

 目を細めるようにして言うおじさんに対して、俺も同じような表情を浮かべながら同意する。

 社会人で四年というのは、社内の枠組みで見れば、中堅社員の仲間入りということになる。完全に新人とは別枠で見られることを考えると、確かに早いものだと思う。

 おじさんとは以前にも何度か話したことがあった。いつの日だか、「元々は自分も現場で働いていたのだが、身体を壊してここに異動になった」ということを、本人から直接聞いたことがある。そのとき俺は、こんな所にも物語があるということに、しみじみ驚いたものだった。

「ここいらが頑張りどきだよぉ。あのぉ、何だっけぇ、そうそう。平井ちゃんなぁ。気の毒でぇ。基ちゃんも気をつけないかんでなぁ」

 おじさんは歌舞伎役者のような口調で、惜しむように言った。俺は無言で頷いた。

 平井は会社を辞めた――。俺がちょうど小説を書き始めた八月の頭頃、突然来なくなってしまった。

 原因は分からない。会社内では、たぶん誰も。総務が実家を訪れてみても、会うことすらできないと言っていた。

 その話を耳にしたとき、平井も俺と同じように苦しんでいたのだろうかと考えた。だとしたら、それはとても恐ろしいことだ。俺も平井も、立場的にはほとんど何も変わらないからだ。

 俺はたまたま、本当に運良く、新しい道が見つかっただけだ。絶望のどん底で垂らされたかすかに光る蜘蛛の糸を、ミヤコさんが照らしてくれたおかげで、何とか掴むことができただけに過ぎない。そのまま彼と同じような結末を辿っていた可能性も大いにあった。

 いや、もちろんこれからもその可能性はある。今だって確かなことは何も分からないまま、ただがむしゃらに、とにかく進んでいるだけだった。彼とは一度話をしてみたかったが、それももう、叶わなことなのだろう。

 そんなことをぼんやりと考えながら正門の外に視線を送っていると、闇の中に延びた通路の奥から、小さな白い人影のようなものがぽっと浮き出てきたのを発見した。その陰はゆっくりとこちらに近づいてきて、次第にシルエットをくっきりと浮かび上がらせる。

 ミヤコさんだ――。

 俺はおじさんに別れを告げ、彼女の元へと駆け寄った。敷地を一歩出てしまえば、そこは街灯一つない真っ暗闇だ。少なくとも今は女の人が一人で外を出歩いていい時間帯ではなかった。

「お疲れさま。待たせたかしら」

 俺の心配をよそに、彼女は堂々としていた。まだ、約束の時刻までは一〇分ほどあった。

「いいえ。ちょうど良いところにきてくれて助かりました。守衛のおじさんと話す内容も尽きかけていたところです」

 そういって俺は彼女の方を見る。暗くてまだ顔がよくわからない。

 二人で並んで正門に向かって歩く。遠くではカエルや鈴虫が規則正しく心地よいリズムで鳴いていた。

 昼間には感じられない涼しげな空気が頬を柔らかく撫でる。冷たさの中に少しだけ寂しさも混じった風に乗せて、隣からはほんのりとやさしい石鹸の香りがした。

 守衛のおじさんに軽く会釈した後に、二人で花壇の前まで移動し、俺は用意したリュックの片方を彼女に手渡した。

「本当になにも持ってこなかったけど、お客さん気分で大丈夫なのかしら?」

 彼女は俺が用意した紙袋の中から作業着のジャケットを取り出し、バサッと豪快に翻す。

「問題ありません。全てこちらで滞りなくご案内させて頂きます」

「なあに、その口調。似合わないわよ」

 にやつきながら指摘されてしまう。

「すみません」

 どうやら俺は、夜特有の変な高揚感に支配されているようだった。

「そういえば今日、工場の生産ないのよね。それでもこれって必要なの?」

 今度はマスクを取り出し、指で引っかけながらぷらぷらと揺する。

「ええ、してください。目に見えない塵や埃が飛んでますので。『塵肺』といって、それが気付かないうちに肺の中に蓄積されてしまうと、病気になったりすることもあるんです」

 俺もポケットからマスクを取り出し、装着してからヘルメットを被った。

「灰が肺に……へぇ、意外と勉強しているのね」

 彼女は少しにやけながら、感心したように言った。意外とは余計だ。

「それで、今回のゴールはどこかしら」

 バッグに入っていた懐中電灯で、あたりを適当に照らしながら、目当てのものを探すトレジャーハンターのような仕草を見せる。彼女もそれなりにこの雰囲気を楽しんでいるらしかった。

「まだ秘密です。一応サプライズなんですから。先にどこか見たいところはありますか?」

 物事には順序があるのだ。中身が分かるプレゼントほど、シラケるものはない。

 けれども俺がそう言うと、彼女は口をタコのように突き出してみせた。どうやら不満らしかった。

「……そうね、じゃあ工場の設備を一通り案内してくれるかしら。できれば生産工程順に」

 ポケットから手のひらサイズのメモとボールペンを取り出して、彼女は言った。

「お安いご用です……あっ、すみません」

 俺の口調は、まだ直っていなかった。

<p><br /></p>

 そのまま俺たちは工場の北側にある裏口まで移動した。生産行程順ということであれば、正門からほど近いところにある東側の入り口よりも、原料置き場がある北側からの方が説明しやすいのだ。

 工場の周辺を沿うようにして、敷地内を歩く。通路に設置された照明の光は、まるで俺たちを導くかのように、アスファルトの路面をくっきりと照らし出していた。その一本の筋に照らされて、所々で金属の破片のようなものが鈍く輝いていた。

「そういえば、小説の方はどうかしら」

 まっすぐ引かれた歩行者用のマーキングの上を、綱渡りのように進む彼女。そのスピードに合わせて、俺も隣をゆっくりと歩く。

「まだ壊れている最中です。思いのほか考えがまとまらなくって。結構時間かかりそうな気がします」

 細々とした書きたい内容は沢山あるのだが、それを物語になるように繋ぎ合わせていく作業が思うように進まなかった。

「それは不満が多すぎて書き切れないってことじゃないの? だとしたら贅沢な悩みな気がするけど」

 彼女は視線を先に固定したまま笑っている。

「いや、能力の問題かもしれません。ネタを上手く活かし切れていない気がします。編集能力が足りてないんでしょうか」

「そのあたりは慣れるしかないんじゃない。色々と切り貼りしていたらそのうち繋がるわよ。パズルのピースみたいに」

 楽観的に言っているが、それは彼女のキャリアだからこそ、感じることのできる余裕に思えた。

「ミヤコさんが小説を書く上で、特に気をつけていることって、何かありますか」

 俺は視点を変えて、彼女からアイデアを引き出そうと試みる。

「んーいろいろあるけれど。あっ、アレかな」

 彼女の左手が工場の外壁を指す。その先には一枚のプレートが張り付けられていた。会社のスローガンだ――。今歩いている所からは結構離れた位置にあったのだが、ご丁寧にスポットライトが当てられているので、遠目からでも確認できたのだろう。

【三現主義の徹底! 《現場で・現物を見て・現実的に考える》】

「知ってるでしょう」

「ああ、これはもちろん俺も知ってます。工場に来てすぐ、現場の先輩方に教えられました」

 工場内にはいくつかのスローガンが掲げられている。入社して最初の一週間ほどで、全て覚えるようにたたき込まれた。

「一緒なのよ。これと。前に言ったと思うけど、物語の根底は現実にあると思うから。それを詳しく知ることで、現実も非現実も、正しく使い分けることができると思うの」

「正しく、とはどういう意味ですか?」

 現実のほうは分かるが、彼女が「非現実の世界において正しい」という表現を使ったことに、少し引っかかりを感じた。

「物語に正解なんていうものは、おそらくないでしょう。全てフィクションなんだもの。ただし、読み手が許容できる範囲というのは限られている。『それはありえないだろう』っていう一種の越えちゃいけないラインって、あるじゃない」

 ああ、そういうことか。コインの表を知っていないと、裏も分からない――。という感じだろうか。いや、この場合はそれよりも……勉強と一緒で基礎ができて初めて応用ができる――。という感じの方が近いだろうか。

「どっちにしても現実の描写でつまづいている俺には、オリジナリティを出すなんてまだ先の遠い話です」

 俺が彼女のように大人の香りを纏えるのは、いつになるのだろうか。見当もつかない。

「大丈夫よ。少なくとも私はここにきてから、この教えに忠実に従ってきた結果、今までやってこれているから」

 そう言って彼女は振り返り、動かしていた足を止める。

 気がつけば、北側の建屋内入り口まできていた。原料を運び込む大型トラックの搬送ルートが、急な坂道になって建物の中まで延びている。搬入口の横には、よく見ると人間が出入りする為のドアが設置されている。ただ、普段あまり使われていないためか、壁と完全に同化してしまって、言われなければその存在には気づけない。

 俺はその古びたドアに手をかけて、ゆっくりと手前に引っ張る。砂を引きずるような鈍い音とともに、扉は重苦しく悲鳴を上げて動きだした。

 中に入ると、途端に鉄と油の混ざり合ったつんとする臭いが鼻をついた。

 初めての人にはちょっとキツだろう。そう思って彼女の方を見ると、向こうも何か言うつもりだったのか、お互い目が合ってしまった。

 しかし、彼女の方は、先ほどと少し様子が違っていた。なぜか落ち着かない様子で、無言のまま頷いたり、あたりを見回したりしながら、どこかそわそわしているようにも見えた。

 そして再度後ろに佇む俺の方をバッと向いたかと思うと、マスクの上の眼をしぱしぱと瞬かせて言った。

「コレよ、コレ! 私が求めていたのはコレなのよ」

 砂場ではしゃぐ子供のように、その場で小さく足踏みをする彼女。ジャケットの襟を両手で握りながら、跳ねるようにして目の前の階段を一気に駆け上がっていく。

 それから一番上まで登り切ると、深呼吸を一つして、信じられない一言を放った。

「興奮しちゃうわ」

 興奮? その言葉にどん引きする。てっきり顔をしかめられるかと思っていたのに、どんな環境で育てば、そのような感想を抱くことができるのだろうか。少し遅れてから、俺は彼女の元までたどり着く。

「すみません、意味が分からないんですが。何なんですか、興奮するって」

「あなた分からないの? あぁ、そうよね。普段から嗅いでいるからもう慣れちゃったのかしら。だとしたらすごく可哀想だわ。こんな感覚を忘れちゃうなんて。もったいないとしか言いようがないじゃない」

 どうやら彼女は俺以上の変態らしかった。まだ何も見せてはいないというのに……。現段階では、あくまでも臭いについて言及しているだけに過ぎない。それでこの様子なのだから、俺の想像を越えた何かを、彼女は持っているのだろう。

 少なくとも俺は、初めてのときでもここまで興奮……いや、衝撃を受ける事はなかった。

「早く説明してよ。この香りはどこからくるの?」

 そういって彼女は、俺を引っ張るようにして奥まで案内させようとする。言われるがまま、されるがままに、俺は彼女についていく。まるで飼い犬だ。どっちが案内しているのか分からない。

 静まりかえった建屋内に、俺の淡々とした説明と、少し食い気味になったミヤコさんの声が響き渡る。

 会話が途切れることはなかった。

 夜の冷めたような静寂も、俺たちの前では大して意味をなさなかった。

<p><br /></p>

「ありがとう。凄く興味深かったわ」 

 一通り工場内部を一周して、俺たちはまたスタート地点である東側の建屋入り口付近まで戻ってきていた。

「分かりにくくなかったですか。実は誰かを直接案内したのって、初めてだったんですよ。来客用の担当者というのは、事務所内でもほとんど決まってしまっているので」

「そうは見えなかったけど。それにいいのよ。こうして直接現場を見て回って、その空気を肌に染み込ませることができればそれで充分」

 彼女は満足そうに両手を空に突き出して、背中を伸ばした。

 マスクを外してさっぱりとした表情を見せる彼女を見て、俺は一応の忠告をしておく。

「あの、まだ終わってませんよ」

「あっ、そうよね」

 完全に忘れていたらしい。記憶が飛ぶくらい衝撃的な出来事なんて、多分なにもなかったはずなのだが。

「忘れないでくださいよ、これからが本番です」

「ごめん、正直もう満足しちゃってたわ」

「止めときますか」

「良いの?」

「良くないです」

「何なのよ、もう」

 彼女はふふっと笑う。時刻は既に一時を回っていたが、お互いにまだ疲れは見えていない。

「それで、次はどこに連れて行ってくれるのかしら」

「あそこです」

 俺は工場の外壁、その遙か上の方を懐中電灯で照らしてみせた。そこに見えるのは、建物の内部から屋上に出るための連絡通路として使われている「く」の字型をした階段だった。

 地上から三〇メートルくらいだろうか。かなり高い所にあり、その階段だけが建物の内部からはみ出るようにして取り付けられている。暗闇の中わずかに見えるそのシルエットは、四角い段ボールの角に張り付いた芋虫のようだった。

 ちなみに、階段といっても決して大がかりなものではない。高所作業用の梯子に、腰までの高さの手すりを付けた簡易的なものだ。見た目はとても頼りなさそうに見える。

 そして何より恐ろしいのが、風の影響で階段が崩れるのを防ぐために、足元はグレーチングで造られていることだ。下がそのまま透けて見え、ボールペンくらいだったらその間を通り抜けて、アスファルトの地面まで真っ逆さまな仕様となっている。

「アレを使って、屋上に行きます」

「えっ」

 珍しく彼女は驚いた表情を見せた。何か問題でもあるのだろうか。

「いや、あそこは……だって……」

 先ほどまでの勢いはどこに行ってしまったのか。急にそわそわして落ち着かないといった感じで、足元に視線を泳がせる。

 どうやら、屋上が駄目なわけではなく、あの階段が駄目らしい。ということは……あぁ、そういうことか。俺は新入社員の頃に、皆であの階段を登ったときのことを思い出していた。

「あそこはたぶん、無理……かも」

 やはりそうだったのか。俺は確信する。

 しかし「たぶん無理」って何だ。そんな言い方されたら、こちらとしては追求せざるを得ないじゃないか。自分の中でまた、何かのスイッチが入った。

「それはどういうことですか」

 いやらしいと思いながらも訊かずにはいられなかった。こんなたじたじな彼女を見られる機会なんて、今後一生ないかもしれないのだ。少しくらいは許してもらいたい。

「高いし、暗いし、それに足元透けてる……でしょう。だから、危ないと思うの」

 足元が透けているのは関係ない。俺は言及したい衝動をぐっと抑えこむ。

「危なくないですよ。少なくとも強度的には、全く問題ありません。

「ほかに何かあるの?」

 彼女は心配そうに顔を上げて俺を見つめる。黄色いヘルメットが、途端に彼女を幼く見せる。

「風です。風圧が凄いんです」

「凄いって、どんな風に」

「揺れるんです。階段自体が安定しないし、自分も飛ばされそうになります。遊園地の下手なアトラクションなんかよりもよっぽどスリリングですよ」

 俺は声を弾ませる。電灯に照らされた彼女の表情が、次第に陰をつくり始める。

「高さはどれくらい?」

「大体三〇メートルくらいです」

「三〇メートル!!」

「はい。この辺りの建物では一番高いです」

「あっ……でも建屋内にはエレベーターもあるわよね、それを使えば屋上までいっきに――」

「残念ながら……」

 俺は彼女が言い終わる前に、言葉を挟む。

「直通のエレベーターについては、今日は使えません。動かすには専用の鍵が必要ですし、そもそも生産のない夜間は、安全上電源が落とされるようになっています。なので屋上へ上がりたければ、あの階段を使う以外に方法はありません」

 俺のマニュアルじみた説明を聞き、ついに彼女は顔を上げて、絶望の表情を浮かべた。心ここにあらず、完全にゲームオーバーといった感じだ。

 元々強気な上に、年上のプライドが邪魔してどうすればいいのか分からないのだろう。やがて彼女は力尽きたように、その場にしゃがみ込んでしまった。「……ちょっと待って。おなか痛い」 

 なんだそれは。思わず笑いだしたくなる。

「お腹痛いってミヤコさん、大変じゃないですか」俺はワザとらしく驚いてみせた。「お手洗いまでご案内しましょうか」

「……いらない」

「では119」

「なんでそうなるのよ」

「痛いんですよね」

「痛くないわよ何なのよもー!」途端に彼女は膝に顔をうずめる。「あたし高いとこダメなの!!」

 …………はい。知っています。彼女はここにきてようやく観念してくれたようだ。

 どうやら、思いのほかダメージは大きかったらしい。最後あたりは笑って流されるような気もしていたが、もしかして職業柄、彼女は普通の人よりも想像力が豊かなのかもしれない。だとしたら「天才の苦悩」的な感じで少し羨ましくもある。

(しかし、少しやり過ぎたか……)

 幸い周囲は闇に包まれており、俺たち以外に人の姿は確認できない。守衛所までも少しだけ離れているので、今のやりとりを目撃していた人はいないだろう。

 けれどもひょっとすると、この「周囲に誰もいない状況」こそが、彼女のあられもない姿をあぶり出す後押しにもなったかもしれない。そう考えると、偶然だとしてもよく仕組まれたような展開になってしまった気がする。事前に彼女から心配されていたように、押し倒すようなことはなかったにしろ、「いやらしいこと」はしてしまったと思う。


 その証拠をまじまじと見せつけるかのように、しばらく経っても、彼女は動かなかった。さすがにまずいと思った俺は、ようやくフォローを入れる。

「すみません。調子に乗りすぎました」

「許さない」

 丸くなったまま動かない。何かの置物みたいだ。俺も彼女と同じようにしゃがみ込んで、顔を覗くようにする。

「あの、気づいてたんです」

「どのあたりから」

「たぶん、無理ってところ」

「ほとんど最初じゃないの!」

 自分で作った三角の洞穴に、彼女は叫んだ。

 しかし良かった。どうやら完全には怒ってはいないようだった。

「でも、ありがとうございます」すかさず俺は、言葉を返す。

「何が」

「『行かない』とは、絶対に言わなかった」

「分かって言ってたんでしょう」

「もちろんです」

 数年前の俺なら、おそらくこんな心理戦みたいなやりとりはしていなかった。いや、できなかった。彼女のことをまだ何も知らなかったからだ。

「じゃぁ、許してあげる」

 彼女は膝を抱えたまま、顔を上げて俺の方を見る。その姿に、俺は胸をなで下ろす。

「でも、なんで高いところがダメなんですか。高所恐怖症ってやつですか?」

 俺はアスファルトの地面に尻をつけて、胡座をかいた。

「そういうのとはまたちょっと違うのだけれど……」彼女は袖のボタンをくりくりと弄る。

「高層ビルの展望デッキとか、観覧車でよくあるでしょう。足元がガラス張りになっていて、下が透けて見える所。あのときのふわふわした宙に浮くような感覚が、どうも駄目みたいなの」

 思い出すように遠くの空を見つめている。その感覚は俺も何となく分かるような気がした。

「屋上は?」

「上ってしまえばたぶん平気。下が見えなければ大丈夫よ」

 それを聞いて安心する。本当に駄目なようなら仕方がないと思っていた。無理を言ってまで連れて行くつもりは毛頭ない。

「それは良かった。でも、安心してください。念のため用意はしてあります」

 そう言って俺は、リュックサックの中から安全帯をごそっと取り出して見せた。

「これがあればまず落ちることはありませんから」わざとらしく笑ってみせる。

「いいのよ、そこまでしなくても」

 彼女もふふっと笑顔で応えた。

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「……じゃあ、そろそろ行きますか」

 ひんやりとした地面に手をついて、二人同時に立ち上がる。尻についた埃を軽く叩き、再度ヘルメットをかぶって、マスクと軍手を装着する。

 一歩先を行く俺に彼女が続くかたちで、再度東側の建屋入り口へと向かった。

「ここからはエレベーターを使います」

 俺はポケットから小さな鍵を取り出して、目の前で揺する。

「使えないんじゃなかったの」

「これで行けるのは途中の九階までです。そこから内部の階段を使って一〇階まで登ってから、更に外に突きだした梯子階段を使って、やっと屋上に出ることができます」 

「大変なのね」

「これでもまだ楽なルートなんですよ。この鍵も手に入らなかったら、ここから一〇階までひたすら階段を上ることになります」

「そのときはさすがに諦めるわ」

 俺も無言で頷いて同意を示す。鍵を手配してくれた橘さんに感謝だ。

 鍵を開閉ボタンの下についている挿入口に差し込む。スイッチの青いランプが点灯し、モーターの唸るような駆動音がエレベーターの内部から聞こえてきた。

 そのまま一分ほど待った後で、ドアが開かれた。中に乗り込むと、もわっとしたなま暖かい空気に包まれた。扉が閉まり、外界の音が一気に遮断される。この感じは、苦手だ――。

 階表示のLEDランプが徐々に九階へと近づいていく様子を見つめているうちに、あることを思い出した。

 リュックを背中から降ろし、中をまさぐる。底の方に沈んでいたそれを引っ張り出すようにして取り出すと、電源のスイッチを入れた。

「何それ?」

「酸素濃度計です。今日は生産やってないんで大丈夫なはずですが、念のため」

「また珍しいものを持ち出してきたわね。トンネルの中でもないのに、どうしてそれが必要なの?」

 彼女は興味ありげな顔で手元に視線を送ってきた。俺は研修で習った知識を披露する。

「鉄を溶かす過程で窒素ガスやアルゴンガスを使用するのですが、そのガスが空気中の酸素と置換されると、酸素濃度が基準値よりも大幅に少ない空気ができてしまうことがあるんです。それを気づかないまま吸ってしまうと、酸素欠乏症になるおそれがあります」

「へぇ」

「ちなみにですが……」

 感心したような彼女の顔を見て、俺はここぞとばかりに言葉を続ける。

「普段空気中に含まれている酸素量は大体二一パーセントですが、四パーセントまで下がった空間に居続けると、最悪の場合死に至るともいわれています」

 教えてもらったのは三年前だったのだが、印象に残っていたためか、意外にもすらすらと説明することができた。そのことに自分でも少し驚いてしまう。原理さえ分かっていれば、頭にはしっかりと残っているものだ。

 しかしまさかこんな形で役に立つとは思わなかった。

「そうなんだ。勉強になったわ。それにしても、気づかないってところがまた怖いわよね」

 少し深刻な表情を浮かべながら彼女は言う。

 そうなのだ。この仕事において知らないことがあるということは、それだけ自分の身を危険に晒す可能性も大きくなるということだ。場合によってはそれで命まで奪われることもあるというのだから、馬鹿にはできない。

 思い返すと俺は、これまで幾度となく「知らない」というだけで自分でも気づかないうちに損をしてきた気がする。

 例えば会社内の人間関係について。組織に属する方法というのを、俺は自分から知ろうとしなかった。

 例えば自分自身の能力について。自分に何ができるのか、何ができないのか。プライドや意地が邪魔をして、客観的に自分を見ようとしてこなかった。

「これまでのツケがまわってきたんだと思ってくれよ」

 中山さんに左遷宣告をされたあの日。吐き捨てられるように伝えられたその言葉を思い出す。

 自己責任。因果応報。身から出た錆――。

 会社側が全て悪いのではない。俺自身の身体については、俺自身に責任があったのだ。会社から受ける理不尽な要求や人間関係といった問題とは、全く別のものとして考えるべきだった。

 社内での不満についてもそうだ。

 俺がこれまでやってきたことといえば、海外旅行に行って「和食が食べたい」と嘆くようなものだった。そこには俺の食べたい料理に必要な材料も、それを作れる人もいなかった。そこに居続けたいのであれば、ひもじいのを我慢して代わりのもので腹をごまかす以外に方法はない。不満があるなら、ほかの国に移るしかない。そういうことなのだろう。

 だからこれまでの諸問題において、結局のところどちらが悪いというのは、一概に言えないのだろう。「俺自身の考える正義」と、「会社の考える正義」が合わなかったことに、俺自身がようやく気づかされただけの話だ。

 なので俺はもっと早く知っておく必要があった。自分自身のことも、周りのことも。そうすれば、「知らなかった」といって失うものも、今なんかよりも、ずっと少なかったはずだ。

 知らないほうが良いことなんて、世の中ではほんの少ししかない。知ってから後で取捨選択した方が断然良いに決まっている。少なくともそう思っていた。

「その瞬間」がくるまでは――。

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 エレベーターが九階に到着する。

 小さなベルが一度鳴ってから、ゆっくりと扉が開かれる。

「ないとは思いますが、俺がもし倒れたら見捨ててもらって構いませんので、すぐに一階まで戻ってください」

 彼女を一端エレベーターの中で待機させ、一通り通路を行ったり来たりしながら安全であることを確かめる。

「大丈夫でした」

「なんだかテレビドラマのワンシーンみたいね」

 別に笑うところではないのだが、彼女に合わせて俺も同じような顔をつくる。

 それから、彼女を引っ張るようにしてエレベーターのすぐ脇に設置されている階段を上った。地上とは比べものにならないくらいの分厚い埃が、くるぶしのあたりまで積もっていた。一歩踏みしめる度に足跡ができる。幸い今日は生産がされていないおかげで、建物の中でも熱がこもることはなく、暑さもそこまで感じられなかった。

「着きました」

 ようやく、その扉までたどり着く。ハンドライトでシルエットを確かめるように照らし出した。

【屋上連絡通路:関係者以外立入禁止】

「良いの?」

「関係者だから良いんですよ」

 当然ながら、橘さんには許可をもらっていた。

「ここを開けたら、もうアレなのよね」

 声色は一気に緊張して堅くなる。

「そうですね。やっぱり安全帯しますか。結構重かったんでむしろ使ってみたいんですけど」

 気を使って言ってみたつもりだったが、この言い方だと経験が少ないと思われて逆効果だったかもしれない。

「いらない。でも、ちょっとまって。心の準備するから」

 彼女は大げさに深呼吸をしたあと、手を左右に振るって握った。

「よし! 良いよ」

「あっ、その前に俺も一つだけいいですか」

 ドアノブに手をかけたところで、またも大事なことを思い出した。

「軍手、外して下さい。素手の方が滑りにくいんで」

「どういうこと?」

「下でも説明しましたけど、風が強いんですよ。手すりに捕まりながら上る必要があります」

 俺はリュックのポケットに自分の軍手をしまう。彼女も同じようにしたのを確認してから、声をかける。

「開けますよ」

 そのまま彼女を背中に隠すようにして、内開の扉をゆっくりと引いた。予想していた通り、かなりの重さだ。片手では開かない。

 左手も添えてから、再度ぐっと体重をかける。すると扉は、一瞬「わっ」と叫ぶような、分厚い音を立てた。漏れ出した空気が響いて、鼓膜をびりびりと刺激する。

 一端風が通る道ができると、たちまち扉は軽くなった。そのまま背中で押すようにして扉を支えながら、一歩先へと彼女を進ませる。

 今度は視界が一気に霞む。風が面となって、網膜を執拗に打ちつける。

「うわっ、これやっぱきっついよぉ」

 ヘルメットの間で揺れる髪をかき分けながら、彼女は目を細める。

「絶対に下みちゃいけませんよ」

 遠く離れた景色だけを見るよう彼女に促す。真夜中といっても、夏の夜空は意外に明るい。だから地上では暗く感じても、この高さから下を見下ろせば、それなりに恐怖を感じてしまうのだ。

 俺は彼女と入れ替わり、数段先を上った。

「ちょっと、待って、よ。前、見えない。足、ふるえて、動け、ないし」

 彼女は消え入るような声で、力なく叫ぶ。ヘルメットがカパカパと上下に揺れる。

 俺は左手で梯子階段の手すりを持ちながら、余った右手を彼女に差し出す。 

「手ぇ、出して下さい」

「…………」

 反応はない。それどころではなかったのか、風でよく聞こえなかったのかは、分からない。

「安全帯よりは、いいでしょう」

 半ば自棄になったかのように声を張り上げる。

 彼女はブリキの玩具のように、ぎこちない動きで顔を上げた。

 そのまま彼女の右手が、俺の右手に触れる。

 ほっそりとした指の温もりを感じたそのとき、俺はあの瞬間を思い出していた――。

 いつしか俺が涙したあの日。俺の弱さを彼女に打ち明けたあの日のことだ。あのとき彼女は何を思い、どんな意図をもって俺の頬に触れたのだろうか。

 柔らかくて薄い小さな掌に、ぎゅっと力が込められる。

 その力は驚くほどに強く。だが、脆く。

 なぜか触れてはいけないものに触れてしまった気がした。心まで一緒に握りつぶされたかのような鈍い痛みを感じる。

 俺はこの瞬間、彼女の「弱さ」というものを、初めて知った気がした。それはどうしようもなく、絶対的な「弱さ」だった。普段の彼女からは想像もできない、はっきりとした形のある弱さ。

 世の中にある数少ない「知らないほうが良いこと」。そのうちの一つに、出会ってしまった気がした。

 そのまま一歩ずつ、踏みしめるようにして無言で進んだ。三〇段。たったそれだだけの階段が、どこまでも続いているように感じられた。

 いや、ひょっとしたら俺は終わらせたくなかったのかもしれない。彼女と自分が確かに繋がっていると感じられるこの瞬間を。

 右手から感じる温かいものだけに全神経を集中させながら、その手が彼女から離されることのないよう、俺は一心に祈っていた。

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 気がつけば風が止んでいた――。どうやら階段の最上部に到着したようだった。そのままパラペットに足を掛けて、トタンで敷かれた屋根の上へと足を踏み入れる。まるで小高い山でも登りきったかのような達成感があった。

 手はいつの間にか放れていた。彼女は肩で息をしながらマスクを外し、がっくりと膝をついた。俺は様子を伺うようにしてその場にしゃがみ込む。足元がかすかに軋み、かしゃりと乾燥した音を立てた。

「大丈夫ですか」

 しかし自分で言っておきながら、すぐに顔を歪めてしまう。

 この「大丈夫」という言葉は、便利な言葉だ。便利だけど、いいかげんな言葉。沈黙を防ぐことはできるが、それだけでは決して本心を読みとることはできない言葉。

 いつも使う度に芸がないと思うのだが、肝心なときに限って使いたくなるこの言葉は、その使い方を考え直す隙さえ与えてくれないことが多い。だからいつも最終的には甘えて使ってしまう。使ってからその後に後悔するのだ。

「大丈夫よ。ごめんなさい。なんだか力入んなくって」

 俺は思わず笑ってしまう。まさか彼女が同じように返してくるとは思わなかったのだ。

しかし大丈夫ではないだろう。それくらいすぐに分かった。笑っているのは声だけで、俯いた背中はまだ小さく波打っていた。ここにきて溜まっていた疲れが一気に噴き出してきたのかもしれない。

「俺の方こそすみません。あの、無理して喋らなくていいですから。落ち着いたら声かけて下さい」 

 用意した小さなビニールシートをその場に広げる。彼女にそこで休むように促したあと、彼女の背中からリュックを剥がすようにして、中から水筒とタオルを取り出し、傍に置いた。

 俺は少し距離をとってから同じように座り込んで、しばらく彼女の回復を待つことにした。

 腕時計に目をやると、時刻は既に二時を回っていた。一度腰を下ろしてしまうと、なかなか立ち上がる気にはなれなかった。ここからでは、まだ遠くの景色までを拝むことはできない。

 座ったまま両足を前に投げ出して、手を後ろについた。そのまま顔をあげて、ぼんやりと空を見上げる。真っ黒というよりも少しグレーがかった色味の空が、のっぺりと広がっている。地上にいる時よりも大分明るいように思えた。

 辺りを見回すと、クリーム色をしたトタンの屋根が滑走路のようにどこまでも広がっている。そのギザギザした溝にあわせて、屋根の所々には先日降った雨の残りなのか、小さな水たまりができていた。そこに月の光が反射して、きらきらとした輝きをつくっていた。

 なにも聞こえなかった。地上にいるはずの生き物たちの声も、走り去るトラックの振動音も。全てはここにたどり着く前に、風がさらっていってしまうのだろう。空が近いことを実感した。

 時折、強い風が吹いた。その度に火照った身体が冷やされていくようで心地よかった。そういえばこんな遅い時間帯に上ったのは、今日が初めてかもしれない。今更になって気づく。

 ようやく汗が乾いて、少し肌に当たる風が冷たく感じるようになった頃。 

 気がつけば、彼女がすぐ傍にいた――。

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「お待たせ」

「良いですよ。待つのはそんなに、嫌いじゃありません」

 顔だけを彼女の方に向けながら、静かに答えた。

「屋上ってこんな風になってるのね。なんか変な感じ」

 普段の彼女であれば絶対に足を踏み入れることのない場所だ。そんな所に目的もなく佇んでいることに、少なからず違和感があるのだろう。

「ここへは、研修のとき以来?」

「いいえ。実はたまに来ていました」

 昼間であれば、ここの鍵は開いている。本当にどうしようもないとき。もう限界だと感じたとき。いつしか俺はこの場所に訪れるようになっていた。

「わざわざこんな所まで上ってくるの?」

「ええ」

「この景色を見に?」

「いいえ」

 当たらずとも遠からず、といったところだろうか。

 ここからの景色は、確かに綺麗だ。特に夜景は格別だ。遠くに見える駅のホームの電灯が、線路に沿ってずっと奥に見える都心側まで延びている。まるで、龍が天に昇るようだ。幼い頃に家族で観光に行った、天橋立を思い出す。

「ここの景色も良いんです。でも、俺が好きなのはこっちじゃないんです」

「こっち?」

 俺は立ち上がって後ろを振り向く。「立てますか」

 ちょうど彼女と上ってきたところから五〇メートルほど反対側。屋上の真ん中を縦に割るようにして敷かれているキャットウォークを、北へ向かって歩き出す。彼女も無言で後ろに続いた。

 屋根の端に近づくにつれて、遠くの景色が見渡せるようになってくる。そのまま建物の端までたどり着くと、手すりに身を乗り出すようにして、眼下に広がる薄闇に染まった景色を眺めた。

「あれ? えっ、何これ」

「いかがですか」

 彼女はこの景色を見て何を思うのだろう。同じ所で働く、同じ人間として。

「何も……ない」

 ただ一言。彼女はぽつりと呟いた。

 遠くに見える山々の陰を見つめている。

 何も、ない――。

 その言葉を聞けただけで、俺はもう充分だと思った。その「何もない」ということを感じるためだけに、俺は毎回ここを訪れていたのだから。

「……何だか別の世界にいるみたい」

「都心はあっち側ですからね」

 そうなのだ。同じ屋上にいるのに、あっちとこっちでは見える景色が正反対なのだ。

 昼間でもここから見える景色というのは、本当に殺風景なものだった。高層ビルや大型ショッピングセンターなどの現代的な建物はおろか、駅や鉄道、学校ですら、ここからは一切見あたらない。眼下はただ田んぼの茶色一色で埋め尽くされ、その景色がどこまでも続くかのように延々と広がっていた。所々に電気を供給するための電柱が爪楊枝のように点々と地面に刺さっているくらいで、あとは本当に、ここだけ時間が止まってしまったかのような荒野が広がっているのだった。

 けれども、その景色が俺は好きだった。ここにくれば自分が何よりも自由だと感じられた。ここには自分を遮るものが一切ない。会社全体を見張るように取り囲んでいる木々たちも、ここからであれば、上から見下ろすことができた。

 日々の生活で感じる緊張感・圧迫感・焦燥感。ここはそんなものとは無縁の場所だった。夜であればそれは一層強く感じられるだろう。そう思って、今現在一番近しい存在である彼女と、この場所を共有したいと思ったのだ。

「面白い」

 彼女は突然、ふふっと笑い出す。

「世界の端っこに立っている感じがする。もうここから落ちたら終わり、って感じ。地球は丸いはずなのに、そんなこと忘れちゃうくらいに」

「そうでしょう」

 つられて笑ってしまう。 

「本当にどうしようもなくなったとき、俺はこの景色が見たくなるんです」

 伏魔殿から脱出できる唯一の場所。溢れそうなになった気持ちを一気に吐き出すことのできる場所。まるで深い水の底から海面に空気を求めて上昇する鯨のように、俺はここにやってきて息を吹き返すのだった。

「私もあるのよ」

 穏やかな風へ言葉を乗せるように、彼女は言った。それは彼女にしては似つかわしくない言動のようにも思えた。

「アイデアがなかなか出てこなかったり、それを上手く形にできなかったりすること」

「そういうとき、どうするんですか」

 彼女なりの問題解決の方法とは何なのか。成績優秀な先輩に勉強の手ほどきを受ける生徒の気分を味わってみたくなった。

「気分転換、かしら。そういうとき私は何か作るようにしているわ」

「作るって、まさか料理ですか」

「何でまさかなのよ」

 失言だった。しかしこれも仕方のないことだ。

「すみません。ミヤコさんからは生活臭というものがほとんどしないので」

 彼女のことについては、最近になってようやく少しずつわかってきたものの、プライベートな部分については大部分が謎なままだった。彼女の方から多く語られることはないので、俺から聞き出そうとしない限り知る術はなかった。

「少なくとも誉めていないわよね。まぁいいわ。その料理なんだけど、物語を作るのと料理を作るのって、少し似ている気がするのよ」

「そう……なんでしょうか?」

 俺は料理といってもご飯を炊くくらいなので、その例えは今一つぱっとしなかった。それでも彼女の言い方には興味をそそられるものがあったので、補足を待つことにした。

「……例えば、私たちがある料理、つまり物語を一つ完成させようとしたときについて考えるとするでしょう」

「はい」

「まずはどの食材で、どんな料理を作るか決めるの。日々起こる出来事っていうのが、その《物語》を構成する食材にあたるの。それは冷蔵庫に最初から入っているものを使っても構わないし、なければ新しく買ってきても良いわ」

「あぁ、頭の中の引き出しからネタを引っ張り出すか、新たにアイデアを捻り出すか、っていうことでしょうか」

「うん。でも、素材は料理の大部分を占めるものだけど、それだけじゃ味は決まらないよね。だから次に考えるのが調味料。物語では、その人の独特な表現、言い回しなんかがこれに当たるわ」

 彼女はちらりとこちらを伺う。俺は即座に反応した。

「味付けは濃すぎても駄目だし、薄すぎると印象に残らない」

 まるで下の句を読み上げるかのようなリズムで言葉を返すと、彼女は少しだけ驚いたような表情を見せた。何もそんな顔をしなくても……。俺だってこのやりとりにはいいかげん慣れてきているのだ。

「分かってるじゃない。もう一度食べたいって思ってもらうような、絶妙な味付けをするのがとっても難しいのよ」

「ただ物語の場合は好みの傾向が強いので、そこまでシビアにならなくても良いんじゃないですか」  

「例えば?」

 例えば? また難しいフリをするものだ。俺は闇の底から答えを探し出すかのように、地上へと目を凝らした。

「……例えば、料理では昆虫などの如何物を受け入れられる国は少ないですけど、物語では人がバンバン死ぬような刺激的なミステリーを好む読者っていうのは、一定の層いると思うんです。つまり物語では、癖の強い表現の方が好まれやすい気がします」

「……そうね。まぁそこは現実と非現実の違いかしら。ただどっちにしろ、スパイスの効いていない作品というのはつまらないものよ」

「確かにそうです」

 どんな本を買いたいか。そう問われれば、まず考えるのは喜怒哀楽だ。起承転結なにひとつない本を、買おうとはまず思わない。

「味付けが決まれば、最後は料理人、つまり著者自身の腕とセンスね。結局食材から調味料まで全て選ぶのはその人なんだから、自分のこれまでの経験や知識をフル動員させて物語を紡いでいくセンスが問われるわ」

 言い切ってから、彼女は自分で納得するかのように二回ほど小さく頷いた。そして再度こちらに視線が向けられる。

「似てますね」 

「でしょう」

 彼女は満足そうに肩を揺らして笑った。

「ストレスの発散になるし、考え方も似ているから自然とアイデアが出てくることが多いのよ」

 その言葉を聞いて、ふと俺の中でも同じような着想が浮かんでくる。それは下心と言っても良かった。もしかすると、今の雰囲気に少し甘えていたのかもしれなかった。

「一石二鳥じゃないですか。俺も真似してみたいんですけど、料理苦手なんですよね」

 彼女の横顔を盗み見る。視線はまだ暗闇の先に向けられたままだった。

「……あの、もしご迷惑でなければ、今度何か教えて頂けませんか」

 できるだけ丁寧に、それとなく水を向けたつもりだった。しかし彼女は平然と言う。 

「別に料理じゃなくても良いのよ。目的さえ見失わなければ、その過程は何でも」

 撃沈だった。華麗にはぐらされてしまう。俺はすぐに話を戻す。

「すみません、変なこと言って。さっき俺はここへたまに訪れるって言いましたけど、実は今日来たのはかなり久しぶりだったんです」

「誰かに見つかっちゃって来れなくなったとか?」

 あえて的外れなことを言って、凹んだ俺を笑わせようとしてくれる。その心遣いに申し訳ない気持ちになって、先ほど調子に乗った自分を殴りたくなった。

「もう、来る必要がなくなったんです。やることが見つかったので」

「最近目に見えて元気良かったもんね」

「ミヤコさんのおかげですよ。ありがとうございます」

 今俺が返せるのはこんな言葉くらいしかなかった。それはこれまで彼女から得たものに比べればあまりにも薄っぺらいものだったが、自分の中で大きな借りとして心に留めておくしかなかった。

「でもこんな良い景色なのに、もったいないね」

 彼女は視線を固定したまま、目を細める。

「どうなんでしょうね」

 俺も同じようにその先を追った。

 確かに今後ここを訪れなくなることを考えると、少し寂しい気もした。目の前に広がる景色は、特別綺麗でも感動できるようなものでもなかった。けれども、彼女がこの景色を良いといってくれた瞬間に、かけがえのないモノとして俺の記憶には刻まれるようになった。満足そうな彼女の横顔を見て、自分が少しだけ認められたような気がした。

「またここで相談にのってもらえますか」

「駄目よ。せっかく前進したのに後戻りする必要はないのよ」

 やはり彼女は手強かった。もうそこまで期待はしていなかったのだが、簡単にはなびいてくれない。

「それに目標が明確になっただけではまだ安心できないわよ。これからについて、基ちゃんにはひとつ忘れないでいてほしいことがあるの」

 途端に、風の向きが変わった気がした。彼女の表情が真剣なものとなる。

「なんですか」

 ひやりとした風が肌を撫でる。不意を付かれた感じだった。

 目標が決まれば、線路は繋がっている。後はひたすら進むだけだと思っていた。何となく楽観的になっているところがあった。

「これはたとえ話なんだけど、今基ちゃんがやっていることは、『旅行』じゃなくて『引っ越し』なのよ」

 紙芝居の冒頭。まるで噛んで含めるかのように、彼女は言った。 

「みんなそうやって切符を買うことはできるのよ。でも大事なのはそこから。最終的な停車駅を間違えないこと」

「最終的な、ですか……」

 思わず繰り返してしまう。彼女の言う「最終的な停車駅」とは、「本を完成させる」ということだろうか――。

 いや、違うはずだ。俺が本当に実現させたいのは、わかりやすく言えば「ストレスからの解放」だった。本を完成させることはあくまでもそのための手段にすぎない。「目標をはき違えるな」とでも言いたいのだろうか。

「別に途中で降りるのが悪い訳じゃないわ。むしろ綺麗な景色が車窓から見えれば、積極的に降りて見に行くべきなのよ。それが大きな経験に繋がることもあるのだから」

 いつの日か彼女は言っていた。「リアルは物語の根底にあるのだ」と。だとすれば、途中で降りた駅の数が多ければ多いほど、自分の中の引き出しも増えることになる。

「降りたならまた乗ればいい。単純なことじゃないですか」

 俺はそれが当たり前だと思う。

 しかし彼女は困ったような表情を浮かべた。

「それがなかなかできないものなのよ」ため息混じりに彼女は呟く。

「基ちゃんは、青春一八切符とか使って、電車だけの旅ってしたことってある?」

「ありません」

 オートバイが趣味のために、普段から鉄道を使ってどこかへ出かけることはほとんどなかった。

「私は学生時代に一度あるんだけど。あれって意外に難しいのよ。家を出る前は、『絶対ここまで行ってやろう!』って、明確にゴールを定めたりするんだけど、いざ乗り始めると、色んな所で降りてみたくなるのね。目に見える景色全てが、今まで訪れたことのない場所でひどく新鮮に映るから。それで実際に降りて近くで見るでしょう。するとさらに感動するの。『日本にはこんな所があったのか、知らなかった』とか、『もっと早く来れば良かった、最高だ』なんて思うの。気がついたら予定していた滞在時間よりも長くそこに居座っていたりするの」

「それは何となく、分かる気がします」

 ツーリングでもごく稀に、自分が想像していた以上の良い場所に出会うことがあった。その時の衝撃たるや、簡単に言葉では言い表せないほどだ。その想いまでは持ち替えることができないから、人は写真に収めたり、パンフレットを持ち帰ったりして、それを自分の記憶の一部とするのだろう。

「で、問題なのはその次。そこから動きたくなくなってしまうのよね。一度降りてからもう一度同じ電車に乗るのって、体力とか、時間とか、気力とか、色々なものが必要になってくるから」

「遊び疲れてしまうわけですね」 

「そう。滞在の原因は色々なのよ。そこに満足してしまう以外にも、ゴールを気づかないうちに忘れてしまったりね。今いる場所が魅力的すぎて、自分でも気づかないうちにいつの間にかそこが最終到達点になっている――。本末転倒なんて言うけれど、これがよくある『旅』の話」

 そういって彼女は、身体を手すりから放して一呼吸ついた。タオルを鞄から取り出してヘルメットを外すと、その瞬間に後ろ髪が風でぶわっと広がった。さらさらと揺れるその髪は、月の光が透けて薄い紫色だ。一本ずつがまるで意思を持った生き物のように輝いている。その姿に釘付けとなる。 

「でも、基ちゃんはそれじゃ駄目なのよ」俺の様子を察したのか、彼女は現実に戻すような一言を放った。

「分かりますよ。ゴールを本の完成にしてはいけない、ということですね」

 何とか答えたものの、今度は居眠りを指摘された学生のような気分になり、途端に顔まで血が上った。

「そう。だから忠告。途中で降りても戻れるように、切符は何度でも確認すること。持っていると思って安心しちゃ駄目なのよ。なにせ切符はなくしやすいからね」

 彼女は手すりに乗せた腕に顔を埋める。

「心得ておきます。でも大丈夫ですよ。行き先はもう伝えてあります」

 今の俺はもう一人ではなかった。彼女であれば、それが旅行でも引っ越しでも、その場所が間違っているというのなら、そのときは正しく指摘してくれるはずだ。それは一方的な期待というよりも、信頼に近かった。

「どうかしら」

 彼女は顔を上げて、呆れたように息を吐いた。「今のあなたにこんな話をした自分が間違っていた」とも言わんばかりだった。

 しかし許してほしい。俺はそんな話よりも、今このときを存分に楽しみたかったのだ。自分が一番お気に入りの場所で、彼女と一緒に同じ景色を見ているということ。その時間を、何よりも色濃く自分の中の経験として、頭に焼き付けておきたかったのだ。

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 けれども後になって俺は後悔する。このときの話を、もっと真剣に聞いておくべきだった。

 俺は見落としていたのだ。道を踏み外すパターンは、もう一つあることを。「気づかないで降りてしまう」という一番やっかいな場合があるということを――。

 俺は既に自分が途中下車していることに気づいていなかった。本来ならそれは、窓際から眺めるだけに留めておかなければならなかったにもかかわらず。

 ミヤコさんはたぶん、そんな俺の様子にどこかで気がついたのだろう。そしてあえてわかりにくい比喩を使って、気づかせようとしてくれた。それは多分、彼女の口からはとても言いにくいことだったから。

 しかし悲しいことに、俺がそんな気配りに気づくのも、まだずっと先の話だ。

 彼女にはつくづく思い知らされる。俺と彼女の間には、まだ年齢以上に大きな差があったのだということを。


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##5.カウントダウン##


『あっ、そういえば小説! どうなったん?』 

 ミヤコさんとの工場見学から一ヶ月。冬めく気候で街路樹が赤く染まりつつあるこの時期に、俺の物語はついに完成を見た。八月から書き始めたので、大体四ヶ月ちょっとかかったことになる。大枠ができあがったのは一〇月だったが、そこから更に修正で一ヶ月ほどかかった。

 長かったかと聞かれれば、正直そこまでの実感はなかった。「忙しいときほど人は時間を忘れる」というが、別に毎日せかせか忙しくしていたわけでもない。

 ただ、暇なときなど一日もなかった。机に向かわない日が、ない。これは俺にとって結構凄いことだった。快挙と言っても良い。

 例えば、学生時代。定期試験や高校受験、大学のときでさえ、一週間のうち一日くらいは、参考書を開かない日というのが必ずどこかにあった。単純にそうしなければ気が狂うからだ。

 しかし、今回は逆にそれができなかった。手を止めるのが怖かった。一度止めてしまうと次が書けなくなってしまうような気がしていた。

 そうなると、もう終わりだ。人生の終わり。今の会社に気の休まるところなど、もはやなかった。いや、今の会社でなくとも、ほとんどの組織というものに俺はたぶん馴染めない。そんな気がしていた。後がないというプレッシャーは相当大きかった。

 だから一行でも良い。とりあえず何か書こう。そう思って毎日机に向かった。

 一〇月の異動がないと決まった瞬間、心に大分ゆとりができた。それからは時間を意識することなく、ただ書いた。物語の終わりまで、一心に書き続けた。こんなにも時間に囚われないで物事に取り組んだのは初めてだった。それは没頭していたといっても良い。

 日進月歩。毎日こつこつやって、時間を気にすることもなかったから、長いも短いも感じなかった。

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『えっ、何? もしかして結構興味あるの?』

 俺は電話の奥の菜々美に話しかける。完成したといっても、趣味で黙々と書いていただけのものを、堂々と人に話すのは何となく気が引けた。

『あるよ。小説書いている人なんて私の周りにいないもん』

 それはいないのではなく、彼女が知らないだけなのではないだろうか。しかし彼女の周りにいないというのも、それはそれでおかしな話だ。それとも、「それを生業にしている人は知っているけど、趣味で書いている人は知らない」ということだろうか。

 一応、相談を持ちかけたのはこちらなのだから、質問に答えないわけにもいかなかった。

『そうか。……うん、ほとんど完成したよ。正確には今、エピローグ書いてるところだけど、見直しも含めてあと一週間もあれば終わるかな』

『ほんとに!? 凄いじゃん! えーと、いつからだっけ?』

『書き始めたのは八月からかな。《プロット》っていって、話の大まかな流れをつくるのに、最初一か月近くかかったけど』

『っていうことは大体四ヶ月かぁ。……それで原稿用紙三〇〇枚ぶん書き上げたの?』

『うん、まあ。いっても《形だけ》だからね。自分でいうのもなんだけど、びっくりするくらい自信がない』

 一冊目なのだ。根気さえあれば形くらいは何とかなる。肝心なのはそれが面白いかどうかだ。

『いやいやいや。才能あるんじゃないのー?』 

『ないよ』俺は即座に否定する。

『頭割れそうなくらい考えて、やっと完成したんだから。菜々美のアドバイスも大分効いてる』

 しかしお世辞でもそう言われると嬉しいものだった。

 三〇〇枚。それはこれからのことを考えると、ほんの一瞬の通過点に過ぎないのかもしれない。

 ただ、本をまだ一冊も出したこともない俺からすれば、ここまでの道のりは決して楽なものではなかった。

 なぜならまず、正解が見つからないのだ。章ごとに毎回見直しを行うのだが、何をもって完成と言えばいいのか分からなかった。「明確なゴールの基準」というものを定めていなかった結果、何度同じ原稿を見直すはめになったことか。

 気持ちが滅入るのも日常茶飯事だった。「自分の文章は世間に受け入れられるのだろうか」、「この行為も、全てただの徒労に終わるのではないか」。常に不安がつきまとっていた。

 そんな時は、ひたすら趣味のランニングで気を紛らわした。走って、走って、ただ無心になって、汗と一緒に不安を吹き飛ばした。

 そうして気持ちを切り替えることで、気がつけばここまで、まだここまでかもしれないけれど、少しずつ気づかないうちに、物語は形になりつつあった。

 今まで物事に対して、ここまで執着したことはなかった。ただ一つ掲げた目標のためだけに、自分の全神経を、全生活を一心に捧げる。

 なので彼女から「凄い」と言われれば素直に嬉しいし、彼女がそのように感じた理由も分かる。

 でも、それでは駄目なのだと思う。彼女の気持ちが分からなくなるくらいに、俺は成長しなければならなかった。それくらい物語を書くのが負担でなくなったとき、俺はおそらく、自分の目標を達成させているのだろう。


『それでも凄いよ。私だったらきっと何年かかっても完成できないと思う』

 彼女は真剣な声で訴えかける。どうやら心から俺を称えていてくれているようだった。

 しかしそんな言葉をもらっても、俺は素直に喜びを表現できないでいた。

 書き進めていくうちに、徐々に分かってきたことがある。

 俺にはそこまで、文才がない――。新しい話を自分の頭の中でつくり出すことができないのだ。既存の経験を、日記のように記していく事しかできない。

 これには結構落ち込んだ。物書きを目指している人間が、その能力の乏しさに自分で気づいたのだ。まさに衝撃である。

 ただ、完全に向いていないとも思わなかった。ストーリーを考え、文章に起こし、編集する――。その作業は、少なくともストレスにはならなかった。

 だから結局は、才能というよりもまず、自分に合っているかどうかが大前提としてあるのだろう。それが許容できるか、できないか。耐えられるのか、そうでないのか。

 会社という組織に入って、俺はその一歩目でつまづいた。出世競争、成果報酬――。そんなのは二の次、三の次にくる問題だったのだ。

『菜々美は確かに向いてないかもな。でも俺はお前が羨ましいよ』

『えっ、なんで?』

 菜々美の芝は青すぎる。少なくとも俺からすれば、まぶしくてまともに見ていられないくらいに。でも、それは本人には気づけない。それだけ高いレベルにいながら、既にそれを普通としているためだ。彼女のあっけらかんとした声を聞いて、俺は到底かなわないと思う。

『自己分析って、就活のときにしなかったの?』俺は皮肉を込めて言ってみる。

『眉目秀麗・才色兼備。友達一〇〇人なんて余裕で越えてるんじゃないの?』

『えーちょっと止めてよ照れちゃうじゃない。確かにフェイスブックの友達は、それに桁が一つ増える位だけどぉ』

 謙遜せずにあえて調子に乗る彼女の声を聞いて、つい笑ってしまう。人脈は量より質だというが、彼女の場合はどちらもあてはまるから恐ろしい。

 一度大学生の頃に、彼女の誕生日会なるものに招待されたことがある。場所は大学からほど近い所にあるスイーツショップを貸し切りにして、盛大に行われた。店の外からでも既に騒がしい雰囲気は漂っていたのだが、会場に入った俺は更に度肝を抜かれてしまった。

 中にいたのはざっと五〇人くらい。年齢層や国籍まで、あらゆる層の人間がいっしょくたになって狭い空間に収まっている様子は、まさにカオスだった。

 それはもはや《誕生会》ではなく、《誕生パーティー》といった方がイメージ的には近かったのかもしれない。それこそ、誰かの家でこぢんまりとやるようなものではなく、端から見れば結婚式かなにかと勘違いされてもおかしくないレベルのものだった。

 一人の人間のためにこれほどまで人が集まるということが、その頃の俺には全く理解できなかった。

 そして思うのだ。「彼女と自分は、生きている世界が違うのだ」と――。

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『なぁ、一つお願いがあるんだけど、いい?』

『ん?』

『完成したら、一度読んでもらってもいいかな』

『えっ、良いの?』

 彼女はまた、意外そうな声を上げる。

『一応、賞には応募する予定だし、誰にも目を通してもらわないまま、っていうのはさすがに問題あると思ってさ』 

『いや、いいけど……私以外の選択肢はないの?』

 確かにその通りだった。どうやら墓穴を掘ってしまったらしい。

 元々彼女には読んでもらいたいと思っていたが、この言い方だと友達がいない寂しい人間のように思われても仕方なかった。

『違うよ。菜々美に読んでもらいたいから言ってんの』

 俺は慌てて言い訳まがいの台詞を口にする。自分で言っておきながら、少し悲しい。

『そっかそっか。そういうことなら仕方ないなぁ』悪そうな顔が目に浮かぶ。

『なんか納得いかないけど、頼むよ』

 弱みを握られてしまったかもしれない。少し反省する。

『……あっ、じゃあさ、私からもお願い』

『ん?』

 何だろう。彼女からお願いとは珍しい。 

『もう遅いかもしれないけど、本の中に私も登場させてよ。友情出演』

『なんだそれ』しかしそれは難しい話ではない。というより既に、完了済みだ。『考えとく』と、俺はあえて話を濁す。

 彼女は『絶対だからね』と、笑いながら念を押してきた。

 それから彼女は、物語の中にもし自分が出てくるとすればこんな性格にして欲しいと、様々な要望をつきつけてきた。

 それは俺の想像する彼女とは真逆のものだったけれど、彼女の内面に潜む新たな一面を知れた気がして、少し可笑しかった。

『主人公にしてね』

『駄目だよ。もう決まってるんだから』

『じゃあヒロイン』

『そこも空いてない。っていうか変わんないだろ』

『だよね』彼女は残念そうに笑う。

『そういえば、前に聞きそびれたんだけど……どんなお話なん?』

 ああ、彼女にはまだ言っていなかったのか。しかし読んでもらうことが確定した今、あまり詳しい内容を言うのも良くないだろう。

『んー。ミステリー……かな』

『えっ? それ、大丈夫なん? 確かこの前、経験をもとに書いてる、って言ってなかったっけ? 誰か死んだりしてないよね?』

『死んでないよ。一応フィクションっていうことにしてあるから』

『一応ね、はは。わかった。じゃあ、楽しみにしてるね!』

 それから後日原稿を送る約束をして、俺は電話を置いた。

 一週間か――。最後のスパートだ。そんな時間はおそらく、一瞬で過ぎていくことだろう。また明確な目標ができたことに、俺は意気込んでいた。

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 そして二週間程経った日曜日。週のはじめの昼休みに、俺は原稿を持ってミヤコさんの元を訪れようとしていた。

 菜々美には予定通り、あの後、しっかりと完成版を確認してもらっていた。できたがったものをデータで送ると、その翌日には彼女から電話で回答があった。

 緊張しながらも俺が感想を訊ねると、彼女からは『わかんない』の一言。がっくりと肩を落とした俺に対して『主人公が基ってわかった瞬間に、感情移入できなくなった』と言われてしまった。

 やはりそうか、と思った。彼女が俺にどんな印象をもっているのかわからないが、そればかりはどうしようもないことだ。

『でも、普段基はこんなこと考えてるのか―って想像しながら読むと笑えたよ、うん』

 変な楽しみ方しやがって――。彼女は笑っていたが、それでは俺は、喜べない。物語が面白くないと、全くもって意味がないのだ。

 誰か正当な評価を下してくれる人に見てもらわなければ。

 そう思って、今日は久しぶりにこの品質管理棟へと足を踏み入れたのだが――。

 ん? 咄嗟に違和感を覚えた。五感のどこかで、何かが「足りていない」と告げている。廊下の奥へと進むにつれて、その「何か」は次第に増幅していった――。

 立ち止まってあたりを見回す。数歩進んだところで、ようやく原因に気がついた。

 廊下の明かりが消えている――。

 普段落ち着いた静けさに包まれたこの空間も、今では逆に、静かすぎて怖いくらいだった。果たして試験室の扉の前まで行くと、その予感は現実のものとなった。

 扉には鍵がかかっていた。ガラスの覗き窓から中を見ると、明かりはついておらず、人の気配も感じられなかった。

 しんとしている――。それは彼女がここにいないことを、如実に表していた。

 こんなことは、初めてだった。今まで一度もなかった。彼女は食堂を利用しない。毎回コンビニかどこかで買ってきたものを、この部屋の中で食べていた。たとえ席を外すとしても、昼休み内であれば試験室の明かりをつけたまにしていた。鍵も開けたままだ。それがないということは、何らかの理由によって、彼女が会社に来ていないということだった。

 右肩のバッグが、急に重みを増した気がする。一端足元に置いて、扉に身体を預けた。

 そういえば、彼女と最後に話をしたのは、工場見学の日以来だ。二週間前。それから特に俺から出向くようなことはしていない。試験室以外の敷地内で出会うこともなかった。とすると、結構前から見ていないことになる。いないのは俺が気付かなかっただけで、今日だけではなかったのかもしれない。

 しかし、理由が分からない――。

 五分ほどその場に立ちすくんだ後、とりあえず事務所棟に戻ることにした。これ以上ここにいても仕方がなかった。

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 建物の裏口から給湯室に入り、水でも飲もうかと足を踏み入れた瞬間、後ろからハスキーな声が飛んできた。

「基っちせんぱーい! お昼に会うなんて珍しいですね。どうしたんですか」

 鳴海さんだった。彼女と話すのは嫌いじゃないが、今はそれどころではなかった。情報を集めなければならない。けれども、狭い給湯室で彼女に立たれれば、自然と退路も絶たれてしまう。

「急に喉乾いちゃって」

「最近乾燥してますもんね。風邪引かないようにしないと」

 そう言いながらも、彼女の方がマスクをしていた。これほど風邪が似合わない人間もいないだろうと思う。

「……あっ、そういえば先輩。ひとつ残念なお知らせがあります。聞きますか」

「いえ、残念なら結構です」

 マスクの話題に触れることもなく、丁寧に断りを入れる。常に笑いと共にある彼女から残念な話を聞かされるほど、残念な事はないのだ。

「ちょっと、聞いてくださいよー」

 彼女は駄々をこねるように、床をぐりぐりと踵で擦った。どうしても聞かせたい話があるらしかった。

「何かあったんですか」とりあえず聞いてみることにする。それ以外の選択肢は与えられていないように思えた。

「実は私……この会社にいるの、来年の四月までなんです」

「そうだったんですか」

 確かにそれは、残念な話だ。しかし驚くこともない。元々、派遣社員の滞在期間は短いのだ。鳴海さんというキャラクターがいなくなるのはとても寂しいが、引き留められるほど、悲しめるほど、俺たちの仲は深まっていなかった。所詮社内だけでの付き合いだった。

「もっと悲しんでくださいよ。……で、で、で、なんですけど! 今私、猛勉強中なんですよ。次また新しい所でもすぐに働けるように、資格勉強してるんですよー」

 悲しめと言うわりには、話の切り替えが早い。おそらく彼女もこちらのことは同じように考えているのだろう。

 しかし、彼女が自主的に勉強しているとは意外だった。単純に何をしているのか気になって、俺は訊ねる。

「何の資格ですか」

「簿記と、秘書検定と、あと大型バイク」

 彼女は得意げに胸を張る。

 意外、というか最後のは明らかにおかしいだろう。しかし間違ってもいないので言及はしない。彼女なら多分、ハーレーが似合う。

「いいですね」俺は素直な感想を述べる。

 すると彼女は嬉しかったのか、腰に肘をつけながらその腕を激しく横に揺さぶった。ちょうどリンボーダンスを踊るような格好だ。

「内面女子ぃーみたいな。フゥッフゥー!」

「なんですかそれは」謎の効果音に思わず吹き出してしまう。

「私目指してるんです。外見はこんなだけど、実はできるんだゾ。みたいなギャップ」

 ああ、なるほど――。

 思わず納得してしまう。しかし、彼女の場合はそのような形に囚われなくてもいい気がした。見た目を補って余りある、超人的対人スキル。それを間近で発揮されれば、少なくとも「並大抵ではない能力者」として、周りからすぐに一目置かれる存在となるだろう。

「いやーでも、寂しくなりますね」

 否定も肯定もできなかった俺は、話題を戻すことにした。彼女がいなくなると、寂しい。それはたぶん、この会社の誰もが思うことだろう。

「本当ですか! 嬉しいですー。涙でちゃいますよー。あっ、ダメだ。まだとっとかないと」

 彼女は一瞬、瞼を擦るような仕草を見せる。もちろん本当に泣きそうな気配などない。

「でも、残念ながら私だけじゃないんですよ。会社辞めるの」

 四月といえば節目の時期でもあるから、そんなこともあるのだろう。しかし、まだ来年の話だ。

「もうそんな情報持ってるんですか。というか、すごいですね。周り男ばっかりなのに」

 正社員じゃないのに、なんて言うつもりはなかった。彼女の魅力はそこにあるのだ。

「私の情報網、嘗めないで下さいよー」

 彼女はしたり顔で制服の袖をめくってから、自分の腕をパンパンと叩く。どこの魚屋だ。

「……誰なんですか? 鳴海さん以外の人って」

 心当たりがありすぎて逆に分からなかった。この会社では、大体半年に一人のペースで人が辞めていくため、常に誰がいなくなってもおかしくない状況にあるのだ。

「あ、ええ。先輩はご存じか分かりませんけど。品質管理棟の女性。彼女も私と同じみたいですよ」

「同じ?」

 知ってるも何も、それはミヤコさんのことだろう。しかしどういうことだ。彼女が会社を、辞める?

「彼女も四月で、辞めるみたいなんです」

 事実を突きつけるかのようにして、彼女は言った。まさかこんなところから情報が転がり込んでくるとは思わなかった。それは俺が今一番聞きたい人の名前であり、一番聞きたくない類の中身だった。

 何もかもが悪い方向に振り回されている。俺は物語の中心にいるはずじゃなかったのか。

「すみません。それ、誰から聞きましたか」

 できるだけ冷静を装いながら訊ねる。関係性を悟られたくはない。しかしそれ以上に、真相を確かめたい。俺が彼女と共有できる時間は、見えないところで確実に削られていた。

「ふふーん。秘密です。ただの噂ですよ」

 彼女は腕を組みながら、くいと顎を上げる。

「『ただ』なら、教えて下さいよ」

 無理だと分かりつつ、淡い期待を込めて訊いてみる。むしろ今の俺にはお金を払ってでも教えてもらいたい内容だった。

 けれども彼女は首を横に振る。情報源を明かさないのが、彼女のポリシーらしかった。

「どうしても、というなら……」急に上目遣いになりながら、彼女は言った。「……私を抱いてくれれば、考えます」

 瞳からいたずらにバチンと特大の星が飛ばされる。その歪な形の隕石に打たれて、俺は言葉を失った。

(それは、反則だろう……)

 彼女にしか使うことができない必殺技をくらった気がした。

 けれどもそれが、俺にはどうしようもなく羨ましいように思えた。その台詞を彼女が使えることに対してではない。彼女はおそらく、自分のことを誰よりもよく「知っている」のだ。だからたとえ冗談であっても、説得力が生まれる。普通の人が使うと困惑するような台詞も、彼女は自らのセンスで選び出し、見事に使いこなしているのだった。

「考えときます」

 俺は諦めて控えめに笑いながら、その場を立ち去ろうとする。彼女は眼を丸くして驚いていたが、すぐに半身になり俺が通れる分のスペースを空けてくれた。

 冷蔵庫とのわずかな間をすり抜けて、そのまま給湯室を後にする。

「いつでもお待ちしてますよ」

 ささやくような声が、背後から届けられる。どこまでも適わないと思う。

<p><br /></p>

 そのまま明かりの消えた廊下を早足で進む。

 残されたカードはあと一枚だ――。そもそも、最初から選択肢が少すぎる。今回も「あの人」に頼るしかいないのだろうか。

 ただ、二回目の頼み事となると、さすがに気が引けた。以前のように上手くいくとも限らない。

 それでも、話だけはしてみようと思う。他に選べる道はないのだ。それで進展がないようならなら諦めよう。

 昼休み終了まで、まだ三〇分あった。すぐに自分のデスクまでたどり着くと、引き出しの中に原稿をしまう。立ったまま一度呼吸を整えて、ゆっくりとした足取りで、彼の席へと向かった。

 橘さんは、ちょうど席に着いたばかりのようだった。文庫本が取り出される前に、俺は隣まですり足で近づいて、ゆっくりと膝を折った。

「橘さん、お休みのところ申し訳ございません。ひとつ、お話を伺いたいのですが宜しいでしょうか」

 橘さんはこちらを一瞥したあと、「いいぞ」と小さく返事をして、椅子からゆっくりと立ち上がった。

 そのまま何も返さずに、席から離れていく――。

 周りをぐるりと見渡した。いつも通りの静けさが漂っていた。

 すぐに彼の後を追う。期待と。不安と。二つが入り交じりながらも、物語がまだ途切れないでいることに、俺は少しだけ安心していた。

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 通されたのは、第三応接室だった。橘さんは、部屋に入るなりエアコンの電源をいれ、送風にセットした。『ピピッ』という電子音に、自然と身体がビクついた。

「すみません。お休み中に」

 再度時間を作ってもらったことについて詫びる。橘さんの表情からは、まだ何も読めない。

「いいよ。いつか来るだろうと思っていたが、まさか今日だとは思わなかった」

 呼び出した理由が分かるとでも言うように、橘さんはゆっくりと俺を見ながら、椅子に腰掛けた。

「どういう意味でしょうか」

 今日俺が来ることにどんな意味があるのか。それが良いのか、悪いのか。何も分からない俺は、訊ねることしかできなかった。

「ミヤコくんのことだろう」

 橘さんは、俺の質問には答えず、早速核心をついてきた。

 やはり、分かっていたのか。俺が今急ぎの用件を持つとすれば、彼女のこと以外に考えられない。

「そうです。彼女に何かあったんですか」

 できるだけゆっくりと、間を取って話すことを意識した。次に来る言葉に備えて、心の準備をしなければならない気がしたのだ。

橘さんは視線をテーブルに落としたまま、机に両肘をついた。

「彼女は今、入院している」

 いつもの笑顔はなかった。

 入院……?

 その単語に、良いイメージなど皆無だ。しかし、それをなぜ橘さんが知っている。

「それは……どういった理由でしょうか」

「まぁ、いろいろだ。ただ持病とは直接関係ないから、そこは心配しなくて良い」

 持病……? なんだそれは。初耳だ。第一「心配しなくて良い」なんて、なぜそんな風に言われなければならないのか。その情報は、どこから手に入れたというのだ。当たり前のように言わないで欲しかった。

 これではまた蚊帳の外だ。その境界線がどこにあるのか、俺は知りたかった。

「彼女は病気持ちなんですか」

「え……ああ、お前知らなかったのか」橘さんは俯いて顔に影をつくる。

「元々身体が弱いんだよ」

「そうなん……ですか」

 知らなかった。そんな風には見えなかった。だから彼女は「試験室登校」なのか? てっきり俺は、研究職か何かで採用されたのかと思っていた。しかしそれでは……。

――まあ、いい。今はそれよりも聞きたいことがある。病気については、最悪知らないままでも問題ない。それよりも。

「彼女は辞めると聞きました」

「ああ」

 否定しない。やはりそうなのか。「なぜですか」

「彼女に直接訊くと良い」

「直接と言われましても……」

 その方法が、ないだろう――。要領を得ない発言を受けて、痒くもない首の後ろに手が回った。

「彼女はいつ、いや、病院は……」

「どうしても」

 途端に、俺の言葉は遮られる。

「彼女に会いたいのか」

 ものすごい威圧感だった。一瞬ばかり怯んでしまう。しかし会わないという選択肢はなかった。このままでは、絶対に納得できない。

「はい」

 小さく、ただはっきりと肯定する。

「そうか……」

 橘さんは残念そうに一度視線を落としてから、再度こちらへと向き直した。

「一二月四日……」あくまでも機械的にその日程が読み上げられる。

「来月の頭。その日であれば、彼女は会社に来られると聞いている。ちょうど君も出勤している日だろう。どうしてもというのであれば、話を付けよう。理由はその時にでも、彼女から訊けばいい」

 また、いや、まだ話ができるのか。そのことに少しだけ安心する。

 しかし橘さんは、どうやってその情報を仕入れたのだろうか。単に俺が社内の噂話に疎いだけなのか。それとも……。嫌な予感は拭えない。

「それまで待てません。俺から会いに行くことはできないんですか」

 くどいのは承知の上だった。しかし、橘さんが会えて俺が会えないなんて、納得できるはずもなかった。ここは間違っても簡単に引き下がるようなところではない。

「できない。悪いが、これ以上は答えられない。彼女から口止めされているんだ」

 俺の願いもむなしく、話は一方的に打ち切られた。

 そして橘さんは椅子からすっと立ち上がる。テーブルをぐるりと回って俺の横を無言で通り過ぎると、出口の前で立ち止まった。

 それからふっと振り向いて一言。

「……すまないとは思っている」

 背中から首筋にかけてぞくりと悪寒が走った。なぜ、橘さんが謝るのだろうか。そんなことをされても、気持ち悪いだけだ。

 結局、俺は最後まで観客なのだろうか。これ以上何かを求めてはいけないのだろうか。彼女の真意が知りたかった。

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 一日経って、気持ちは大分落ち着いた。しかし頭の整理が、まだ追いつかないでいた。

 ただ一つだけ、明確になったことがある。彼女が会社を辞めるということだ。理由は直接訊くしかないが、これはもう、揺るぎない事実だろう。残された時間は限られているということだ。

 だとすれば、俺は彼女が辞める前に、伝えなければならない。物語は既に完成しているのだ。そのためには、一度やることを整理する必要があった。

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 次の日、一通りの行動計画を整理し終わった俺は、早速それを実行に移す。

 午前九時頃。出社後の一服が終わったところを見計らって、俺は中山さんに声をかけた。こちらから何か言うのは久しぶりだったので、あからさまに驚かれてしまう。

「なにこれ」

 差し出された一枚の紙切れを一瞥して、すぐに目が向けられる。当然、その意味を訊ねられているのだろう。

「その日、有給を使わせて頂きます」

 手渡したのは《休暇届》だ。内容通りの言葉を返す。

 理由はもちろん答えない。答えられる訳がない。ただ、絶対に認めてもらう気でいた。「この日」しかないのだ。俺の都合で決められる予定ではなかった。

 どうせこの会社での命も残り少ない。この日のためであれば、他の休日は全て稼働日にすることさえ、いとわなかった。

 しかし、そんな俺の断固たる決意が声や表情にあらわれていたのか、中山さんは意外にもすんなりと判を押してくれた。

 もしかしたら、この時点で俺の処遇は既に決まっていて、俺自身が中山さんの中で、もう「どうでもいいこと」のうちの一つになっていたのかもしれなかった。しかし仮にそうだとしても、そんなことは俺にだってもう、どうでもよかった。

「ありがとうございます」

 そのまま丁寧に書類を受け取って、席を離れる。

 後は『あれ』を手配するだけだ。


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##6.窓際の先生##


 暦は一二月に入った。例年よりも少し早い初雪が観測され、朝は厳しく冷え込むようになった。現場訪問では、会社指定のダッフルコートを羽織って出かけることが多くなり、底冷えがする事務所棟内では、予備のジャケットを膝掛け代わりに使う日も多くなった。

 彼女のいない一ヶ月というのは、これまでの生活とは全く異なるものになっていた。苦痛であり、長かった。それは物語が一段落したことによる反動かもしれなかった。しかしそれ以上に精神的な面で、俺は大部分を彼女に依存していたことに気づかされた。

 そこに彼女がいるという安心感。自分と同じ方向を向いている人間が、一人でも側にいるということ。何かあったとき、頼れる誰かがいるということ。その大きさを痛感したのだった。

 つい屋上にも何度か足を運んだ。しかし、訪れてからすぐに後悔した。彼女の月に透けるような姿が、風に乗って届く声が、一つ一つ鮮明に思い起こされた。

《避難所》である品質管理棟も閉ざされてしまい、俺は完全に行き場を失った。認められることのない休みの口実を、永遠と考える日々が続いた。

 あと何日――。

 それだけを頼りにして、何とか正気を保っていたように思う。一人でないことを知ってしまった俺が、再び一人に戻ったときの衝撃は計り知れないものだった。「孤独」という二文字が形をもって肚にずんとのしかかり、何もかもやる気が起きなかった。

 全ての景色が灰色に染まりつつあったまさにその頃。ようやく約束の日を迎えることになった。

<p><br /></p>

「あれっ。今日は私服なのね」

 久しぶりに試験室へ訪れた俺を、彼女は以前と何ら変わりのないように迎え入れてくれた。こちらさえ気にしなければ、またいつも通り、当たり障りのない会話をして、別れることになるのだろう。「まだ引き返せるのよ」。暗にそう言われている気がした。

「有給取ったんです」

 俺も彼女に合わすかのようにして、普段通りを装った。視線を合わすことなく、ソファーにゆっくりと向かって腰を落とす。

 けれども、形だけ取り繕ったところで、今の俺が有給を取ることの重大さを、彼女が理解できないはずもなかった。

 大した間もなく、窓際に居座る彼女の方から、小さなため息が一つ聞こえた。

「何から聞きたい?」

 顔を上げると、柔らかな笑みが向けられていた。そこには「話を引っ張っても仕方がない」という諦めのような色が感じられた。

「選ばせてくれるんですか」

 珍しかった。普段であれば詮索されるのを嫌う彼女が、今日に限っては「好きにして良い」と言っている。果たしてこちらの質問にまっすぐ答えてくれるとは限らなかったが。

「心配させたみたいだからね」

 申し訳なさそうに視線を落とす。橘さんから聞いたのだろう。そのことにまた少しだけ胸がざわつく。

「じゃあ、一つ目」俺は遠慮なく切り返す。

「ミヤコさん、病気だったんですか」

「いきなりそこ?」

 彼女は控えめに笑った。椅子から立ち上がり、ソファーの縁に腰掛ける。俺はその斜向かいに座ったままだ。

「聞きたいことは山ほどあります。遠回りしている余裕はありません」

 足りないのは時間ではない。気持ち的な余裕だった。むだな情報や雑念を間に挟んで、肝心なことを聞きそびれたり伝えたりできなくなったりすることを、何よりもおそれていた。

 これまでにないようなピリリとした空気が室内を覆っていた。そんな空間を自分自身で作っていることについても、特に違和感は感じなかった。

「そうね。私も正直何から話して良いか分からなかったから、これで良いのかもしれないわね」彼女は手で自分の額を一度だけ拭う。

「……橘さんから聞いたの?」

「はい」

「でもそれだと少し語弊があるわね。正確には、病気じゃない」

「どういうことですか」

「そこまで深刻ではないってこと。例えば、相対的な基準値よりも血圧が低かったり、寒さに弱かったりする人っているでしょう。大体そんな感じよ。普段の運動や行動範囲に制限はあるけれど、日常生活が不自由になるほどでもない」

「それで試験室登校、ということですか」

「えっ? ああ、うん……そうね。だから『病気』っていうよりも、『病弱』って言うほうが正しいのかもしれない」

 そうか。病気ではなかったのか。その事実に少なからず安心する。

 しかし……。一つの疑問が浮かぶ。

「この前の工場見学は、問題なかったんですか」

 病人でないにしろ、何も知らないまま屋上まで連れ出したなんて、それはそれで問題だろう。事前に分かってさえいれば、もっと色々配慮できたはずなのだ。

「アレは大丈夫よ。そもそも私が望んだことじゃない。階段はちょっと、別の意味で怖かったけどね」

「パトロールの件は……」

「巡視も問題ないわ。歩くだけだから一緒」

 他に何か変なことはしていなかっただろうか。記憶をたどる。

 しばらく考えて思い当たらないことがわかると、俺はまた続けて訊ねた。

「……ただ、気になります。なぜ教えてくれなかったんですか」

 私生活に影響がないといっても、彼女が普通の人とは違うのに変わりはない。その理由さえ初めから分かっていれば、こちらとしても接し方をいくらか変えて、対応することができたのだ。

「聞かれなかったからよ。いや、聞かれてもたぶん、黙ってたかな。私にそんな路悪趣味はないわ」

 彼女は特に悪びれもなく言った。

 確かにその通りだと思う。「言うべき人」になっていない俺がいけないのだ。おそらく何もしてほしくないから、彼女は黙っていたのだろう。

「大体本当に必要なら、病気の大小に関わらず既に言っているわ。そこまで冷たくないから安心して」

「そうですか……」

 言っていることは理解できるし、納得もできた。結局は自分の「足りなさ」が露見しただけだ。しかし、このスッキリしない感じはなんだろうか。

 黙り込む俺を見て、大きく息を吐いた。「これで満足?」

「いや……」

 まだだ――。まだ不満は残っていた。

「まだあるの?」

 彼女はソファーの背に体重を預けながら、その向かいに座ったままの俺を見る。

「はい。二つ目ですが……」俺も一度下を向いてから目線を合わす。

「突然いなくなった理由を教えて下さい」

「基ちゃんの前からってこと?」

「はい」

 ぐるりと大きく首が回される。言葉数の少ない彼女から、その真意をくみ取ることは難しい。

「それもさっきと一緒。必要ないからよ」彼女は意識的に口から空気を漏らした。

 その様子が、途端に俺の中でくすぶっていた何かに火をつけた。それは長らくの間消えていたはずの感情だった。

「必要ないって、どうして『俺にだけ』教えてくれなかったんですか。一言声をかけてくれても良かったんじゃないですか」

 気がつけば、喉の奥からいつもと違うような声が、自然と沸き出ていた。

 橘さんだけでなく、鳴海さんでさえも知っていたことなのだ。それなのになぜ、「俺には必要ない」と言えるのか。なぜ、それを彼女が決めるのか。彼女の言っていることが何一つとして理解できなかった。

 もう、いつものようにはぐらかされるのは御免だ――。

 苛立ち。悔しさ。悲しみ。全ての感情が渾然一体となって、ぐちゃぐちゃに腹の中を駆けずり回る。

 こみ上げるその衝動を、どうやら今回は押さえ切れそうもない。その対象は彼女なのか、それとも自分なのか。はたまた、両方かもしれなかった。

「そんな怖い顔しないでよ。そのほうが良いと思ったのよ」

 彼女は俺を突き放すように薄く笑う。

 こうなることはたぶん、この部屋に入る前から分かっていたのだ。

 たとえ互いに秘密を共有したとしても。弱さを知ったとしても。結局俺たちはすれ違ったままなのか。

 俺はやがて全身の力がふっと抜けてしまったかのように、テーブルの下へと足を投げ出す。

「……良くありませんよ」

「何が?」腕を組む彼女の視線が突き刺さる。

「勝手に消えられては困ります。あなたは俺の、目標だったんです」

 追いつこうと必死だった。彼女に認められようと躍起になっていた。しかし、物語が順調に進めば進むほど、彼女は俺から離れていった――。あたかも見えない天秤で、上手くバランスが取られているかのように。少なくとも「俺には」、そう見えた。

 彼女は唯一、俺を正面から見てくれた人だった。彼女が俺の前から消えるということは、俺自身の存在も、社会から同時に消えてしまうに等しい。

 その意味を、彼女は理解しているのだろうか。

「…………」

 返事はなかった。

 沈黙が段々と積み重なっていく。室内の空気に重さを与える。

 やがてそれは、地鳴りのような響きを生んだ。見えない層が全身を圧迫し始める。

 そして俺は耐えきれずに叫んだ。

 全てをかき消すようにして、彼女に訴えかける――。

「あなたはずるい。俺に与えて、与えて、与え続けて! 自分だけ気持ちよくなって。俺の前から消えようとした。俺のことなんて、俺があなたをどう思っているかなんて、これっぽっちも考えないで。この気持ちは。俺があなたに返そうと思っていたものは。一体、どうしたら良いんですか……」

 気がつけば、立ち上がっていた。こんなにも声を荒げたのは初めてだった。

 俺に気がないなら、はっきりとそう言って欲しかった。迷惑だと言って、突き放して欲しかった。

ただ、それ以上に悔しかった。どうしても彼女を振り向かすことのできない自分に対して。何も返すことができない自分に対して。

<p><br /></p>

 彼女はじっと俺を見ていた。時間がとまったかのように、ただ口を小さくぽかんと開いたまま、不思議なものを見るような顔をして。

 そしてぽつりと、小さく呟く。

<p><br /></p>

「…………いらない」

<p><br /></p>

 俺は目を見開いたまま動けない。

 彼女の表情が、みるみるうちに変わってゆく。自分の左手で身体を抱き、目には悲しみの色をにじませながら、首を小さく横に振る。

「必要ない……そんなの、全部、全部、全部! みんないらない! 私じゃない。今のあなたにとって、大切なのは《それ》じゃない」

 彼女が取り乱している――。

 初めてみるその光景に、俺は再び言葉を発することができなくなってしまう。

「違うでしょう。今のあなたが本当に必要なのは、私なんかじゃないでしょう。そこから得たものはなかったの。形あるものはなかったの。あなたが生きる世界は、《ここ》じゃない」

 彼女の言葉が、胸に突き刺さる。

 俺に今、本当に必要なもの。

 やらなければいけないこと。

 くしゃくしゃになった顔を見て、俺はようやく、気がついた。彼女の真意に。想いに。心配りに。そして、自分の勘違いに。

「旅ではない。引っ越しなの――」いつしか彼女はそう言っていた。

 俺はそこで間違ってしまったのだ。「ストレスの解放」という目標のために始めた「本を完成させる」という唯一の手段。それを達成させようとする間に、対象が「自分のため」から「彼女のため」へと変わってしまったのだ。

 気づかなかった――。途中で見た景色が、あまりに美しすぎたから。

 立ち止まった――。もっとここにいたいと思ってしまったから。

 彼女はそんな俺を、何度も道に戻そうとしてくれた。あえて冷たくあしらうことで、目標を思い出させるように促した。切符を確認させようとした。

 彼女が俺のことを考えていないなんて、勘違いも甚だしかった。誰よりも俺の未来を危惧してくれていたのは、彼女だったのだ。

<p><br /></p>

 また、沈黙が部屋を包んでいた――。

 俺は急に身体が重くなった気がして、ソファーの腕に腰を下ろしてしまう。彼女も立ったまま叫び疲れたのか、首を折って近くの壁にもたれ掛かっていた。

 やがて何かを諦めたような表情で、彼女は天を仰いだ。大きなため息をついた後、髪をかきあげる仕草を見せる。

「理由の二つ目だけど……」

「えっ?」

 会社に来なくなった理由……だったか。すっかり沈んでいた俺は、さらに他の原因が告げられるとは思っておらず、気の抜けた声を上げて彼女を見る。当然、心の準備などできているはずもなかった。

「…………妊娠しているの」

 まるで他人事のように、彼女は言った。

 俺は顔を上げたまま、その姿勢で固まってしまう。

 繋がってゆく――。

 すべてが、収束していくかのようだった。それは決して、俺の望む方向ではなかった。事実だけが淡々と容赦なく押し寄せてくる。彼女から吐き出された言葉の波に、俺は溺れていた。

「あはっ……」

 思わず声が漏れる。肩が揺れる。俺はきっとまた、泣いている。

 完全に終わった――。振られたのだ。相手がいたのならどうしようもない。一人で舞い上がって、バカみたいだ。恥ずかしい。

 そして俺は「あのとき」を思い出す――。

 真夜中の工場見学で最後に訪れた、梯子階段での出来事についてだ。

<p><br /></p>

 視界が霞む強風の中、彼女は縋るように俺の手を握った。脆くも、確かに強い力だった。ぎゅっと握られた掌からは、彼女のじんわりとした温もりが染み込んできた。それはやがて腕を伝い、身体の芯にまで届く――。

 二人だけしか知らないものであるはずだった。とても貴重で、価値があり、尊いもの。

 繋がっている――。確かな感覚がそこにはあった。

 けれども実際は違ったようだ。繋がっていたのは形だけだった。そこにそれ以上の意味は存在しなかった。

 俺は勘違いしてしまったのだ。彼女の体温と一緒に、何か大切なモノまで受け取ったかのように錯覚した。しかそこに彼女の意志はなかった。単に彼女のことを一方的に知っただけに過ぎなかった。

 そうして、何もできるはずがないのに、何かできるとさえ思ってしまった。 

 つくづく、救えない。これじゃあ俺は、物語の主人公になんて、なれっこない。せいぜい、幸福なピエロが関の山だ。俺は踊らされていた。いや、むしろ自分から笑いものになっていたのだ。

<p><br /></p>

「まだ一部の人しか知らないけど、いずれ公表されると思うわ」

「はい……」

 一部の人とは、きっとあの人のことなのだろう。だとしたら、納得だ。あの人であれば、俺は適わないし構わない。叶わないのも仕方がない。

 事務的にも思える説明に対して、魂の抜けたような返事しかできなくなる。

「入院したのは、ちょうど基ちゃんが橘さんに詰め寄ったあの日よ。持病との関係がないか調べてもらっていたの」

「ええ」

「末頃には、もうここからいなくなるから」

「そうですか……」

 もはや彼女の方を上手く見ることができなかった。これまで自分を照らしていた光が、急に途絶えた気がした。夜のトンネルの中で照明がいきなり落ちてしまったかのような、先の見えない不安。また、戻ってしまうのだろうか。希望をなくしていたあの頃に。

 今はもう、何も考えたくなかった――。

<p><br /></p>

「基ちゃん……」

「ねぇ……」

 気がつけば、呼ばれていた。少し目をつぶっていただけのはずだが、意識まで飛んでいたらしい。

「……すみません。何でしょうか」ぐったりと脱力しながら、俺は返事をする。

「本」

「え?」

「本はできたの?」

 ああ。そういえば。

 色々な情報が一度に入ってきたものだから、すっかり忘れてしまっていた。

「一応は」ソファーの上で固まったまま答える。

「じゃあ、聞かせて」

「何を、ですか」

「物語。基ちゃんのお話」

 俺の話。物語。

 今更、俺に何を語れと言うのだろう。去りゆく彼女に、何を伝えればいいのだろう。

 しかし、彼女は嬉しそうにこちらを見ている。俺の言葉を、待っている。まるでケーキの箱を開ける直前の子供みたいに、らんらんと目を輝かせながら。「そこが空っぽなんて、あり得ない」、「期待以上のものが入っているはずだ」とでも言うように。

 こんな俺にも、彼女はまだ期待している――。

 いつかの彼女の発言を思い出す。「目的地の途中で降りてしまったら、電車にはまた乗らないといけないから」

 ああ、俺はまだ途中だったのだ。引っ越しの途中。

 しかし、俺は立ち止まってしまった。止まったからには、その落とし前は自分でつけなければならない。俺が立つ鳥であるならば、その後を濁すようなことは許されない。彼女に対しても。俺自身に対しても。

 俺の目的。本当に彼女に伝えなければならなかったこと。

ようやく、鞄に入れていた『その存在』を思い出す。俺がここで得た成果。むだでなかったことを証明する『形あるもの』。

 そうだ。俺は『これ』を、彼女に渡しに来たんだった。

 きっと最後になる。だから、今度こそ伝えよう。本当に求められていたものを、彼女に渡そう。

 元々俺の個人的な彼女への想いと、この作品への想いは全く別のものだったはずだ。いや、一緒にしてはいけなかったのだ。だったら、ここで落ち込んでいる場合ではない。落ち込むべきではない。

『与えられた幸福には、最大限の感謝をもって然るべき』

 今この瞬間、俺が彼女に対して最大限にできることをすべきだ。できる限りの期待に応えよう。それが、借りを返すということにつながるのだ。

<p><br /></p>

「……ミヤコさん。少し話を聞いてくれますか」

「なぁに」

 彼女は柔らかに笑う。先ほどまでの鋭さは、すっかり形をなくしていた。

「俺のこれまでの人生についてです」

 もう、迷いはなかった。

「長くなりますが、宜しいでしょうか」

「良いよ。時間はあるんだから」

 これまでの時間は、きっとこのためにあったのだ。

<p><br /></p>

 俺は今日、ここに。

 他のだれでもない、彼女のために。

 物語を聞かせに、やってきた――。

 そうしてゆっくりと身体を起こし、言葉を紡ぎ始める。

<p><br /></p>

「俺はこれまでの人生で、自分から自発的に何かやろうなんて、思ったことはありませんでした。自分がむだだと思うことは極力避けて、やらないようにしてきました。趣味でも仕事でも、何かにつけて人から与えられるばかりで、その中から自分で選択することで、他人に依存していないって、自立しているんだって、満足していたんです。それで特に不自由しませんでした。気がつけばそれが、二五年間生きてきた中で、ポリシーのようなものにさえなっていたんです」

 彼女はゆっくりと頷く。物語は途中で口を挟まないのがルールだ。

「でも、違った。俺はあなたと出会って、与えられてばかりではいけないことに気がついたんです」

 与えられると、楽だ。責任を負わなくていい。気に入らなければ目を背けてしまうこともできる。それは大げさに言えば、被害者でいるということだ。これまでの俺は、たぶんそうだった。

 しかし、彼女に出会って気づかされた。与えられてばかりだと、苦しい。その優しさに溺れるのだ。そして、自分のふがいなさに胸が詰まるようになる。

『生きるなら ひとり真夏の叢の 人に知られぬ 井戸よりもっと』

 井戸の外から与えられた水は、他の誰かに返さないと溢れてしまう。湧き出した水も、与えなければ溢れてしまう。俺は今、ようやくその先を見つけたのだった。

「俺はあなたから数え切れないモノを受け取りました。あなたの姿を見て、言葉を聞いて、自分にはなかったものを、知らず知らずのうちに沢山身につけていたんです」

 彼女だけじゃない。菜々美や橘さん、鳴海さんから受け取ったものも計り知れない。けれども、最初にそのきっかけをくれたのは、やはり彼女だった。錆び付いて動かなくなっていた俺の身体に、新たな燃料を注いでくれた。そのことに対して、俺は何よりも感謝すべきなのだ。

「小説の書き方だってそうだ」俺は言葉を続ける。

「あなたがいなければ、俺は間違いなく諦めていた。自分の人生を。今を。これからを……」そして。

<p><br /></p>

「俺はあなたに、まだ借りを返していない」

<p><br /></p>

 ソファーに置いた小ぶりのリュックサックから、藁紙わらがみで包装された『それ』を、丁寧に取り出した。

「これは俺が、初めて人に何か与えようと思って形にしたものです」

「へっ?」彼女は驚いたように、目を丸くする。

「だから、ミヤコさん。いえ、ミヤコ先生。これは俺にそのきっかけをくれたあなたに、一番最初に受け取ってほしい」

 彼女の前にその一冊を差し出した。

「なに……これ」

『それ』は、俺自身が自費で製作を依頼した本だった。出版社が行っているような、いわゆる「自費出版」で作られた本とはまた違って、インターネットで調べた印刷会社へ、自分で直接製作の依頼をかけたものだ。

 早い話が「形だけの本」。タイトルとペンネームが書かれただけのシンプルな装丁は、市販で出回っているものと比べると、作り込みの質はどうしても落ちる。ただ出来上がりを見てみると、思っていた以上に悪くなかった。ハードカバー仕様で、まだ手元に届いてから一週間と経っていない。

 ページを指の腹で煽れば、風に吹かれる稲穂のように、規則正しくさらさらと揺れた。切り揃えられた表紙の角からは、数学的な美しささえ感じてしまうほどだった。

 本の製作を自ら依頼する――。できればあまりやりたくない方法だった。どことなく、負けた気がするからだ。

 しかし、時間がなかった。そもそも小説家としてデビューできる可能性なんて、限りなくゼロに近いのだ。

 何よりも彼女へは「形ある本」として渡すことに、大きな意味があった。ただそのためだけに作った、会心の一冊だった。

<p><br /></p>

 彼女はそれを両手で受け取った後、目を見開いたまま動かなくなった。

 やがて両指にぎゅっと力が入ったかと思うと、頬に一粒の滴が伝った。先ほどとは違う種類の、暖かい涙だ。

 次第にその表情が、ゆっくりと円を書くように、やわらかなものへと変わる。

「こんなの、あるんだ……」

 彼女はいつものように、ふふっと笑う。

 その笑顔を見て、俺はまた胸が苦しくなる。この本を渡せば、全てが上手くいくと思っていた。彼女は振り向いてくれると思っていた。

 今そんな顔をされると、本当にどうして良いのか分からなくなる。ずっと望んでいた笑顔が目の前にあるのに、その結果は俺の望んだものではない。俺はただ、彼女のためにつられて笑うしかなかった。

「間に合って良かったです……」何とかそう言ってから、再度ソファーの背に身体を預ける。

 今度こそ終わったのだ――。

 ようやく俺は、自分を許せた。ここでの役目は、もう果たせたのだ。

「まだ、読んでないのにね」

 彼女は立ったまま赤くなった目を擦って、おかしそうに呟く。

 感想なんて、どうでも良かった。俺が自信を持って書いたものだ。彼女がつまらないと言うならば、それはきっと彼女には合わなかったというだけの話だろう。俺の人生がつまらないということなのだろう。それを今さら否定する気もない。

 だから、他人の意見など初めから気にしなければ良かったのだ。菜々美の言葉に頭を悩ませて、面白く書こうとする必要はなかった。

 そんなのはまだ、これからでいい。彼女に渡す特別なこの一冊は、リアルの香りが強ければ強いほど良いのだ。

 そもそも、ふんわりと香水のようにさり気なく香るなんて、最初からは無理なことだった。そこまで俺は、器用ではないのだ。

 望み通りのものは書けなかったが、思い通りのものはできた。相当に玄人向な作品を渡してしまったことについて、胸のうちで小さく詫びた。

<p><br /></p>

「……違うのよ、私じゃないの」

 唐突に、彼女は言った。ゆっくりと、ただそこに憔悴し切っている俺に語りかける。

「《先生》は基ちゃん。あなたなのよ。窓際だったあなたが、今こうして自分の本を持って私の所に来てくれた。そうでしょう?」

 物語を書く人は、その瞬間に小説家になるのだろう。山に登る人はアルピニスト。ピアノを弾く人はピアニスト。その呼び方自体に、プロとアマチュアの違いなんてない。

 ただ、そこから「先生」になるには、たぶんちょっとコツがいる。他人を先生とは呼ばないからだ。自分がその人の特別にならなければならない。認められなければならない。

 大切なのは、誰にとっての物語かということなのだろう。だから彼女は、俺を「先生」と言ったのだ。

「それにこのタイトル」

 表紙の上を親指の腹でなぞりながら、彼女は言った。

「今のあなたにぴったりじゃない。読んでなくても内容が手に取るように分かるわ」

 本当だろうか。彼女はきっと、勘違いをしている。そのタイトルが示しているのは、ヒーローではない。

 彼女は本に視線を落とし、またふふっと笑ってから、小さくその名を呼んだ。

<p><br /></p>

「基先生」


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##7.終幕##


 一二月の終わり。

 あの一件以来、ミヤコさんはほとんど会社に姿を見せなくなった。持病の関係で、出産のための入院期間は多めにとることにしたそうだ。

 彼女はいなくなってしまったが、今の俺はもう、精神的に不安定になったり、道を踏み外したりすることはなかった。

 理由のひとつとしては、やはり彼女から振られてしまったことが大きい。良くも悪くも、彼女というただ一つ残っていた誘惑が目の前から消えたことによって、気持ちをきっかりと切り替えることができた。

 ふたつ目は、試験室の復活だ。一二月の中頃、これから頻繁に休むであろう旨を彼女から聞かされた俺は、別れ際に「いつでも使っていいから」と、品質管理棟のスペアキーを密かに受け取っていた。これにより、事務所内で発生する人間関係というストレスで窒息死する心配もなくなった。

 そうして俺は、再び二足のわらじで歩み始めた。平日の日中は会社でこれまで通りの仕事を黙々とこなしつつ、帰宅後や休日には、新たな物語の構想を組み立てる――。既に完成済みの物語は文学賞に応募し、何らかのリアクションがあることを祈った。

 そうこうしているうちに、気がつけば年が明けていた。

 年末年始は実家に帰って、ずっと部屋にこもっていた。本棚で眠っていた小説に再度目を通し、少しでも新しい物語の肥やしとなるように勉めた。両親はそんな俺の姿を見ても、「帰ってきてくれたのだからそれで充分だ」と、特に何か言ってくることもなかった。

 一週間ぶりに出社した会社では、初日に新年を祝う式典が催され、皆で食堂に集まって工場長から訓示を受けた。白と赤の横断幕に囲まれても、俺の気持ちはまだ年を跨げてはいなかった。やり残したことがあるのだ。それが全て片づくまでは、春が訪れることもないと思っていた。

 半月ほどが経ち、二つ目の物語のあらすじが、大方完成した。

 いよいよ今日から筆をとろうかと意気込んでいたある日のこと。いつも通りに出勤し、午前中の業務が一段落しようとしていた正午前に、突然ズボンのポケットに入れていた個人携帯が震えだした。

(平日のこの時間に着信とは珍しい――)

 俺は椅子の上から咄嗟に立ち上がると、膝にかけていた作業着を椅子の上へと無造作に放り投げ、足早で事務所棟の裏口へと向かった。

 外に出たところで、手早くスマートフォンを取り出した。

 まだ、震えている――。

 画面を確認してみるが、登録されていない番号からで、誰かは分からない。ただ、携帯から発信されているようだった。出てしまうかどうか一瞬だけ逡巡した後、媒体を耳に近づける。

「もしもし」

「あっ、葉慣さんでしょうかー」

 やけに溌剌とした男の声が聞こえた。年齢は自分と大分近いように思えた。

「そうですが、どちら様でしょうか」

 手で口を押さえながら、声が周りに漏れないように気を配る。

「突然申し訳ありません。私○○出版の高見と申します。実は折り入ってご相談したいことがありまして連絡差し上げたのですが、今少しお時間よろしいでしょうか」

 思わず周りを見渡す。誰もいないことがわかると、俺は更に声を小さくして訊ねた。「出版社の方ですか?」

 期待というよりも疑念に近かった。聞いたことのない社名だったのだ。反応を伺おうとする俺に対して、高見という男は、飄々と答えた。

「そうです。投稿いただきました作品について、一度直接お話を伺いたいのですが、いかがでしょうか」 

 もしかしたらということもある――。

 その誘いを、俺が断る理由などなかった。

<p><br /></p> 

 結果から言うと、高見さんは本物だった。

 週末、都内の駅中にある小さな喫茶店で、俺たちは落ち合うことになった。

 約束の時間五分前に訪れた彼は、俺が想像していた通りの姿をしていた。痩せ型で髪は短く整えられ、薄手のダウンジャケットに黒のスラックス。一言で言うなら、普通。特徴らしいものといえば黒縁の眼鏡をかけていることくらいで、一見するとどこにでもいそうな、「休日のサラリーマン」といった風貌だった。

 席についてすぐに簡単な自己紹介があり、名刺を受け取った。そこで彼が正真正銘出版社の人間であることが判明した。同時に彼の口からは、俺の書いた作品について、興味を持っている旨が告げられた。

「本を出版してみないか」

 話の内容を要約すると、そんな感じだった。

 なんでも、受賞は逃したものの、審査の段階で興味を持ってくれた担当者が、別の会社の知り合いである彼に、横のつながりで話を持ちかけてくれたらしいのだ。身の丈を弁え、あえて大手に応募しなかったのが、功を奏したのかもしれなかった。

「ちょうど探していたところなんです」彼は柔和な笑顔を浮かべながら言った。

「当社はいわゆる大企業ではありませんので、大量に刷れない分、尖った作品を集めることで棲み分けをしているのですが、最近数が集まらなくて困っていたんです。そこで知り合いから『ちょっと面白い作品がある』とお聞きしたものですから、今回ご連絡させていただきました」

 小さな会社だからこそ、名の知れた会社よりは小回りが利き、良い意味で博打ができるのだという話だった。そこに自分は拾われたということか。

「尖った、というのは?」

 まだ完全に相手を信用しきれていない俺は、露骨に疑りの目を向けてしまう。しかし彼は、そんな視線も避けるかのように、へらへらと肩を揺らす。

「何かしらぶっとんでる、という意味です。もちろん、けなしているわけではありませんよ。葉慣さんの作品、最後まで読ませて頂きました。良いじゃないですか。狂気を感じました」

 彼は顎に手を当てながら、思い出したようにくくっと笑った。本来意図していた感想ではなかったが、いやな気はしなかった。

「なので、大々的にデビューというわけにはいきませんが、葉慣さんさえ宜しければ、出版まではこちらでお約束いたします。また、今回本を出したからといって、こちらから継続的な執筆を強制することもありません。ご自分の力を試されるおつもりで、是非挑戦してみませんか」

 もともと発行部数ではなく、デビューのきっかけが欲しかった俺は、本を出版できるという事実が聞けただけで、叫び出したくなるほど嬉しかった。だから断る理由なんて初めからほとんどなく、彼の愛嬌のある笑顔を見ていると、疑うのも次第に馬鹿らしく思えてきた。

「むしろやらせて下さい」

 結局、ほとんど悩むこともなく快諾する。

 どうやら俺は、幸運にも本を出せる機会を与えられたようだった。それはつまり、作家を仕事にするための足がかりを手にしたということになる。

「ありがとうございます」

 高見さんは立ち上がり、深々と礼をする。それはこちらの台詞だ。俺はテーブルに手を付いて、すぐにそれを制した。

「……じゃあ、修正が必要な部分は後日データで送るので、次回の打ち合わせの時までに直しておいて下さい」

 そうして、俺たちは店の前で別れた。出会ってからまだ一時間と経っていなかった。

 改札へと消えていく彼の後ろ姿をじっと見つめる。

 人から与えられた宿題が嬉しいものだと感じたのは、このときが初めてだった。 

<p><br /></p>

 その日の晩、久しぶりに風呂場の浴槽へ浸かった。いつもはシャワーだけで済ませてしまうのだが、今日に限ってはゆっくりと身体を温めて、気持ちを落ち着かせたかった。

 デビューが決まったその日のうちに、「自分のこれから」について考えておきたかったのだ。それは「書くこと」に専念した場合、どうやったら生計を立てていけるか、作家への前向きなジョブチェンジについてだった。

 全身の力を抜いて、正面に見える薄緑色のタイルの模様を、ぼんやりと眺める。次第に身体の末端からじんわりと熱が染み込んできた。気持ちいい――。

 ただ、この心地よさも、会社を離れれば簡単には得られなくなってしまうのだろう。失う物についても色々と考えなければならなかった。

 実際のところ、仕事が安定するまでの間はかなり厳しい生活になることが予想された。定職に就くのは難しいだろう。体調を維持しながら安定した活動時間を確保しなければならないのだ。しばらくはアルバイトをしながら、足りない分の生活費は貯金を切り崩して執筆に専念する予定だった。

 収入はおそらく半分以下になる。けれども、それは取るに足らない問題だった。死ぬわけではない。それよりも、これからは自分である程度仕事量をコントロールできることに、大きな価値があった。これまでのように、合わないことをただひたすらと機械のごとくこなす日々から脱することができただけで満足である。

 ざばっと勢いよく湯船から這い上がると、立ったままシャワーで身体を清めるように洗い流した。

 耳の中では、高見さんの「本を出しませんか」という発言がまだ消えずに残っていた。次第に霞んでいた視界から、もやが消えていく。

 むだではなかった――。これまでの行いが、もうすぐ報われようとしている。

 ついに、やり残したことを片づける準備が整ったのだ。

 この気持ちを誰よりも《あの人》に伝えたい――。高鳴る鼓動を押さえつけるのに必死で、その夜は上手く寝付けそうになかった。

<p><br /></p>

 そして翌週の火曜日、一月も終わりに近づいた頃。

 俺は秘めたる想いを胸に、ある人物と密室で対峙していた。

 場所は、第六応接室。内容の名目は、「業務報告」

 相手というのは、中山さんだ――。

<p><br /></p>

「話って、何」

つまらなそうな顔をしながら、片目だけでこちらに視線を送る中山さん。俺の話よりも、爪の中のゴミが気になるようで、こちらに全く関心が見られない。

「はい。まず一点目ですが……」

 俺は気にかけることもなく、テンプレート通りの台詞を伝える。

「今年度いっぱいで、辞めさせていただきます」

「ん」

 一文字だった。あまりの反応の薄さに、一瞬咳払いかと思って言葉を待ってしまった。これでは拍子抜けも良いところである。内心では無視されたり、拒絶されたりするのではないかと、ヒヤヒヤしていたのだ。

 それ以上何もコメントがなさそうだったので、俺は続けることにした。

「有給も一ヶ月残っているので消化させていただきます。

「……」

 返事がない。肯定とみよう。

「理由は」

 少し遅れてから、機械的な質問が投げられる。一応聞いていてくれたことに安心する。

「辞める理由は体調が主です。有給については……後ほどご説明します」

「ああ、そう」

 視線は変わらず足元に落とされたままだった。このままお互いに目を合わすことなく、別れることになってしまうのだろうか。

 いや、おそらくそれはあり得ない。「辞める報告」はあくまで事務的な連絡にすぎなかった。本番はこれからなのだ。

 今から俺が放つ一言。そこに俺の半年間、いや、四年間で築いた全てが詰まっていると言ってもいい。今日この日のために、俺は雨だれ石を穿つような地味とも言える努力を続けてきたのだった。

「……その前に、もう一つあるのですが。宜しいでしょうか」

「何」

 控えめに言う俺には目もくれず、時計をちらりと見て顔をしかめる中山さん。

(やはり、言うまいか……)

 一瞬のためらいがあった。黙ってこのまま去ってしまうのも、一つの方法だ。無理にここで爆弾を落とす必要はない。会社の中で、橘さんのように本好きな誰かが、目ざとく気付いてくれるのかもしれない。

 しかし、本当にそれでいいのか。その可能性はどれくらいある。「万に一つ」も甚だしいじゃないか。店頭に並べられても、不発弾になることは目に見えている。

 だとするとやはり俺は、今爆発させなければならないのだろう。ここで言わなければ一生後悔する。彼女にだって顔向けできない。

 今さら心配することなんて、何もないはずだ。既に壊れているのだ。心も。身体も。これ以上気を使う場所がどこにある。

 別に相手を傷つけるわけではないのだ。「俺に何ができるのか」。その事実を証明するだけだ。所詮上手くいっても、0(ゼロ)が1に変わるくらいの変化でしかない。

 ならば期待せずにいこう。淡々と伝えよう。事実を、ありのままに、脚色することなく。

 物語は最後まで終わらせなければ、話にならないのだから。

 俺はようやく、その言葉を口にする――。

<p><br /></p>

「一応のご報告なのですが。あの……『本』を書きました。この会社が舞台になっている、『本』です」

「は?」

 時間が止まった――。

 この反応は、悪くない。どうやら「つかみ」は成功したようだ。中山さんはそれなりに驚いてくれているようだった。

 しかしそれも当然のことだろう。一般的な人間であれば、「自分の会社について本を書こう」とは、まず思わない。更にこの会社に限って言うならば、思っていても実行できない。日々の仕事に悩殺されて、そんな時間も体力も、到底残らないはずなのだ。

 ただひとつ、俺のように干された人間を除いては――。

「後日出版される予定です」

「はっ? 本を……出版ん?」

「はい。この会社について書いた本が、世に出回ります」

「…………」

「宣伝になるかもしれません」

「バカなこと言うな!」

 怒鳴られた。しかし、それさえも最後だと思うと感慨深い。

「すみません。もう決定事項なのですが、仁義だけは切っておこうと思いまして。当然悪いようには書いていませんので、もし宜しければ読んでみて下さい」俺はあくまでも客観的にその事実を伝える。

「意味分かんないんだけど」

「どのあたりがですか」

「いや、全部。まず、本気で言ってんの?」

 本気に決まっているじゃないか。俺は「壊れた」といっても、別に頭がおかしくなったわけではない。それくらいの判断はできる。

「はい。三月の末頃には店頭に並ぶ予定です」

 中山さんは腕を組んで唸り出す。

「んー……まあ、ここで言うくらいだからおそらく本当なんだろうけどさぁ。仮にそうだとしたらお前、これ間違いなく大問題だぜ?」

 椅子から身体をのけぞるようにして、天井に視線を向ける。「上に報告すれば、黙っていないだろうなぁ」

「圧力がかけられるということですか」

「そうなんじゃないの?」 

「それはたぶん、できないと思います。なにせこの会社は一切関係ありません。『本の中では』ここも俺の想像上の景色に過ぎませんので」

「そんな屁理屈通るわけないじゃん。……はぁ」 

 中山さんは、呆れたように大きく息を吐き出した。

 それにしても、事実だから仕方がない。社名や場所が分かるような描写は一切していない。

 事前に橘さんからも言質を得ている。「絶対トラブルになるよ」と言いながらも、内容自体には本当に問題がないことが分かると、しぶしぶではあるが了承してくれた。 

「充分に配慮はさせていただきました」

「それはお前の都合だろ。中身は? 何を書いた」

「教えられません。そういう《きまり》なんです」

 まさかこちらが馬鹿正直に答えるとでも思っていたのだろうか。当然店頭に並ぶのを確認するまで、中身についても教えるつもりはない。

「……やっぱり分からん」中山さんは首をひねってこちらを見る。

「なあ、葉慣。教えてくれ。お前は一体、何がしたいんだ? この報告に何の意味があるんだ? 俺は上に、今の状況をなんて報告すればいいんだ?」

「報告していただかなくても構いません。無理なら握りつぶしてください。それができずにどうしても内容が知りたいというのであれば…………発売日までお待ち下さい」

「それはつまり……」

「買って下さい」

「おまえさあ……」

 冷ややかな視線を浴びせながら、中山さんはまた大きく息を吐いた。何か言いたいけれど、何を言えばいいのかも分からないのだろう。何せ発言の根拠といえる現物の証拠が一切ないのだ。現段階では絵に描いた餅。俺の独りよがりの戯言に過ぎない。

 もうこれ以上話すのは面倒だとでも言うように、中山さんはそのまま黙りこくってしまった。

 しかし俺は気にすることもなく、ここにきてやっと、締めの言葉に入る。

「あと、先ほど宣伝になるとお伝えしましたが……」ゆっくりと一つ、深呼吸する。

「なんなら社名を最後の《あとがき》で出してもかまいませんので、必要であればその際はお早めにお声かけ下さい」

 頭の中で何度も練習したその台詞を、恭しくすっと差し出すように述べてみせた。

「私からは以上です」

 椅子の上で軽くお辞儀をして、中山さんをじっと見つめる。

「別に……俺は最初から言うことなんてないよ」

 中山さんはうっすらと苦笑いを浮かべながら、静かに部屋を出ていった――。

 ドアがかちゃりと音を立てて静かに閉まる。

 俺は一人、無音の空間に取り残された。だらりと身体を椅子に預け、しばしその空気に陶酔する。

 やりきった――。伝えるべき事は全て伝えたつもりだった。緊張から解放され、心地よい達成感が身体を包む。

 こうして俺の復讐は、ささやかに終わりを告げた――。


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