主従関係2
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ユートレクトを宰相に登用してから、気をつけてきたつもりだった。それこそ、私にしかできないことだったから。
いくら有能だからって、彼を特別扱いしないこと。
そして、他の重臣たちにも、彼を優先して厚遇していると思われないようにすること。
だけど、それを守れていたかと言われたら、私のユートレクトに対する特別な気持ちとはまた別に、守れていなかったと認めるしかない。
ザバイカリエの飾らない笑顔を見たとき、突然そのことに気がついて愕然とした。
どれだけ反省すれば、どれだけ自己嫌悪したら、私は成長できるんだろう。
言い訳がましいから考えたくないのだけど、ユートレクトが宰相になった当初は、机をとなりに並べられた時点で
ある程度観念した私より、むしろ重臣たちの方が恐れ入っていて、私が出した決定よりユートレクトの判断を重んじていた。
おまけに、彼が世界最大の国家ローフェンディア帝国の皇子殿下という、センチュリア宮廷では先例のない高貴な身分ということもあって、出自にとらわれてしまいがちな重臣たちは、彼に失礼のないよう……まるで彼も統治者であるかのように接していた。
今の私なら、そんな重臣たちに肩の力を抜くよう言えるのかもしれない。
でも、このときの私は、毎日が自分の常識が通用しない、異世界の人間と戦っているような心境にあって、周りを見渡すことができなかった。
人の上にある者が下の立場にある者のことを配慮できないなんて、主君として失格だった。
今思えば、自分より彼を頼る重臣たちを見て、無意識のうちに、自分を余計に追い詰めていたのかもしれないけど、それこそ言い訳にしかならない。
そうしているうちに私も病で倒れてしまうと、私も重臣たちも、本格的に彼を頼らなくてはならない状況になってしまった。
私が臥せっている間に、ユートレクトと重臣たちの隔たりが少しでも縮まっていたのは嬉しいことだったし、私も病に倒れた中で、彼への信頼を寄せることができる対話が持てた。
あのときは本当に辛かったけれど、結果的にはよかったのかもしれない。
でも、そのせいで私は、彼だけを厚遇しているつもりは絶対にないけど、何事もユートレクトを通じて処理するようになった。
以前なら重臣たちの意見を自分で聞いていたところも、ユートレクトに任せたきりで、重臣たちとの接点を自分から少なくしてしまった。
そのことに、今の今まで気がつかなかったなんて。
何年女王やってるのよ私は。
思い出すのよ。
ユートレクトがいないときだって、なんとかやってきた、やってこられたじゃない。
それは誰のおかげだと思っているの?
今までずっと一緒にいてくれて、私がどんな泣き言を口にしても、いつも明るく励ましてくれる『じい』ことベイリアル。
私がそのベイリアルと一緒に、前触れもなく顔を青くして執務室を訪ねても、いつも驚きながらも快く無理難題につきあってくれたザバイカリエ。
私に『悪い虫』がつかないようにと、今も縁談が入り込むたびに、ユートレクトから資料を奪ってはお相手の身辺調査を独自にしているという司法大臣のホルバン。
私の身の回りにかかる費用のあまりの少なさに、淑女はもう少しだけなら無駄遣いしてもいいのですよ、と心配してくれる財務大臣のカルガート。
そして、私の剣技の上達には早々にさじを投げたくせに、私の身辺警備へは毎日顔を出しているらしい、軍の最高指揮官トゥリンクス将軍。
今も誰一人欠けずに、私を見捨てないでいてくれるみんな……重臣たちのおかげじゃない。
忘れたことはないはずだった。
だけど、ザバイカリエの笑顔をとてもまぶしく、そして後ろめたい気持ちで受け止めたのは、誰でもなく私自身のせいだった。
今日、アンウォーゼル捜査官が御前会議でどんなご宣託をくださるのかは知らないけど、はた迷惑な過激派集団に負けてなんていられないし、アンウォーゼル捜査官が本当に何か企んでいたとしても、ほいほい乗ってやるわけにもいかない。
今回、私を陥れようとするのには、謀略を仕組まれる可能性が高いとユートレクトは言っていた。
だとしたら、首謀者はユートレクトだけでなく、他の重臣たちにも悪意の手を伸ばしてくるかもしれない。
みんながそんな企みに簡単にひっかかるとは思えない。けど、そんなこと絶対に、
「……させてたまるもんですか」
ザバイカリエと別れて、食堂で握り飯二つができあがるのを待ちながら、私は知らないうちにつぶやいていたらしかった。
「はい、何かおっしゃいましたか、姫さま?」
「あ、ううん、なんでもないの……わあいい匂い!」
大量の鶏肉を揚げているおばさんに声をかけられたので、ごまかしつつも正直な感想を伝えると、おばさんはできあがったから揚げのなかから、こっそり一つ分けてくれた。
ペトロルチカから見れば私に非があるんだとしても、センチュリアに住むみんなに害が及ぶことは、絶対に起こさせないし辛い目にだって遭わせない。
しっかりしなくちゃ。
この言葉を自分のためじゃなくて、誰かの……国民みんなのために心に刻んだのは、情けないけどこれが初めてだった。
できあがったばかりのから揚げは、とっても熱かったけど、頬がとろけるほど美味しかった。
****
「どこに行ったかと思えば、そういうことか」
握り飯とから揚げを二つずつ(から揚げは、おばさんが後からくれた)、お皿に載せて帰ってきた私を見ると、ユートレクトはいつものあきれたような口調とは少し違う声を向けてきた。
「そう、食堂に行ってきたの。途中までザバイカリエと一緒だったわ……食べる? どれもできたてよ」
恐らく私の主目的が握り飯じゃないことに気がついていると思って、私はあえてザバイカリエの名前を出した。
ついでに、握り飯たちが載ったお皿も奴の眼の前に出してみたのだけど。
「この忌まわしい握り飯はいらん、こちらはもらっておく」
「なんなのよ、忌まわしいって。握り飯でお腹でも壊したの?」
ユートレクトは握り飯を拒んで、から揚げだけ立て続けに二つともつまむと、また書類に目を戻して、
「その形状には心的外傷を負わされている。握り飯なぞ作っている暇があったら、早く仕事をしろ。何をどさくさに紛れて遊び呆けているのだ」
あのねえ、それってひょっとしなくても、『世界会議』でローフェンディアにいたとき、私が水害で避難した市民の皆さんのために作った握り飯の形が三角だったことを、根に持ってるわよね。
ていうか、三角の握り飯見たら、全部私が握ったって思うのはどうなのよ。
それに遊び呆けてなんてないわよ。
ザバイカリエを追いかけたのは、アンウォーゼル捜査官のことが気になったからだったけど、それ以上に大切なことを思い出すことができたし。
でも、『どさくさに紛れて』なんて言うってことは、やっぱり私がどうして出て行ったのか、わかってるってことよね。
「ザバイカリエね、昨日アンウォーゼル捜査官に誘われて、飲みに行ったんですって。さっきの話もそこで頼まれたみたい」
最初からそうするつもりだったけど、私は得てきた情報を早速共有することにした。
席に着いて握り飯をほおばると、小魚の旨煮がこぼれ落ちそうになったので、最高位の淑女にふさわしくない行為だったけど、慌てて小魚たちを吸い込んだ。
すごく美味しいんだけど、執務中の食事には向かないかもしれない。
そんな私には目もくれず、ユートレクトはそうか、と言っただけだった。
私も神経を握り飯の小魚に向けて美味しくいただくことにしたので、しばらくは沈黙が続いた。
「……アンウォーゼル捜査官、なんであんたに話さなかったのかしら」
二個目の握り飯を手で少し割ってみると、巨大なハンバーグが顔を出した。
ハンバーグの周りを米飯で薄く覆ってみました、というくらい米の割合が少ない。
いくら私でも、これは厳しいわおじさん。これはお昼ご飯に取っておくことにしよう。
(握り飯作ってくれたのは一品もの担当のおじさんで、今日の一品もののひとつにハンバーグカレーがあった)
「あれから会っていないからな」
「でも、初日に会ったじゃない。そのときにでも」
冷静な臣下の物言いに反論しかけたとき、執務室の外から足音が近づいてくるのが聞こえたので、私は口を閉ざさなくてはいけなかった。
ほどなく一般官吏が顔を覗かせて、私とユーとレクトの机の上にうやうやしく大量の書類を置くと、礼儀正しく去っていった。
「そういえば、以前話があった俺の爵位のことだが」
官吏の姿を見送ってから、お互いに残された書類の山を見てため息をついた後、ユートレクトは別の話題を口にのぼらせた。
アンウォーゼル捜査官の話をこれ以上するつもりはないのだと思うと、力になれないことがもどかしいけど、こちらの話もある程度大事なので、聞いておかなくちゃいけなかった。
ユートレクトの爵位っていうのはね。
「ああそれね。ホルバンがいくつか候補を挙げてくれてるわよ。ローフェンディアの皇籍返還の話はどうなってるの?」
「音信不通だ。
兄上のことだ、俺の意見を握り潰そうととしているのだろうが、今回こそ何を言われようと断るつもりだ。ローフェンディア皇家と縁を切るいい機会だからな」
クラウス皇太子が今度皇帝に即位されることで、他の皇子さまや皇女さまたちは、皇子皇女ではいられなくなるのよ。
クラウス皇太子が皇帝におなりあそばしたら、クラウス『皇帝』のお子さまたちが、皇子さま皇女さまって呼ばれる立場になるからよ。
ということは、前から『皇族なんてまっぴらだ』ってわめいてたユートレクトは、晴れてローフェンディア第二皇子さまじゃなくなって、皇族を離れてめでたしめでたし、ってなると思うんだけど、そうもいかないらしいのよね。
これはどこの国でもそうだと思うけど、皇子皇女以外にも皇族を置くことはもちろん認められている。
クラウス皇太子が即位された場合だと、まずクラウス皇太子の同腹……つまり、同じお母さまから生まれたご兄弟が優先して、皇族専用の家名と品位をもって暮らせるだけのお金をもらえるんだけど、あとの皇子皇女さまたちは、クラウス皇太子や皇帝陛下のお心にお任せして、祈るしかないんですって。
だから、ローフェンディアでは皇帝が代わる度に、ものすごっくどろどろした皇族家名獲得争いが起こるらしいんだけどね。
そりゃそうかもしれないわね、誰だって働かないでお金ももらえて、高貴な身分を保てるなら、その方が楽に決まってるもの。
ユートレクトはクラウス皇太子とは異母兄弟だから、祈る側の人間のはずなんだけど、奴にとっては大変不幸なことに、クラウス皇太子は有能な弟と縁を切りたくないから、義弟を皇族にする気まんまんらしいのよね。
それを知ったユートレクトは、慌ててクラウス皇太子に『皇族名などいりません、皇籍は返還すると前から申し上げているでしょう』って書面を送ったらしいんだけど、お返事は今日までなし。
だから、今回のローフェンディア行きで、そっちの話もつけてこようってことなの。
奴にクラウス皇太子の戴冠式に出席してもらうのは、兄弟だからっていう理由以外にも、こういう事情があったわけ。
……話が長くなったわね、ごめんね。まだ続きがあるんだけど、一旦終わるわね。
「クラウス皇太子がそう簡単に認めてくれるとは思えないけど。でも、もし実現したら、ホルバンはすっごく喜ぶと思うわ」
「それだ、皇籍は意地でも返還してくるが、あの話は絶対進めさせるな」
ホルバンの名前を聞くと、ユートレクトは珍しく憂鬱そうに眉をひそめた。
えっとね……
ユートレクトがローフェンディアの皇籍を返還したがってる、っていうのを、どこかから聞いた司法大臣のホルバンが、
『姫さま、もしそのようなことになりましたら、ユートレクト卿をぜひ! センチュリアの貴族としてお迎えすべきです! かようにセンチュリアに尽くされている方はおりませぬゆえ!』
って息まいてるのよ。
ホルバンはユートレクト以上に法令規律に厳しい、『謹厳巨大魔王』なんだけど(ホルバンはね、とにかく大きいから『巨大』なのよ)、そのせいか、奴ともあくまで仕事上だけど親しいみたいで。
けど、そもそも皇族とか貴族とかいう、身分のしがらみから開放されたいユートレクトにとっては、今回は正直ありがた迷惑のはずなんだけど、なぜかホルバンの申し出ははっきりと断れないらしい。
どうしてかしら、それが一番不思議だわ。
まあ、最終的に決めるのは私だから、私が認めなかったらそれで済むことだし、奴がローフェンディア皇籍から離れられなかったら、この話はなかったことになるんだけどね。
他の国は違うかもしれないけど、センチュリアではよその国の皇族さまを貴族にはできないから。
……というわけで、話がすっごく長くなったけど、私はなかなか遭遇しない状況を楽しむことにした。
「どうして、センチュリアの貴族もいいわよ?
宰相のお給料以外にも、領地からの収入が増えるし。その分国庫に入るお金が減るのは残念だけど。
ホルバンがあんな風に言うなんて、なかなかないことよ。ありがたそうな顔して受けとけばいいんだわ」
「今の給金で十分だ、余計なしがらみが増えるだけだ。何のためにローフェンディア皇籍を返還するのかわからんではないか。それに、なんといったか……あれだ、面倒な会議にも出席しなくてはならん」
奴が固有名詞を忘れるなんて、よっぽどこの話をするのがいやなのね。それとも老化現象の始まりかしら。
「『センチュリア最高貴族選定結晶会議』のこと?」
「そうだ、なんだその無意味に長い名称は。儀礼的会議だということを示すだけではないか」
確かに無駄に長いし、毎回同じことの確認みたいな会議だけど、私に文句言われても困るわよ。センチュリアが建国して以来ずっと開かれてきた偉い人たちの会議らしいから。
私も女王だから出席しなくちゃいけないし。
もちろんこんな会議の名前、覚えなくていいからね。
「少しの時間だけの辛抱じゃない、いつも30分以内で終わるわよ」
「俺は無為の時間を過ごすほど耄碌していないし、そんな会議に耐えねばならんほど金にも不自由していない」
「そう、残念だわ。あんたに継いでほしい家名、いろいろ候補はあるらしいのよ。えっとね……」
私は残念そうに言ったつもりだったけど、口が笑った形になるのを止めることができなかった。
そして、そのままホルバンからもらった、ユートレクトに継いでもらうにふさわしい(らしい)センチュリア貴族の家名一覧表を見て、真剣に驚いた。
「すごいわね、花嫁つきでもらってくださいっていう家もあるわよ」
「正気か、あのご老体は」
「正気でしょうね、ホルバンはあちこちで縁組してるみたいだから」
それを聞いて、見たこともないほど陰鬱な表情になってきたユートレクトは、口角がすっかり上がりきっている私の顔を見て、
「そもそもおまえは、なぜ他人事の顔をしている。俺がこの国の貴族なぞになって発言権が増せば、困るのはおまえだぞ、それでもいいのか」
「だって」
不憫な臣下の眉間に寄ったしわを見ると、いよいよ笑いが抑えられなくなった。
「いざとなったら、あんたがどんな手を使ってでも断るのはわかってるし。
それに、困ってるあんたを見られる機会なんて、め、滅多にないもの!」
いつもなら、これだけ私にこけにされたら黙ってないはずの宰相閣下だけど、今日ばかりは毒舌の切れ味が悪かった。
「俺がローフェンディアから帰ってこなかったら、センチュリアは俺が闇に沈めるものと思え……」
「はいはい、わかりました」
そんなにホルバンのことが苦手なのかしら。もしかして、何か弱味を握られてるとか?
まさかね、こいつに限ってそんなこと、と考えていたら、
「今日の晩、何か予定はあるか」
急に真剣な口調で訊ねられたので、内心飛びあがるほど驚いた。
「ううん、ないけど……なに?」
「話がある、空けておけ」
胸の鼓動がたちまち早くなって、その声に、言葉に、心を射抜かれた自分を認めずにはいられなかった。