首脳会談2
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一度口にしてしまったら、もう後には引けなかった。
クラウス皇帝と二人きりで話せるのは、恐らくこれが最後になる。
ここでクラウス皇帝からいいお返事を引き出せなかったら、ただでさえ僅かしかない可能性が、ほぼ潰えてしまう。アンウォーゼル捜査官を少しでも極刑から救うための……
ずっと、このことを口にしてはいけないと思ってきた。
とても個人的で、すごく繊細で大切な、アンウォーゼル捜査官のかけがえない思い出だから。
それに、彼の名前と『バルサックの悪夢』という事件名を、あからさまに出してクラウス皇帝に譲歩を迫るのには、抵抗があった。
クラウス皇帝は、当時領民たちに厳罰を下した側にいらした。実際に領民たちを処したのは当時の皇帝陛下……現在の上皇陛下だけど。
しかも、アンウォーゼル捜査官の恋人に起きてしまったことの責任が、誰にあるのかと言えば、残念ながら兵士たちを管理していたユートレクトにある。
そう考えると、あの事件が引き起こした悲劇を盾にするのは、うまく言えないけど……公平でない、卑怯なことのように思えて気が咎めていた。
あなたのお父上や異母弟のせいで、アンウォーゼル捜査官は道を外してしまった、と脅すようなものだから。
そのうえ、別の視点から見れば、現在ユートレクトはセンチュリアの宰相だ。
たとえ過去のこと、ローフェンディアでの事件だといっても、私の……センチュリアの重臣が起こしたことを引き合いに出して、クラウス皇帝が聞いてくださるだろうか。
『フリッツは今ではセンチュリアの宰相だ。
当時はローフェンディア皇族として事件に関わっていたが、それは過去のこと。
あなたの臣下が起こした失策を交渉材料に使われても、私に譲歩しなくてはならない義理はない』
こう言われてしまえば、反論するのは難しい。
アンウォーゼル捜査官への厳罰を求めているクラウス皇帝なら、これくらいのことはおっしゃりかねない。
だから、アンウォーゼル捜査官の名前や『バルサックの悪夢』という事件名は出さずに、それでいて、クラウス皇帝に察してもらえるようにお伝えしなくてはと思うのだけど……
私にそんな綱渡りをするような話ができるか、雪の結晶ひとひらほども自信はなかった。
だけど、これが最後の機会だし、アンウォーゼル捜査官の思いやクラウス皇帝のお立場を、踏みにじらないようにお話できたら……もしかしたら。
この事件を会談の席に上げるのは、ユートレクトにとても申し訳ないと思う。
あの人は自分の過ちを交渉材料にしたくないだろうから、このことはクラウス皇帝に話していないに違いなかった。
私は……うまく言えないけど、ああいう事件があったことで、取り返しのつかない心の傷を負った人がいることを、クラウス皇帝に知ってもらいたいと思っている。
そして、もしまた『バルサックの悪夢』のような事件があったときには、領民たちへの処遇を改めて考えていただけたらと、心から願っている。
ローフェンディア人は潔癖で、悪事を働いた人にとても厳しい印象がある。
クラウス皇帝はお優しい方だと思うけど、もしかすると、『バルサックの悪夢』には全く同情されていない可能性もある。
仮に、アンウォーゼル捜査官の恋人に起きてしまったことに胸を打たれたとしても、アンウォーゼル捜査官のしたことは決して赦せないかもしれない。
この話を口にするからには、こうしていろいろな可能性を考えなくてはいけなかった。
だから、とても難しいけど、私に考えられる手はすべて尽くしたかった。
私のかすれた声に、クラウス皇帝はほんの少し眉を上げただけで、何もおっしゃらなかった。
私は勇気を振り絞ると、改めて口を開いた。
「十年前、ある女性が兵士たちの乱暴で命を落としたそうです。
女性はとある事件の主要人物の娘でした。
父親をはじめ関係者には厳罰が下され、彼女のような関係者の妻や娘は、牢に繋がれていたそうです」
言葉の選び方がうまくできているのか、まるで自信がなかった。
クラウス皇帝の厳しい視線には慣れたつもりでいたけど、昨晩に続いてまた膝から下が震え出した。
「女性には恋人がいました。
恋人はこのとき、遠く離れたところにいて、ずっと女性からの文を待っていたそうです。
ところが、文が届かなくなり、様子を見に恋人の故郷を訪れたところ、女性の姿はなく、彼女の墓標があったそうです」
クラウス皇帝の顔に、何かが走ったように見えた。
動揺ではなく、怒りでも悲しみでもない……うまく言い表せないけど、とにかく感情を動かされたように思えた。
「それは『バルサックの悪夢』という事件の話だろう。
十年前のそんな出来事といえば、世界でもあのときのものしかない」
クラウス皇帝はコーヒーを一口飲まれると、低い声でおっしゃった。
「フリッツから聞いたのかい」
「『バルサックの悪夢』のことは、複数の方から聞きました」
嘘はついていない。
ただ、私が申し上げたことが『バルサックの悪夢』で起きたことだとは、絶対に認めるつもりはなかった。
「では、大方のことは知っているかな」
「はい、恐らくは」
「そうか」
そうつぶやかれると、クラウス皇帝はしばらく目を閉じられた。
無理なお願いなのはよくわかっている。
クラウス皇帝のお立場では、アンウォーゼル捜査官の厳罰を求めなくてはいけないことも。
クラウス皇帝は人の心の痛みのわかる、お優しい方だと思うから、余計に胸が締めつけられる。
私が今話したのが、アンウォーゼル捜査官と彼の恋人のことだとおわかりになったら、どれほどお心を痛められるか。
クラウス皇帝がゆっくりと目を開けられた。迷いのない、澄んだまなざしだった。
「残念だが」
その声を耳にしなくても、目を見ただけですぐに悟った。
「レシェク・アンウォーゼルには、極刑もしくはそれに値する処罰が下るだろう」
重い鉄の扉が、背中のすぐ後ろで閉ざされたのがわかった。
こんなことなら、最初からはっきりと、交渉条件を全部挙げてお話しておけばよかった。どうして昨日できなかったんだろう、しなかったんだろう。
そうしていれば、今頃焦らなくて済んだのに……!
自分がどれほど未熟で経験が足りないことを、何度思い知らされればいいんだろう。
「彼も自分に重罪が課せられることは、重々承知していたはずだ。
にも関わらず、彼はマレイ・アスに加担した。あなたはなぜだと思う?」
「それは……」
わかる気がしたけど、口にしたら現実になりそうでいやだった。
「彼は死を恐れていない。そういう罪の重ね方をしている」
私が恐れていたことを、クラウス皇帝はためらうことなく口にされた。
罪の重ね方、というのは余罪のことも含めて……?
「先のあなたの質問に答えよう。
私の臣民が、同胞を愚かで卑怯な行為で殺めたなら、彼らが赦されることは絶対にない。
事実、『バルザックの悪夢』でその悪業を働いた愚か者たちは、上皇陛下が御自ら厳重に処罰なさった」
クラウス皇帝はまだお茶菓子に手をつけておられなかった。またコーヒーを一口飲まれると、
「あの時のフリッツには、経験が足りなかった。それはあいつも骨身に染みてわかっているだろう。
そして、私も今よりずっと未熟だった。
一番上皇陛下に近いところで経験を重ねていながら、結局は何もできなかった」
その声音からは感情を読めなかった。
クラウス皇帝はユートレクトとは違い、『バルサックの悪夢』を過去のものとして、冷静に向き合われているように見えた。そこで起きた悲劇も惨事も、すべて受け止めたうえで。
ふと、昨晩の非公式会談のことを思い出した。
最初の方で世間話のようなものをしていたとき、緊張と重圧でうわの空だった私に、クラウス皇帝がおっしゃったこと。
『十年前の自分を思い出すよ』
『え……』
『私も、十年前はそうだったのさ』
もしかして、このとき十年前とおっしゃったのは『バルサックの悪夢』のこと?
「あのとき私は、男たちに課された重罪には異論を唱えられたが、女性たちの処遇には目を向けることができなかった。だから、その件はよく覚えている」
十年前……クラウス皇帝がまだ皇太子でいらした頃。
当時の皇帝陛下の御前にひざまずき、領民たちの命を救おうと懸命に嘆願するクラウス皇太子の姿が、まぶたの裏に浮かんだ。
口を閉ざされたクラウス皇帝は、ご自分が話される言葉を慎重に選んでいるように見えた。
「あの女性には、恋人がいたのだな」
「そのようです」
私の返答は短かったけど、クラウス皇帝はわかっていらっしゃると思った。
『あの女性』の恋人がアンウォーゼル捜査官だということ。
卓の上に落とされた視線には、厳しさだけでないものが宿っている。
だけど、時間は一刻も止まらない。こうしている間にも容赦なく過ぎていく。
間もなく、二人きりで話せる時間が終わろうとしている。
あと少しすれば、官吏に共同声明の承認を出したり、演説の段取りを確認しなくてはいけなくなる。
時間切れだった。
自分の力量のなさが、このときほど情けなく、呪わしいと思ったことはなかった。
「……あのとき私は、心の底から自分の浅はかさを呪った」
そのうめくような声を聞いたとき、自分が思い違いをしていることに気がついた。
クラウス皇帝は『バルサックの悪夢』を冷静に見つめてはいらっしゃるけど、決して過去のものにはされていないことに。
「あのとき、女性たちの処遇を改めてくれるよう、上皇陛下に進言できていれば、女性たちは慰み者になどならずに、もっと幸福に生きられたかもしれない。あの女性のような犠牲者も出なかったかもしれない。
男たちの罪は、軽減されるのは難しいとわかっていた。ならばなおのこと、女性たちに目を向けるべきだった。
しかし、私にはそれができなかった。
上皇陛下に最も近いところで、最も異論を唱えられる立場にあったのは、皇太子である私だけだったのに」
クラウス皇帝がローフェンディア皇帝の威厳をもって、感情を抑えておられるのがわかった。
両腕がわずかに震えたとき、世界最強の皇帝陛下が、卓の下で両手を握り締められたのだと知れた。
またしばらくのあいだ、沈黙が国賓室を覆った。
クラウス皇帝が何をお考えになっているのか、私にはわからない。
私が昨日と今日でわかったのは、クラウス皇帝はとてもお優しいのに、腹黒くて、『夜の帝王学』方面のお話が大好きでいらっしゃること。
ご自分の臣民を大切に思われていて、それだけでなく、世界中の人々の幸せと平和も、どうにかして守ろうとされていることだった。
クラウス皇帝は卓の下からゆっくり手を出されると、両の指を組んで卓に置かれた。
そして、私にぴたりと視線を合わせられた。
「あの件で、私に言えるのは」
その瞳の中にあったのは、
「『バルサックの悪夢』では、もう誰の命も失わせない。これだけだ」
幾多の苦難と後悔を乗り越えた人だけが持てる、強さと優しさと、覚悟だった。
ローフェンディア皇帝としては、自国に害をなした人を糾弾しないなんて、絶対に言えない。
それは百も千も万も承知だった。
『バルサックの悪夢』では、もう誰の命も失わせない……
だから、この限られた時間で、考えに考え抜かれて、こういう表現でお返事をくださったのだとわかった。
アンウォーゼル捜査官が『あの女性』の恋人とおわかりにならなかったら、言えない台詞だった。
これだけ口にしてくださっただけで、もう十分だった。
たとえ、クラウス皇帝が厳罰を要求されなかったとしても、アンウォーゼル捜査官の極刑が免れるとは限らない。判決を出すのは国際裁判所だから。
それに、アンウォーゼル捜査官が死を恐れていない……むしろ恋人と同じところへ行きたいと望んでいるなら、ユートレクトや私の望んでいることは、アンウォーゼル捜査官にとって余計なことでしかない。
それでも、生きていてほしかった。
これは完全に私の一人よがりな思いだけど、またアンウォーゼル捜査官に会いたかった。
いつか『マロ食』でもう一度話に花を咲かせてほしい。ユートレクトと笑顔で語り合ってほしい。
私は心からの感謝を込めて頭を下げた。
クラウス皇帝の表情に、ほんの少しだけど影が差したように見えた。
やっぱり無理なお願いをしたのだと思うと、胸が苦しくなった。
アンウォーゼル捜査官に重罪を課すよう要求しないことで、クラウス皇帝の国内でのお立場が、悪い方へ傾いてしまうかもしれない……
「何を心配そうな顔をしているんだい?」
クラウス皇帝の声にぎょっとして頭を上げた。
そこにはもう、いつもの優しくて爽やかな笑顔があるだけだった。
「大丈夫、今から演説まで、まだしばらく時間がある。
本番までゆっくりしようじゃないか。私たちの演説の内容を知ったら、みな腰を抜かすだろうけどね」
そうおっしゃったクラウス皇帝は、とても落ち着かれていて、余裕すらあるように見えた。
どうしてそんな風に振る舞えるんだろう。
私がクラウス皇帝の立場だったら、絶対落ち着いてなんていられない。
この方は、名実ともに世界最強の皇帝陛下になられたのだと肌で感じた。
クラウス皇帝は、もうアンウォーゼル捜査官のことに触れるつもりはなさそうだった。
もう一度頭を下げたい気持ちだったけど、この件をまだ引きずって、クラウス皇帝に話を振るようなことをすれば、次はもっと言いづらいことを口にさせてしまうかもしれない。
これ以上、クラウス皇帝のお立場を負の方向に振るわけにはいかなかった。
だから私も、胸の内は申し訳ない気持ちでいっぱいだったけど、その思いをねじ伏せてクラウス皇帝に倣うことにした。
「そうですね、さぞ驚くことでしょう」
相槌を打って時計を見やると、ちょうど首脳会談に一区切りつけなくてはいけない時刻になっていた。
ぎりぎりの攻防だったことに、汗が吹き出ると同時に、心の中で深い安堵のため息が出た。
私は席を立つと、外で待機していた国務省の副大臣に、共同声明の内容を正式に承認したことと、会談が一区切りついたことを伝えた。クラウス皇帝と私の演説の原稿も渡した。
臣下たちはこれから忙しくなる。
共同声明と私たちの演説の原稿を読んで、どれくらい時間がかかるのか計算するのは彼らの仕事だ。
その前に、演説の原稿を見てびっくりするだろう。
私もクラウス皇帝も、確実に『陛下、本当にこれをおっしゃるのですか?』と青ざめた顔で確認……というより、問い詰められるに違いなかった。
納得してもらうのに、また言葉を尽くして説明しないといけないのかと考えると、かなりげんなりする。
いや、説明って言っても、あの原稿そのまま発表するってことはもう決めてるから、『ええ言うわ、誰がなんと言ってもぶちまけるからね!』としか言いようがないんだけどね。こんな言い方はしないけど。
それまでの短い時間、クラウス皇帝と談笑するのも悪くないかもしれない。
私が席に戻ると、クラウス皇帝はお茶菓子に手を伸ばしていらした。
「そういえば、すっかり忘れていたが」
「なんでしょう」
「フリッツとの婚姻と共同統治は、認められたのかな?
なんと言ったかな……すまない、忘れてしまったが、今朝、なんとかという長い名前の会議で採決したのだろう?」
自分もチョコレートをつまもうとして、重要なことがすっかり頭から抜け落ちていたのに、今頃気がついた。
「はい。おかげさまで、今朝開いた『センチュリア最高貴族選定結晶会議』で、全会一致で承認を得ました。
申し訳ありません、そのご報告を失念しておりました」
「いや、そこはほとんど心配していなかったから、構わないよ。私も今まで忘れていたしね」
「恐れ入ります」
恐れ入ってばかりの自分が恥ずかしくなる。北方地域の話題を出してる場合じゃなかったのに。
だけど、私が北方地域へご訪問されることを話題にしたから、クラウス皇帝も『世界機構』の更なる悪行を教えてくださって、その結果、アンウォーゼル捜査官に厳罰を要求しないでほしいことをお願いできた。
そういう意味では、いい方向に転がってよかったけど。
今更だけど、どうしてクラウス皇帝は、私が食いつくようなことをわざわざおっしゃったんだろう。
昨晩はアンウォーゼル捜査官の処罰のことに(多分)触れないようにされていらしたのに。
よっぽど『世界機構』の改革に、ユートレクトの協力が欲しくて口が滑られたのか、それとも……
考えをめぐらせようとしたときだった。
扉がノックされる音がした。
「やれやれ、のどかな時間も終わりだな」
今までの首脳会談がのどかだったかはともかく、クラウス皇帝は苦笑なさると、ご自分から扉を開けに出てくださったのでとても恐縮した。
あんのじょう、クラウス皇帝の首席秘書官とうちの国務省副大臣が、額に縦筋を降ろしまくった血の気のない顔で入室してきて、
「へ、陛下、これを、本当におっしゃるのですか!?」
クラウス皇帝と私の演説原稿を手に、まったく同じ台詞をそれぞれの主君にまくしたてた。
クラウス皇帝と私は、どちらからともなく顔を見合わせると、切羽詰まっている臣下たちにとっては大変不謹慎なことに、爽やかすぎる笑顔を交わしたのだった。




