皇帝の行幸1
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昨日からちらちら降っていた雪は、明け方に止んだようだった。空は冬の晴天の空の見本みたいに青く高く澄み渡っていた。空気がいつもより澄んでいるような気がして、息を吸い込むのが心地よかった。
ここはセンチュリア王宮の正門前広場。
まもなくクラウス皇帝が市街地にお入りになるという報告を受けて、私はいつもの何十倍も入念に除雪された石畳の上で、世界最強の君主の到着を待っていた。
沿道で皇帝陛下御一行さまを待つ国民の皆さんは、『今日はやけに道が綺麗だねえ』『いつもこのくらい気合い入れて除雪してくれたらいいのに』などと話しながらも嬉しそうだ。
王宮の正門前は、半径馬十五頭分の距離を一般人立入禁止にしているのだけど、例外があった。
私から二十歩くらい離れたところに、王宮から一番近い場所にある保育園の園児たち三十名が、センチュリアとローフェンディアの国旗の小旗を持って待機してくれている。
園児たちを退屈させないよう、先生が小旗を振る練習をさせたり一緒に手遊びをしていた。
先ほど園児たちに、
『今日は朝からどうもありがとう。みんなが歓迎してくれると、皇帝陛下もとてもお喜びになるわ。
みんなはセンチュリアの子供代表よ、頼りにしているからね!』
と挨拶したら、澄んだ瞳をきらきら輝かせて、すごく嬉しそうな誇らしそうな顔をして『はい!』とお返事してくれた。子供は純粋でかわいらしい。
今日は例年の今頃に比べたら、かなり暖かいらしいのだけど、それでも真冬なので寒いことには変わりない。足元も少し冷えてきている。
だけど、緊張のせいかほとんど気にならなかった。あの人が選んでくれた衣装のせいもあるかもしれない。
今私が着ているのは、群青色の女性らしい形のスーツだ。
ところどころに、オーリカルクを染み込ませた糸が編み込まれていて、陽が当たるとほのかに光る。
少し派手かなと思ったのだけど、外に出て見ると上品な光り方で、よりスーツを綺麗に見せてくれたので嬉しくなった。
凛とした雰囲気もありながら、上着とスカートの裾に共布のフリルがついているのが可愛らしくもある。辛さと甘さのバランスが絶妙に私好みで、とても気に入った。
この季節にしては薄い生地かと思ったけど、想像していたより暖かかった。
あの人がそばにいるような気がして、心まで暖かくなった。
彼にもらった指輪をはめ直して、決意を固めた後。
紙面の中に彼がいてくれる気がして、もう一度……そして何度も何度も記事を読み返した。彼の言葉に触れていたら、彼自身にも触れられるような気がして。
だけど、長く深く読むたびに、自分がいかに愚かだったのかを痛いほど思い知らされた。
あの人が書いた国益のこと……教わってはいたけど、あれほど具体的には聞いていなかった。
今まで彼が私に伝えてくれていたことは、氷山の一角でしかなかったと気づかされた。
これでは、女王なのに国家にとって一番重要なこと……国益に対する認識が一般官吏と同じレベル、もしくはそれ以下と言われても仕方なかった。
すごく恥ずかしくて悔しいことだけど、『教えても理解できない奴』と思われていたのかもしれない。
A国とB国のことも全く知らなかった。
私は一応女王なので、即位してからはセンチュリアの主な新聞に毎日目を通している。
だから、大体の世界の動きは知っているはずなのに、あんなこと、私の目には一切入ってこなかった。平民時代にもA国とB国の話は全然聞いたことがない。
どうしてだろう……こんな重大なこと、いくら遠い南方地域の出来事でも新聞社が知らないはずがないのだけど。
ユートレクトが情報を持っているのはわかる。あの人は諜報活動のプロだから。でも、新聞社だって情報収拾は一番大切な仕事じゃない……?
まさか、フォーハヴァイ王国に口封じされていて、記事にできないとか。
そう考えてぞっとした。
もしこの想像が本当なら、センチュリアにフォーハヴァイの工作員が入り込んでいるかもしれない。
最悪、B国がA国に傀儡政権を建てる前後……もっと昔から。これはこれで恐ろしく深刻な問題だった。
それほど昔……十数年前から情報を封鎖していたとしたら、フォーハヴァイの工作員は、センチュリアだけでなく他の国でも情報操作をしているかもしれない。
今はともかく、十数年前のセンチュリアは、フォーハヴァイの怒りを買うようなことはしてなかったはず。
センチュリアみたいな無害な国にも、自国に都合の悪い情報が入らないようにしているなら、他の国ではもっと暗躍している確率が高いと思う。
となると、この『センチュリア王宮だより』も、フォーハヴァイの工作員の目に触れている……つまり、王宮の内部にも工作員がいる可能性だって出てくる。
だから、ユートレクトはわざとこの記事を書いて、工作員を……フォーハヴァイを牽制しようとしたのかもしれない。私が考えつけることくらい、彼なら簡単に思いつくだろう。
でも、こんな重大なこと、知っていたならどうして今まで教えてくれなかったんだろう。
それもまた、私には教える価値がないと思われているのかもしれなかった。
A国のことも心配だけど、B国の現状も不安定だとわかった。
今のフォーハヴァイは、争いを好まれないオルリナ女王に統治されている。
にも関わらず、この記事で見る限りだと、A国でやりたい放題する自国民を取り締まることができていないみたいだった。
御代替わり直後だし、まだ手をつけられていないだけならいいけど、この状況が長く続けば、前国王の勢力が力を盛り返して、クーデターが起きることも考えられる。
そうやって、今まで知らなかったことに気づいていくたび、ますます心は沈んでいった。
胸が苦しくなり、呼吸も辛くなった。
頭も胃もきりきりと痛くなって、全身が硬く縮こまった。
暑くもないのに、全身から汗が吹き出てきた。
指も曲がったまま広げられなくて、指輪を外せなかった。
涙はもう出てこなかった。飼い主があまりに愚かだから、愛想を尽かしたみたいに。
前に予感した通り、私はまた落ち込んでしまった。
こんなこと当たってもちっとも嬉しくない。
だけど、自分の愚かさや浅はかさに気づかないでいるよりは、ほんの少しでもましと言っていいのか……慰めにならないことばかりが頭と心をぐるぐる回っていた。
こうして苦しんでいたら、やっぱり眠れなかった。
いつの間にかカーテン越しの空は白んでいた。
それでも、また立ち直る勇気をくれたのは、明けていく空と『センチュリアは私の第二の故郷だと思っている』という彼の言葉だった。
陽の光がうっすらと寝室を照らし始めたのに気づいたとき、不意に思い出した。
東十九番街へ視察に行った帰り道、涙に濡れた目に映った市街地の光景を。
雲の隙間から漏れた夕焼けの茜色に染められた街並みは、神さまが舞い降りてきてもおかしくないほど、厳かで神々しいものだった。
私にとっては生まれたときから目にしている市街地。
丸い屋根や尖った屋根、瓦屋根に藁葺きの屋根……屋根だけでも様々な種類が連なっている。
壁も石や煉瓦、漆喰、鮮やかな色を塗ったもの、貝や動物の角を貼りつけたものまで、たくさんの見た目、手触りの壁がある。
こんな街並みが当たり前だと、ずっと思ってきた。
私があの光景に身震いしたのは、夕焼けの光のせいだったけど、彼が『綺麗だな』と漏らしたのは、それだけが理由ではなかった。
今まで私が意識したこともなかった、センチュリアの歴史にまで思いを馳せて市街地を見てくれていたなんて、思いもしなかった。
あのときの、目を細めて眩しそうな顔が記憶をよぎると、まぶたが熱くなった。
心の奥底に封じてきた彼の面影が、堰を切ったようにあふれてきて止まらなくなった。
会いたい。
声を聞きたい。それから……
こんな私でも、望んでいいのなら。
だめだ、せっかく立ち直ってきたのに、また泣いてどうするの。それに、今は恋する乙女でいるわけにはいかない。
これ以上思い出しちゃいけない。
今はもう朝、現実が動き出す。
彼とセンチュリアの国民みんなを守るための、大切な今日が。
落ち込んで、思い悩んでいる間にも、朝はカーテンの向こうから静かに近づいてきて、現実を突きつけてくる。
もう予想じゃなくて断言できる。
きっと私はまた落ち込むし、自己嫌悪するし、情けなく泣く。そして、同じようなことで落ち込んで、同じようなことで立ち直って……何があっても起き上がって前に進む。
これが、物覚えが悪くて愚かな私の……女王の道。
どうしてこんなやり方しかできないんだろう。
今まで何度、覚悟を決めたと思って立ち直って、そしてまた落ち込んで……を繰り返してきたんだろう。そしてこれからも。
でも、どんなに無様でも向かっていくしかない。
指輪をしたまま盛大に落ち込んでしまったから、それだけが心配だった。
ごめんなさい、私の愚かさと弱さ、どうかここに……私の中に留まっていて。あの人にうつらないでいて。
祈りにも似た願いを指輪に込めているうちに、朝の支度をする時間が来てしまった。
私は涙と苦しみと無様さの染みついたベッドに別れを告げた。『センチュリア王宮だより』を大事にサイドテーブルの引き出しにしまって。
沿道が少しざわついてきた。
目を凝らして通りを見ると、人だけではない行列が近づいてくるのが見えた。クラウス皇帝の御一行に間違いなかった。
「間もなく……十分ほどでご到着されるかと思います」
今日私の護衛の指揮を執ってくれる憲兵隊の幹部が、小声で知らせてくれた。トゥリンクスと憲兵隊長は、正門を入ったところで待機している。
「沿道は変わりない?」
「はい、今のところ不審者もなく、野次馬同士のトラブルもございません」
「よかった、どうもありがとう」
クラウス皇帝のご滞在は、今日明日の二日間。何事もなく次の訪問先へお送りできますように。
昨日は眠れなかったけど、頭は驚くほどすっきりしていた。このまま今日明日を乗り切らなくちゃ。
やがて、憲兵隊の幹部が教えてくれたとおり十分後、行列の先頭がはっきりと見えてきた。
黒光りする立派な馬に乗った騎兵たち、その後に一糸乱れぬ歩調で進む兵士たち、そして黒塗りの車体に帝国の紋章『双頭の鷲』のレリーフをあしらった、大型の豪華な馬車が続く。
一台ではなく、何台か同じ馬車が見えた。クラウス皇帝がどの馬車に乗っているか、わからないようにするためだろう。
なんといっても、世界最大の国の統治者。私なんかよりよっぽど暗殺の危険にさらされている。
沿道の国民たちは、行列のきらびやかさに興奮している。
もちろん、センチュリアにも王国軍や馬車はあるけど、これほど華やかな装備や造りではない。
世界のローフェンディア帝国と比べること自体、無謀なことだった。
騎兵たちが正門前広場まで来ると、かさかさかさかさ……という音が聞こえてきた。
園児たちが懸命に小旗をに振っていた。
だけど、クラウス皇帝が到着されるまで、もう少し時間がかかる。
ずっと小旗を降っていては園児たちも疲れてしまうということで、ほどなく先生が小旗を振るのをやめさせていた。このあたりの打合せは、国務省の官吏としているだろう。
続いて兵士たちが広場に入ってきて、広場の隅に馬首を揃えた騎兵の横に整然と並んだ。
隊列を崩さずに並びつつも、小旗を振っている園児たちに笑いかけたり、手を振り返す兵士もいる。きっと行列の途中でも、国民たちに同じことをしてくれていたのだろう。
統制の取れた行動をしつつも、他国の民にサービスもしてくれるところに、ローフェンディア帝国軍やクラウス皇帝の優しさと余裕を感じた。
そして、黒塗りの馬車が広場の中央に入ってきた。黒塗りの馬車は合わせて五台だった。
その他に、一般の官吏や召使いが乗っていると思われる馬車や、道中に必要なものを乗せていると思われる馬車も入ってきて、正門広場はかなり狭くなってしまった。
だけど、これも打合せしていたこと。センチュリア王宮が大きくないことは、ローフェンディア側も了承しているはずなので、申し訳ないけど我慢してもらうしかない。
五台の黒塗りの馬車のうち、真ん中に停まっていた馬車からクラウス皇帝は出ていらした。
かさかさかさかさ……という小旗の音が、今までの中で一番大きくなった。沿道から聞こえる喧騒もより一層大きな歓声になった。
ついに私の出番がやってきた。




