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窓際の先生  作者: 立中詩色
1/3

-前編-

##1.壊れた時計##


 暗闇の中、かすかな振動音で目が覚めた。それがすぐに自分のスマートフォンであることに気づく。

(トラブルでもあったのだろうか)

 真っ先に思い浮かんだのは、勤め先の工場のことだった。生産は二四時間体制なので、問題があれば深夜早朝でもおかまいなしに現場の担当者から電話がかかってくることになっている。

 生産工程の指示を出している身としては、できるだけ現場間のみで何とか対応してもらいたかったが、「指示を出している事務所の担当者に聞かないと判断できない」と言われれば、責任もあるのでそれ以上はきつく言えなかった。

 気だるげに枕元に置いていたはずのスマートフォンをまさぐる。ようやく手にしたそれは既に停止していたが、やはり発信元が気になってしまう。昨日の自分の仕事内容にはたして不備がなかったかものかと、ぼんやりとした頭で記憶を辿る。

 液晶画面のロックを解除すると、途端にバックライトが点灯して目に染みた。すぐにモノクロのホーム画面が映し出される。

時刻はまだ五時半を過ぎたところらしい――。

 画面の左上には、着信を知らせるアイコンが出ていた。重い(まぶた)を何とか片目だけ開きながら、発信元を確認して絶望する。

《着信二件 発信者1:製鋼現場 組長 発信者2:前原係長》

 思わず、深いため息が出た。これは最悪のパターンだ。早朝という時間帯に加えて、相手は直属の上司ときている。

 おそらく現場で何らかのトラブルがあった後、俺が出なかったために、上司である前原さんまで連絡がいったのだろう。そして再度、前原さんから俺に電話がかけられたということだ。

 逡巡することもなく、スマートフォンを机の上に裏向けで置き直し、再び布団に潜り込む。

(ふざけるなよ。今何時だと思ってるんだ)

 今すぐかけ直す、という選択肢はなかった。

 深夜や朝方に電話がかかってくることはこれまでも何回かあったが、いつもかけ直すのは出社前だ。一度だってその時に出たことはない。というより、意識的に出ないようにしていた。こういうのは一度出てしまったが最後、その後もずっと同じように対応しなければならなくなるのだ。

 朝八時には会社にいて、帰ってくるのも夜の一〇時過ぎ。それで寝ている最中にも電話に出ろというのであれば、一体どこで休めというのだろうか。最後の砦である睡眠時間だけは、どうしても死守しなければならなかった。

 目をつぶって少しでも早くこの不快な気持ちを忘れようと試みるが、一度目覚めてしまった頭は、なかなか言うことを聞いてくれなかった。心臓が高鳴り、喉の奥で血液が脈打つ。

 これから数時間後にはいつも通り会社へ行き、前原さんからまた、この件でちくちくと小言を言われることになるのだろう。心底嫌気がさしてくる。

 こんな精神状態で安心して眠れるはずもなかった。諦めてベットから重たくなった身体をのっそりと起きあがらせる。

 一〇畳ほどのワンルーム。天井から飛び出た柱に両腕を当てて胸を伸ばすと、固まった身体に血液が行き渡ったようで幾分ましになった。しかしすぐにエアコンから出る埃っぽい臭いが鼻をつき、げんなりさせられてしまう。

 そのまま少し離れた空気清浄機の所まで向かった。いぜんとしてまぶたは重く、意識とは別に縫いつけられたかのように上手く動いてくれない。眉間を指先で揉んで目を開けると、視界はどこかかすみがかっていて、部屋全体が淡い灰色につつまれていた。指先の感覚だけでスイッチを入れ、机の上のリモコンに手を伸ばす。息を止めて吐き出すかのように、テレビは白黒の画面を映し出した。画面に映る灰色の太陽を確認したあと、入り口近くに設置されている冷蔵庫を開いて、ペットボトルの水を口に含む。一口目は飲み込まずに、口をゆすいでシンクに吐き出した。

 いつからかこの一連の動作が、毎朝の儀式のようなものになっていた。もう何回繰り返したのかかわからないが、最後に口を清めることで、少しだけその日一日も頑張れる気がしていた。

 高校卒業後、父親の転勤に合わせて、これまで過ごしてきた関西を遠く離れ、北関東の田舎町に移住することになった。そのまま大学を卒業し、県内のそこそこ大きな鉄鋼メーカーに就職することになった。

 卒業後はとにかく親元を離れて、自由気ままな一人暮らしを満喫してみたかった。なので寮付きの会社を条件に、いくつかの企業の面接を受けた。その中から業績も良く、休みも安定して取れそうなこの会社を就職先に選んだ。その期待は後にたやすく裏切られることになるのだが、自分の選んだ道なので、誰に文句を言う事もできなかった。

 独身寮に入ってからは今年で四年目になる。改めて考えると、よく四年も耐えられたものだ。

《会社の寮》というのは、想像していた以上に過酷な環境だった。工場から車で五分。目と鼻の先に位置し、窓を開ければ煙突から白煙がもくもくと立ち上る様子が伺えた。平日休日関係なく、廊下で社員とすれ違えば「お疲れ様です」と挨拶を交わす。おまけに独身寮なので女人禁制ときている。要するに、仕事とプライベートの境がほとんどない。どこにいても《空気》が同じなのだ。

 実際にこれまで、幾度となく会社を辞めようと思ってきた。しかしその度に、「彼女」の存在が俺を踏み留まらせてきた。

<p><br /></p>

 彼女のことは、今でもほとんどよく分からない。

 分からないまま、俺はこれまで一方的に救われてきた。

 唯一、分かっていることと言えば。

 彼女の名前が「ミヤコさん」であるという事。

 ただ、その一点に尽きる――。

 <p><br /></p>

 気がつけば、またスマートフォンが震えていた――。

 いつの間にか、ベッドの上で座りながら眠っていたらしい。さすがに二回目はまずいと思って、勢いよく身体を起こしながら媒体を拾い上げ、画面を確認する。

 しかし今回はアラームだった。

 安心しながらも再び画面の光に不快感を覚え、停止ボタンを押す。机の上へと置き直した。 

(やっぱり、新しいものに買い換えようか)

 机に置かれた無機質な文字盤に目を向ける。いつからかアラームが鳴らなくなってしまった「それ」は、今となっては目覚まし時計の機能を完全に失い、ただの《置き時計》と化してしまっている。それがふと、自分の分身であるかのように思う。

 俺もいつしか壊れてしまったのだ――。

 会社の組織という枠の中に自身をむりやり押し込んだ結果、気づかないうちに平凡な日常さえ失ってしまった気がする。

 壊れた俺自身は、どこへ行けばいいのだろう。この目覚まし時計のように、どこかでお金を払えば治してもらえるのだろうか。

 後悔はないはずのに、どうしようもない喪失感だけがこみ上げてくる。このまま一生死ぬまでここに居続けるのだろうか。

 想像するとゾッとした。身体はもうとっくに限界を超えているというのに……。

 <p><br /></p>

 荷物を積んだトラックが、朝の静寂を裂くような轟音ごうおんを立て、寮の前を通り過ぎる。

 その音で我にかえり、思考を中断させる。時刻はすでに七時一五分を回っていた。

(そろそろ良い頃だろう……)

 スマートフォンを手に取り、着信履歴からそのまま折り返しの電話をかける。相手はもちろん前原さんだ。

 かけ直すとすれば、この時間がベストだった。かかってきたときに出てしまえば、対応で睡眠時間が削られる。かといって、そのまま朝に会社で顔を突合わせるまで何もリアクションをとらなければ、烈火の如くお叱りを受けることになる。行き着いた先がこのタイミングだった。

 五回程コールが鳴るのを確認しても出ないことが分かると、即座に《通話停止》のボタンを押した。ふっと息を一つ吐いてから、太ももを叩いて気持ちを切り替える。

 少し急いだ方が良さそうだった。始業開始時間は八時だが、課の中で最も若い俺は、いつも三〇分前にはデスクに着いているよう言いつけられていた。

 朝の貴重な時間を周りの課もそうしているからという理由で、意味もなく早く出社しなければいけないのは納得がいかなかった。けれども抵抗すると更に環境が酷くなることは経験済みなので、以降は黙って従うことにしていた。この会社では、与えられた中でいかにしてむだなく動けるかがポイントなのだ。

 ベットの脇に手をついて跳ねるように立ち上がる。

 朝食のパンをむりやり口にねじ込み、野菜ジュースで流し込む。手早く寝間着を脱ぎ、ハーフパンツとポロシャツに着替えて、財布をポケットに滑らせた。

 いつからか重たく感じられるようになった独身寮の扉。前のめりになりながらこじ開ける途中、ふと、埃を被ったままの姿見に目がいった。

 そういえばここ二、三年意識して鏡を見るようなこともなくなってしまった。今度処分しようと決めてから、夏の暑さがしみこんだ廊下を早足で進んだ。

 <p><br /></p>

 日曜日の早朝は閑散としている。会社まで片道一キロメートル程度の道のりを、自転車でゆっくりと走る。

 車は必要性をあまり感じられず、まだ持っていなかった。どこかへ出かけるときは、学生時代から趣味にしているオートバイがあれば充分だった。元々、この距離ではそこまで時間に差が出ないため、節約と健康を兼ねて、入社してからはずっと自転車通勤だ。

 会社近くの道路は、様々な物資を運ぶトラックの重みで所々波打っており、タイヤの形に沿ってわだちができていた。その道路の脇には、トラックの荷台からこぼれ落ちた小さな鉄のスクラップが、まきびしのように転がっている。それを踏まないよう地面に目を凝らしながら、慎重に進んだ。

 会社を往復するだけでもう四回もこのトラップに引っかかりパンクを経験していたが、車の維持費を考えると安いものだと思って、そこまで気にはならなかった。ただ、修理のために自転車を三キロメートルほど離れたホームセンターまで歩いて持って行かなければならないのは、さすがに骨が折れた。

 工場の稼働日にあわせて、現在の休みは金曜と土曜日になっている。平日が一日休みなのは、役所関係で融通が利くので結構助かる。遊びに行くにしても比較的どこも空いていることが多いので、その方が好都合だった。

 昨日の晩に突如降った雨のせいか、道路の脇を流れる用水路はいつもより水かさを増しており、今にもあふれ出しそうな勢いだった。

 茶色い濁流の唸る音を聞きながら走っていると、水路に生えた水草の生ぬるくて青臭いにおいが鼻をついた。工場が近づくにつれて、その臭いは次第に鉄と油と排気ガスの混ざりあったものへと変化する。

 この臭いたちにも、永遠に慣れることはないだろう。生産のある週末は特に酷く、それらは独身寮の付近まで押し寄せてくる。エアコンをつけると、部屋の中にまでうっすらと漂ってくるほどだった。窓を開けて寝るなんて、考えるだけでも恐ろしかった。

 ものの五分ほどで工場が視界に入ってくる。工場の周囲は、近隣への騒音を低減したり、緑地法に準じたりするために、ほぼ三六〇度を木々で覆われている。そのせいで外からは中の様子が一切見えないようになっており、異様な雰囲気を醸し出していた。入社当時は環境に配慮した夢のある会社だと感じたものだが、今ではそれが労働者をかくまう秘密結社のように思えてならなかった。

 アスファルトの路面にへばりつくタイヤのじりじりとした感触にうんざりしながら、正門近くの駐輪場を目指して進む。

 工場の敷地に沿って走っていると、途中で後ろから何かがぶつかるような軽い衝撃を感じた。

 嫌な予感がして横を振り向くと、案の定、同期の平井がニヤついた顔で、こちらを眺めていた。そのまま彼のロードバイクと併走する形となる。

「おーっす、はじめ! お前、おととい何で来なかったん? 寂しかったんだけど!」

 朝から最高潮に見える平井の姿に、一瞬たじろいでしまう。

 入社したての頃は、よく二人で会社の愚痴をこぼし合ってストレスの発散に励んだものだが、最近はどうも噛み合わないことが多くなった。

「おはよう。なんでってお前、公休だろ。せっかくの三連休なのに、会社の行事なんて参加してられるかよ」

 昨日は会社の創立六〇周年ということで、駅前にあるホテルの一室を貸し切って、記念式典が催された……らしい。

 おそらく社長とホテル側の都合だろう。三連休の真っ直中ということで、参加人数が極端に少なくなることを危惧した上席のお偉い方たちは、各課二人は強制的に式典に参加するよう、運営を取り仕切る総務課に根回しを徹底させた。

 俺は何とか理由を付けて参加を拒否することに成功したが、どうやら平井は上からの圧力に屈してしまったらしい。

 しかし、当の本人からはそこまで不満の色は見えなかった。いつも通り口元が耳にくっつきそうになるくらいの不自然なスマイルを浮かべている。俺にはその笑顔が偽りのものにみえて仕方なかった。

「そりゃ俺だって行きたくなかったけどさ、仕方ねぇじゃん。うちの課、全員参加だぜ。上が皆して『行く』って言ってるのに、お前断れると思うか?」平井は拗ねた子供のような口調で言った。

「えっ、じゃあ二人だけで良かったのに、課の六人全員で参加したの? もったいねぇー」

 心から思った通りの言葉を口にした。平井の底知れぬ忠誠心が、全く理解できなかったのだ。

 確かに組織へ属すのであれば、ある程度周りに合わすことは必要だ。個人が好き勝手に動いてしまえば、会社として機能しなくなってしまうからだ。

 ただ、行きすぎた忠誠は後々自らの首を絞めることに、平井はたぶん、気づいていない。自分たちが知らないうちに、仲間と思っている信者同士で、いつの間にか殺し合っているのだ。

 しかし平井からすれば、逆に俺の方が異端に思えるのだろう。その証拠に、彼は口元をぎこちなそうに歪めて言った。

「俺には真似できねえよ」

 そのまま俺を置いて走り去ってしまう。

 染まりゆく同期に対して、俺は憐憫れんびんの目を向けていたように思う。

<p><br /></p>

 自転車を止めて正門をくぐり、守衛のおじさんに軽く挨拶する。従業員用のICカードを、《入出勤記録媒体》にかざす。

 七時二五分――。良い時間だ。

 ちなみに、ここの時計もちょっとおかしい。というか、こちらの場合は手の打ちようがない分、酷かった。

 記録装置は混雑を緩和するため二台並べられているのだが、両方で表示されている時間が違っている。加えて、どちらか片方でも合っていれば良いのだが、両方とも間違っている。

 守衛のおじさんいわく、「もう何十年も続けて使用しているものなので中の仕掛けが壊れてきている」らしい。正確な時間にセットし直しても、時間が経てばまたいつの間にかズレている。それならそれで、早く新しい物に交換すべきだと思う。

 俺は一度不思議に思って、電波式のデジタル時計でそのズレを確認したことがある。結果、最小で三分、最大で五分それぞれの媒体で「遅れていること」が判明した。

 実際の時刻より遅いというのは厄介だ。早出残業がつけられるなら差引ゼロにすることができるのだが、悲しいことにこの会社にそのような制度は存在しない。分かりやすく言えば、定時に退社しても勤務時間までいなかったことになってしまう。トラブルの種になることは目に見えていたのに、総務に掛け合ってみても「予算が降りない」と言われただけで、いまだに改善される気配はなかった。

 働くモチベーションに直接関係してくる大事なことだ。本来厳格に管理されて然るべき部分だが、残業時間がつかない係長以上の役職者にとっては、それも「どうでもいいこと」なのだろう。

 納得のいかないことが多すぎる――。誤差の少ない左側にICカードをかざしながら、この音を聞く度に自分の不満がポイントとしてカードに蓄積されていけば良いのに、と思う。

 更衣室で作業着に着替えた後、工場の脇にある《総合事務所棟》まで向かう。

 工場で働く従業員は「事務担当員」と「現場作業員」にわかれており、大卒で採用された俺は前者に属する。ただ、完全なホワイトカラーというわけではなく、毎朝決まって現場には足を運ぶし、現場主体で行われる会議にも参加する。

 このあたりは入社してから初めて分かったことで、昔ながらの「三現主義」、つまりは「現場で、現物を見て、現実的に考える」をモットーとする姿勢は、予想していたよりもずっと身体にこたえた。

 事務所棟に向かう途中、喫煙所の前あたりで、こちらに向かって歩いてくる作業着姿の二人組を発見した。

 総務部長だ――。しかし、隣にいるのは誰だろう。見たことない顏をしている。年齢は四〇歳くらいだろうか。同じ作業着を着ていることから考えて、新しい事務所の職員ということになるのだが……。

 すれ違いざま、部長の不敵な笑みが視界に入る。その顔を見た瞬間、俺は先日も同じような場面に遭遇していたことを思い出した――。

 二か月前新しく総務課に配属された加藤さん。彼の時も、確か似たような感じだった。そして今回も同じだとすると……自然と一つの可能性にたどり着いた。

 旧態依然のこの会社では、毎年決まった高校への勧誘や従業員からの紹介で入社してくる人間が少なくない。いわゆる、「コネ入社」というやつだ。新入社員や派遣社員ならまだしも、正社員でこの時期に入ってくるのは、いささか怪しい。しかも年齢。

 加藤さんがそうだったように、この人もそのうちの一人なのだろうか。だとしたら紹介した人の顔が見てみたい。そして理由を聞きたい。なぜうちの会社、勧めたんですか?

「おはようございます」

 これから一緒に働くメンバーだ。失礼のない程度に軽く頭を下げ、挨拶を交わす。

「あっ、どうもー」

 えびす顔に柔らかい返事が返ってくる。この人なら……結構耐えられるのかもしれない。不謹慎ながら、そんなことを思った。総務部長は俺を無視した。

<p><br /></p>

 事務所棟のドアを開けて中に入る。この瞬間はいつだって緊張する。ここから先は、空気が一気に変わるのだ。

 外のうだるような熱気とは対照的に、室内の空気はピンと張りつめていて、肌寒く感じる。二八度設定の冷房だけでは感じることのできない、異様な冷たさだ。

 既に出社している社員たちに挨拶を交わしながら、自分のデスクまで早足で向かう。皆一様にして、目つきが鋭い。きっとこの中の何人かは、昨日も休みだというのに出社していたのだろう。

 今にも刺さりそうな視線を背中に感じながら、ようやく自分の席にたどり着く。パソコンの電源を点け、前日の生産出来高を確認する。特に、問題なさそうだ――。

 一息ついたところで、ちょうどスピーカーからくぐもったラジオ体操の音楽が聞こえてきた。すぐに急ぎ足で正面玄関近くの広場へと向かった。

 七時四五分から五〇分。わずかとも言えるこの五分間は、俺にとってかけがえのない時間だった。

 入社してまだ間もない頃は、社会人になってまでラジオ体操をやるなんて信じられず、宗教じみた変な会社だと思っていた。しかし続けていくにつれて、その考えは変わった。

 たまに、朝出社してすぐ現場から問い合わせがあると、体操に参加できないときがある。けれどもそのような日は、仕事も決まってローギアになった。

 俺にとってラジオ体操は、プライベートと仕事の切り替えを行うスイッチのようなものだった。そこには、これから会社の中で起こる理不尽に対して、自分の中である程度の許容をつくるための「準備体操」としての意味が込められていた。 

 音楽に合わせて、自分を再構築する。腕を真上に向かって伸ばし、身体が一本の大木であることをイメージする。そのまま手を横に広げて流れる滝を思い浮かべながら、一気に脱力し、肩を落とす。腰に手を当てて背中を反らし、上空を仰ぎ見る。瞬時に頭の中の靄がしゅわっと溶けて、視界が少しだけ明るくなる。

 繰り返すことで、段々と自分が浄化されていくような気がする。身体全体がしなやかな薄い膜で包まれていくようだ。

 今日こそは、できるだけ平凡な一日を期待したい――。そうならないことは分かり切っていたものの、心の中ではつい願ってしまうのだった。

<p><br /></p>

 体操から戻ると、課内のメンバーが全員席についていた。

 生産管理課。課長である中山さんをはじめとして、係長の前原さん、岡田さん、細山さん。全員男だ。

 四人と軽く挨拶を交わした後、立ったままデスクの中からタンブラーを取り出す。給湯室へと足を向けようと、引き出しを閉じた瞬間だった。

「前原ぁ、ちょっと」

 中山さんだ。いつもの「呼び出し」だろう。相変わらず難しい表情をしている。まるで丸めた新聞紙のようだ。

「わたし? 今ちょっと週末の生産工程の資料まとめるので忙しいんですけど……」

 前原さんは気まずそうに答えるが、そこに強い拒絶の意志は見えない。中山さんもそれを充分に分かっているので、いつも前原さんが諦めるまでは、誘いの手が止められることはない。

「そんなの後でもできるだろ。俺との話のほうが大事だ。いいから来いよ」

 そう言って中山さんは早々と席から離れていく。前原さんは、「また帰れねえじゃん」と、眠そうな顔をしている岡田さんに向かって小さく嘆きながらも、その後ろに続いていった。 

 この課では、こうした中山さんによる「呼び出し」というのがわりかし頻繁に行われる。中山さんの話好きな性格もあるが、神経質な中山さんは常になにかにつけて不満をもっており、それをまず、直属の部下であり右腕の前原さんにぶつけるのだ。その場所は大抵喫煙所なのだが、俺はたばこを吸わないので、そこで話される具体的な内容は分からない。けれども、ヘビースモーカーの二人が席を外してから帰ってきた後にこの「呼び出し」は開催されることが多いので、おそらく間違ってはいないはずだった。

 喫煙所だけで不満が解消されれば問題ないのだが、それでも中山さんの納得がいかないときは、応接室(兼会議室)が利用される。

 その応接室には隠された序列のようなものが存在していて、会議室としても利用できる第二から第六部屋は、番号が大きくなるほど、内容の深刻度も高く設定されていた。応接室は全て同じ事務所棟の中にあるのだが、第六はその中でもデスクから一番遠く離れていて、声が届きにくい所にあるのだ。しかし、その取り決めはなぜか他課にまでしっかりと知れ渡っており、第六応接室は陰で《説教部屋》とも呼ばれていた。

 デスクから離れていく二人の様子を目で追う。二人は空き部屋の第三応接室の中へと消えていった。

 こんな朝早くから何の話だろうか――。部屋に二人で入ったということは、少なくとも良い話ではない。

 ある程度経験を積んでから感じられる嫌な予感というものは、計算に近いものがある。そんなに外れないということだ。そしてそれは今回も例外ではなかった。

<p><br /></p>

 朝の現場訪問から戻ってきても、二人はまだ、応接室にこもったままだった。

 開始から一時間が経過した九時過ぎ。ようやくその扉は開かれた。

 前原さんが先にこちらへ向かって歩いてくる。中山さんは――ん? どうした? まだ、中にいるのか? いつもなら二人並んで出てくるはずだった。いやな予感しかしない。

 前原さんはデスクまで戻ると、そのまま席に着くことなく、立ったまま係長二人の顔を交互に見た。

「……岡田さん、細山さん、ちょっと」

 ぽかんとする二人を前に、前原さんは更に思いもしなかった言葉を口にした。

「私、技術部長呼んでくるから先に入ってて」

 そう告げてから、小走りで少し離れた部長のデスクがある方まで掛けていった。どうやらまだ、話は終わっていないようだった。

(この流れはまずい……)

いよいよ俺の中で黄色信号が点滅し始めた。うちの課は部長がいないため、組織上は他の課である技術部長が部長職を兼任している。なので重要案件の相談事は、中山さんの承認だけでなく、技術部長の承認もいるのだ。

一人デスクにとり残されながら、考えを巡らせる。今、俺を除いた三人の間で、何かはよく分からないが、重要な事柄について議論がされている。しかもそれは、「俺にだけ」聞かれてはならないことだ。

 今朝、会社にきてから直近の生産で大きなトラブルがあったとは聞いていない。中山さんと前原さんの様子からしても、業務的な内容でないことは何となく察しがつく。

 通常ここまで露骨に仲間外れにされると、多少の心の準備もできてくるのだが、今回はなぜか部長まで参加しているのが不安に拍車をかけている。これは相当ダメージが大きそうだ。

 まだ業務で調整しないといけない部分が山のようにあったのだが、色々と事態を深読みしてしまうと、それどころではなくなってしまった。

 次第に胸のあたりが、むかむかしてくる。

 休憩しよう――。

 立ち上がると、視界が揺れた。近くの柱に手をつきながら、のろのろとした足取りでトイレまで向かう。

 連絡通路の扉の前で、ふと振り返って自分のデスクに目をやった。誰もいなくなったその「シマ」を見て、俺の気持ちはなぜか少しだけ和らいだ。 

 <p><br /></p>

 謎の打ち合わせは、そのまま昼休みの半ばまで続いたらしい。食堂から事務所棟に戻る途中で、昼食に向かう前原さんとすれ違った。瞬間、目が合ったような気もしたが、気のせいかもしれなかった。

 昼休みで一時的に消灯された事務所棟内は、ひっそりと静まりかえっており、応接室で談笑する何人かの声だけが嫌に響いていた。まるで午前中のストレスを一気に笑いに変えてやろうとでもするかのような、大きい笑い声。それはテレビのバラエティ番組を、遠く離れた部屋からむりやり見せられているような気分だった。

 俺にはきっと、あの輪に入ることはできない。デスクの椅子に腰掛けながら、背もたれを最大まで倒し、手を膝の前で合わせて目をつぶった。

 途端に視界が真っ暗になり、真珠貝の模様を思わせる紫色の淡い光が、ゆっくりと川のように暗闇を漂い出す。その川は温かく、重くなった眼はじんわりとほぐされて、柔らかなものへと変化していく。次第に心地良い睡魔がやってくる。

 二〇分――。残された昼休みを最大限に使って、俺は少しでも体力を回復させようと必死だった。もちろん周りには、ただ眠っているようにしか見えないのだろう。 

<p><br /></p>

 午後。蛍光灯の明かりを点ける乾いた音に、一瞬心臓を摘まれたような鈍い痛みを感じた。

 まだ始業のチャイムは鳴っていない。重たくなった瞼の奥で、スポットライトに照らされたような強い光を感じとると、俯いたままゆっくりと眼を開けた。

 顔を上げ、ボトルに残ったわずかな水を口に含む。いつの間にか書類棚に溜まっていた回覧物に、一枚一枚目を通していく。

 この会社は紙が多い。けれども、それは俺にとって都合が良かった。管理するのは大変だが、パソコンの画面でひとずつ確認するよりは何倍も良かった。紙は眼に優しいのだ。

 薄目のまま書類を一つずつ確認していると、背後から突然声をかけられた。

 振り向くと、そこには中山さんの姿があった。午前中と変わらない険しい顔つきだ。少なくとも寝起きに拝みたい顔ではない。

 中山さんはしきりに肩を上下に動かし、小さく足踏みをしていた。苛立ったようにも見え、落ち着きがない。

葉慣はなれ、ちょっと」

 顔を合わして、再度お呼びがかかる。ようやく俺の番か――。視界が途端に黒い靄で覆われていく。憎らしいほどにいいタイミングでチャイムが鳴った。終わりの、始まり――。

 何を言われるのか、まだ分からない。ただ、得体の知れない恐怖がすぐ側まで迫ってきているのは確かだった。それは既に決定されたものなのだろう。抗うことは許されない。

 俺は中山さんの後ろに続いた。他の課の椅子を縫うようにして、応接室へと向かう。

 周りからの視線が、刺さるように痛かった。一体俺が何をしたというのだろう。全く見当がつかなかった。

 けれども、思い返せばいつだってそうだった。こちらの意思など関係ないのだ。たぶん、また気づかないうちにこの会社の意思にそぐわないことをしてしまったのだろう。

 だとしたら、心の準備なんてものはしようがなかった。ただ一歩ずつ、処刑台までの道のりを呆然と進むしかなかった。

<p><br /></p>

 連れられたのは予想通り《あの部屋》だった。

 第六応接室――。俺のときだけ、この場所か。ということはつまり。主役は決まっていた。

 入り口には《使用中》のプレートが掲げられていた。扉のりガラスから、中の明かりがわずかに漏れている。既に誰か入っているようだ。おそらく、課内のメンバー全員だろう。

 中山さんは間髪入れることなく、乱暴にドアを押しのけて中へと入っていった。

 俺は続くことなく、その場で一度立ち止まる。また、「あのようなこと」になるのだろうか――。うなだれながらも二年前、つまりこの課に異動になる前までの出来事を、ぼんやりと思い出していた。

<p><br /></p>

「お前はこの会社には向いてないよ」

 最後通牒つうちょうのように投げ捨てられたその言葉は、以前所属していた資材購買課の課長によるものだった。

 はっきりと覚えている。あのときは残業時間についての議論だった。

「どれだけ残っても三〇時間の最大値は納得がいかない」と言った俺に対し、当時の課長は様々な理由をこじつけ、こちらの主張を頑として認めようとしなかった。

 あるときは全体の失敗を俺一人の責任だと言って、それを残業代から差し引いて誠意を見せるべきだとねじ伏せた。またあるときは、教えられている身で残業代をもらうのは厚かましいと言って、業務の引き継ぎ期間や、俺の先輩へ質問した時間は、残業時間から差し引くように圧力をかけてきた。

 そのころ、入社してからまだ間もなかった俺は、この会社に少なからず希望を持っていたこともあり、そんな理不尽な対応にも何とか耐えてきたつもりだった。たとえ罵詈雑言ばりぞうごんを浴びせられようとも、そのときはぐっとこらえて、後で人知れず涙を流す――。そんなこともあった。無理もないと思う。入社してからまだ数ヶ月の時期なのだ。

 俺はあのとき初めて知ったのだが、涙とは悲しい時にだけ出るものではない。悔しいときにも出る。それは声の代わりに発せられる信号のようなもので、相手の横暴な態度というよりも、むしろ自分の、それを理解しつつも打ち負かすことのできない無力さに嫌気がさして、自然と出たものだった。

 結局残業代の最大値は、最後まで見直されることがなかった。そして今現在、課が変わってもなお、毎月その三〇時間に申請書の帳尻を合わせるといった非常に馬鹿らしい行為が、会社全体で平然と行われている。本当、異常としか言いようがない。

 もちろん、「仕事を定時で終わらせる」なんて、不可能だった。

 毎日事務作業に追われ、膨大な資料を整理し、客先との打ち合わせを精力的にこなしながら、上からの過剰な要求も笑顔で引き受ける――。

 時間はいくらあっても足りず、平日で足りない分をカバーするために、休日出勤さえ強いられる始末だった。

 心も身体も両方すり減らして、頑張って頑張って、毎日目の前の業務をこなすのに精一杯やってきた結果、やっと上司から得た評価ともいえる一言が、「お前はこの会社には向いていない」だった。

 まるでさいの河原にいるようだった。こつこつと懸命に積み上げてきたはずの信用や注ぎ込んだ時間。削った精神。それらが鬼の一言で、全て台無しになった。

 その時の俺はもう、笑うしかなかった――。

<p><br /></p>

 薄暗い廊下に棒立ちでいると、不意に理不尽な気持ちが込み上げてきた。自分はなぜ、ここまで精神を削られなければいけないのだろうか。働くとは、こんなにも辛いものなのだろうか。それとも、世間一般ではこれが当たり前なのだろうか。

 耐え難いのはもう、身体だけで充分だった。もっと平和的に解決する方法があるのなら知りたかった。漠然とした先の見えない不満が、目の前を暗くさせる。

 視界がはっきりとしないままゆっくりとドアノブに手を伸ばし、扉を引き寄せた。

 <p><br /></p>

 中にいたメンバーは想像通りだった。前原さん、岡田さん、細山さん。そして中山さん。

 見渡して、すぐに違和感を抱いた。座席の配置がおかしい。縦長の部屋には、入り口から一番離れた上座の位置にホワイトボードが設置されていて、部屋の形に沿うように六人掛けのテーブルが置かれている。

はじめ、ここ」

 ホワイトボードの前に座る前原さんに、正面にくるよう促された。

 上座だ――。この瞬間に話の主役が自分であることが確定し、絶望する。気分はいよいよどん底である。

 隣には細山さんと岡田さん、入り口に一番近いところで中山さんが座る形となった。

 席に着いても、誰も喋ろうとしなかった。

 緊迫した重苦しい空気の原因を探るように、それぞれの顔をひっそりと伺う。皆、一様に殺気立った目をしていた。前原さんの血走った目からは、怒りに近い感情のようなものさえ感じられた。彼ら三人はたぶん、これから俺へと話される内容について、事前に中山さんから聞かされているのだろう。それに対してのリアクションということだろうか。だとすれば末恐ろしい。自然と肩のあたりにも力が入った。

 視線のやり場に困って、目線を落とす。ふと、テーブルの上に組まれた前原さんの手で目が止まった。マジックが握られている。何か書いていたのだろうか。

 そのままホワイトボードに目を向ける。盤面の端に小さく箇条書きで記されている文章が目に入った。前原さんの字で書かれたであろうその癖のある書体は、俺の現在担当している業務内容の一覧を箇条書きに記したものだった。

 一体何のために……。議論がされていたことを示す確かな痕跡。それはなんだか寝ている間に自分の衣服を脱がされたような、ひどく恥ずかしいものだった。 

 その癖のある文字をしばらく見つめていると、やがてひとつひとつが、意思を持ってぐにゃぐにゃと動き出してくるような幻覚に捕らわれた。

 今にもそこから踊り出しそうな文字たちをぼんやりと眺めていると、唐突に場の空気を引き裂くような怒声が飛んできた。ブレていた視界は一気にピントが合わせられ、どこかへ飛んでいた意識も正常さを取り戻す。

「もうさ、いいよ。もう、いい!」

 中山さんだった。苛立った様子で椅子から立ち上がって、こくこくと機敏にひとり頷く。「お前はもう、残業しなくていい!」

 それは俺に向けられた言葉のようだった。結局また、同じ。残業時間の話らしい。

 しかし「しなくていい」とは、どういうことだろうか。俺はまだその発言の意図を理解できないでいた。

 中山さんは頭を掻きむしりながら、まくしたてるようにして言葉を続けた。

「お前もう四年生だろ。で、ここに異動してきてから、そろそろ二年経つだろ。それなのに何で、今も残業減らないの? 前原に聞いたら、いつもやってること同じって言うじゃん。これ以上進歩しないって、そういうことなの?」

「それは……」言い淀んでしまう。

 沈黙を避けるために何か言わなければいけないと思いつつも、言われていることに間違いはなかったので、言葉を慎重に選ぶ必要があった。

 どう説明したものか――。

 中山さんは一つ勘違いをしていた。日が経てば自然に残業がなくなると思ったら、大間違いである。そもそも中山さんは普段一人だけ定時で帰っている分、俺がその後になにをやっているのかさえ、ほとんど把握していないはずだった。

 俺は自分の業務内容について、いかに時間がかかるかを一通り説明することにした。例えば、残業の原因は日常業務だけではないということ。突発的に生産工程の調整が入ることは日常茶飯事で、それが終業間際となれば、その分だけ退社時間も遅くなる。その日の生産に関わる調整を、翌日に持ち越すことはできないのだ。

 もとより、日常業務の量から尋常ではないのだ。それは俺の実残業時間が八〇時間という実績をみれば、言うまでもなく明らかだった。

 中山さんは背もたれに身体を預けながら、黙って目をつぶっていた。

 おそらく、話の大枠は午前中に開かれていた秘密の打ち合わせで、前原さんから既に聞かされていたのだろう。それは予想がついていたが、齟齬があってはいけないと思い、俺は口酸っぱく思いながらも、あえて説明することにしたのだ。

 けれども、俺のささやかな配慮も、中山さんは右から左に受け流した。「そんなことはどうでもいい」とでも言うように、白けきった顔で、躊躇なく新たなボールをぶつけてきた。

「だからさ、もう決めたんだけど。さっき三人と話して、お前の持ってる仕事、こいつらで分担してやってもらうことにしたから。朝についても、もう来なくていいから。そうすれば残業しないで帰れるだろ」

「えっ」

 絶句した。目を見開いたまま、言葉を発することができなくなってしまう。開いた口が塞がらないとは、まさにこのことを言うのだろう。

(この会社はそこまでやるのか――)

 一瞬、悪い冗談かと思った。それくらい常軌を逸した発言に思えたのだ。まるで、凶悪殺人者の殺害動機をモニター越しに聞いているかのような気分だった。理解できない驚きと恐怖で、身体が芯から凍り付いていくような感覚。心臓が早鐘を打つように、せわしなく動き出していた。

 つまりどういうことかというと、会社側は残業代を節約するために、お金がかかる俺から仕事を取り上げて、タダで働いてくれる係長三人にその分の負担を強いるよう求めたのだ。

 サービス残業であれば、社員がどれだけ残っても会社が傷つくことはない。業務のバランスとか、従業員一人一人の負担とか、スキルアップとか。そういった人間味を一切考慮しない、完全な「利益重視」、「人身度外視」の考え方に戦慄したのだっだ。

 そんなやり方まかり通るわけがない――。そう信じたかった。しかし中山さんは、「もう決定したことだから」と、冷徹に言ってのけた。「技術部長にも言ってあるから」。そう言って、反論の余地を残さなかった。

 それは事実上、二回目の左遷宣告といってもよかった。

「そういえばお前、以前から体調悪いって言ってたよな。一応それも考慮した結果だから」

 わざと臭い台詞にも、小さく返事することしかできなかった。

 これは駄目だ――。どうにも、理解の範疇はんちゅうを越えている。

 まともに顔を上げられないまま、視線だけで再度、ホワイトボードを確認する。箇条書きにされた業務内容の一つ一つに矢印が引かれており、よく見ると、新しく割り振られた担当者の名前が記載されていた。

 もちろん、分担といっても俺の業務がゼロになるわけではない。ただ、減らされた内容をみる限り突発的な対応を要するものが多く、一見すれば定時で上がることも可能であるかのように思えた。単純に業務の負担が減ったことを考えると、俺にとってはこの上ない救済措置であることは間違いなかった。

 しかし、問題はそこではなかった。俺は「彼ら」に問いただしたい。「あなたたちは、本当にそれで良いのか」と――。

 言うまでもなく、良いわけがなかった。ただ、それは決して聞いてはならなかった。聞いた瞬間に全てが崩壊する――。そんな予感だけは、確かにあった。

 その確信に近い予兆のようなものが、まさに部屋に入ったときに感じたものだったのだ。それが俺の「聞きたい」という好奇心を、最後の一歩で踏み留まらせていた。

 彼らだって今持っている業務で精一杯なはずなのに、更に仕事が増えるとなると、いずれパンクしてしまうのは明らかだった。

 彼らが事前に中山さんからその話を聞いて、どのような気持ちで了承をしたのか。きっと断腸の思いだっただろう。心中を察して、申し訳ない気持ちで胸が張り裂けそうになった。 

 俺はこのとき、初めて彼らに対して同情に近い感情を抱いた。おそらく彼らも、中山さんから言われて、どうしようもなく従うしかなかったのだろう。この部屋へ入った瞬間に感じた殺意にも近い視線に、ようやく納得がいった。

 できることなら彼らの負担をこれ以上増やすようなことはしたくなかった。かといってその決定事項に対し、こちらから無理に抗ってみようとも思えなかった。今現在、彼女のおかげで精神的な負担はいくらか取り除かれてはいるものの、肉体的な面での改善策は、まだ何も得られていなかったのだ。

 無力な自分に嫌気がさしながらも、内心では助けられてほっとしている――。この状況で他人の心配をするなんて、偽善者でしかない。

 だから俺は、その無慈悲な通告に対して否定することができなかった。ただ「分かりました」と、神妙な顔をつくって頷くのが精一杯だった。

 俺はこの瞬間、会社という組織のもつ本当の怖さを、初めて知ったのだと思う。それは形のない化け物であり、形がないからこそ太刀打ちできないものだった。

 そいつの持つ縦社会という無言の圧力に対して、俺たち個人は成す術を持たない。その巨大な力の前では、ただ何も言わずにひれ伏す他なかった。


 就寝前。部屋の明かりを消してベッドに寝転がりながら、昼間の出来事について少しだけ考えた。

 今回の件は、やはりいつもとは違った気がする。

『正義の反対は別の正義』という言葉を聞いたことがある。仮に自分が納得できなくとも、他の人が自らの意思を貫いて決定したものであれば、それは別の正義によって決定されたと言っていい。いつもなら大体そんな感じだった。

 ただ、今回はそれがなかった。おそらく誰も得をしていないのだ。会社の内部留保が増えただけで、誰かの評価が上がったり、給与に反映されたりはしていないはずだ。たとえ誰かしらにプラスがあったとしても、それも当事者三人の強いる負担のことを考えると、対価として釣り合うようなものだとは到底思えなかった。

 真っ暗になった部屋で、仰向けになりながら目を開ける。カーテンを閉めているせいで、部屋の中は完全な闇一色と化しており、目を閉じているときよりも濃い黒の景色が、目前に広がっていた。

 意識ははっきりしているのに遠近感がつかめないと、妙な感じがする。手を伸ばしても腕がだるくなる感覚だけが伝わってきて気持ち悪い。視覚と感覚は綿密に連動しているのだと、あらためて感じさせられる。

 人は捉えようのないものに関して、どうしようもない恐怖を感じるという。幽霊や心霊現象が最たる例だろう。今回この会社に感じたのは、それに近かった。いや、それよりも更におぞましいものだったのかもしれない。その「わけのわからない力」が、人間のもつ嫌な部分によって恣意的にコントロールされていることを感じたからだ。

 その怪物が形をもって夢に出てこないことを祈りながら、ようやく目をつぶった。


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##2.秘密の共有##


「こんにちは。今日はお昼なのね」

 サンドイッチの袋を片手に、ミヤコさんはソファーからこちらを見上げほほえんだ。

「ご一緒しても宜しいですか」

「うん、いいよ」

 入口で作業靴を脱ぎ、透明のビニール傘を畳んでかごに入れる。足元に並べられたスリッパに履き替えてから、彼女の正面のソファーへと腰を下ろした。

<p><br /></p>

 左遷通告がされた翌日の昼休み。俺は事務所棟から少し離れた所にある、《品質管理棟》に来ていた。

 品質管理棟には、ミヤコさんがいる。それ以外は誰もいない。ひょっとするといるのかもしれないが、少なくとも俺は、そこでミヤコさん以外の誰かが作業しているところを見たことがない。

 ミヤコさんは大体いつもその中の《試験室》にいる。一階にある試験室の扉を開くと、右側には半透明のカバーで覆われた分析装置が、所狭しと肩を並べている。左側には、いくつかの製品サンプルが入った背の高い棚があり、その前には横長のガラステーブルを挟むようにしてソファーが二つ置いてある。その奥の壁に沿うようにして、綺麗に整頓された事務机がぽつんと一台だけ置かれている。ミヤコさんは大抵その机に向かって、何か作業をしている。

 ミヤコさんは謎が多い。いつからここにいるのか。どうしてこの会社に入ったのか。普段何をしているのか。

 ミヤコさんの姿を試験室以外で見ることがないので、俺は彼女を「保健室登校」ならぬ「試験室登校」だと、勝手に解釈していた。もっともここは会社なので、厳密にいうと「試験室出勤」になるのだが。

 年齢的には、たぶん俺よりも一回りほど上のはずだ。三五歳くらい。もちろん直接は聞けなかったが、以前会話の中で「入社してから一〇年くらい」だと聞いたことがあるので、おおよそ間違ってはいないはずだった。

 それに、彼女からは二〇代のような拙さが微塵も感じられない。元々エネルギッシュなタイプではないのだろうが、彼女は妙に落ち着いているというか、時間の流れに決してあらがうことなく、しかしぼけっとして乗り遅れるようなこともなく、ただその場の空間に佇んでいるように見えた。

 彼女の周りを取り囲む空気は、常に穏やかで安定している。その姿は、まるで広大な湖の中心に佇む、一羽の白鳥のように思えた。

 俺がここに来るのは、そのゆるやかな時間を分けてもらうためだった。

<p><br /></p>

 出会いのきっかけは偶然だった。入社して一年ほどたった頃、俺はあることに躍起やっきになっていた。

 避難所の確保だ――。

 この会社には、「公共の休憩場所」というものがない。代わりに喫煙所なら事務所・現場含めて至る所にあるのだが、たばこを吸わない俺にとって、それはむだなスペース以外のなにものでもなかった。毎回息を止めて前を通る度に、一つくらいそれをなくしてクリーンな場所を提供してほしいと切に思っていたのだが、それも叶わない願いだった。なにせ現場では喫煙率がほぼ一〇〇パーセント、事務所でも五〇パーセントを超えるこの会社では、吸わない方がマイノリティなのだ。意見が通るはずもなかった。

 かといって休憩しないわけにもいかない。何時間も同じ席でずっと座って作業を続けていられるほど、俺の身体は頑丈ではなかった。

 最初の頃は席を外す度に上司の目が気になって、「席を立つのはトイレの時だけ」と決めていた。

 しかしそれを続けていたら、ある日突然、自分がおかしくなったことに気がついた。デスクから動けなくなったのだ。一瞬何事かと思った。

 頭の中が熱をもって、視界がぐらぐらと揺れる。やがて思考が定まらなくなり、全身が痺れて力が入らなくなった。脳が強制的に身体の命令系統をシャットダウンしてしまったらしかった。

 俺はそのとき、「頭が爆発する」というのは、こういう状態のことを指すんだろうなと、妙に自分自身を冷静に分析していた記憶がある。

 居場所がないなら、自分で見つけるしかない。工場内の地図を一通り頭の中にインプットし終わった頃、朝の現場訪問の合間を見て、俺の「場内探索」は開始された。

 いくつかの候補はすぐに見つかった。中庭にある巨大な排水タンクの陰や、工場内を出入りしている協力会社の待機室、受電所の物置小屋など、全て立ち寄ってみたがどこも意外と人の陰があることが分かって、すぐに撤退を余儀なくされた。

 現場担当者ならともかく、そこに全く関係のない事務所の人間がいるとなると、見つかった瞬間に即アウトだ。何も言い訳はできない。

 途方に暮れながらも事務所棟に戻る矢先、ふとその建物が目に入った。それがここ、品質管理棟だった。

 そういえば、ここに人が出入りしているところを見たことがない――。品質管理棟は、俺が入社する少し前に別館が新しく建てられたと聞いている。実際に現在業務で使われているのも、「ここ」ではなく正門の南側にある《新館》だ。

 なのでこの建物は、二階にある会議室を、入社して間もなくの《新人社員研修》で一度利用したことがあるだけだった。外部講師から「社会人のふるまい」についての講演を聴くためだったが、新館が建てられてからは、その時期以外はあまり使っていないと聞いた記憶がある。

 確かめてみようと思った――。淡い期待をこめてドアを引いてみると、意外なことに鍵はかかっていなかった。

 そのまま扉を開き、中へと入る。一歩足を踏み入れるとひんやりとした空気に混じって、病院のようなアルコールの臭いがした。清潔感があるその香りは、自然と気分を落ち着かせてくれるようだった。

 ドアを開けるとすぐ右手には、二階に上がる階段があった。その前を横切って更に奥へと進んだ。

 一〇メートルくらい進んだところで、左側に扉が現れた。上を見ると、《品質試験室》とプレートが掲げられている。ガラスの覗き窓がついたその扉から中の様子を伺ってみるが、人の気配は感じられない。明かりは点いておらず、中は一層静まりかえっている。

 そのままドアノブに手をかけて、ゆっくりと捻ろうとした瞬間だった。

「開いてないよ」

 突如廊下に響いたその声に、一瞬肩がビクついしまう。すぐに声がした方向を振り返る。

 建物に入ってすぐ扉の内側、二階へ続く階段のふもとあたりに、白衣を着た何者かが立っていた。

 その人はこちらに顔を向けたまま、ゆっくりと間合いを詰めてきた。

 コツコツと小気味良い音が、リノリウムの廊下に反響する。次第にぼやけていた輪郭があらわになっていく。

 女の人だ――。

 彼女はやがて俺の正面で立ち止まったかと思うと、少しだけ顔を上げてまた言った。

「開いてないよ?」

 今度は先ほどよりも少しだけ角がとれた声色だった。まだ状況を飲み込めていなかった俺は、すぐに反応することができずに、ドアノブから手を離すことで、彼女の発言に対して同意を示した。

「何か用かな」

 俺は言い淀む。むろん、用など何もないのだ。彼女の方に向き直り、姿勢を正して再度遠慮がちに顔を確認しようとする。

 ん? 見たことのない顔だ――。

 そもそも、女の人自体がこの会社では珍しい。仕事柄か、社員のほぼ全てが男性で構成されているこの会社において、女性は派遣で登録されている五人だけで、その顔と名前は全て覚えているつもりだった。しかし目の前にいる彼女は、それらどの顔にも属さなかった。

 整った顔立ちをしており、肩甲骨の辺りで切り揃えられた黒い髪が印象的だった。蛍光灯に照らされた髪はよく見ると少し紫がった色みを帯びており、「大人の女性」という表現がぴったりな気がした。

 ふんわりと空気を含んだ螺旋らせんに見とれていると、彼女はふいに首を傾げた。こちらをじっと見ている……。

 そういえばまだ質問の回答をしていなかったことに気付いて、俺は咄嗟に言い訳を考えようとする。

 ――しかし、上手い言葉が出てこなかった。

 仕方ないので、諦めて正直に話すことにする。彼女であれば言いふらされることもないだろう。そんな気がした。

「申し訳ありません……」

 そう切り出してから一通りの説明を終えると、彼女はおかしそうにふふっと笑った。

「じゃあ、カウンセリングでも受けてく?」

「へっ?」

 この瞬間、俺は相当馬鹿みたいな顔をしていたと思う。だってここは会社だろう。少なくとも病院ではないはずだ。まさか使われなくなってからはメンタルケアの場として解放しているとでもいうのだろうか。

 俺の疑問も後目にかけながら、ポケットから小さな鍵を一つ取り出した彼女は、俺の反対側にするりと回り込んだかと思うと、ゆっくりと扉を開いて中に入っていった。

 その場に無言で立ちすくむ。再度頭上に掲げられたプレートを確認する。

《品質試験室》

 ……うん。間違っていない。

 彼女は一体、何者なのだ――。

<p><br /></p>

 あの日彼女と出会って以来、気づけば月に二、三回の頻度でこの試験室へ訪れるようになっていた。日にちは決まっていないが、大抵週の始めだ。休み明けで憂鬱な気分も、彼女と話をすれば幾分ましになる。彼女の透き通るような声は、俺の精神のささくれ立った部分を、滑らかに削り取ってくれるのだ。

 基本的に朝の現場訪問が終わった帰り道に寄ることが多いのだが、相談事などで話が長くなりそうなときだけは、昼休みに訪れるようにしていた。

<p><br /></p>

「それにしてもよく来たね。こんな雨の中」

 彼女は窓の外に目を向ける。台風が近づいてきているせいか、明け方から降り始めた雨は今も続いていた。

「ええ。すみませんお食事中に。どうしてもお話したいことがあったので」

 手にぶら下げたビニール袋をテーブルの上に置いてから、中身を取り出した。

「……あんまり良い話でもなさそうね」

表情がにじみ出ていたのか、それにしても彼女の察しの良さには感心させられる。

「実は今回は微妙なんです」

 袋から取り出したおにぎりを片手に、俺はまだ迷っていた。

 どのような順番で話したものか――。あまり食事中に言うような内容でもない気がする。しかし、今以上に彼女と落ち着いて話せる機会などなかった。とりあえず、昨日の報告だけは最初にしておこうと思う。

「微妙って、また『残業の承認時間減らされてやってらんない』っていうたぐいの話じゃないの?」

「いや、今回は違うんです。減らされたのには違いないんですけど……」

「なによー。いつも以上にじらすじゃない。言ってみなさい。何盗られたの?」

「盗られたのは……」

 視線がテーブルの端へと泳ぐ。

「仕事です」

 言ってから、彼女の手が止まった。「ん? それって、つまり……」

「左遷通告を受けました。今日から定時で帰ります」

「ほぉ」

 あまり重く捉えられても困るので、何とか笑みは崩さないように心がけたつもりだった。

 しかし、そんな無理をする必要もなかったのかもしれない。彼女のリアクションは至って普通だった。

「そうなんだ。それはご愁傷さま。……でも、良かったんじゃないの? 元々出世したいとも思ってなかったんでしょう。サービス残業もなくなるじゃない」

「確かにそうなんですが。ほかの人のことを考えると、かなり気が重いです」

「またまたそんなこと言っちゃって~」

 彼女は片方の指先で突くようなしぐさを見せる。

「本当ですよ」

 俺は事の詳細を説明する。自分の業務が減ったかわりに係長三人の負担が増えたこと。それがこの会社のやり方であり、対処のしようがなかったこと。

 しかしそのような話を聞いても、彼女の反応は変わらなかった。空になった包装紙を丁寧に折り畳み、ゴミ箱へシュート。小さく「よし」とガッツポーズだ。とても真剣に聞いているとは思えない。

「あの、ミヤコさん」

「なに」

「聞いてますか」

「聞いてるよ。ミヤコのえもんに助けを求めてるんだよね」

「なんですかその時代劇風な近未来ロボットは。頼むから頼りにさせてくださいよ」

「冗談冗談。すみませんでした~」

 肩を揺らしながらへらへらと柔らかく笑っている。

 最初はこちらの話し方が悪いのかと思った。けれども途中から、彼女が一〇年選手であるということを思い出して、あながち間違いのない対応なのかもしれないと感じ始めた。

「今更驚くことでもないじゃない」

 彼女は一呼吸置いてから、テーブルの上に置いてあったティッシュで指先を丁寧に拭い始めた。

「結局、まな板の上の鯉ってことね。自分の運命は全てあちら側に握られている。それでもって負の連鎖。バカみたい。元々従業員全員に残業代払ってたらこんなことにはならなかったのにね」

「そうなんですが……」

 俺が不満を持っていたのはそこではない。お金では解決できない何かが今回は確かにあったのだ。俺は既にあのとき自分の中で引っかかっていた違和感に気が付き始めていた。それをこれから自分自身で彼女に確認しようとしていることに、言いようのない気持ち悪さを感じていた。

「俺、あれから更に自分のことが嫌いになりました。ほかのメンバーが苦しむことになったのに、自分の仕事が減って、内心ほっとしていたんです」

「仕方ないんじゃないの? 受け入れるほかに手はなかったんでしょう」

「そうですね。既に決定事項ではありました。一方的に通達された感じです」

「じゃあ、やっぱりそれで良かったんだと思うよ」

「そうなんでしょうか……」

「大義名分ができたじゃない。さっき言ってたように、基ちゃんにとってはこの上ない好条件だったんでしょう? それが中山さんの通告によって保証されたのよ。周りは中山さんの指示だからしぶしぶ従うしかないし、そのおかげで基ちゃんも変に偽善者ぶる必要がなくなった。縦社会だからこそ成り立つ理不尽で、下っ端が恩恵を受ける珍しい例ね」

 膝の上で指を絡め、前かがみになりながら彼女はにやりと笑う。

「……嫌なヤツだと思ったでしょう?」

「思いませんよ」

 思わず露骨に目をそらしてしまった。淡白な人だとは思っていたが、彼女がここまでドライな人だとは思っていなかった。

 おそらく彼女には全て見透かされているのだろう。いわゆる、俺の中の優先順位について。俺が何よりも自分の身体を第一にに思っているということ。そのためには周りの人間や今の仕事なんて、いくらでも犠牲にしても構わないと考えていること。

 例えば今回、中山さんの力がなければ――。俺が体調不良を理由に「業務の負担を軽減して欲しい」と、係長三人にいくら懇願したところで、それが叶うことは万に一つもないだろう。

 そのように考えると、今回の件は俺にとっての僥倖ぎょうこう。大げさに奇跡と言っても良いくらいの出来事だった。

「結果として、今回言いなりになったのは悪くない選択だったように思えるけど。流されるのも、ときには必要ってことね。身体壊したら元も子もないからね」

「そこなんですが……」

 俺は一度ソファーから腰を浮かして姿勢を正す。今日ここにやってきた本当の理由は、この話を彼女とするためだった。 

 一度入り口の覗き窓まで視線を送る。当然ながらそこに人の気配はない。部屋の中には相変わらず屋根に打ち付ける雨の音だけが鳴り響いている。

「ちょっと……相談良いですか」

「何よ改まって」

 小さな笑いが返される……が、顔を上げると、口元だけで彼女の目は笑ってはいなかった。一気に緊張が高まる。

 彼女にしかできない相談を、俺はこれからしようと思う――。

<p><br /></p>

「……俺、この会社に向いていないんだと思います」

 それは、俺がこの三年という短くない月日でたどり着いた、一つの大きな答えだった。その解を彼女に確かめてもらいたかった。

 少なくとも今の俺にこんな話ができるのは彼女だけしかいない。この会社の事情を知っていながらも、周囲とは完全に隔離されているように見える彼女。いわば国境の上に跨がっている状態の彼女だからこそ、他の誰よりも俺に正しい助言をしてくれるのではないかと考えたのだ。

 しかし、彼女からの返事はなかった。代わりに黙ったままその瞳が強く意識的に瞬きされるのを見て、先を促されているのだと察した。

「こんなこと言いにくいのですが……」

 膝の上で作った拳に自然と力が入る。

「ミヤコさんには普段、職場内の人間関係で愚痴を聞いて頂いていることが多いと思います。ただ、最近それよりも身体のほうがちょっとまいっちゃってて。正直、限界……というか」

「具体的に」

 尋問のようだとは思わなかった。むしろ彼女が発言を求めてくれていることに、俺は感謝していた。

「朝……」

 俺は声を絞り出すように話を続ける――。

 朝、寝不足のままにベッドから無理やり体を起こすこと。工場に向かうにつれて動悸が激しくなり胸が張り裂けそうになること。敷地内を歩いていると臭いや空気に耐えきれず、気分が著しく悪くなること。事務所でパソコンを見続けていると自分が何者か分からなくなること。電話に出ると緊張で受話器を握りつぶしてしまいそうになること。昼食が喉を通らないこと。一日中頭が真っ白で上手く回らないこと。帰ってきても翌日の仕事のことを考えて上手く寝つけないこと……。

 全部、ぶちまけた。

「休みの日は? 基ちゃん確か趣味は……色々と持ってたはずだよね?」

「はい。ただ最近では何もやる気が起きません。旅行に行って写真を撮ったり現地の美味しいもの食べたりするのが楽しみだったはずなんですけど、今は全てが面倒に思えるんです。食べ物だったら皆一緒なんじゃないかとか、写真に撮って意味はあるのかって考え出すとバカらしくなってきて。足が止まるんです」

「一日中家にいるってこと?」

「はい」

「つまんなくない?」

「つまんないという感覚がもう分からないです。何のために生きているか分からないです」

「重症ね」

「重症なんでしょうか」

「冗談。ただ、程度は分からないけどいわゆる『うつ病』ってやつだと思うわ。あとは、そこに睡眠障害とか眼精疲労とか色々併発している感じだと思う。いつからなの?」

「具体的な日は覚えていませんが……。顕著になったのは異動になる二年前頃からでしょうか」

 瞬時にあの顔が脳裏をよぎる。半開きになった目でこちらを見下し、全てを否定するかのようにきつく曲げられた口元。死んだ魚のような表情は、機械的でありながらもこれ以上ないほどに生々しい。

「それから病院には行ったの?」

「いえ。事を大きくしたくなかったので。下手に休んで会社に知られたく無かったんです。まだ何とか耐えられると思っていたので。ただ……」

「ただ?」

 言葉に詰まり顔を上げると、覗き込むように彼女はこちらを真っすぐに見つめていた。そしてほんの一瞬だけ、その瞳に憐れむような視線を感じて胸の奥が一気に苦しくなった。

(ああ、そうか……)

 俺は病気なのだ。これまで自分は、「普通」だと思っていた。仕事も人間関係も、周りの人間と同じように「上手くやっている」と思っていた。人並にできていると思っていた。

 けれどもどうやら、それは勘違いだったらしい。

 俺は普通じゃない。

 上司と上手く打ち解けることができず、客先ともまともに仕事の会話ができない。工場の環境が悪いと言って今や残業どころか三〇分同じパソコンの画面を見て作業することすらできない。日常的に頭が回らないのも精神的にやられているからではなく、元々これまで俺が何も考えずに生きてきたせいじゃないのか。

 自室の目覚まし時計を思い出す。

 あの時計は、俺なんかじゃなかった。俺は「壊された」のではなく、「元々壊れていた」のだ。それがこの会社に入って環境が変わったことにより露呈しただけだった。

 そのことにようやく気が付いたとき、俺はもう自分の頭で考えて言葉を発することができなくなっていた。

「ただ……」

 壊れたスピーカーのように、同じ言葉を繰り返している。

「基ちゃん?」

 彼女は小さく首を傾げた。悲しみの表情が濃くなってゆく。

 そんな目で、俺を見ないでくれ。

 吸い込まれそうな瞳から、俺はまだ目が離せない。

 この状況で何と言うのが正解なのだろう。何といえば、彼女に理解してもらえるだろうか。

 頭が回らない。何も思いつかない。この期に及んで、俺はまだどうにかして挽回できないか探っている。どうすれば「普通」になれるのか。何を言えば理解してもらえるのか。俺は同情して欲しいのだろうか。

 愚かだ――。

 突然全てを投げ出したくなる。これではあまりに滑稽ではないか。バカみたいだ。そんな姿を晒している。一番見られたくなかった人に。知られたくなかった人に。

 ふいに、笑いがこみ上げてきた。

 そうだ――。

 彼女が笑っているんだから俺も笑おう。そうすべきだ。こんな話、笑わないとやってられない。笑い飛ばしてもらわないと救われない。

 そうしないと、この状況にはもう耐えられそうにない。  

「はは……」

 その声は、どこからともなく自然に漏れた。

 次の瞬間、彼女の瞳がゆっくりと大きく見開かれるのが、はっきりと分かった。人形のようなくっきりとした丸い瞳があらわになる。

「基ちゃん……」

 ようやく、彼女は笑ってくれた。しかしその表情は、すぐに跡形もなく消えてしまう。代わりに、薄く開かれた瞳がこちらに向けられた。

 彼女はソファーから腰を上げて身を乗り出し、テーブルに手をついた。そして薄いガラスの置物に触れるかのように、俺の顔へ向かってゆっくりと手を差し伸べてきた。

 ほっそりとした指が頬に触れる。指先から体温を感じ取ったその瞬間、俺はようやく、その行動の意味を理解した。

「……すみません。そんなつもりじゃ、なかったんですけど」

 思わず彼女から視線をそらすと、温かいものが頬を伝った。恥ずかしさとやるせない気持ちに、言葉が詰まる。

「普通じゃないんですよ……俺は」

 気づけば声に出していた。ふてくされたように聞こえただろうか。彼女の手に触れ、頬を拭いながら、全身の力が抜けていくのが分かった。体をソファーに預け、天井を仰ぐように視線を移す。

「普通ってなに」

 ふいに彼女から、思いもよらない言葉が投げかけられた。

(怒っている……のか?)

 その声色はやけに低く、淡々としていた。

 思わず、視線を戻すと、彼女の表情はろうで塗り固められたように固かった。

「毎日会社に来ることが、周りの人と同じように仕事をすることが、そんなに大切なことなの? それができないと普通じゃないの? 人間じゃないの? 生きていくことはできないの?」

「いや……あの」

 突然まくしたてるように言葉を浴びせられ、俺は一瞬、躊躇ちゅうちょしてしまう。勢いに押されたというのもあるが、彼女からここまで執拗に問い詰められる場面にこれまで出くわしたことがなかったのだ。

「少なくとも、この会社では生きていけないと……思っています」

 たどたどしくも言葉を紡ぐが、勢いは止まらなかった。

「私の存在を否定しないで」

 はっきりと、正義の剣を振り下ろすかのように彼女は言った。

「いや、俺は別にそんなつもりじゃ……」

 しかし最後まで言い切ることはできなかった。俺は今の彼女の状況を正確に理解していない。彼女がなぜ、試験室という他の人たちとは離れた場所でひとり働いているのか。仕事について自分から一切話そうとしないのか。この会社での働き方や立ち位置、人間関係に至るまで、何一つそれが「普通」であると肯定することができなかった。

 俺は彼女について、何も知らなかった。

 なおも彼女の質問攻めは続く。 

「基ちゃんはどうして私にそんなこと言うの? 私になんて言って欲しいの?」

「俺は……」

「うん」

 彼女の瞳はまだ俺を捕らえて離さない。その一貫して真っすぐな瞳を見て、俺はようやく自分が勘違いしていた事に気づく。

 彼女は決して怒っているのではない。ただ、真実が知りたいだけなのだと。俺が何を考え、どうしたいのか。それが知りたいだけなのだと。

 また、姿勢を正す。

「俺はただ、答えが欲しかったんです」

「答え?」

 その先に映る開かれた瞳は、カメラのレンズを思わせた。彼女が瞬きするたびに、自分の中にある不純な気持ちがひとつひとつ暴かれていくようだった。

「こんな自分が……どうしようもない自分が、これからどうやって生きて行けばいいのか、分からなくなってしまったんです。ミヤコさんであれば、そのヒントを頂けると思ったんです」

 国境に佇む彼女であれば。どこにも属すことのない存在である彼女であれば。

 もしかしたら、俺は勝手に彼女が自分と同じような人間であると思い込んでいたのかもしれない。そして期待してしまったのかもしれない。自分のような「普通ではない人間」の先輩として、何かアドバイスがもらえるのではないかと。それはあまりに傲慢ごうまんな考え方だった。彼女がそこに感づいたとすれば、気分を害したとしてもおかしくはなかった。

「すみません」

「なーんで謝るのよ」

 彼女は白い歯を覗かせる。「怒ってませんよ」という演技が上手い。

「普通とか普通じゃないとか、そんな話はするべきじゃなかったんです。関係なかった。俺がすべきは……ただ未来の話。それだけで良かったんです」

「そう」

 彼女は満足そうに、膝の上で組んだ指をほどいてソファーに背中を預けた。

 その一言にどういった意味が込められていたのか分からないが、安心したような表情を見て俺は肩の荷が一気に下りたような気がした。

「私こそごめんね」

「何でミヤコさんが謝るんですか」 

「言い過ぎた。弱音吐かれているようでちょっと許せなかったんだ。嬉しかったけどね」

「やっぱりそう聞こえましたか。難しいですね」

「何が?」

「『ホウ・レン・ソウ』。相談のつもりだったんですけど、単に自分の弱みを暴露しただけになっちゃいました」

「そんなことないんじゃない? 基ちゃんが暴露してくれたおかげで、今後の話もすることができる」

「何か策を頂けるんですか」

 差し伸べられたその言葉に、俺は期待せずにはいられなかった。しかし彼女は立ち上がって背中を向けながら手のひらを横に振った。

「考えとく~」

 部屋の奥へと消えていく彼女の後姿は、笑っているように思えた。

<p><br /></p>

「特別サービス」

 部屋の奥から戻ってきた彼女は、手にしたグラスの片方をテーブルの上へ置いた。

「水で割っただけだけどね」

 微笑んでから遠慮するように立ち上がり、またすぐに俺のそばから離れて向かいの壁際にもたれかかった。

「ありがとう・・・・・・ございます」

 グラスのブルーの縁に指先で触れると、ひんやりと冷たかった。白い半透明の液体の中で氷が泳いでいる。いつものミネラルウォーターでは無さそうだ。

 持ち上げて中身を少しだけ口に含むと、すっとした爽やかな甘さが喉の奥を流れ落ちていった。

「カルピス・・・・・・」

 そうつぶやいて彼女を見ると、彼女は安心したように口元を緩めた。

「そうだけど。もしかして……苦手だった?」

 彼女は縁の色が違う同じ形のグラスを手にしている。中身も一緒らしい。いつもはミネラルウォーターしか飲まないはずなのに、この状況で自分と同じものを飲むというのは、彼女なりの気遣いなのかもしれなかった。

「いや、ミヤコさんは『水派』なんですね」

「カルピスに派閥なんてあるの」 

 今度は不思議なものを見るかのような笑みが返される。

「うちはずっと『牛乳派』でした・・・・・・田舎くさいと思われるかもしれませんが」

 昔からカルピスは牛乳で薄めて飲むものだと思っていた。理由は分からない。ただ出されたモノがそれだったというだけだ。水よりも味が濃くなって美味しいとか、栄養があるとか、それらしき答えはいくつか考えられたけれど、直接たずねたことはない。ずっとそういうものだと思っていた。

「でもそれなら『薄める』じゃなくて『割る』っていう表現が適切なんじゃない?」

 彼女がグラスに口をつける。

「いいんですよ、『薄める』で。その頃はまだ小さかったんで、そんな表現の仕方知りませんでした。今でもそっちの方がしっくりきます」

「いつまで知らなかったの?」

「小学生くらいまで・・・・・・ですかね。うち、テレビ無かったんですよ。CMコマーシャルとかで見る機会がなかったんで、正しい飲み方ずっと分からなかったんです」

「いつ知ったの?」

「え?」

「カルピスの正体」

「ああ・・・・・・」

 いつ頃だろうか。少なくとも小学生ぐらいの頃までは、「その正体」に気がつかなかった。というより、気づけなかった。

 うちは小さい頃冷蔵庫を勝手に開けることが許されていなくて、週末の食後とか誕生日とか、ちょっとした特別な日にしかカルピスを飲むことができなかった。親が作るのを見ることはできても自分からそれをすることは許されず、常に出される側だった。

「中学生の頃ですかね。部活帰りにコンビニ寄って、初めて自分でペットボトルのやつを買ってみたら味が薄くてびっくりしました。裏の成分表示を見て、『牛乳入ってないじゃん!』って言ったら、友達にすげぇ笑われました」

「当たり前だろって」

「はい」

 彼女は視線を外しながら小さく笑う。

 今でも牛乳でないと物足りない気がして、原液以外を買うことはほとんどない。

「それが本来の味なんだけどね。でも不思議よね。私なら、水でも『割る』って言っちゃう」

「それは・・・・・・ミヤコさんがミネラルウォーターで作るからじゃないですか? 夜のお店と同じですよ」

 言ってからマズいと思っていたら、案の定少しの沈黙があった。視線を上げると、彼女が目を細めてこちらに指すような視線を送っていた。

「何その言い方、ちょっと悪意あるんですけど」

「すみません。でも水道水なら・・・・・・」

「薄める」

「やっぱり薄めるんじゃないですか」

 俺は安心してわざと笑う。彼女もつられるようにしてふっと息を吐く。

「私は薄めないけどね。割ってしか飲まない」

 グラスを揺する。その仕草を見ると、本当に割っているんだなぁと思う。

「今度牛乳で薄めてみて下さいよ。意外に美味しいですから」

 そう言うと彼女はまたふふっと笑った。グラスを目の前まで近づけて、漂う氷を水槽の中で泳ぐ魚のように眺めている。

「ええ。『割って』みるわ」

 やはり彼女は、俺よりもいくぶん大人なのだろうと思う。

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「なんか……ありがとうございます。色々と気使ってもらって」

 少し経ってようやく落ち着きを取り戻した俺は、壁に寄りかかったままの彼女に目を向けた。

「いいのよ別に」  

 彼女の輪郭は明るい室内の蛍光灯に照らされて陶器のように輝いていた。「こちらこそありがとね」

「えっ?」

 打ち明けることで最悪関係性が崩壊することもあり得ると考えていた俺は、ふいにお礼を言われたことに面食らう。意味が分からなかった。 

「なんか嬉しかったかも。基ちゃん、たぶんこういうの初めてだったんでしょう」

 彼女は片手で自分の肩を抱く。その何とも言えないようなくすぐったい表情を見て、少しだけ気持ちが軽くなった。

「まあ、今俺の周りで頼れるのはミヤコさんだけなので」

 こんなこと事務所の人間に話せるわけがない。かといって、何も事情を分からない地元の友人に相談する気にもなれなかった。

「でも何だかこのままだとフェアじゃないよね」

 彼女は突然、思いつめたように固まってしまった。

「フェアとかフェアじゃないとか、そういう問題じゃない気がしますが……」 

「いや、気持ち悪いの」

「気持ち悪いって」

「私の問題。借りを作りたくないの」

「そうですか……」

 そう言われると、こちらからは何も言えなくなってしまう。これ以上気持ち悪い人間にはなりたくないので黙って彼女の見解を待つことにする。 

「……じゃあ、こうしましょう」

 少ししてから、彼女は壁から背中を剥がし、一歩こちらに歩み寄ってきた。「これで手打ちね」

 目の前にしゃがみ込みながら、彼女は膝を抱えた。口元は弧を描き、怪しげな視線が向けられる。

「私の秘密、教えてあげる」

「秘密?」

 その一言に、俺は間違いなく救われたんだと思う。

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「『秘密』ってどういう意味ですか」

 彼女について知らないことなど、ありすぎて全く想像がつかなかった。存在自体が謎である彼女なら、きっと何を言われても驚くことになるのだろう。

「文字通りよ。他人には教えないようなこと」

 その言葉にどういう意味が込められていたのか、まだはっきりとは分からなかった。しかし少なくとも彼女の中で俺は「他人」ではなくなったようだ。

 そう考えるとやはり相談して正解だったのかもしれない。これまで抑えてきた気持ちを吐き出したことによって、精神的には随分と楽になった。「自分の問題を理解してくれている人がいる」という安心感は、何ものにも代え難いものだった。

「昔話を、聞いてくれるかしら」

 彼女はそのまま床に座り込んで足を崩した。窓の外に視線が移される。

「ミヤコさんのですか」

「ええ。私の過去について。そんなもの別に知りたくないって?」

「いや……教えて欲しいです」

 彼女がここにいる理由。何者であるのかというその正体について。

 「そこまで昔の話じゃないけどね」

 そうはにかんでから、彼女は話し始めた――。

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「――まずは私がいつからここにいるかっていう話からしようかしら。私がこの会社に入ったのは、今から一〇年前。高校卒業してからすぐね。その頃はまだ会社全体で女性の派遣社員を採用する流れがなかったから、当時いた女性社員といえば、今もいる経理の清水さんと総務の木村さんくらいだったわ。それまでは信じられないかもしれないけれど、事務処理から何から、ほとんど全て男性がこなしてたみたい」

「ミヤコさん高卒だったんですか!?」

「まあ黙って最後まで聞きなさいよ」

 思わず口を挟んでしまう。彼女が高卒? ということは、年齢的には二八歳で俺と二つしか離れていないことになる。にわかには信じられなかったが、社会人生活が長くなると、それだけ大人びて見えるということなのだろうか。出鼻を挫かれた気分である。

「物語は途中で質問しないのがルールなのよ」

 人差し指で制するように口を指され、俺はしぶしぶ彼女に頷きかけることで先を促す。

「配属されたのは品質管理課。つまり入社した当時からずっとここにいるわ。途中半年ほど休んでいた時期があったけれど、その期間は事務所の男性が肩代わりしてくれたみたい。技術部の橘さんっているでしょう。彼には大分お世話になったわ」

 橘さんといえば、笑顔がよく似合う技術部の課長だ。学生時代はラグビーをやっていたらしく、がっちりした体型と短髪でかっちりと整えられた髪は見た目にも隙がない印象だった。

 技術部とは業務上の繋がりはあるが、大概俺が話のできる内容といえば、同じ係員クラスで片付くものがほとんどだった。なので、よっぽど困った案件以外は、俺から橘さんに直接話しかけるようなこともなかった。

 それでも時折相談にいくと、橘さんはいつも懇切丁寧に対応してくれる。常にニコニコしているので、営業向きなんじゃないかと思っていたのだが、どうやら技術部長からも相当気に入られているようで、入社してから一度も異動を経験したことがないようだった。

 そのままトントン拍子に出世し、最近ではまだ三六歳という若さにもかかわらず、早々と課長になってしまった。文字通りのエリートだった。

「以降は、橘さんが私に仕事を持ってきてくれるようになったわ。同時に彼の仕事の確認や修正も私が担当しているの。量はそこまで多くないけれど、技術部の事務所の人だけじゃ、とても手が回らないみたい」

 おそらく、橘さんはこの品質管理棟にも時折出入りしているのだろう。これまですれ違うようなことはなかったから、彼女が気を使って時間を調整してくれていたのかもしれない。

「そうして過ごしているうちに三年前、あなたがここを訪れたの。不法侵入しようとしてたときね。びっくりしたわ。それまで普段この建物の中に入ってくる人なんてほとんどいなかったから」

 途端に俺は、あの時の自分を思いだしていたたまれない気持ちになった。思わず「すみません」と小さく言葉がこぼれたが、彼女は無言の笑顔でそれを流した。 

 三年前。あれからもうそんなに経つのか――。

 確かあのとき、残されたわずかな希望を信じて開いたのがここの扉だった。あとほんの少しでもここを訪れるタイミングがずれていたら。俺はおそらくこの場に立っていなかっただろう。いや、この地にいなかったかもしれない。それくらい今の俺にとってここは、なくてはならない場所になっていた。

「経緯としてはこんな感じね」

 彼女はすっと立ち上がり、グラスに残った水を一気に飲み干した。一息ついたところを見計らって、立ったままの彼女に問いかける。

「あの……質問良いですか」

「ダメ」

「えっ」

「言ったじゃない。昔話って。私の謎は基ちゃんが後生まで語り継いでちょうだい」

 悪戯っぽい笑みを浮かべている。

「昔話にしては起承転結がなってない気がしますけど……」

 彼女について知ることのできる千載一遇のチャンスだった。それを逃すまいと、なんとか話を引き延ばそうと試みる。

「『お話』としてはこれでいいのよ。次回が気になるでしょう」

 彼女はなぜか不服そうに眉をしかめた。「でもまぁ、安心して。ここまでの情報はそんなに重要なことでもないから」

 飼い犬をたしなめるように、落ち着き払った様子で彼女は言った。

「まだ先があるということですか」

「ええ。これまでのは前置き。本文はここから」

 彼女は胸の前で組んだ手をゆりかごのようにゆっくりと揺すった。

「結構乗り気ですね」

「バレた? 私自分語りってあんまり好きじゃないんだけど、この件に関してはいつか誰かに話してみたいと思っていたんだよね」

「この件というのは、ミヤコさんの秘密についてですか」

「ええ。秘密は共有して初めて価値が生まれるのよ」

 絡みつきそうな視線に、思わず身動きができなくなってしまう。

「……さっき基ちゃんにも説明したとおりだけど、私の普段の仕事は、技術部の事務処理ね」彼女は続ける。

「でも、本当はそれだけじゃないわ。本業が他にあるの」

「他って……この会社にいながら、ここで別の仕事をしているってことですか?」

「そうよ」

「そんなことができるんですか」

 思い当たる節は無かった。一応試験室を見渡してみるが、やはりそれらしき痕跡は見あたらない。何せ、ここにはパソコンすら一台も置いていないのだ。

「可能よ。《これ》さえあればね」

 彼女は机に置いていた万年筆を指先で摘むと、顔の前でちらつかせた。琥珀色のそれは、白い蛍光灯の光に合わせて鈍い輝きを放つ。

「趣味で何か書いてる……とか?」

「まあそうね」

「翻訳ですか?」

「近い」

 何となく察しはついたものの、確信に至る最後のピースが欠けているような気がして、断言するまでには至らなかった。

「仕方ないなぁ」

 彼女はそう言いつつも反対の手で机の上から一枚の紙をすくい上げる。規則正しい薄緑の升目が並んだ紙。原稿用紙。

 やはりそうか――。

 俺は掲げられた両手を交互に見る。「まさかとは思いますけど……作家、ですか?」

「正解!」

 彼女はペンをくるりと回して、先端でこちらを指した。

「本を書いているの。小説家っていうと、分かりやすいのかもしれないね」

 手にしていたグラスが、テーブルの上にゆっくりと置かれる。

(いや、しかし、そんな……)

 俺は座ったまま固まってしまう。

 氷のカランとした音だけが、冷え切った室内に響いて溶けた。

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「ちょっと待って下さい。意味が分からないんですけど」

 話が全く繋がらない。唐突にも程がある。俺は頭を抱えるようにして分かりやすく抗議の色を示した。

「そんなに難しい話じゃないって。一応所属はこの会社だから、就業時間は他の皆と同じだし、出社日数だってほとんど変わらない。ただ、メンバーは私一人だけだから、有給を使いやすいぶん他の人たちよりは多めに休んでいるかもしれないけれど」

「だとしたら余計に納得がいきません。この会社で働きながら小説を書くなんて……不可能です」

「そんなことないわよ」

 彼女は窓際のデスクの前の椅子に腰を下ろした。背中の方から金属のかすかに軋むような音が鳴り響く。

「さっきも言ったけど、もちろん専業じゃないし、それだけじゃ食っていけないからこの会社にいるんだけど。だから他の人と空き時間の使い方がちょっと違う、程度に思っていてくれればそれでいいのよ」

 彼女は当然のように言うが、俺はまだ混乱の渦中から抜け出せずにいた。

「それってつまり……」

 彼女がなぜ「普通」という言葉にあれほどまで過剰に反応したのか、ここにきてようやく分かった気がした。やはり彼女は、「普通」ではない。しかしそれをこちらから確認する前に、彼女は言葉を挟んできた。

「……ああ、この話を伝えたことで基ちゃんとはこれまでの付き合い方が変わるようなことは無いから、そこは安心してね」

 安心しても……良いのか? 俺は彼女の秘密を知ることで、少しでも彼女との距離が縮まるものだと思っていた。

 しかし違った。実際は逆だった。打ち明けられる前とは打って変わって、一気に彼女が自分とは別次元の世界にいる人間であるように思えた。

 彼女と俺との間にあった壁は、先ほどの訴えによっておそらく取り払われたはずだった。

 けれどもその壁の向こうにいた彼女は、俺の手の届く高さにはいなかった。声だけがかろうじて聞こえる。そんな場所に、彼女はいたのだ。

「どう?」

「どうって……」

 受け入れたくなかった。この会社で楽しそうに仕事をしている人がいるという現実。どこか誇らしげにも見えたその表情に、俺はひどく嫉妬していた。

「いや、ただ者ではないことは何となく感じていましたが、さすがにここまでとは思ってもみませんでした」

「明らかに普通じゃない」

 俺がそういうと、彼女は当然のように言った。

「基ちゃんの中では、ね。私にとっては入社してからずっとこんな感じだから、これが普通なの」

 それを聞いても、俺はまだ納得できない。

「小説って、そんな片手間で書けるものではないと思うのですが」 

「もちろんそうよ。でもそこは上手くやっているの」

 それ以上彼女は多くを語ろうとしなかった。話の終わりを告げるかのように、こちらから視線を外し、二人分の空いたグラスを重ね合わせた。

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「私のことはもういいのよ。これで終わり。それより基ちゃん、これからどうするの?」

「これから……ですか」

「そう。未来の話。異動が決まったも同然なんでしょう。このままずっとこの会社で働くのか、ってこと。さっき聞いた話だと、かなり難しそうだけど」

 今日ここへ訪れた目的を思い出す。転職について。

 今後も働き続ける気はなかった。ここまで続けてこれたのは、特にやりたいことが見あたらなかったというのもあるが、何よりお金を貯めるという明確な目標があったからだ。大学の学費を奨学金で捻出したため、その返済資金を貯めるまでは、何としても会社を辞めるわけにはいかなかったのだ。

 しかしその目標も、先月で既に達成されている。それでいて昨日の出来事だ。動き出すにはちょうど良い時期と言えるだろう。

「このままここにいる気はありません。正直、今すぐにでも転職したいです。ただ、いまひとつ適正が分からないでいるんです。普通にサラリーマンやっても、また同じことの繰り返しになるような気がしているので」

「やっぱり? ただまだ時間はあるんだよね?」

 予想通り人事異動が行われるとすれば、早くて一〇月。遅くとも来年の四月までだ。さすがに二ヶ月後だとあまりに急だろうから、濃厚なのは来年だろう。あと八ヶ月。それまでは転職活動期間とみていいだろう。

「異動があったとしても、おそらく来年の四月になるでしょうから、今からだと、八か月は余裕があることになります」 

「半年以上あるんだ。特にやることもまだ、決まってないんでしょう?」

「ええ」

「じゃあさ」彼女はまた怪しげな笑みを浮かべだした。「本でも書いてみたら?」

「本?」

 唐突だった。

「どうして急に」

「書けるでしょ」

「書けませんよ。ミヤコさんじゃないんですから」

 そんなの書いたことないし、書こうと思ったこともない。しかし彼女は、疑りの目を向けて離さない。

「うそ。上司に不満溜まってるってずっと言ってたじゃない」 

「それはそうですけど……だからって書けませんよ」

 学生時代の論文とはわけが違う。物語をつくり出すとなると想像力がものをいう世界だ。自分にそんな才能があるとは思えなかった。  

「いや、書ける。これまで溜め込んできた数々の想いをもとに、書き殴るのよ」

「そんな無茶苦茶な……」

 半信半疑な俺に対して、彼女はようやく真剣な姿勢を見せた。膝の上で指を組む、いつものアレだ。 

「復讐したいと思わないの?」

「フクシュウ……ですか」

 突然現れた謎の単語に驚いて、彼女の顔をまじまじと見てしまう。深い視線の奥からは怪しげな光が放たれている。妖艶な笑みだ。

「ええ。復讐。これまでずっと取られ続けてきたんでしょう」

「それは会社に、ってことですか?」

「そうよ。一矢報いるの」

「どうやって?」

「分からないの? さっき言ったじゃない」

 今度は呆れたようにため息をつく。それは半分、演技のようにも思えた。

「舞台をこの会社にするの。内容はあなたの日常を書けばそれで充分。あとはもう、分かるわよね」

「日記でも書けってことですか」

「まあ簡単に言うとそういうことね」

 ようやく彼女の言わんとしている内容を理解した。

「難しく考えなくていいから。とりあえず、おはようからおやすみまで、自分の思うがままに書いてみればいいと思うわ」

「急に言われても……困りますね」

「そんな思い悩むことでもないんだけど……。とりあえず書いてみて駄目なら途中で止めたっていいんだから、ね。ストレス発散にもなるし」

「なんでそんなに必死なんですか。まるで宗教の勧誘みたいですよ」

「いいのよ勧誘でもなんでも。……で、どうする? もちろんやるなら全力でサポートするよ。今なら無料で」

 姿勢を正し前のめりになる彼女の姿に思わず笑ってしまう。しかし不思議と嫌な気はしなかった。

 本を書くとはどういう感覚なのだろう。今まで真剣に考えたことは無かっただけに、すぐにできないとも言い辛いところがある。実はただこれまでやってこなかっただけで、自分にも適性があるのかもしれない。

 考えてみれば、会社でも会議での議事録や報告書の作成は苦にならなかった。むしろ仕事の中では好きな部類に入るほどだ。単純な作業としてだけ考えれば、間違いなく自分には向いているだろう。今まで踏み込んだことのない世界だけに、挑戦してみるのもアリかもしれない。

「食っていけるかどうかは別にして……」

 期待するような彼女の瞳は眩しすぎて視線を外してしまう。

「……まあ、確かに時間もありますし、書いてみたい気持ちもあります。なのでお願いします。是非、教えて下さい」

「よーし!」

 彼女は満足そうにぐっと拳を引き寄せ頷いた。

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「それでも一筋縄ではいかなそうですね。本一冊っていうと、まず量が半端じゃない。文字数でいえばどれくらいなんですか」

「本の形にもよるけど、文庫本ならだいたい一冊三〇〇ページ程度で一二万字くらいね。四〇〇字詰めの原稿用紙で約三〇〇枚」

「ちょっと天文学的な数字に聞こえるんですが……」

 考えたこともない分量だ。

 確かに干されることが確定したこれからであれば、多少時間にも余裕ができるのかもしれない。けれども、短編小説すら書いたことのない俺にとって、それがどれだけ大変なのかは、はっきり言って未知数だった。

 ただ、その数字から決して楽ではない道のりであることだけは察しがついた。そもそも「読む」と「書く」では、天と地ほどの差があることくらいは、言われなくとも大体分かる。

「大丈夫よ。初心者でもちゃんとやり方を踏襲すれば書き切れるから」

 俺の不安を気にする様子もなく、彼女はすっと立ち上がって、ソファーの背後にある本棚の前まで移動する。おもむろに一冊を選び出すと、俺に背中を向けたまま顔だけで振り返って、こちらへと手渡した。

「信者へのプレゼントです」

「入会特典ですか」

俺は手を伸ばしてテーブル越しに本を受け取る。

「『物語のススメ』?」

 どこかで聞いたことのあるようなタイトルに、思わず眉をひそめてしまう。まだ綺麗なままの装丁で、あまり読まれていた形跡が見られない。……積んつんどく、だろうか?

「それを参考にしながら書き進めるといいわ。ストーリーやキャラクターのつくりかた、演出方法みたいな大概のことはそこに載っているからー……」

 そう言いながらも、彼女はまだ何か探しているようだ。

 ページをパラパラとめくってみる。お堅いタイトルの割にはイラストや表・図形などがふんだんに盛り込まれており、なかなか読みやすそうな中身だった。

「……あっ、あった。これこれ」

 ややあって、また声が上がる。どうやら捜し物が見つかったらしい。「これも読んでみて。面白いから」

 ソファーまで戻ると、テーブルの上にその一冊を置いて、こちらへと差し出した。

「『いい言葉が、幸せを呼ぶ』?」

「ええ。この前本屋で見つけて衝動買いしちゃった。偉人の名言とか、詩の抜粋が載っているんだけど、これからの資料として使えるかと思って」

 俺は一冊目にしおりを挟んでから一度テーブルに置き、その冊子を手に取った。「こんなの、何に使うんですか」

 冊子にはいくつかのページから付箋が飛び出していた。彼女が付けたものだろう。そのページを中心に指で割いて、また目を通していく。

「まあ、別に参考程度なんだけど。あと、前向きな気持ちになれるよ。例えばね……」そういって彼女は俺の隣まで移動して、ソファーの腕に腰を下した。

「これなんて、今の基ちゃんにぴったりじゃない」

 ん? ページに挟まれた彼女の指を丁寧に押しのけ、声に出してみる。

「……『生きるなら ひとり真夏のくさむらの 人に知られぬ 井戸よりもっと』? 短歌ですか」

「そうよ。良い詩じゃない?」

 そういわれても、意味が分からないのでコメントのしようがない。俺が眉を潜めていると、彼女の指がページをめくった。「次、次」

「これですね。えー、『一人で生きるっていうのは、自分に必要な水を地の底から汲み上げることのできる、井戸のような存在にならなければいけない』、っていうことみたいです」

「知ってるよ」彼女は笑う。

 説明には続きがあった。そのまま黙読する。

『叢に埋もれて誰にも知られなくとも、澄み切った清らかな水を、こんこんと絶えまなく湧かすことができる存在になること』とある。

「俺にはまだ、その井戸になれる自信はありません」

 彼女に向かって、半端に笑いかける。その器をまだ持ち合わせていない。そんな気がした。しかし、彼女は顔色を変えることなく言った。

「それはね、多分自分で気づいていないだけよ。水脈は絶対にあるの。どこを引き当てるかがポイントなのよ。井戸の容量にぴったりあった、多すぎず少なすぎない最適な水脈を探さなければいけないの。溢れちゃったり、枯れちゃったりしたらまた新しい水脈を探さないといけなくなっちゃうからね」

 今の俺は、枯れているのか。溢れているのか。あるいは、何もない枯れた地面を、ただ見当違いに掘り続けているだけなのか。

 多分、どれにも当てはまらなかった。元々あった才能が尽きたわけでもなく、ワーカーホリックになるわけでもなく、かといって今の場所で懸命に前に進もうと努力しているわけでもなかった。今の俺は、他人の井戸からもらった水で、何とか朽ちずに形を保っているだけに過ぎなかった。

「掘る場所を間違えた、ということでしょうか」俺は言った。

「そうね。ただ、新しく造り直すとなると、凄く労力がいるのよね。水脈さえ当ててしまえば、井戸自体の力なんてそこまで必要じゃないから、根気よく探すことが何よりも大事なんだけど」

「それは喜んでいいんでしょうか」俺は複雑な心境で訊き返す。

 転職するには、体力がいる。それが必ずしも天職になるとは限らない。行き着く先を間違わないことが、何よりも大切なのだろう。

「良いと思うよ」彼女は軽い様子で答える。

「価値があるのはアイデアの量より質なのよ。自分に合っているかが第一だから。水でも軟水と硬水ってあるじゃない? 硬水はマグネシウムが多く含まれているぶんお通じが良くなるって言われてるけど、その反面、胃腸が弱い人なんかは、多用すると下痢になったりするのよね。水に含まれる成分を会社の特色って考えると、それが身体に合わない、っていう意味では、どちらも同じ気がするけど」

「確かに分かる気がします。俺が一回目に引き当てた水脈は、少なくとも軟水ではありませんでした」

「水ですらなかったかもしれないね」

 クスリとする彼女につられて、俺も他人事のように思わず笑ってしまった。

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「……じゃあ物語の作り方に話を戻すけど」彼女は一つ咳ばらいをする。

「基ちゃんのような初心者が小説を書くには、まず自分の経験をふまえて物語を組み立てていくのが定石となるわ」

「それ以外の方法は、思いつきません」

 自分の想像力だけで三〇〇枚の原稿用紙を埋めるなんて、まず不可能だ。毎回の記録を淡々と綴る議事録や業務日報とは訳が違う。

「たまに0から100までお話を完全に作り出してしまう初心者がいるけれど、それは例外ね。ただの天才。凡人は経験を積んで徐々に生み出す比率を変えていけばいいから。デザイナーを目指す人間が有名な人の絵を模写して練習するのと同じ感覚かしら」

「小説家はみんな天才だと思ってました」

 俺はそこでページをめくる手を止めた。彼女はどちらのタイプなのだろうか。少しだけ気になった。

「そんな訳ないじゃない。だから、『つくるのではなく生む』という作曲家の名言もあるのだけれど、基ちゃんの場合は逆からね。物語の形を作れるようになってから、自分で生み出すの」

「それも『これ』からとったんですか?」

 俺は二冊目の冊子を目の前にかざす。

「いや、違う。……ちょっとバカにしてるでしょ」

 腕を組んで睨みつけられる。怖い。 

「……すいません。でもその話だと、SFとかファンタジーとか、ホラーとか、非現実世界についてはどうなるんですか」

 率直な疑問を投げかけてみた。本といってもジャンルは多岐にわたる。

「そうね。でもそれも現実の裏返しだと思えば書けると思わない?」

 俺の疑問も想定済みだというように、彼女は笑顔で答えた。

「時間に縛られるのがイヤだから、平行世界を生み出してみたくなる。現実の人間関係に嫌気がさして、おとぎ話のような世界に引っ越してみたくなる。毎日死にそうな顔の同僚の姿を見て、そこに幽霊の面影を感じ取る。全てはリアルが着想の元になっているのよ」

 声高らかに、まるでどこかの哲学者を思わせる勢いで、彼女は宣言する。少し大げさな気もしたが、そのような比喩を出されてしまえば、頷かざるを得なかった。それはまさに、今の俺の状態を象徴していた。

 舌を巻いてだんまりなこちらを見て、彼女はますます饒舌じょうぜつになった。

「逆に考えるともっと分かりやすいんじゃないかしら。例えば現実だけを忠実に記した物語や、想像だらけの世界で書かれた物語があったらどう? この場合、前者ならノンフィクションがそれに当たるけれど、ターゲットが全く別になってしまうから除外ね。じゃあ後者はどうかしら。こちらは内容に不満が出ると思うの。なぜだと思う?」

 俺が考えようとする前に、彼女は三本の指を顔の前に突き出して、カウントを始めた。

「3、2、1……はい、ざんねーん」

 当然と言うべきか、息つく暇さえも与えられず、すぐにタイムオーバーとなる。

 ……っていうか、3秒って何だ。少なすぎるだろう。俺が不味そうな表情をしている向かいで、彼女は一人楽しそうにくすくすと笑っている。

「ごめんね」

「別にいいですけど……正解は何ですか」

「共感が得られないからよ」

 ペン先で自分の指を叩きながら、彼女は言った。

「ああ、読者が主人公になりきったり、似たような風景を身近に感じて感情移入しやすくしたりするするやつですね」

「そう。読了感とでもいうのかしら。それがないと、内容が軽く感じられるのよ。物語の背景が感じられないというか。ピントがぼやけやすくなっちゃうのよね。もちろん例外的に自然とかける人もいるんだろうけれど、そこには相当なテクニックがいるはずよ」

 俺はそれを聞いて、一つの疑問が浮かび上がる。

「あれ? でもさっきミヤコさんは俺に、経験をそのまま使えと言いましたよね。それと矛盾しませんか」

「いいえ。だから大切なのは割合よ。リアルは0に近いほど良いの。でも、できれば0は避けたい。香水と一緒。多すぎると品がないって言われちゃうし、少なすぎるとオリジナリティに欠けて物足りないって思われる。だから少し香るくらいがちょうど良いのよ」

「香水……ですか」

 思わず繰り返した。その例えは、彼女が使うと、ぐっとくる。

「ええ。書店というパーティーに招待された本たちは、全て何らかのリアルな香りをまとっているのよ。私たちはそれに引き寄せられて本を手に取るの」

「ああ、なんか分かるかもしれません」

 自然と店頭で本を手に取る人の姿を想像してしまう――。

 白色灯の強い光に照らされてきらきらと輝きを放つ選ばれし本たち。それらが放つ香りに導かれるようしてに立ち止まる一人の女性。彼女が本を開いた瞬間、その本からはあたたかい花の香りがふわっと広がり、やがてそこら一体の景色を一変させる。まるで『しかけ絵本』を開いた瞬間、放射状に物語の世界が広がっていくかのようにして。それはなんと美しい光景だろうか。

「――もちろん、表紙の見た目に引かれる人も、人間と同じで数多くいるんでしょうけど」

「台無しになるようなこと言わないでくださいよ!」

 すぐに感嘆の声を上げないで良かったと思う。

「基ちゃんは、どっちかしら?」

 気がつけば、彼女はじっとりとした目でこちらを見ていた。俺はすぐに自分が疑われていることを察知し、弁解を試みる。

「俺は本を買うときちゃんと中身を確認しますよ。あらすじだけですけど……」

 一応反論したつもりだったが、最後の一言は完全に不要だった。「本は基本的に読んだらそれで終わりだから良いのだ」とも思ったが、そんなことを言ったらまたややこしくなりそうだったので黙っておいた。

「本当に? まぁ、全部読んでから買うなんてことはほとんどないから、そこは人間とは違うよね。うん、仕方ない」

 彼女は一人で勝手に納得してしまった。しかしどうもその得意げに語る様子が気にくわない。誤解も解けないままらしかった。

<p><br /></p>

「ああ、あともう一つ必要な能力なんだけど……」

 彼女はまだ話足りないようだった。

 しかし、俺はふいに時間の存在を思い出す。

 胸ポケットにしまった社用携帯のストラップを引っ張って、画面を開く。

 一二時五五分――。昼休み終了まであと五分しかない。

「すみません、ミヤコさん。お話の途中で申し訳ないのですが……」前傾になりながら彼女を制する。「時間がきたのでそろそろ戻ります」

「そう。それは残念」

 そのままゆっくりとソファーから立ち上がった。昼休みとはいっても、あんまり席を外している時間が長すぎると、また面倒なことになりかねない。

「……まあ、物語のほうはあんまり肩肘張らなくてもいいのよ。日記感覚で気楽にやればいいんじゃないかしら」

 ひらひらと手を左右に揺らしながら、彼女も腰を上げる。

「相当どろどろした日記になりそうですが、大丈夫ですか」

 部屋の入り口でヘルメットを被りながら、後ろを振り向く。 

「むしろ、個人的にはそういうのを期待しているんだけど。私に言ってないようなことだって、まだたくさんあるんでしょう?」 

「本に書いたら、ばれちゃうじゃないですか」

「あるってことね」

 否定はできなかった。仕事以外でも、彼女に言いたいことや聞きたいことは、数え切れないほどあった。ただ、いつも切り出すタイミングが上手くつかめずに、結局諦めてしまうのだ。

「まあいいわ。とにかく手を止めないこと。書き続ける限り、路頭に迷うことはないと思うから」

 それが何よりも難しいと思うのだが、本当に手に負えなくなったときは、彼女に助言をもらうことにしよう。基礎的なことは『あの本』があれば、何とかなるだろう。

「そういえばミヤコさん、本出してたりするんですか」

 ドアノブに手をかける寸前、俺は思い出したように訊ねた。

「最近はあんまりだけど、少し前に何冊か出させてもらったわ」

「よろしければその本のタイトル、教えてもらえませんか。物語を書くうえで参考にしたいんです」

 一番身近にある手本の存在を忘れていた。またそれ以上に、彼女がどのような文章を書くのか気になっていた。

 しかし返された答えは、俺の期待に反するものだった。

「まだ教えてあげない」

「いつか教えてくれるんですか」

「まあね。そのうちわかると思うけど」

 いつものようにはぐらかされながら、試験室を後にする。いつかわかるのであれば、その「いつか」を待とう――。

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 廊下を歩く足取りは軽かった。 

 ようやく目標が決まったのだ。

 本を書くこと――。それがこれから始まる復讐劇の凶器となる。

 はたして、相手に思い通りのダメージを与えることはできるのだろうか。

 思わず、にやりとしてしまう。

 前代未聞の愉快犯に、俺はなろうとしていた。


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##3.聖書##


 午後はいつも通り仕事を片付け、独身寮についた頃には二二時を回っていた。電車通勤なら終電に近い時間帯だろう。いつも通りゾンビのようにフラついた足取りで寮の階段を三階まで上り、部屋の鍵を開けてベッドに倒れ込む。

 そのまま眠ってしまいたかったが、そうすると翌朝身体がとんでもなく気持ち悪い状態で目を覚ますことになる。すぐに離れかけていた意識を呼び戻して、強引にシーツから身体を引きはがした。

 一階にある共用の浴場で、シャワーだけをサッと浴びる。

 一五分足らずで戻ってくると、机の上に置いたスマートフォンのLEDランプがチカチカと点滅していた。

 誰からだろう。メールのようだ――。

 冷蔵庫から水の入ったボトルを取り出しながら、空いた手で画面のロックを解除する。

『はじめぇー最近どうよ。元気してる?』

 菜々美からだった。首にかけていたタオルを入り口近くの洗濯かごに放り込み、テレビの前に置かれた大きめのクッションに身体を投げ出した。

 ほっとする瞬間だ――。

 彼女の顔を思い出すと、少しだけ仕事について忘れることができた。

 菜々美は高校一年の頃からの同級生で、就職してからも連絡を取り合う仲だった。こちらから何か言うことはほとんどないのに、いつもこうして、彼女の方から時折メッセージが届く。それは俺にとって、とてもありがたいことだった。

 彼女と話をしているとき、俺は自然体でいることができた。俺に限らず他の誰とでも分け隔てなく接する彼女からは、他の子に感じられるような、いわゆる「女の子らしさ」というものがほとんど感じられなかった。

 しかしそれは、決して彼女が魅力に欠けるという意味ではない。

 意志を持ったような強い瞳に、背中までまっすぐに伸びた黒髪が揺れる――。俺が彼女の姿を思い出すとき、彼女はいつも、どこかへ向かって走っていた。もちろん行先は分からない。けれども、電話越しでも彼女の声は、つねに何かを目指しているかのように、揺るぎなく明るい。その声を聞くと、俺はつい顔を上げてしまうのだった。

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 メールには適当に何とかやっているという旨を返す。

 すると、一分もしないうちに返信が来ってきた。相変わらずだ。これは何と表現すればいいのか分からないのだが、この「スピード感」というのも、彼女の特長の一つだった。

 二五歳という若さで既に転職を二回経験している彼女は、これまで自分に合わない仕事とわかれば、留まることなくすぐに辞めてきたという。

 そのような一見わがままで自由奔放に見えるスタイルも、彼女の人柄とコミュニケーション能力の高さを知っている俺からすれば、尊敬にすら値するものへと変化してしまう。まるで太平洋を泳ぐマグロのように止まることを知らない彼女からは、いつもエネルギーが溢れ出していて、ネガティブなイメージというものが一切感じられない。一言で言うなら、動物的。本能の赴くままに行動する彼女の一貫した姿勢に、俺は魅力を感じていた。

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『何か変わったことあった?』

『ああ。最近さ、趣味で小説書いてるんだよ』

『ショーセツ? いきなりどしたん? もしかして基、小説家にでもなるつもりなん?』

 真っ当な反応が返ってきた。それもそのはずだろう。たとえ親しい間柄であっても、普通は知り得ない情報なのだ。

 正直、今の段階で彼女に話してしまっていいのか、判断に迷った。けれど後々のことを考えると、彼女にだけは報告しておいた方が良いだろうという結論に至った。俺よりも数段豊富な経験を持ち合わせている彼女のことを考えると、強力な助っ人になってくれることは間違いなかった。

 しかし、「なぜ本を書くのか」。理由のところまでは、まだ言わないつもりでいた。ひとつは書き切れるかどうかも分からかったので、保険の意味を込めて。もう一つは単純に保身のためだ。会社の事情を知らない人間からすれば、本を書いている動機が復讐だなんて聞かされれば、それは「ヤバい奴」だとしか思えないだろう。

『いや、だから趣味だって。休みの日に気晴らしで書いてる程度。仕事のこと忘れられるしね』

『ああ、なるほど。昔から本よく読んでたもんね。でも、それがどうかしたん?』

 彼女が興味を示してくれたので、俺は引き続き状況を説明することにした。

『内容に行き詰まっちゃってさ。自分の過去の経験を元にストーリーを組み立てていこうと思ってるんだけど、それだけだとページが全然埋まらないんだよね』

『一冊って、どれくらいだっけ?』

『大体一二万字くらいかな』

「じゅうにまん? ……って、分かんないよ。原稿用紙三〇〇枚って考えると、うん。大変だね」

『そうなんだよ。そういうとき、菜々美ならどうする? 経験豊富なお前なら、仮に書くとしてもこんなことで悩んだりはしないんだろうけど』

 彼女であれば、平然と書き上げてしまいそうな気がした。それが面白いかどうかは別として。

『えっ、私? 本は読むけど、書こうと思ったことはさすがにないなぁ。こんな性分だから。でも、ネタがないならつくればいいんじゃないの?』

『ん? それはどういうこと?』

 話が上手く伝わらなかったのだろうか。少し間があってから、返信が来る。

『経験をベースにしてるんでしょ。だったら頭の中で新しいお話をつくるんじゃなくて、現実で新しくつくっちゃえばいいんだよ。それができるかどうかは話の内容にもよるんだろうけど、自分で《故意に》事件を起こして、それを経験とするんだよ』

『ああ、なるほど。既成事実みたいなものか』

『そういうこと^^』

 確かにそれは……アリかもしれない。「経験=過去のもの」という先入観のせいで、気がつかなかった。

 しかし実行に移すためには、相当な覚悟が必要だった。それはつまり、俺自身の身を削るということになる。「復讐」という本のテーマを知っている俺やミヤコさんでは、到底思いつかない方法だった。

『視野が狭いなー基は。一度旅にでも出た方がいいんじゃない?』

 嫌みなような文面にも、腹を立てることはない。今となっては社交辞令のようなものだ。

『菜々美と比較しないでくれ。でも、ありがとう。助かったよ』

 俺はスマートフォンを手から放して、机の上に置いた。

 ネタがないなら自分で起こせばいい――。その通りだと思った。こんな単純なことでも、一人だと思考が偏って気づけなくなる。早々に匙を投げなくて済んだことに、とりあえず安心する。

 しかし、「自らがネタになる」といっても、具体的に何をすればいいのだろうか。お題目は、『復讐』。

 俺は一度、考えを整理することにした――。

 クッションから倒した身体を引き起こす。ペンを手に取り、机に置いたノートの切れ端へ、適当に言葉を書き記していく。

 まずはじめに、「何について書くか」。本の大まかな内容についてだ。

 ミヤコさんは会社での出来事を中心に書けば良いと言っていた。それで復讐の意味も兼ねるとなると、やはり内容は『暴露本』に近い形になるのだろう。仮に上手く出版までこぎ着ければ、会社の悪事を世の中に問うことができる。

 ただ、それだけでは不充分な気がした。

 まず、面白くない。世の中には《ブラック企業》があふれている。今更その例を羅列したところで、「だから何?」って感じだ。俺だったらそんな本、手に取ることもなく前を通り過ぎてしまうだろう。

 それに、たぶん量的にも不充分だ。これはまだ書き初めていないので想像の域を越えないのだが、事実だけを淡々と述べているようでは、やはりとてもじゃないがページを埋めきれないだろう。

 そこで先ほどの話だ。ネタを得るために新しく「起こす」のだったか。では、何を起こせば良い? 俺はどんな種を蒔けばいい? 

――ふと、一つの案が浮かんできた。思わずニヤリと口を歪めてしまう。

(これなら、いけるかもしれない……)

 我ながら今日は冴えている気がした。菜々美のぶっ飛んだ発想に、俺の頭も影響されたのかもしれなかった。

 ただ、忘れてはならないことがあった。俺が書きたいのは物語だ。山があって谷があり、時折心地よい川のせせらぎが聞こえてくるようなストーリー。起承転結のお話になっていないと、それこそ話にならない。

 では、物語とは何だ……。

 巡るめく思考の渦に、飲み込まれてしまいそうになる。俺はまだその答えを見い出せずにいた。

 ――まぁとりあえず、やることは決まった。まずはネタ集めから始めて、細かい調整については書き進める中で考えていけばいいだろう。しかしその前に、俺自身も少しだけ勉強し直す必要があった。  

 ちょうどタイミングの良いことに、明日は休みとなっている。今回ばかりは菜々美の行動方針に敬意をはらって、朝一番で出かけることにしよう。

 ふいに自分が、今の状況をこの上なく楽しんでいる事に気がついた。心が弾んでいる――。目標を持つと人は前向きになれるというが、今の自分はまさにそんな感じだった。意気揚々としているのが分かる。

 俺と話しているときの彼女は、いつも「こんな感じ」なのだろうか――。あのエネルギーの源泉がどこにあるのか。俺は知りたかった。

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 翌日の金曜日。俺は予定通り、寮からほど近くの所にある市営の図書館を訪れていた。

 この図書館には何度かお世話になっていた。そこまで規模は大きくないが、蔵書数は豊富なので、専門書でもない限りはほとんどここを利用することにしていた。

 中に入ると、会社とはまた違った緊張感のある空気が肌を包んだ。広がる静寂――。平日ということもあって、館内はお年寄りが数名ベンチで座っているだけで、ほとんど閑散としていた。本のバーコードを読みとる電子音だけが、行き場をなくしたかのように館内へと響き渡っていた。

 出入り口付近にある貸し出しカウンターの脇で、一度足を止めた。壁には薄茶けた館内マップが貼り付けてあった。そこから目当ての棚を探し出して、立ち止まることなくその場まで向かう。棚の前までたどり着くと、上から順番にあらかじめチェックしておいたタイトルが入ったものを、片っ端から引き出していった。

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 本を三冊ほどを小脇に抱えたところで、突然後ろから声を掛けられた。

「基くんじゃないか」

 振り向くと、橘さんだった。Tシャツにチノパン姿の彼をみて、少し違和感を覚えた。作業着以外の服装をみる機会があまりないので、どうも普段のイメージと上手く一致しないのだ。俺は周りを気にしながらも、小さく挨拶を返す。

「労働基準法? そんなものどうするんだい」

 怪訝そうな顔をしながら、橘さんは俺の右手に目線を送っていた。

 しまった――。突然話しかけられて、つい手に持っていた本のことを忘れていた。

 しかし橘さんも気づいたからといって、気安く訊かないで欲しい。察しろとまでは言わないが、人が読もうとしている本を詮索するのはどうかと思う。それは俺なら絶対にできないことだった。

 ただ訊かれてしまったのだから、答えなければいけなくなった。どう言ったものか、即座に言い訳を考える。

「……あの、実は最近弟から相談されまして」橘さんの顔を見る。両眉を上げて、不思議そうな表情を浮かべていた。俺は構わず続ける。

「……弟は高校生なんですけど、バイト先で不満に思うことが多いみたいで。その度に、俺まで相談してくるんです。それが法律関係のことが多いんですけど、俺も新入社員の頃に勉強したっきりで、もう忘れちゃってて。どうせならこの機会に勉強し直そうかと思って、参考書を探していたんです」

 何とか言い切った。咄嗟に思いついたにしては、それなりに悪くない答えだと思った。しかし、相手に言葉をいっさい挟ませないような語り方は、あまり良くなかったかもしれない。

 その証拠に橘さんは一瞬眉をひそめたが、幸いそこまで気にならなかったようだ。すぐに表情を柔らなものへと変化させた。 

「それは感心だ。兄としての威厳は保たないといけないからな」

 背中がポンと叩かれる。その力加減にほっとする。

「橘さんはなにかお探しですか」

 話を逸らすためにこちらから話題を振る。橘さんの左手には、何も握られていなかった。

「ああ、俺は家で読む本を探しにきたんだ。独り身だと会社以外にも本に集中できる時間が長くとれるからな」

 そういえば彼は、いつも昼食のあと自分のデスクで本を開いていることが多かった。明かりも点いていない事務所内で周りが一様に突っ伏している中、ただ一人静かに文庫本のページをめくっている姿が、妙に印象的だった。

「橘さんは『借りる派』なんですか」

 俺はそんな橘さんの様子を思い出しながら訊ねてみる。部屋の中で書物に囲まれて暮らしている絵は、普段の橘さんの様子から、あまり想像できなかった。

「いや、そんなことはないぞ」

 橘さんはしかし、あっさりとそれを否定した。

「確かに俺が読んでいる本は全部ここで借りたものだ。しかし、家にも本はある。ここで借りてどうしても手元に置いておきたくなった本を、後からもう一度買うんだよ」

 初めて出会うタイプの答えだった。効率が良いのか悪いのか分からないことをしている。

「不思議なことをされるんですね。借りてからまた同じ本を買うっていうのは、実際には簡単にできることではありません」

 俺はほとんど『買う派』だった。図鑑や参考書など少しの期間で用が足りるものであれば借りることもあったが、普段読む小説であれば、店頭で片っ端から目に止まったものを買うことが多かった。「新しい物好き」というのもあるし、単純に毎回図書館まで返しにいくのが面倒だというのもあった。

「俺は別にコレクター気質があるわけじゃないからな」

 純粋に読むという行為そのものに重きを置いているようだった。

「『本は地肉になる』と言うが、俺は自分が本当に良いと思ったものだけで身体が構成されているという満足感に浸りたいんだよ。良い本は何回読んでも良いもんだ」

 橘さんは腕を組んで、一人頷く。

 その様子を見て、俺は自分からも何か言ってみたくなった。もしかしたら、お互い本が好きだという共通点があることに親近感を覚えたのかもしれなかった。

「橘さんの部屋には選ばれしエリートだけが残るんじゃなくて、はじめからそれしかいないってことですね」

「エリート? ふぅん」橘さんは俺を見定めるような視線で見た。「……そのこころは?」

「就職説明会で青田買いする人事担当者……ってところでしょうか」

 俺がそう返すと、橘さんは途端に顔を明るくさせた。

「俺は技術部だがな。総務じゃあ、ない」

 そして少し考えるように、顎をさする。

「しかし面白いことを言うな、基君。君、本はよく読むのか」

 細めた目の間から、俺を見据えるようにして言った。自分の心の中を透視されているようで気恥ずかしい。

「週に一冊程度です。橘さんには到底及びません」

 わざとらしく言ってみるものの、橘さんの表情は変わらなかった。

「いやいや、充分じゃないか。今日は予定があるから無理だが、また機会があったら飯でも行こうじゃないか。君とは趣のある話ができそうだ」

 そう言ってからまた二回ほど頷くと、俺の返事も待たずに音もなく本棚の奥へと消えてしまった。どうやら、初めてにしては悪くない印象を持ってもらえたようだった。

 消え去った橘さんの姿を確認して、俺は一気に胸をなで下ろした。

 まさか会社の人に会うとは思っていなかった。

 しかし彼でよかった。あの人は波風立てるのを嫌うタイプだったはずだ。念押しして口止めするという手もあったが、それだと逆に怪しまれる気がしたので止めておいた。

 それから俺は再度本棚に視線を戻して、作業を再開させた。考えると、橘さんと出会ったのは、不思議でも何でもない。ここは、工場から一番近い図書館で、今日は事務所の休日なのだ。このまま長居していると、次は誰に出くわすか分からなかった。

 俺はそそくさと貸し出し手続きを終えて、そのまま逃げるような足取りで図書館を後にした。

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 その晩から密かに俺は、来る時に向けての勉強を始めた。内容は主に「就業規則について」。残業時間や休憩時間の定義、会社休日の扱い方など、覚えなければいけないことは、思っていた以上に多かった。

 念のため、それ以外のパワハラやセクハラについても調べておいた。厚生労働省のホームページをチェックすることも忘れなかった。付け焼き刃だということは最初から分かっていたので、なおさら完璧に準備する必要があった。

 暗記の方法は至ってシンプルだ。学生時代と何ら変わりはない。一冊ずつの参考書に目を通して、必要だと思ったところに、それぞれ付箋を張り付けておく。その箇所を要約して、ノートに箇条書きで記していく。これを借りてきたすべての本に繰り返した――。

 貸出期限の二週間も終わりに近づいた頃、俺のノートは完成した。文字でびっしり埋め尽くされた跡を見て、俺は言い表せないような満足感を覚えた。

 これこそが、今後自分の会社生活において軸となるものだ。そう思うと、目の前にある一冊のノートがとても神聖なもののように感じられた。このノートが、俺の心のよりどころなのだ。それはまるで、一冊の『聖書』のように思えた。

 それからというもの、俺はその聖書を枕元に置いて、毎日眼を閉じる前に、確認してから眠るようになった。

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 左遷通告から二週間。俺の周りの環境は激変した。言い渡されてから初めての出勤日は、何か嫌みの一つでも言われるのではないかと身構えていたのだが、特にそんなこともなかった。皆、普通の顔をしながら、目の前の仕事を淡々とこなしているように見えた。

 ただ、一週間くらいしてからようやくその異様さに気がついた。課内をはじめとして、ほとんど誰も俺に話しかけてこないのだ。トイレでも、廊下でも、食堂でも。すれ違うほとんどの人が、俺と目を合わせようとさえしなかった。

 さすがに仕事の業務的なやりとりは発生したが、それさえも形を変えていた。これまでのような「笑いを交えてから本題に入る」という、段階を踏んだコミュニケーションが、一切なくなってしまったのだ。

 じわりじわりと、ただ確実に変化していく周りに対して、俺は言いようもないもどかしさを感じた。これでは、完全に俺が悪者ではないか。

 まるで学生時代のテストのようだった。相手からは本題のみが端的に伝えられる。俺にはその問いに関しての答えだけが求められる。質問に対して与えられた文字数で収まるように、反応しなければいけなかった。相手からは、「余計な発言は一切いらない」とでもいうような、無言の圧力を感じた。

 やはり会社のキーマンである中山さんを敵に回したのが良くなかったのだろう。周りが全員、同じ顔に見えた。ここまで露骨にされるとは思ってもみなかったが、入ってくる情報が業務に限った内容に限定されるようになったのは悪くない。目の前の仕事に集中できる。作業中に手を止める回数はほとんどなくなり、それと比例するかのように、仕事を処理する速度も上がっていった。

 まるで機械だな――。あるときふと、そんなことを思った。毎日ひたすら書類とパソコンの画面に向き合っては、きびきびと手を動かすのみ。それなりに量はあるので、決して怠惰な日々にはならなかったが、ブレることのない日常に対しては、やはりどこか物足りなさを感じていた。

 しかし俺は、この状況が嫌いではなかった。むしろ望んでいたといっても良い。

 煩わしい人間関係という名のストレス。一時的にでも、そこから解放されたのだ。だから、そこに悲しみの感情なんていうものは、露一つとして存在しなかった。

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 一一時過ぎ、午前中の仕事が一段落した俺は、水筒に水を補給するため給湯室へと足を向けた。仕事量が減ったといっても、相変わらずパソコンと対峙する姿勢は変わっていない。むしろ仕事の途中で現場から呼び出しをくらうことがなくなった分、デスクにいる密度が濃くなってしまった。そのせいか、前よりも肩が凝るようになった気がする。

 指先でほぐしながら薄暗い廊下を通って給湯室に入ると、既に先客がいた。小麦色に焼けた肌が、蛍光灯の光に照らされて鈍く光っている。その姿を一目見て、鳴海なるみさんであることに気づく。今月はじめに派遣社員として新しく入ってきた女の子だ。

 鳴海さんは俺の姿を確認するなり、目をぱっと大きく見開いて、軽やかなステップを踏みながら、こちらへと歩み寄ってきた。弾むようなその身体はなんだかとてもリズミカルで、思わずにんまりとしてしまう。彼女はとても、よく動く。それは振動している、といった方が近いのかもしれなかった。

「基っちせんぱーい! お疲れさまでっす。んっ? どうしたんですか。顔色、悪いですよぉ?」

 彼女は俺の顔を心配そうに覗き込み、手にしたままの布巾を胸の前でぎゅっと握っていた。よくわからない人からされると、少しイラっとする動作だったが、彼女のキャラクターにある程度馴れていた俺は、そこまで気に障ることもなかった。

「いつものことですよ」

 俺は脱力しながら言葉を返す。

 事務所棟内では、どうも力が沸いてこない。車が坂道ではアクセルを踏まないとなかなか前に進めないのと同じで、ここでは誰かと話すにしても、意識して「会話しよう」と自分を奮起させないと、上手く話せなくなるのだ。給湯室についた今は、スイッチが完全にオフの時だった。

 しかし、そんな俺にも構うことなく積極的に絡んでこようとする彼女。孤立無援と思われた事務所棟内でも、ただ一人俺に話しかけてくれる希有な存在だった。この状況ではまったく空気が読めていないと言っても良かったが、彼女の人柄は既に周りにも知れ渡っていたので、皆見て見ぬ振りという感じだった。

「またまたそんなこと言っちゃってー。私知ってるんですよ。先輩、バイク趣味なんですって? この前の休日で遊び疲れたんじゃないんですか?」

 彼女は両腕を前につきだし、拳をつくって右の手首を捻る動作をして見せた。

「コレですよ。コレ」

 顔だけをこちらに向けながら、楽しそうに笑う。

「ブン、ブン!」

 オートバイのアクセルを回す仕草だろう。口でマフラーから出る排気音を再現する徹底ぶりだった。

 俺はまた笑ってしまう。今度は自然と声が出た。ようやく、どこにあるのかもわからない「スイッチ」が入る。

「最近はあんまり乗れてないんですよ。三年も経つともうここらへんは行き尽くした感があって。長期連休以外はもっぱらジョギングばっかりしてますよ」

 彼女はまたもや驚く仕草を見せる。手を口に当てて、目を更に見開く。瞼から眼球がこぼれ落ちそうな勢いだ。

「そんな! それ以上痩せてどうするつもりなんですか。死にますよ! 私の分けてあげましょうか」

 お腹のへそあたりをぎゅっと摘んで、こちらにぐいと寄せてくる。全く躊躇がない。俺は少し焦りながらも、「いりませんよ」と、丁寧に断りを入れる。 

「この前だって地元の男友達に、『お前また足まわりデカくなったな』って言われちゃって。何のことかすっとぼけて訊ねたら、『前までは軽トラ用だったのに、今ダンプじゃん』って。サスペンションの話だったみたいです」

「……」

「『生き物じゃねえのかよ!』って、思わずツッコんじゃいましたよ」

 以前彼女は趣味が車いじりだと言っていた。その仲間から言われたのだろう。床を蹴るようにして視線を落とす彼女。気分に対しての動作が、いちいちはっきりしている。俺はその引き出しの多さに、いつも驚かされる。

「ダンプで良かったじゃないですか」

 バランスが大事なのだ。足まわりがしっかりしていないと、上半身は支えられない。もちろん、彼女でなければこんな風には返さない。

「んもー先輩まで止めてくださいよ。踏みつぶしますよ!」

 彼女はわざとらしく頬を膨らませながら、俺の肩を小突いた。俺は身を縮めながら「すみません」と、恐縮する。踏みつぶされることはないだろうが、これ以上のボディータッチはできれば避けたかった。

 話が一段落したところで、俺はウォーターサーバーの水をマグカップに汲んでから、それを電子レンジに放り込んだ。タイマーをセットして、しばし待つ……。

 できあがるまでの間、今度はお気に入りのツーリングルートについて情報交換をした。

 適当に会話が途切れたところで停止ボタンを押し、中身を水筒に移し替えて、給湯室を後にしようとする。

 去り際に、彼女からまた声をかけられた。

「すいません、私こんな感じでうっとうしくって。でもまだ全然話したりませんね。よかったら先輩、連絡先教えてくれませんか」

 それはとても自然な流れのように思えた。

 俺は彼女の前にスマートフォンを差し出す。呪文のような謎の念力が送られる……。

 無事に連絡先の交換が終わると、彼女は携帯の画面から顔を上げた。

「また今度時間があるときにでも、一緒にツーリング行きましょう。バイクと車で!」

 まるで友達だな――。屈託のない笑顔を見ていると、自然と頬が緩んできた。

 そういえば、事務所の中で笑ったのは久しぶりだ――。暗がりの廊下で一人、そんなことを気にしている自分がバカみたいで、またふっと小さく、声が漏れた。

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 それから数日。九月も後半に入って、暑さのピークは過ぎたようだった。蝉の鳴き声はもう聞こえない。クーラーの使用回数も減り、開け放った窓からは昼間でも時折涼しげで心地よい風が吹くようになった。変わりゆく暦と同じ様に、俺自身もその異常といえる職場内の環境に、少しずつではあるが馴れ始めていた。

 しかしそんな弛緩した日常も、長くは続かなかった。悪いところにはメスが入れられる。当然のことだ。異常なまでの削減意識を持った当社であれば、なおさらだった。

 ただ、それは俺にとって待ちに待った瞬間と言っても良かった。ついに勉強の成果を発揮するときがきたのだ。

「基さあ、これ何なの? 認められないんだけど?」

 昼休みが終わってすぐ、隣に座っていた前原さんは、ため息混じりにそう言った。彼が手にしていたのは、俺の《残業時間申請用紙》だった。

「どこに問題がありましたか」

「いや、この日は認められないって言ってんの。っていうか不思議に思わないの? 一ヶ月でこの日だけ申請するって、普通に考えておかしいでしょ」

 前原さんは真っ赤に充血した目でこちらを見る。既に相当苛立っているようだった。ミヤコさんとはまた違った絡みつくような視線に耐えかねて、俺は思わず目を背けてしまう。

 しかし、戸惑うことはない。今回は自信があった。それは「間違いなく」、間違っているのだ。

「その日は工場全体会議があって定時で帰れませんでした。前原さんもご一緒されていたのでご存じだとは思いますが。なので申請したまでです」

 実際にその時間まで会社に残って業務をしていたのだから、申請すること自体に間違いはない。一般的に考えれば、超過勤務扱いだ。

 当然、俺だって分かっていた。それがたとえ世間一般では正しくとも、この会社では通用しないことくらい。

 けれども、いや、だからこそ――。俺は申請したのだ。「この会社なら、絶対に指摘してくるだろう」という自信があった。

 俺はあえて、餌を撒いておいたのだ。

「いやいやいや、今更何言ってんの?」

 俺の口調が煽っているようにでも聞こえたのだろうか。前原さんの顔色が徐々に赤から紫へと変化していく。どうやらまた、導火線に火を付けてしまったらしい。

「ですから……」

 俺は更に追加で説明を加えようとする。しかし今回はその必要もなかったようだ。

「いかげんにしろよ!」

 静まりかえった社内に、怒号が響きわたる。

 滅多に叫ぶことのない前原さんである。その声があまりに聞き慣れないものだったので、自分に向けられたものだと気づくのに、コンマ数秒遅れがあった。

「会議で遅くなることなんてこれまでいくらでもあったじゃん? なのになんで今月だけ申請してんの? 自分だけ仕事減らして特別扱いしてもらってるのに、まだ足りないの?」

 前原さんは立ち上がり、俺を執拗に責め立てる。いつの間にか社内はしんと静まりかえり、俺たち二人は注目の的となっていた。

 その視線に気づいて、俺はできるだけ平常心を装いながら、小さく言葉を返す。

「あんまり叫ばないでくださいよ。びっくりしたじゃないですか。他の方たちの目もありますんで、これ以降は申し訳ありませんが、別室でお願いします」

 俺は立ち上がったままマウスに手を伸ばす。空いている応接室を画面上で確認してから、手早く予定を入れる。マウスのカチカチとした音だけが、静まりかえった室内に響く。

「第六でお願いします」

 前原さんに背中を向け、引き出しから取り出したスティックタイプのICレコーダーを、ひっそりと胸ポケットに忍ばせる。そのまま無言で応接室へと向かった。

 俺のあまりにも淡々とした対応に面食らったのか、前原さんは俺が振り向いてからようやく、きまり悪そうに足を動かした。若干の距離を感じる。

 まさか上司を牽引して歩く日がくるとは――。廊下の途中、俺は胸の高鳴りを押さえるので必死だった。

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「何か飲みますか。私買ってきますので」

 部屋に着いてからの開口一番、俺は前原さんに訊ねた。

「いらねぇよ。なにお前、わざわざこんなところにまで呼び出して。ふざけてんの?」

 前原さんはパイプイスを乱暴に引いて、どかっと腰を掛ける。その勢いに、イスが鈍い悲鳴を上げた。

 個室に入るなり、前原さんの口調は一気に荒くなった。俺の不愛想な態度に加えて、話の主導権を握られていることに、納得がいっていないのだろう。

「ふざけてなんていません。落ち着いてお話がしたかっただけです」 

「あんな態度取られて、落ち着いて話ができると思ってんの? っていうか、この時間も勤務時間に入るんだけど。これで今日残業することになったらどうしてくれんの? 拘束してるからには、その分は基が払ってくれるんだよね?」

 俺は絶句した。ツッコミどころが多すぎる。せめてボケるのであれば、一言の中に一回までと決めておいて欲しい。拾いきるにはそれ相応のエネルギーが必要になってくるのだ。少なくとも今までの俺であれば、こんな嫌みを言われると、思考を一瞬にして遮断していたことだろう。

 しかし、今日は違った。

 今、この瞬間――。俺にとっては、紛れもなく生産性のある議論をしている真っ最中なのだった。

「前原さんの残業については、私に言われても困ります。そもそも、こちらにお連れした件についてですが、もう『あんなの』は止めにしてください」

 俺はそう言って、本題を切り出す。

「公開叱責は……立派なパワハラです」

 できるだけ言葉にウエイトが乗るように、低い声で訴えかける。

「あんな風に人前で叱りつけるのは止めてください。私にもそれなりのプライドがあります。それに、周りにいい印象を与えません。必要以上に仕事ができない奴だと思われたら、今後にも影響してきます」

「はっ?」前原さんは失笑する。

「今日はほんと、よく喋るなぁ。まさか自分が仕事できる人間だとでも思ってんの? それとも何? 俺のこと訴えるつもりなの?」

「そんなつもりはございません。ただ、言いたいことは言わせていただきます」

 俺は一つ小さく咳払いをして、声の調子を整える。声の高さ・大きさ・抑揚・間の取り方――。全てが完成されてなければならない。こういうのは、そこから生まれる雰囲気が何よりも大事なのだ。

「それに先ほどの残業時間の件ですが……」俺は続ける。

「労働基準法第三二条で一日の勤務時間の上限は八時間だと決まっています。それを越える場合は、《法定時間外労働》に該当するので、支払いの義務が生じるはずです。ご存じだとは思いますが――」

 前原さんの方をまっすぐに見る。もちろん、笑顔は貼り付けたままだ。

 言うまでもなく、喧嘩をしに来ているわけではなかった。こちらだって、残業がつかないと分かっている以上、稼働時間をむだにはできない。その分のツケをサービスで賄うのは御免である。

 では、貴重な時間を割いてまでして、俺がここにいる理由とは何か。

 答えは単純だった。

 これも一つの『物語』なのだ――。

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 ミヤコさんへの人生相談のあと、俺は自分が小説家として物語を書いてみることを決意した。内容は、『この会社の実体を世間に問う暴露本』だ。書き方としては、ミヤコさんご指導の通り、俺がこれまで社内で理不尽に感じてきたことを中心に構成するつもりだった。しかし、それだけだと原稿用紙三〇〇枚を埋めるのは到底不可能だということに気が付いた。

 早々と壁にぶち当たってしまった俺は、そのことを旧友の菜々美に相談する。菜々美の大胆ともいえるアドバイスから、俺は自らが爆弾となる着想を得た。新しく何か事件を起こすことで、それを経験として物語の内容にトレースすることを思いついたのだ。

 そうして俺は「自分自身を壊すこと」を決意した。自分の中のフィルターを一切外し、思っていることを全て口にして相手の真意を引き出すことで、あわよくばお話の一部として活用させてもらおうと考えたのだ。既に「越えてはいけないライン」というものは、相手が取り払ってくれていたので、捨て身でかかることもいとわなかった。

 ところが、それを実行するには相応の準備が必要だった。相手の間違いを指摘するのだ。そうなると、こちらは普遍的・社会的に正しくないといけない。そこには少しの間違いも許されない。

 だから俺は、これまで自分が受けてきたあらゆる理不尽に対して、またそれに関する就業規則について、一から勉強し直した。公的機関に出向いて資料を集め、今の会社の間違っているところ、グレーなところを全て洗いざらいノートに書き写し、頭の中にたたき込んだ。

 その際の内容については、特に出てくる数字を意識して覚えるようにした。例えば、『労働基準法の第○○条○項』といったように、できるだけ発言に「堅さ」が生まれるように配慮した。そこには、説得力が伴うからだ。それは、相手に俺が「正しい」と思わせるのに、不可欠なことだった。

 大切なのは、正しさだけ。信じられるのは、自分で作った『聖書』のみ。

 俺は自分自信を徹底的に作り替えた。無慈悲で、冷徹で、ただ正確な答えだけを相手に伝えることができる「イキモノ」になろうと試みた。そうすることで、相手の間違った認識を少しでも多くあぶり出そうとした。

 全ては一冊の本を完成させるため――。ただ、それだけだった。

 <p><br /></p>

「気持ち悪いよ」

 俺の終始笑顔を貫くポーカーフェイスに、怖気をふるったのだろう。前原さんは口元を片方だけつり上げ、苦笑いを浮かべながらそう言った。もう熱は大分冷めたようだった。

「お前がどう思ってようと勝手だけどさ。この会社にいる限りは従ってもらうから。それが嫌なら勝手に辞めればいいよ」

 蔑むような冷ややかな視線が向けられる。どうやら俺は、完全に見放されたようだった。上司と部下の関係が崩れた瞬間だった。

 しかし、俺が構うことはない。なにせ、まだ尺は足りていないのだ。

「時間外労働をしたのに、その分は払えないということですか」

 食い下がる俺に対して、前原さんはあからさまに顔をしかめ、吐き出すように言った。

「あぁーしつこいな! 0(ゼロ)か100なんだって! 最初に言っただろ。自分だけ楽させてもらって、更に残業代までもらおうなんて、そんなムシの良いこと通用するわけないだろ!」

「私の業務が楽かどうかは、関係ありません。仕事として拘束されていた分を請求しているだけです。あっ、あと休憩時間の件なんですが……」

「もういい! やめろ!」

 前原さんは椅子を大きく鳴らして、乱暴に立ち上がる。

 けれどそんな様子を見ても、俺は考えを巡らせることを止めなかった。「やめろ」とは、どっちの意味だろう。会話を「止めてほしい」のか。それとも仕事を「辞めて」ほしいのか。後者であれば『聖書』のどこかに引っかかる気がする……。

 俺が頭の中でページをめくっているうちに、気がつけば前原さんは応接室から立ち去ろうとしていた。

 慌てて俺も立ち上がる。まだ話は終わっていなかったが、仕方ない。

 急いで机の上へ置いていた申請用紙を手に取る。そのままドアに手をかけた前原さんの後ろ姿に向かって、声をかけた。

「前原さん。これは、申請させていただきます。総務には私から話をしておきますので」

「好きにすれば良いよ」

 そう言って、前原さんは応接室を後にした。もう、目を合わせてもくれなかった。

 廊下を叩く不快な足音が次第に遠ざかってゆく――。それがやがて消えると、ゆっくりと胸ポケットに入れていたレコーダーを取り出し、モニターの数字を確認する。まだ動いていることが確認できると、ようやくほっと、胸をなで下ろした。

 別に訴えるためではない。これもメモのようなものだ。後で忘れても思い出せるように、記録させてもらっただけだ。

 電源を落とすと同時に、どっと疲れがやってきた。俺はこのとき、初めてこの会社において、達成感というものを味わった気がした。

 ふいに笑いが込み上げる。やっぱり俺は、手遅れだ――。

 どうしようもなく壊れていたんだと、自分でも思う。

<p><br /></p>

 その日の帰り道。俺は独身寮までの道のりを、自転車でゆっくりと走っていた。えも言えない満足感に、自然と頬がゆるんでいた。夏の冷たい夜風が心地よかった。

 今日のことはすぐに中山さんの耳にも入るだろう。そうなれば、少なくとも賞与の減額は免れない。

 しかし俺は呑気なものだった。鞄に入った聖書の重みを確かに感じながら、空を見上げて暗唱する。

「一方的な給与の引き下げはー……第二四条!」

 本当は給与の減額なんてどうでも良かった。もうそんなことはこの会社に期待していない。飯が食える程度にもらえれば、それで良かった。


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##4.工場見学##


 あの日以降、俺は事務所棟内で「どうしようもない奴」から、「危険な奴」にレベルアップしてしまった。まるで風邪を引いたときのように、人が寄りつかなくなった。当然こちらから話しかけにいくこともないので、一層の孤立を極めることになった。

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 ラジオ体操を終えて、すぐに現場へと向かった。今日は珍しく何もトラブルの報告がなかったので、そのまま品質管理棟へと足を向けた。

 小説の方は、あの捨て身の一件のおかげで、何とか手を止めることなく順調に書き進められていた。遅くまで残って仕事をしなくなったというのも大きかった。

 思えば、あれから毎日が充実してきている気がする。趣味のランニングも再開するようになり、このあいだ洗面所の鏡を見たときなんかは、自分の顔色が明らかに良くなっていることに気づいて、思わず鏡の前でにんまりしてしまったほどだった。

 自分の事が少しだけ好きになった俺は、部屋の姿見も捨てるのを止めて、三年ぶりに磨いてみることにした。くっきりと映るようになった自分のシルエット眺めながら、服でも買いに行ってみようかと、必要もないのに考えた。

 目標を持つだけで自分がこんなにも変わるとは、思ってもいなかった。気がつけば俺は物語のことばかり考えるようになっていた――。

 今日はそれを彼女に報告しようと思った。感謝の意味も込めて。俺が嬉しいなら、彼女もきっと嬉んでくれる。以前ならそんな風に考えることはなかったが、今ではほとんど確信していた。

<p><br /></p>

「おはようございます」

 俺はいつもより数段と声を張り上げながら、試験室の扉を開く。

 その大きさに驚いたのか、ミヤコさんはふっと小さなため息をはくと、手にしていた万年筆を離して机の上に転がした。そのまま椅子の背もたれに身体を預けて、肘掛けに頬杖をつきながら、ゆっくりとこちらに顔を向けた。

「おはよう。なんだか調子良さそうじゃない」

 冴えない彼女の表情を見て、俺は幾分冷静になる。机の上に置かれた原稿用紙で目が止まった。

「すみません。作業中でしたか」

「いいのよ。ちょうど考えがまとまらなくって休憩しようと思ってたの」

 彼女は椅子から立ち上がり、大きく伸びをした。冷蔵庫の扉を開けて水を取り出すと、マグカップに注いでから、電子レンジのスイッチを入れた。

 壁にもたれながら待つ彼女に、俺は恭しく問いかける。

「ひとつ質問しても宜しいですか」

「いいよ。気分転換さしてくれる?」

「前から気になっていたのですが……」俺は言った。

「ミヤコさん、文章をつくるときは、どうして手書きなんですか?」 

 少なくともこの部屋には、パソコンらしきものが見あたらなかった。彼女がそれで何か作業をしているところも見たことはない。

 古風なイメージが漂う彼女からは「あえてそれを選んでいる」と言われても自然と納得してしまいそうだったが、一見非効率な方法を採る理由がどこにあるのか気になった。

「どうしてって訊かれると、感覚的なものだから言いにくいんだけど……」彼女は胸の前で腕を組む。

「その方が捗るの。『打つ』よりも『書く』方が、筆が進むのよ。元々文字を書くことが好きっていうのもあるし、それでリラックスしているのかもしれないわね」

「ずっと書いていると疲れませんか?」

「もちろん疲れるよ。ただ、書き始めると意識が全部そっちに集中するから、書いている間は気づかない事の方が多いかな。時間なんてあっという間に過ぎちゃうし。基ちゃんはどうしてるの?」彼女は首を傾げながら訊ねる。

「俺は……別の意味で説明しづらいのですが」

 物語を書くと決まったときに、まず最初にぶち当たった壁が、その方法だった。「何をつくるか」ではなく、「どうやってつくるか」

 眼の件があったので、一般的なパソコンでの作成は論外だった。かといって、彼女のように手書きで最後まで書き上げる自信はなかった。データで作成することのメリットも、最大限享受したかった。

 そして悩みに悩んで色々と試した結果、行き着いたのが《テキスト入力専用ツール》を使用することだった。それは一見、小型のパソコンのように見えるが、画面がカラーではなく白黒なところに大きな意味があった。モニターから出てくる光にも違いがあるのか、文字通りテキストの入力とデータの転送しかできないものだったが、少し使ってからはその効果を大いに実感することになった。「これなら何とかいけそうな気がする」と、何とか望みを繋ぐことができた。

「……そんなものがあるのね」

 俺はそのツールについて一通り熱く語ってみせたが、彼女のリアクションは薄かった。自分のやり方が既に確立されている彼女にとっては、今更新しい方法に乗り換える気にもなれないのだろう。興味を持てなくなるのも頷けた。

「話は変わるけど、小説の進捗はどう?」

 電子レンジから湯気の立ったマグカップが丁寧に取り出される。

「おかげさまで、順調に進んでます。こないだ壊れたのが効きました」

 俺はソファーに腰掛けながら、こちらに向かっていくる彼女を目で追った。

 実は壊れる前、ミヤコさんにも一度相談していた。もしかしたら止められるかもしれないと思ったが、そんなことはなかった。

 それもそのはずだ。彼女は小説家なのだ。それが現実にせよ、非現実にせよ、彼女は新しい物語を好むのだ。別に俺が怪我をするわけでもないし、好んで笑いものになるだけだ。その日の最後に、しっかりと「お話だけは後で聞かせてね」と、念を押されたくらいだった。

 後日その通り話しに行ったら、彼女は目を輝かせながらせわしくメモを取っていた。俺はそれを見て少し複雑な気持ちになったが、自分のためにやったことで喜んでもらえるのであれば一石二鳥だろうとも思って、あまり気にしないようにした。

「そういうわけで、何かお礼をさせて下さい」

 俺は今日、彼女の元へと訪れた目的を告げる。

「えっ、そんなのいいのよ。私はあの壊れた基ちゃんの話が聞けただけで充分だから」

 彼女は口に手を当てて笑いながらも、申し訳なさそうに言った。

「家に着いてからも思い出して笑っちゃったんだから。しばらくはあのお話でお腹いっぱい」

「そういうのじゃなくて、もっと《お返しらしいお返し》をさせて下さい。別に形あるものでなくても構わないんですが、俺からミヤコさんにしっかりと返したと実感できるものが良いんです。勝手かもしれませんが、正直これは俺の気持ちの問題で、このままだと借りっぱなしで気持ちが悪いんです」

「んー困ったわね……」

 そういって彼女は上唇を指先で揉む。どうやら真剣に考えてくれているようだ。黙って返事を待つ。

「……そうね、じゃあ、工場見学がしてみたいわ」

「どこですか。掛け合ってみますよ」

 前の部署では原料調達の仕事をかじらせてもらっていたので、社外の人脈も少なからずあった。

 しかし、彼女は申し訳なさそうな顔をしながら言った。

「いや、うちのだけど……」 

「ここ……ですか?」

 一瞬あっけにとられてしまう。そんなもの、というのも変だが、自分が見慣れていることもあって、拍子抜けしてしまったのだ。

「そうよ。私入ったことないの」

 そういえば、女性社員は現場を一人で回ることができない決まりになっていた。普段立ち入っていない分、リスクに関する予知ができないために危険だからだ。したがって、もし見学したいのであれば、来客のときと同じように事務所の男性が一人付き添う必要があった。

「それくらいならお安いご用ですが、特に面白いものでもないですよ」

 俺は掛け値なしにそう答えておく。現場と関連した実務をそこまでやっていない彼女にとって、大まかな設備や製品ができるまでの流れを聞いたところで、退屈なだけだろう。

「じゃあ、基ちゃんが面白くしてちょうだい」

 彼女はさらりとそう言ってのけた。いったいどこのお姫様だ。いや、この場合はお嬢様になるのか?

「また難しいことをさらっと言いますね」

 俺が困ったように眉を寄せると、彼女は意地の悪そうな顔をつくった。

「自分で言ったんじゃない。大人しく私の謙虚な心をそのまま受け止めておけば良かったものを」

 じっとりとした目が向けられる。まだ「できない」とは一言も言っていないのだが……。

「他のにする?」

 一応心配はしてくれるようだ。しかし、俺の頭の中には、既に一つのプランが成立していた。

「いや、それで行きましょう!」

 膝を打って彼女に応える。

「問題ありません。楽しませて差し上げます」

 あまりハードルを上げるのは良くないのだが、今の自分であれば多少の無茶は利きそうな気がしていた。

「意外だわ。その様子だと、ちょっと期待できそうね」

 彼女は軽く驚いたあと、笑ってみせた。

<p><br /></p>

 プランの方は、それなりに上手くいく自信があった。けれどもそれ以前のところで問題があった。

 見学の許可が下りるかどうかだ。

 女性社員と一緒に工場を回るためには、付き添いがいればそれで良いというわけにはいかなかった。同伴うんぬんの前に、そもそも見学の為には、事前に会社の許可を取る必要があるのだ。その「承認が取れるかどうか」が、非常に怪しい。

 組織の末端である自分から総務に交渉しても相手にされないことは分かっていたので、協力者を探さなければいけなかった。それも、俺が彼女を案内することに違和感を持たない人物だ。そしてその人に、筋の通った理由を会社側へ一緒に説明してもらう必要があった。

 しかし、今の自分の立場で頼れる人は限られている。俺と彼女の間にいる人といえば……。あの人しかいなかった。特徴的な笑顔が、頭の中に浮かんでいた。

 <p><br /></p>

 その週末の木曜日。まだ日が落ちるには少し早い一九時頃。テーブルの上で串刺しにされた肉の塊を挟むかたちで、俺はある人物と向かい合って座っていた。

 訪れたのは、会社から車で四〇分ほどの所にあるブラジル料理専門店だ。《シュラスコ》という、現地式の肉の食べ放題を売りにしているお店で、「肉を腹いっぱい食べたい」という俺の希望が優先された結果、選ばれたお店だった。

 目の前で、日本刀のような刀に串刺しにされた肉の塊が、これまたペーパーナイフのような小ぶりの刃物で、皿の上へと一枚一枚、一口サイズにスライスされていく。次第に折り重なっていく肉の小さなピラミッドを、俺と橘さんは少しの間、黙って見ていた。


「相談があるのですが、隣ご一緒しても宜しいでしょうか」

 その日のお昼。会社の食堂で先に席へと着いていた橘さんに対して、横から滑り込むように声をかけた。

 普段の食事は同期や後輩と同席するだけで、目上の人と同じテーブルに座ることは、ほとんどなかった。そんな俺が近寄ってきた様子を見て、橘さんはすぐに察してくれたのだろう。通路から一番離れた端のテーブル席に、二人で移動することになった。

「実は、少し協力していただきたいのです」

 適当に雑談を交えた後、俺はそう切り出した。

「何だ、仕事の話か」

「はい。仕事の話です」

 一応そのように答える。多分、間違ってはいない。

「メシの時は勘弁してくれ」

 苦いものを口にしたときのような顔がつくられるのを見て、俺は咄嗟に反応してしまう。

「いえ、そこまで固い話ではないのですが……」

「冗談だよ。なんだ」

 いつも通りのにこやかな笑顔が見えると、俺は一つ息を吐いてから、持っていた箸をテーブルに置いた。

「水野さんのことなのですが……」

 彼女との関係性を悟られないように、俺はあえて名字で呼んだ。橘さんが相手であれば、これくらいの配慮でもおそらく問題ないだろう。考えてみれば、別に彼女は指名手配犯でも何でもない、一般人なのだ。会社の人であれば、知っている人は知っているような、俺たちとなんら変わりのない一人の従業員。社内の人脈にも精通している橘さんであれば、彼女の名前を出したとしても、特に何も違和感を持たずに聞いてくれるはずだった。

 実際に橘さんの反応は、いつもと変わらなかった。

「おお! その名前がここで出てくるとは驚いたな。なに、ミヤコ君がどうした。何でも言ってみろ」

 露骨に声を潜めたり、荒げたりするようなことはなく、頼りになる感じは、やはりいつもの橘さんだった。

 ただ、俺はこの時、一つだけ気づいてしまった。 

 それは、わずかな変化だった。俺の気のせいか、もしくは、彼女とは直接関係なかったのかもしれないが、俺にはそれが偶然だとは思えなかった。

 彼女の名前を出した瞬間、橘さんの頬が一瞬だけ、ピクリと動いたのだ。

 その意味をどう捉えたらいいのか、その時の俺にはまだ判断ができなかった。なので、昼食が終わる頃にはもう、その記憶は橘さんの特徴的な笑い声によってかき消されてしまっていた。

 もしかしたら、俺は自分からその事実を認めたくなくて、気づかないうちに考えるのを放棄していたのかもしれない――。


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