来訪者4
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お腹のこなれ具合から考えて十五分は歩いた頃(と言っても、今日はあんまり食べてないんだけどね)、センチュリア王宮の門が正面に見えてきた。
そろそろ着いてしまうと思うと、寂しい気持ちになってしまうのを止められなかった。
あれから黙々と、抜け落ちまくっている(らしい)記憶をたどり続けて、文字どおり四苦八苦していた。
だけど、今までの話に関係していて、なおかつ私の記憶から抜けている(らしい)ユートレクトの言葉は、まるでわからかなかった。
自分の頭だけで考えるのを観念して、さりげなくヒントを聞き出そうともしたんだけど、諜報活動の達人は私ごときの探りには乗ってくれなかった。
忘れている(らしい)のを怒ってはいないみたいだからいいんだけど、やっぱり忘れたままっていうのは失礼じゃない。
あ、さっきから『らしい』を連発してるけど、一応理由はあるのよ。
もしかしたら、私は正解の言葉を覚えてるんだけど、その言葉を『今の話の流れ』とは関係ないと思って、答えじゃないものとして流しちゃってる可能性もあるでしょ?
自分と他人の考えを結びつけるのって難しいわね。私だけかもしれないけど。
「レシェクは何か言っていたか」
私にしてはまじめなことを考えていると、となりの臣下が唐突に訊いてきた。
「ううん、特に何も」
と言ってから思い出した。アンウォーゼル捜査官と二人で個室にいたときのこと。
魅力的だけど底を感じるような声と、その声が発しただけに、冗談と決めつけられない問いかけの内容。
ユートレクト自身もアンウォーゼル捜査官に思うところがあるのか、何か調べているみたいだけど、そうはいってもアンウォーゼル捜査官は学生時代の親しい友人。
私が疑いの目を向けたらいい気はしないんじゃ……と思うと、どうフォローしていいかわからなくなって、おろおろしてしまった。そうなると、
「何かあったな、気にしなくていいから話せ」
動揺したのがばれてしまうのは当然で、私は極めて簡単に事実を言うことにした。
「うん、仕事ではこんな声なのかなっていう声で、私があんたに言い寄られてないかって心配してくれたわ」
「変な気を遣うなと言っているだろうが。
要は、奴が捜査官らしくおまえに圧力をかけて、俺の探りを入れたということだな」
あの、そこまでは思ってないんだけど。
それに、仮にも友人のことをそんな風に言っていいわけ?
「そ、そんな高圧的じゃなかったわ。
それに、なんであの人があんたのこと探らなくちゃいけないのよ、友達でしょ」
返事はなかった。
それが何を意味するのか考えると怖くなって、私は自分の記憶と言葉をつなぎ合わせた。
「あんたのことだって、心配してくれてるじゃない。
ご忠告に従って、しばらくは無茶な施政は控えておきましょ。一体何がそんなに気になってるの?」
「……おまえのいいところは、わかりやすいところくらいだな」
話のつながりをまるで無視した台詞に、いつもなら裏があるのかなと思うのだけど、なぜかそんな風には思えなかった。
むしろ、私の気をどこかにそらせて、自分の心を悟られないようにしているみたいだった。
そうでもしないと、私にすら気取られてしまうほどの感情を抱えているのかと思うと、少しでも苦しみを取り除いてあげたいと切実に思った。私でもいいのなら、私にできるのなら。
私は冗談めかした言葉を返すことにした。
「それはどうもありがと。私のいいところを挙げてもらえるなんて、予想外だったから驚いたけど嬉しいわ。明らかにばかにされてるってわかっててもね」
だけど、そんな私の気遣いを鼻先で笑う音がしたかと思うと、
「変な気を遣っているのもあきれるほどよくわかる。慣れないことをするな、俺に気を遣うなど百年早い」
軽い口ぶりでそう言って、閉店したお店の軒先でぶら下がっている、しっかりしたつららをぽきっと折った。
そんなものどうするのかと思ったら、あろうことか、私が手にはめているマフの上に絶妙のバランスで落ちないように乗せると、満足げな表情でまた歩き出した。
どう声をかけたものかしばらく迷ったけど、まず最初に思ったことを言ってやることにした。
「……せっかく人が心配してるのに、なんなのよ、この大人げない対応」
このままつららを落としてしまうのは妙に悔しくて、落ちないように気をつけてマフから右手を出すと、つららを指先でつまんだ。
当たり前だけどとても冷たい。それに重い。こんな重たいつらら、よく簡単に折れたわね。
どうしてくれよう、このつらら。
つららに罪はなかったけど、根元の方を奴の背中に向けて、思いっ切り力を込めて投げつけた。
先端を向けなかっただけありがたいと思ってほしいし、つららの重みと私のコントロールの悪さのせいで、背中に当たらなかったことにも感謝してほしい。
つららが空しくぼてっと歩道に落ちて砕ける音に、子供じみたおっさん臣下は振り返ると(少年のような遊び心の持ち主、だなんて綺麗な言い方絶対してやるもんですか)歩道に散ったつららと私をかわるがわる見て、
「いずれにせよ、あいつには気をつけろ。おまえの甚だ無駄な気配りも一応はしておけ」
あんな行為の後では、説得力も半減しそうなことをのたまった。
でも、甚だ失礼な言い草だし説得力も怪しいけど、やっぱり友達を疑わなくちゃいけないのには、何か事情があるんだと思うと、心は晴れなかった。
私は少し食らいついてみることにした。
「だからどうして、友達を疑うようなこと言うのよ、楽しい人じゃない。私との縁談も気にしなくていいって言ってくれたし」
「本当にそう思ったのか」
その口調はいつもの冷静すぎるものと変わりなかったけど、かえってそれが事の深刻さを裏づけているようだった。
そんな風に言われると、私もこれでも女王だし、人情に任せたことばかりは言ってちゃいけないとも思う。
でも、ここで私が全く気遣わずに話を進めてしまったら、アンウォーゼル捜査官を二度とユートレクトの友人として見られなくなりそうで……もし本当にアンウォーゼル捜査官が何か企んでいたとしても、助けてあげられなくなりそうな気がした。それはとても悲しいことだから。
まして、アンウォーゼル捜査官とつきあいの長い奴が、私にこんなことを言わないといけないなんて、どれだけ苦痛だろうと考えると、胸が破れそうになるくらい痛くなる。
もしも、私が親友のチェーリアを疑わないといけなくなったら……そんな想像しただけで、喉の奥がいやな思いに詰まるのに。
「それは、本当のことなんてわからないし、正直言ったら、二人でいたときの声は確かに怖かったけど」
私の中で感情の整理がついていないことは、ばればれだろうけど、構わなかった。
「友達でしょ、あんたの」
立ち止まったままの臣下に、私は少しずつ歩み寄った。
平静を装っている奴に少しでも温もりをあげたい気持ちだった。
「公私混同は俺の矜持に反する」
けど、返ってきた言葉は、いつもどおりの冷静さに包まれていた。
どうしてそんなに落ち着いていられるんだろう。
やっぱり私では彼の気持ちを晴らしてあげられない……だから、私の前でもいつものままなんだと思うと、自分の無力さを謝りたい気持ちになった。私はいつも助けられて、救ってもらっているのに。
それでも、少しでも感情を吐き出して、心を楽にしてもらえたら……そんな思いで私は次の言葉を口にした。
「なによそれ、やっぱりあの人を疑ってるの、どうして?」
「俺が根拠なく他人を疑うことはない」
それでも彼の心は開かなくて、私はいよいよ無理にでもねじ伏せようとした。
「根拠? 疑う理由があるってことなの、それってなんなの?」
返答は戻ってこなかった。
自分の言葉に好奇心が入ってしまったことに気がついて、もう何度目になるかわからないけど深く後悔した。
疑っている理由がわかったら、自分にも女王として手助けができるかもしれない、と思ったのは事実だったけど、彼の気持ちを知りたいという、独占欲みたいなものも混じったことを否定はできなかった。
二人の間で沈黙が重くなるのは、恐らくいつも私のせいで、重く感じているのも大抵私だけのはずだけど、今はきっと、私だけでなく彼も辛い気持ちでいるはずだった。
「……ごめんなさい」
私はこれも何度目になるかわからない、謝罪の言葉を口に乗せた。
「あんたの忠告、おとなしく聞いておく。
ただ、今のままじゃ、私に想像できる範囲のことしかしてあげられないけど、許してね。
今はあんたを……信じて、あの人の疑いが解けるように祈ってるから」
最強の臣下は私から顔をそむけられていたから、どんな表情をしているのかわからなかった。
「よく覚えていたな」
けれど、その声には温度が感じられた。
私が彼を(自称だけど)よく知るようになってから耳にする中でも、とても好きな声音だった。
「し、失礼ね、このくらいの時間じゃ忘れないわよ」
忘れるわけない、忘れたくもない。
言葉はそっけなくて、色めいてもいなかったけど、信じろと言ってくれたこと。
それだけで本当は、抱きしめられたみたいな幸せを感じたなんて、子供みたいだと笑われるかもしれないけど。
そんなことを心でつぶやいたら、とても恥ずかしくなって顔を上げていられなくなった。
「ほ、他に私にできることを思いついたら、すぐ言いなさいよね。国家元首じゃないとできないことだってあるでしょうから」
「そうだな」
いつもの調子に戻った声の後の沈黙に、いやな予感がして頭を上げると、その予感を倍増させる顔と目が合って、
「腐ってもなんとか、という言葉もあることだしな」
不敵な笑みの向こうから憎まれ口を叩いてきた。
「もっと他の言い方できないの!? 人がせっかく気を遣ってるのに、すっごく無駄に!」
なんでそこで笑うのよ、このほっけ皇子!
そんなに大声で笑ってたら、あんたこそ『調査票』に宰相がうるさくて眠れない、って書かれるんだからね!
こうして私は無事王宮まで送り届けられたのだった。
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あれから、ユートレクトに自室の前まで送ってもらうと、時計の針は次の日を回りそうになっていた。
慌てて湯を浴び、乙女に最低限必要なもろもろのお手入れをしてベッドに潜りこんだのだけど、なかなか寝つけなかった。
昼間、侍医の診察を受けたときのことを思い出すと、自分がどうしようもなく情けなくて悔しくて、涙が止まらなくなった。
「突然お邪魔してごめんなさい、今日は相談したいことがあって……薬を減らしたいの」
診察室の壁や調度品は落ち着いたクリーム色でまとめられていて、私はこの部屋がわりと好きだった。
昼食をかきこんで、慌しくこちらを訪れた私の心を優しく包んでくれるようにも思えた。
「そうですか、症状は落ち着いておいでですか?」
「ええ、今のところは」
「前回服薬を減らしたときは、少しお身体の具合が優れないようでしたが……確か去年の十一月上旬、一日おきの服薬にしたときがありましたね。今回は、あれからまだ時間が経っていませんが」
侍医の口調はいつも穏やかなのだけど、このときは、これ以上薬を減らしても大丈夫ですか、と暗に聞かれているように思えて、それが私を少しいらだたせた。
私が大丈夫かどうかを見極めてくれるのが、医師の役目じゃないかと思ったのだけど、それは甘えなのかもしれない。
「ええそうね。でも、私の状態が試していいものなら、また挑戦してみたいと思ったの」
侍医は私の顔を見ると、考えこむかのように私の診療録に視線を落とした。
診療録は医師特有の言葉で書かれているから、私には読むことができない。そこにはここ最近ずっと、同じ形と長さの文字ばかりが並んでいた。
その言葉の羅列が、何を意味するのかはわからない。
けれど、私の目には大したことは書かれていないように映って仕方がなかった。
今もどうして侍医が同じ単語が並んだ診療録を、眼力で穴でも開けるように見つめているのかわからなかった。
そんなものにより、私に目を向けてほしかった。私を見て、私に話しかけて、私を知ってほしいと思った。
私は黙ったままの侍医にしびれを切らせた。
「私の病気は、薬を飲んでいればよくなると、以前言っていたわね。
でも、今の薬はあまり飲み続けていると、身体によくないのでしょう? 依存性があるということも調べてわかったわ」
そう告げると侍医は顔をこちらに向けたけど、表情は穏やかなままで、私が自分で薬のことを調べたことをとがめる様子もなかった。
「この薬が効いているという自覚があるから怖いの。
だから、そろそろ薬を止めていきたいと思うのだけど、薬に頼らずに治せる方法は本当にないの?」
私はこの病気になったとき、最初に聞いたことをもう一度問いただした。
この病気を治すためには、薬の服用と『原因の排除』が必要らしい。
だけど、後の方は絶対にできないし、したくもなかった。
もし、この二つが揃わなければ絶対に病気は治らないのだとしたら、私は一生この病とつきあう道を選ぶだろう。
発病してからしばらくの時が経っていた。
もしかしたら新しい治療法や、副作用のない薬が開発されているかもしれない。
まだ症例の少ない病気らしいから、研究に力を入れられている望みは薄いけれど、それでも聞かずにはいられなかった。
「前にも申し上げましたが、姫さまのご病気は公務のお忙しさと……人間関係によって引き起こされたもののご様子。となれば、原因となるものを、姫さまの周囲より遠ざけることをお勧めすることしかできません」
侍医の言葉に落胆したものの、予想できない返答ではなかったから、表向きは平静を装うことはできた。
私が動揺したのは、むしろ人間関係という言葉に対してだった。
誰との人間関係を指しているのかは、私自身がいやというほど知っていた。
発病当初ほどではないけど、私の心がいまだに怯え震えるのは、共に歩くと誓ったはずの人の言葉、声、表情だった。
侍医には仕方なく私の気持ちを話していたけど、この病気に人間関係の深さは関係ないのか、いくら私の思う人でも『原因』となるからには『排除』すべき要因らしかった、本来なら。
「それは悪いけどできないわ。あなたにもわかるでしょう? 私の立場は」
侍医にとって、きっと私はたちの悪い患者に違いなかった。
でも、私には公私の心情、どちらで考えてもユートレクトを遠ざけることはできなかったし、公務も代わりのきかない立場上軽くはできない。
今でも多くのことを私の代わりにしてもらっているから。遠ざけなくてはならないはずの人に。
侍医がなんと答えるかはわかっていたけれど、私は自分の立場を主張した。
私の置かれている状況を考えた治療を考えてほしかった。
そう考えるのも、私の甘えなの?
「申し訳ありません。姫さまのご病気を治療するという一点に限ると、こう申し上げるしか」
予想どおりの答えに私は黙って頷くと、以前から肌では感じていたことを改めて自覚させられた。
地位が高いからって、いい医療を受けられるわけじゃないということ。
『いい医療』というのは、何も高度な技術や稀少な薬にありつけることじゃない。
「今の姫さまの環境ですと、薬に頼らずに治療を続けるのは難しいかと……公務もお休みになれない状態では、症状を薬で抑えながら無理をなさらずに回復を待つしか」
私のことを、私と同じ目線で親身に考えてくれる侍医は、今の私の周りにはいないのだと思った。
この侍医の言ってることは間違っていない。
けれど、私は自分が下手に触ったら爆発してしまう、劇物のように扱われているような気がしてならなかった。
それが当然なのかもしれない。私の機嫌を損ねたら食いぶちがなくなるのだし、私にもしものことがあったら、責任を負わされるのは彼らだから……そういうことなの?
そんなこと思ったこともないし、責任を押しつけたりもしないのに。
いつも自分の地位を意識していないのは、私自身と恐らくユートレクトだけだということを、今更ながら目の当たりにしたようでひどく寂しい気持ちになった。
「……わかったわ」
私は渦巻く感情を心の中で握り潰した。
「でも、薬の副作用のことは気になるわ。
詳しくはわからなかったけれど、今後のためには、少しでも早く止めた方がいいと思うの。
だから、また一日おきの間隔にできないかしら」
私はしっかりした口調を心がけて話した。そうしなくては、薬の処方を変更してもらえないような気がした。
侍医は何を考えているのかわからない表情で、私を見つめた。
私の状態を診ていたのだと思うけれど、こういうときに職業技を発揮するのは卑怯だと思った。理不尽な言い分なのはわかっているけど。
「わかりました、それでは明日から服薬を止めて頂いて、二日に一回ということに致しましょう。
もしも途中でご気分が優れないようでしたら、すぐにおっしゃってください。決してご無理はなされませんよう。
それでまた一か月様子を見てみましょう」
「ありがとう。それから」
穏やかな侍医の口調に聞きそびれそうになったけど、勇気を出して聞くことにした。
薬の副作用のこと。
私の身体だけならいい。
だけど、私の子供にまでよくない影響が出るなんて。
それを知ってから考えるだけで怖くて、これから生まれてくる子供にも申し訳ない思いだった。
副作用のことを知らなかった、自分の身体のためには薬を飲む他なかった、という理由は子供には全く関係ないこと。
今まで目をつぶってきてしまったけれど、もうそれで許される年齢ではなかった。もしかしたら、私を受け入れてくれるかもしれない人のためにも。
今の薬がどれだけ子供に負担を与えるものなのか、それを教えて欲しかった。
侍医の言葉は短かった。
よくない影響は確かにある。
しかしそれは、普通なら一万分の一の確率で発生するものが、服薬者が妊娠すると千分の一の確率になる……それだけのこと。
『それだけのこと』?
その言葉に、私への気遣いというよりも、計算上の可能性の低さゆえに、事を軽視しているような感じを受けて愕然とした。
思い出すだけで、身体に烙印が押されたかのような激痛が走る。無形の罪人の印を、自ら身体に押してしまったとしか考えられなかった。
今の私は、それを無様に泣いて後悔し、いつか授かるかもしれない子供とその父親に謝ることしかできなかった。
ごめんなさい、明日は薬を飲まずに乗り切るから、前を向いて歩くから……
一人の寝室で私は声をあげて泣いた。