共に歩むもの4
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クラウス皇帝がユートレクトを……?
そんなわけはない。
クラウス皇帝に命じられた人たちが、ユートレクトの身柄を確保したってことよね。
ユートレクトを連れ去ったのは『世界機構』の仕業だと思い込んでいたから、少し混乱してしまったけど、落ち着いて考えたら、クラウス皇帝がユートレクトを『世界機構』から守ってくれたのだと気がついた。
武闘派の襲撃から救ってくれたし、穏健派からの『世界機構』へのスカウトもかわせたことになる。
でも、クラウス皇帝はこうして、センチュリアにおみえになる機会があったのだから、ユートレクトの身柄を押さえるのは今日でも遅くなかったのじゃないかしら。
それほど早く、武闘派も穏健派もユートレクトを捕らえようとしていたんだろうけど……そう考えて、あることを思い出した。
「恐れながらクラウス、『世界機構』のピアスカ司法官が、ユートレクトの身柄は穏健派が押さえた、という趣旨のことをおっしゃっていたのですが」
これはクラウス皇帝に申し上げていいと思った。
穏健派の上層部の動きまでわかっているなら、その下でキアラさんが働いていることも、もしかしたらご存知かもしれない。キアラさんには申し訳ないけど。
「それは、上の奴らは下には言えないよ。自分たちがフリッツを確保し損ねた、なんて恥ずかしいことはね。
穏健派も武闘派も、フリッツが誰に拉致されたか、どこにいるかは知らないだろう」
「クラウス直轄の部下の方が、ユートレクトをどこかで保護してくださっているのですか」
「ああ、あいつの身の安全については安心してくれていい。私が保証しよう」
彼が安全なところにいるというだけで、かなり心が軽くなった。どこにいるんだろう、今頃何をしているんだろう……
今はだめ、考えないで。クラウス皇帝との話に集中しなくちゃ。
『世界機構』がしてきたことは、腹の立つことばかりだけど、ついに穏健派のやり方にも腹が立ってきた。自分たちの手先として働くキアラさんにまで、見栄を張った嘘をつくなんて。
もし、キアラさんに本当のことを言ったら、死に物狂いでユートレクトを探しにかかるだろうから、隠し立てするのも無理ないかもしれないけど、そもそも危機を助けてやって恩を売るというやり方が、最初から気に入らなかった。
「ユートレクトを助けてくださって、ありがとうございました。そのような事態になっているとは全く存じ上げなくて」
「いや、いいんだ。私にとってもフリッツとの協力は重要だからね」
クラウス皇帝は、先ほど淹れた紅茶を一息に飲み干された。大分ぬるくなっているのだろう。
それはともかく、ユートレクトを助けたのは、単に弟だからという理由ではなさそうだった。さすがは世界最大国家の皇帝陛下だった。
「そろそろ本題に入ろうかな」
その台詞に、また全身の神経が一気に張り詰めた。
「以前から『世界機構』の腐敗をどうにかできないかと思ってきた。そこへきて、今回のこの醜態だ。
武闘派も穏健派もろくなものではない。この際『世界機構』の上層部を大掃除したいと考えていてね」
ユートレクトも以前同じようなことを言っていた。
だけど、これは申し上げていいことかどうか迷っていると、クラウス皇帝が言葉を継がれた。
「フリッツも同じことを考えていた。いつ、どこでとはあなたにも言えないが、直接会って話したよ」
心臓が大きく跳ね上がった。
あの人と、会って、話した。
「その件は、私も彼から聞きました。ネフレタ教授に、『世界機構』の事務総長に就任してもらえばいいのではないかと申していました」
このこともきっと、クラウス皇帝と話したと思う。
「ああ、それも私と同じ意見だ」
ティーポットから紅茶を注がれたクラウス皇帝が、おやというような顔をされた。
「紅茶がなくなりましたか」
「ああ、でもいいよ。あまり飲むと美味しいお菓子が入らなくなるからね。これでやめておこう」
そっちの心配なの? と思ったけど、口にはしなかった。クラウス皇帝は絶対甘党に違いない。
念のため、もしおかわりをご所望のときはいつでもおっしゃってください、とだけ申し上げておいた。
クラウス皇帝は、またすぐには紅茶に口をつけられなかった。
適温に冷ましてから一息に飲まれるのがお好きなのかもしれない。
「私はもちろんだが、フリッツも『世界機構』に工作員を潜入させている。
お互いの工作員からもたらされた情報を精査した結果、私もフリッツも『世界機構』の上層部を一新すべきだという、同じ結論に至ったわけだ。
あいつが後ろから力を貸してくれるなら、これほど心強いことはないのだが」
クラウス皇帝の声は、なぜか明るいものではなかった。どうしてだろう。兄上と同じ意見なら喜んで協力してあげればいいのに。何かの理由で協力を渋っているのかしら。
「何か問題でもあるのですか?」
「一つだけあいつと意見が合わないことがあってね」
「どのような事柄なのでしょう、差し支えなければ」
お教えいただけませんか、と続けようとした私の声は、クラウス皇帝のこの一言に手足をもぎ取られた。
「レシェク・アンウォーゼルの処遇だよ」
世界の頂点に立つ皇帝の声音には、暖かさや優しさは欠片も感じられなかった。
クラウス皇帝は、アンウォーゼル捜査官がユートレクトの親友だなんてこと、百も承知のはず。
もしかしたら、『バルサックの悪夢』の裏に隠れている、アンウォーゼル捜査官の恋人のことだってご存知かもしれない。
なのに、どうしてここまで冷たく突き放すような扱いをされるんだろう。
「クラウス、恐れながら」
「なんだい」
「アンウォーゼル捜査官は、私をペトロルチカから守るという任務で、先月よりわが国で活動しています」
「ああ、知っているよ」
「その彼に対する処遇で、ユートレクトとご見解が違うとおっしゃいますのは、どういうことでしょうか」
言葉を注ぎながらも、心臓の動きが速くなるのがわかった。言い知れない不安に駆られる。
今日一日クラウス皇帝とご一緒して、大きなものから小さなものまで、結構な非礼を働いたにもかかわらず、全部笑って許してくださった。
けれど、そのお優しい皇帝陛下のお姿は、今の私の前にはいなかった。
アンウォーゼル捜査官は武闘派に加担しているとしても、あくまで表面的なものだと思ってきた。そうではないの……?
「あなたやフリッツにとって、彼は頼れる捜査官であり、かけがえのない親友なのだろうが、私にとってはそうではない」
クラウス皇帝がこんな風におっしゃるなんて、よほどのことだ。
アンウォーゼル捜査官は、一体何をしたんだろう。
「私にとって彼は、生粋の武闘派、フォーハヴァイの飼い犬だ」
飼い犬、という言葉にこめられた感情は強烈だった。
クラウス皇帝の声色は、心の底からアンウォーゼル捜査官を軽蔑し、憎しみにあふれていた。
「フォーハヴァイが軍備拡張を進め始めてから、あの国の調査を担当していたのは彼だ。
あの国に裏ルートから入ってくる武器及びその原材料、あの国からペトロルチカに輸出される武器。双方の動きを、彼は知っていながら止めなかった。
彼のこの背任行為が、フォーハヴァイとペトロルチカの軍備拡大を進める深刻な要因となった」
逃れられないものが眼の前に降りてきそうな感覚に、全身が震えだした。
「リースル暗殺の噂を聞いたとき、私はいち早く『世界機構』に情報を提供した。
フォーハヴァイ自身、もしくはフォーハヴァイの息のかかった組織が、わが国に不正なルートで武器を運び入れるかもしれない。だからフォーハヴァイの取り締まり強化を要請したんだ。
だが実際、武器は暗殺者集団に提供された。フリッツとホク王子が駆けつけてくれなければ、リースルは私の子供と共に命を落とすところだった。このとき、私の要請に応じなかったのも彼だ。
彼はフォーハヴァイの軍事拡張を助長したばかりか、私の愛する妻と子、ひいてはわが国をも危機に陥らせようとした。ローフェンディア皇帝として、これを赦すわけにはいかない」
目の前で厚い鉄の扉が閉ざされる音が聞こえたような気がした。その途端、視界が暗闇に覆われた。頭も、心も、全く動かせなかった。アンウォーゼル捜査官への処遇を少しでも軽いものにしてもらうために、言葉を尽くさないといけないのに。
どうしたらクラウス皇帝に思いとどまってもらえるのか、考えないといけないのに。
クラウス皇帝がおっしゃったことが真実なら、アンウォーゼル捜査官に厳しい処遇がなされても、残念ながら反対できない。
武器の密輸を黙認し続けたことも十分に重罪だけど、その結果が招いたことは余りに大きかった。
反社会的組織の軍備を増強させただけでなく、世界最大の国の皇妃と後継者の命が奪われるところだったのだから。
「国家間のことだ、彼も国際裁判所で裁かれることになるだろう。判決には異論を挟めないが、私は彼に極刑もしくはそれに相当する判決を求めるつもりだ。要求するのは自由だからね。
彼は他にも複数の罪状を持っている……あなたに言うつもりはないが」
クラウス皇帝がこうおっしゃるのも当然のことだった。
国家元首として、一人の男性、父親として、そのお気持ちは痛いほどよくわかる。
私もセンチュリアが認めていない武器を持ち込まれ、その武器が大切な人たちを殺めようとしたなら、決して黙ってはいられない。
まして、武器を持ち込ませないようにとお願いした人が裏切ったなら。
暗殺の実行犯も当然憎いけど、信頼した人に裏切られたと知ったときの悲しみと怒りは計り知れない。
クラウス皇帝がおっしゃった『複数の罪状』も気になる。私に言うつもりがないということは、想像もできないような残虐なことをしたのかもしれない。
それでも……どうしたらアンウォーゼル捜査官を救えるだろう。
クラウス皇帝は、『バルサックの悪夢』でアンウォーゼル捜査官が受けた傷をご存知だろうか。
それを申し上げても、クラウス皇帝のご意思は変えられない気がするのだけど、どうにか、なんとか、少しでも、クラウス皇帝のお気持ちを翻すことができたら……
きっとユートレクトも思いつく限りの言葉を尽くして説得しただろう。それでも考えを変えなかったクラウス皇帝に、私が何を言っても無駄かもしれない、それでも。
「クラウス、恐れながら」
絞り出した声はかすれているうえに震えていた。だけど、このまま何もせずにはいられない。
「アンウォーゼル捜査官は、武闘派に何か弱みを握られているのではないでしょうか」
私の陳腐な主張に、クラウス皇帝は瞬き一つなさらなかった。
「あなたがおっしゃることを信用しないわけではありません。ですが、私もこの約一か月間……短い期間ではありますが、彼と接してきました。武闘派のような考えを持つ方には見えませんでした。
ですから、弱みを握られているかもしくは……実は彼も穏健派の一員で、武闘派の動向を探るために二重工作を」
そこまで口にしたところで、クラウス皇帝が右手を上げて私の発言を制した。
明らかに苦し紛れの主張でクラウス皇帝の堪忍袋の緒を切ってしまったのかと思うと、また全身から汗が吹き出してきた。
「アレク、あなたは優しい人だ。アンウォーゼル捜査官をどうにかして救いたいという気持ちはわかる。
だが、これは譲れない。国際裁判所も恐らく私と同じ判決を下すだろう」
クラウス皇帝の非情にも聞こえる台詞に涙が出なかったのは、私自身が気づいていたからだった。クラウス皇帝のお気持ちを変えられないことも、国際裁判所の判決が厳しいものになることも。
国際裁判所は、国際とつくだけあって『世界機構』と同じ国際組織の一つだ。
だけど、上層部が腐敗している『世界機構』とは違って、国際裁判所は司法機関。世界を裁く法の番人たちを腐敗させるわけにはいかない。
裁判官の公正さは監査人たちに厳しく監視されていて、私が親しくさせてもらっている永世中立国の元首たちも、この監査人になっている。
永世中立国の元首と国民は、国際機関に勤務したり直接業務に関わることができない……これが原則なのだけど、国際裁判所の監査人にだけは、指名されたら就任することになっている。
永世中立国が国際機関で働けないのは……ここで説明すると長くなるから簡単に言うと、利権を欲しがるそれ以外の国々に締め出されているからだ。
『世界機構』みたいに、上層部でやりたい放題したい人たちからしてみれば、公正中立な立場の、不正を許さない存在なんて、煙たくて仕方がないということ。
恐らく、多くの国にとって邪魔な存在の永世中立国だけど、だからこそ、国際裁判所の番人としてだけは不動の地位を保っていた。私も将来、この監査人に就くかもしれない。
そんな国際裁判所の、揺るがない正義に照らし合わせたら、アンウォーゼル捜査官が赦されるはずがなかった。
「……わかりました」
私は引き下がった。悔しいけど、引き下がるしかなかった。
だけど、希望はまだ捨ててはいなかった。私にはたった一つだけど切り札がある。クラウス皇帝の上をいくなんて不可能に近いけど、この切り札を一番効果的な場面で使えたら……もしかしたら。
私はカップに残っていた紅茶を飲み干すと、ティーポットに入っている紅茶を全てカップに注いだ。
「クラウス、紅茶のおかわりをもらおうと思うのですが、ご一緒にいかがですか?」
自分でも驚くほど落ち着いた声だった。
「ああ、それなら私もいただこうかな」
クラウス皇帝も先ほどまでの硬い表情を溶かした、いつもの笑みで応えてくださった。
時計の針は、まだ今日の中に留まっている。




