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共に歩むもの7

*******



 キアラさんの言ったことがすぐには信じられなかった。


 フェアラスルインにそんな意味があったなんて。


 その言葉は私の遺誡にもあった。

 一字一句はっきりとは覚えていないけど、『フェアラスルインたるフリッツ・ユートレクト・ローフェンディアに、財産等私人としての所有物全ての管理を委ねる』というような感じで書き入れていた。

 ユートレクトに言われたまま書いたのだけど、意味は教えてもらっていなかった。


 何度目かの修正の後でようやく遺誡が完成したとき、どういう意味なのか聞いてみた。

 センチュリアでは聞いたことがなかったから、ローフェンディアの古い言葉なのかと思って。

 返ってきたのはこんな台詞だった。


『この手の書面に使う、決まった言い回しのようなものだ。おまえの頭で深く考えるな』


 あのとき、ユートレクトはどんな気持ちでいたんだろう。

 今みたいなことが起きるなんて、さすがに予想できなかったはず。だとしたら……


 暖かいものが湧き立ってくる感覚を、強引にねじ伏せて心の一番暗い奥底に沈めた。




「うまい言葉を入れたものだ。フェアラスルインなら強固な主従関係とも取れるし、男女の結びつきとしても解釈できる」


 クラウス皇帝が笑顔でおっしゃると、ネフレタ教授は人のよさそうな微笑みを私に向けた。


「皇帝陛下のおっしゃるとおりです。ですから、女王陛下と宰相閣下の見解……お二人がお互いを異性として意識され始めた時期は、ほぼ同じだと申し上げたのです」

「この遺誡があるだけで、二人の関係が通達が発令される以前からのものだと主張できる。よかったねアレク」


 よかった?


 何がよかったの?


 クラウス皇帝の一言が私の心を逆撫でした。

 そういうつもりでおっしゃったのではないと、わかっていても笑顔で頷けなかった。


 あの人との婚姻関係が、通達の発令前からあり得たと主張できるようになった……こんな言い方したくないけど、そういう意味ではこの遺誡はとても有益なものになる。


 だけど、あの人はこんな形で私と結ばれたくないだろうし、国王にもなりたくないだろう。

 それを考えたら、クラウス皇帝のお言葉に反感を持ってしまった。クラウス皇帝は悪くないのに。私が決めたことなのに。このいらだちは、ただの八つ当たりに過ぎなかった。


 それに……キアラさん。


 あれほど大きな声を出したのに、顔色はいっこうに良くなっていなかった。瞳には輝きがなく、どこを見ているのかわからないほど生気がなかった。美しく口紅を差しているはずの唇にも、朱の色が失せていた。

 さっきから口にしたくないはずのことを、二度も声にしてくれたキアラさんの気持ちを考えると、胸が潰れそうになる。




 ……まだ『マロ食』に勤めていた頃のことを思い出した。




 少しだけ交際していた『マロ食』の料理人が、私と別れてからすぐ、友達の給仕娘と付き合い始めた。

 それだけでも多少辛かったのだけど、二人は結婚までたどり着いてしまった。

 彼女とはチェーリアほどではないけどわりと親しくしていたので、結婚式にも披露宴にも呼ばれた私は、ずっと化石のように身動きしなかった。


 心が底の見えない淀んだ泥沼に沈んだかのように、暗く汚れたままだった。

 みんな笑顔で二人を祝福していたのに、私はきっと死神みたいな顔をしていただろう。

 口の端にものぼらせたくなかったけど、やっとの思いで喉から絞り出した『おめでとう』は、二人にどう聞こえただろう。


 気が狂い出しそうだった。

 もしかすると、既におかしくなっていたのかもしれない。

 披露宴が終わるとすぐ、式場を飛び出した。

 家に帰れなくて、帰りたくなくて、暗くなるまで西の森で大声で歌い続けた。

 この頃、西の森にはまだ住まいの定まらない人たちがいたけど、その人たちも私を気の触れた女だと思ったのか、誰も私に近寄ってこなかった。


 この料理人と交際していたことは、だいぶ後になってからチェーリアに話した。

 当時はいわゆる職場恋愛だったから、誰にも言うなと止められていたのを、別れてからも後生大事に守り続けていた。

 今になって思えば、別れてすぐチェーリアに聞いてもらえばよかった。そうしたら、あれほど落ち込まなくても済んだのに。




 キアラさんも、あのときの私と同じような思いでいるとしたら。




 こんなことを考えているあいだも、ユートレクトの遺誡の話は続いていた。早くこの話を終わらせてほしくてたまらなかった。

 だけど、何か問題点があればこちらから聞かなくてはいけないこともある。急に話を変えるわけにもいかなかった。


 国家元首としての自分と女性としての自分のあいだで、心が引き裂かれそうだった。

 クラウス皇帝とネフレタ教授がお話されていることが、記憶から抜け落ちていきそうになる。

 キアラさんのことが気にかかって仕方がなかった。


 この話を止められないのなら、キアラさんにはここから退出してもらった方がいいかもしれないとも考えた。

 顔色も明らかによくないし、もう休んでもらうように勧めても誰も不思議に思わないだろう。


 ただ、ネフレタ教授が教え子に厳しい方だとしたら、キアラさんにどんな厳しいことを言うかわからない。

 もっと気がかりなのは、私が休むことを勧めたら、キアラさんは余計に気分を害してしまわないか……それも心配でたまらなかった。


 もしも、私がキアラさんの立場だったら。


 休むように勧められたら、情けをかけられているように感じて、かえっていらだってしまうかもしれない。私は心の狭い人間だから。そんな自分が情けなくなって、もっと落ち込むだろう。

 そう考えると、簡単に声をかけるのもためらわれた。


 心と頭で思いをめぐらせながらも、クラウス皇帝とネフレタ教授からの問いかけに応えなくてはいけなかった。

 ユートレクトの遺誡にフェアラスルインと書かれていたなら、私の遺誡にも彼との関係を示すフェアラスルインのような言葉を入れていないか、と訊ねられた。


「……確かに、私も遺誡にその言葉を記しましたが、私が遺誡を作成したのは今年に入ってからなので、通達の発令前から彼との関わりがあったことを示す材料にはならないと思います」


 そうお返事すると、クラウス皇帝もネフレタ教授も少し残念そうな顔をされた。

 この返答で、キアラさんが傷付かないかが心配でならなかった。

 私の限られた引き出しから選んだ言葉は、キアラさんにどう聞こえただろう。


 やがて、話にひと段落が着いたところで、小休憩を取ろうということになった。男性お二人は足取り軽く国賓室から姿を消した。


 だけど、キアラさんは出て行かなかった。重厚な国賓室の扉が閉められると、


「明日の演説の原稿」


 不意に声がした。


 ここにはもう私とキアラさんしかいない。そして明日演説をするのは私だった。


 キアラさんの声は、いつもの涼しげやかましいコオロギ声ではなかった。

 凛としているけれどわずかに震える声は、私の耳を鋭く刺した。


「どうせまだできていないのでしょう? 見ていてやるから、今から少しでも作っておきなさい」


 どうしてそんなことが言えるんだろう。

 すごく辛いはずなのに。

 私のこと、きっと殴っても殴り足りないほど憎いはずなのに。


「ピアスカ司法官」


 今ほどキアラさんに申し訳ないと思ったことはなかった。

 彼を救うためとはいっても、こんないやな思いをさせて。辛い思いをさせて。


 頭を下げようとした瞬間だった。


「女王のくせに、無様なことをするんじゃないわ!」


 キアラさんの声は、先ほどよりもっと震えてかすれていた。

 決して大きくない声だったけど、私の心を強烈に打ちのめした。


「あなたは腐っても脳マカロニでも、センチュリア女王よ。

 そのあなたが、恐れ多くもわが国の皇帝陛下と協力してなそうとしていることに、過ちがあるとでもいうの?」


 あの人を配偶者にして、共同統治を執る……そう決めたのは私だけど、私一人の力でできることではなかった。

 世界最大国家の皇帝の協力を得て、ネフレタ教授やキアラさん、私の重臣たち、そしてこれからもっと多くの人たちの力を借りることになる。

 これはもう、私とキアラさんの私的な感情だけ考えればいい問題ではなかった。


「くだらないことをしてごらんなさい、私はあなたを一生軽蔑する」


 キアラさんの声は、いつものわがままな伯爵令嬢のものではなかった。

 感情を抑えて淡々と話す姿は、間違いなく私より年を重ね、人生の経験を重ねた人だった。


 私は……キアラさんの何を思いやっていたのだろう。


 それこそ、私がキアラさんだったら、こんなこと言えただろうか。

 きっと言えない。私は心の狭くて弱い人間だから。


 私はキアラさんの気持ちに寄り添ったつもりでいた。

 だけど、心をおじけつかせるだけで、キアラさんに何もしてあげられず、自分自身の心の整理も全くできていなかった。そんな寄り添い方は優しさなんかじゃない。ただ臆病者なだけだった。


 そして、自分の立場……国家元首として、何を優先しなくてはいけないかも見えなくなっていた。


 キアラさんの潤む瞳の向こうに、何かが見えた気がした。

 それが何なのか、まだわからなかったけど、目をそらさずに捉えることができたのが嬉しかった。


 まだ作っていける、キアラさんとの関係を。


 不思議だけどなぜかそう思えた。キアラさんにしてみたら、とんだ迷惑な勘違いかもしれないけど、今はその気持ちを信じることにした。


「わかりました。では、ご指導宜しくお願い致します」


 そう口にした私の声もかすかに震えていた。




 それから、キアラさんのご指導を受けつつ、演説の原稿を作ることにした。


 初めのうちは何も問題なかったのだけど、時間が経つにつれてキアラさんのご指導……というより、私にとってはただの文句が充実してきた。


『どうして、その文面からいきなり本題に入るのよ。それで聴衆の心がつかめると思っているの? 女王のくせに演説したことないの?』


 から始まって、


『本当につまらない文章しか書けないのね。これでは聞いている方も退屈で仕方がないわ』

『この言葉はこんなところでは使わないわ。あなた、何年女王やっているの? この程度のことは覚えていて当たり前よ』


 などなど。


 そもそも、自分の演説の原稿だから、他人を頼ってはいけないのはわかってるし、私の文章作成能力が低すぎるのも知っている。


 だけど、『見ていてやるから』と言ったのは、本当にじーっと見てるだけって意味だったのかと疑うくらい、キアラさんのご指導の中身はぼんやりしているというか、具体的でないというか……とにかく、元の頭が大してよくない私には、キアラさんの指摘を聞いて原稿を直すのはとても難しかった。


 私も演説の内容をまじめに考える中で、自分の思考に集中しているときにあれこれ言われると考えもまとまらないし、キアラさんの言ってくれていることもわからないしで、だんだん丁寧に対応できなくなってきた。


「あなた、本当に脳マカロニなのね」

「はい」

「それでよく今まで女王やってこられたわね」

「おかげさまで」

「にしても、つくづく字が汚いわね」

「すみません」


 そして十五分ほど経った今、キアラさんと私の会話はこんな調子になっていた。

 今もまだこの国賓室には私たち二人しかいない。


「もっと簡略に書けないの!? 『ですが』を多用しすぎよ!」

「すみません」

「あなたねえ、ちょっとフェアラスルインを使ってもらったからって、いつまでも浮かれすぎよ!

 あの程度のことで国家元首としての本分を忘れるなんて、愚かも甚だしいわ」


 キアラさんは、私の演説の原稿を読んだそばから校正してくれている……というとそれらしく聞こえるけど、ただの因縁つけ魔と化していた。

 だけど、顔色はすっかりいつも通りに戻っているから、その点だけはよかったと思っておこう。


 私はバスケットに残っているチョコレートを一粒つまむと、キアラさんのお言葉は丁重に無視して、また原稿を書き出した。


 キアラさんもさんざんしゃべってお腹が空いたのか、恐れ多くも私とクラウス皇帝に出されたバスケットに手を入れると、元から二個しか入っていない貴重な白いキャラメルを口に放り込んだ。そして思いもよらないことをつぶやいた。


「……急には無理なものなのよ」


 何のことでしょう、と問うた方がいいのか迷っていると、キアラさんは言葉を続けた。


「私には、あの人が初めてだった」


 寂しそうな、力のない声に、原稿を書きつけていた手が止まった。


「他の男なんて、目に入らないのよ。あの人しか。これからだってそうかもしれない。

 きっとそうだわ。あの人以上の人なんていない」


 私にとって、あの人は初恋の人じゃない。これまでに何人か好きになった人もいた。

 だけど、キアラさんはそうじゃなかった。


 私が偉そうに言える立場じゃないけど、失恋の辛くて悲しい、どうしようもない気持ちはわかるつもりだった。


「こんなことを話せる友達もいないし。ハーラルやレシェクには言えない、あの人たちは男だから」


 キアラさんの声音に、行き場のない思いの深さを感じて胸が痛んだ。

 この痛みは私が背負っていくもの……キアラさんに新しい想い人ができるまでずっと。


 今の私にできることは、キアラさんの心から漏れ出すつぶやきを受け止めるだけ。

 私の立場では、励まされたり慰めたりなんてできない……


 でも、本当に何もできないんだろうか。


 私なんかに励まされたり慰められたい人じゃないだろうけど、少しでも私にできることはないの……と考えていたら、


「ちょっと」


 高圧的なキアラさんの声が頭の上から降りかかった。


「はい」


 おそるおそる返事をすると、


「どうして私に、感謝やねぎらいの言葉をかけないの?」

「……」

「遺誡のことを教えてやったのは誰?

 指輪のことを教授に言わないでおいてやったのは誰?

 あなたたちが結婚しなくても済むように、さっきまでずっと調べてやっていたのは誰!?」


 

キアラさんはとまどう私にまくしたてた。


「私はあなたに、一生分かかっても消費できないほどの塩を送ってやったのよ。

 今度はあなたが、一生かけて私をいたわり、ねぎらい、感謝する番よ!」


 遺誡を調べたらどうかと教えてくれたこと、ネフレタ教授に不用意なことを言わないでおいてくれたこと、他に対抗できる手立てはないか、先ほどまで『世界機構』の規約をつぶさに調べてくれていたこと……


 全部キアラさん自身やユートレクトのためだけにしたことなら、私に塩を送ってやったなんて言わないはずだった。だから、これがキアラさんの本心なんだと思った。


 たとえ私のことを考えてくれてなくてもいい。

 今のキアラさんの瞳には嘘偽りが全くなかった。それがわかれば十分だった。

 どうしたらいいのか、少しわかった気がした。キアラさんが欲しいものは……


「そうですね」


 私は立ち上がると、キアラさんの両手を握りしめた。


「ピアスカ司法官、ありがとうございます。そこまで私にお気持ちを打ち明けてくださって。これからは、その信頼にお応えしたいと思います」

「な、なによ、あなたなんか信頼しているわけないでしょう! この穴あき靴下!」


 キアラさんは顔を赤くして手を振りほどこうとしたけど、離さなかった。

 自分のうぬぼれめいた台詞に顔が熱くなってくる。

 だけど、勇気を振り絞って、一層力をこめてキアラさんの両手を握りしめた。


「穴あき靴下にもいいところはありますよ。靴下を脱がずに爪が切れます」


 私が真顔で言うと、キアラさんは私の手を振りほどこうとしていた腕を止めて、私の顔をまじまじと見つめた。

 私流に例えるなら、『なに言ってるのこの人、頭大丈夫?』と言いたそうな顔つきで。


「……ばかね、靴下を脱がなくても切れるのは、穴から出ている指の爪だけじゃないの! そういうところが穴あき靴下並みに愚かなのよ、あなたは!」

「私が穴あき靴下なら、司法官はなんでしょう」

「はあ!? 何を言っているの!

 あなたで穴あき靴下になれるのだったら、私は超高級オーダーメイドガーターストッキングよ!」


 キアラさんが欲しいもの……アンウォーゼル捜査官やタンザ国王とはできない話といえば、恋愛の話だけじゃなくてもっとこう……なんと言ったらいいんだろう。

 うまく言えないけど、なんでもない他愛ないことを話せて、気楽であれこれ取り繕わなくていい、本音をさらけ出せる女同士の関係じゃないかと思った。


 私にキアラさんの相手が務まるとは思えない。

 でも今だけでも、ほんの少しでも、キアラさんの気が紛れてくれたら。


 そう思って、緊張しながらも、素直に感謝の気持ちを伝えた。

 本当に厚かましくて恥ずかしいけど、私に本心を明かしてくれた『信頼』に応えたいと口にした。

 そして、キアラさんお得意の変な例えに乗ってみた。


 キアラさんはどう感じているだろう。

 ご自分の例えまで出してくれたから、面白がってくれていると思っていいのかしら。


 それにしても、ガーターストッキングって単語がさらっと出てくるあたり、さすが伯爵令嬢よね……ガーターストッキングなんて、おしゃれに縁のない私にとっては高嶺の花みたいなものだった。だから、


「司法官、ガーターストッキングを履かれるのですか。すごいですね」


 うまくつっこめなくて、ただの率直な感想になってしまったのだけど、栄えある『世界機構』の上級司法官さまは、まさかと思う方向に話を展開させた。


「なに、そのはれんちな思考!

 いいこと、ガーターというのはね、そういう時だけ身に着けるものではないのよ。日常的に使うものなの! これだから平民あがりは……いやらしいことばかり考えて」


 この時、クラウス皇帝とネフレタ教授がノックもなしに扉を開けたので、キアラさんは思い切り赤面した顔で私を睨みつけた。


 私のせいじゃないから、絶対に。

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