残されたもの1*
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思いもよらないララメル女王からの手紙に、私は静かにため息をつくと、この手紙を持ってきてくれた官吏を呼び止めた。
「はい、なんでしょうか陛下」
彼女は国務省の官吏で、新入官吏のせいか私への書類運び担当になっているらしく、毎日顔を合わせている。
だから私には慣れているはずなのだけど、今朝の彼女はこんな感じで少しおかしかった。
どう考えても変じゃない、『陛下』って。
いや、他の国では、国王のことを陛下って呼ぶのはごく当たり前なんだけど。
自慢にならないけど、私は即位してから今まで、重臣や官吏、国民に至るまで陛下と呼ばれたことはほとんどない。ユートレクトがいつもの冷静すぎる調子で陛下と呼ぶくらいで。みんな私のことを『姫さま』と呼んでいた。
それがどうして、顔みしりの官吏が今日になって突然、陛下なんて呼ぶんだろう。
この子お腹でも壊してるのかしらと思いながら、まだあどけなさが残る顔の官吏に聞いてみることにした。
「どうしたの、陛下だなんて急に改まって」
すると、かわいらしい官吏は肩をびくっとさせて私を見上げると(彼女は私より大分背が低いのよ、どうでもいいことだけど)、
「はい、あの、ベイリアル閣下が今朝の朝礼で、今日から姫さまではなく陛下とお呼びするように、と仰せになられましたので……」
と怯えるように答えた。
「ベイリアルが? どうしてかしら。
私、陛下って呼んでねなんて言った覚えないのに。おかしいわねえ、なんでかしらねえ」
官吏の気持ちを和らげようと、軽い口調で聞いてみると、
「はい、閣下は理由は仰せになりませんでしたが、陛下はもう姫ではなく立派な淑女であらせられるので、陛下とお呼びするように、とおっしゃいました」
と教えてくれた。
官吏も『ベイリアルの言うこともわかるけど、今になってなんででしょう……私にもわかりません』という顔つきだったので、これ以上聞くのはやめておいた。
私は彼女を引き止めた本来の用件を伝えることにした。
「そういうことなのね。わかったわ、どうもありがとう。
ベイリアルに、手が空いたらで構わないから、こちらへ来てくれるよう伝えてもらえる? 一番華やかな手紙の件で、と言ってくれればわかってもらえるわ」
一番華やかな手紙……もちろんララメル女王からの手紙のことだ。
ララメル女王に滞在してもらう部屋の用意と、タンザ国王が宿泊する部屋の確認もしておかなくちゃいけない。二人の部屋はなるべく離しておいた方がよさそうだし。
ユートレクトがいなくなった事情と今後についても相談したいから、他の重臣たちにも話す機会も作ってもらわないといけないしね。
はいかしこまりました、と頭を下げた官吏に、
「これからもよろしくね」
と声をかけると、はにかみながら笑ってくれたので、『なんでこいつのこと、今更陛下って呼ばなくちゃなんないのよ』とまでは思われていないのかな、とひとまず安心することにした。
ベイリアルがどうしてそんなことを言い出したのかとても不思議だった。
もっと正直に言うと……申し訳ないけど、気味悪くさえあるんだけど、いつまでもこのことばかりを気にしている余裕はなかった。今は目の前にある執務をこなすのが精一杯だった。
あれから……ユートレクトと扉一枚で隔てられてから。
しばらくすると、聞き覚えのない声が聞こえてきた。
細かい内容まではわからなかった。
聞いたことない声の問いかけに、いつもの冷静すぎる声が答えていた。
『世界機構』からまた通達のようなものが出されて、それを読み上げる奴にユートレクトが応じているようにも聞こえた。
そんなやり取りが何回か続いた後、
『ここには一人で滞在していたのか』
全身の血の気が引いた。
私と一緒にいたことが知れて、『世界機構』にいい印象を与えるわけがない。出頭猶予期間中に浮ついたことをするとは何事だ、と咎められるかもしれない。私と彼の関係が公になることより、そちらの方が心配だった。
このとき、私は玄関の扉から数歩しか離れていないところにいた。
部屋のどこかに隠れようかとも思ったのだけど、下手に動いて物音を立てる方がよくないと思ったので、その場に留まっていた。それに、少しでも彼の近くにいたかった……たとえ扉で遮られていたとしても。
『何の話だ』
相変わらずの冷静すぎる声に安心したのもつかの間、今度はまた別の聞き慣れない声が聞こえてきた。
『こんな大きな屋敷に一人でいたはずなかろう』
『釣りの跡がいくつもあるぞ、まさか出頭猶予期間に逢引でもしていたのではあるまいな?』
ここまでだったら、私の血の気が更に引くだけだったのだけど、その後にいやらしい笑い声が複数人分聞こえたところで、私の血の気は引くどころかむしろ倍増した。扉の向こうの『世界機構』の全員を殴り倒してやりたかった。
なんであんたたちが勝手に決めた罪のために、こっちが慎ましく暮らしてなくちゃなんないのよ。
私の……大切な人を返して!
悔しくてたまらなくて、唇の裏を噛みしめていると、
『それがどうした』
いつもに増して涼しげな声がした。
この声は聞いたことがあった。激しい怒りを抑えている時の声だった。
『出頭猶予期間は禁欲期間だと誰が決めたのだ? 世界機構規約にはそのようなことまで書いてあるのか。よもや卿らが全世界の家族計画にまで関与しているとは、汚らわしいことこの上ないな』
複数の足音が荒々しく近づいてきたのがわかったけど、とっさに足を動かせなかった。
いよいよこの扉がこじ開けられてしまう、と観念したその時だった。
『どちらを取るつもりだ』
大きな声ではなかった。
けれど、その声には人を無条件で従わせる力が備わっていた。
その証拠にこちらに近づいていた足音が一斉に止んだ。
『卿らが愚想する俺の女とやらを捕えるなら、それもいいだろう。
だが、卿らのうち一人でも欠ければ、二度と俺を捕えられないのではないか?』
最後の言葉尻に哀れなうめき声が重なった。
『その扉に指一本でも触れてみろ。この男の命はない』
思わず声を上げてしまいそうになったほど、凍てついた声だった。
私が知る彼の中にはない、闇の部分の彼を見たような気がした。
それでも怖くなかったのは、私が彼を信じているからに他ならなかった。
この男、と呼ばれたのは、どうやらこの一団のボスらしかった。
『閣下!』とか『卑怯な!』という叫び声が聞こえたことから想像すると、ユートレクトがいつの間にか『世界機構』の一番偉い奴を捕らえて、その喉元に刃物でもつきつけているんじゃないかと思えた。
やめろ、みな戻れ、という息もたえだえな悪玉のボスの声に、近づいていた足音が大きく遠ざかった。
その代わりに一斉に剣が抜かれた音がした。複数の切先が向けられたのは間違いなくあの人に違いなかった。
『ご、ご身分を考えよ、丁重に扱うのだ』
ユートレクトが武器を収めたのだろう。勢いを取り戻した悪玉のボスの空いばりな声がして、それに続く喧騒の後、足音が次第に遠ざかっていった。
こうして彼は私の前から姿を消した。
……体内時間で一時間後、扉の鍵を開ける音がして我に帰ると、なぜかマーヤとユートレクトの家の管理をしているパトリシアさんが入ってきた。
どうしてこの二人が私を迎えに来たのか……後からマーヤに聞いた話だと、ユートレクトの部下が私のことを気遣って、無骨な自分よりマーヤたちがそばにいた方が私が安心できるだろう、ということで連れて来られたらしかった。
このときは、そんなことに気を向ける余裕もなかった。
二人にどんな受け答えをしたのかはほとんど覚えていないけど、パトリシアさんが邸内の後片付けをしてくれている間、マーヤはずっと私のそばにいてくれた。
『姫さま、お加減はいかがですか』
私を心から案じてくれるマーヤの優しい声に、張り詰めていた糸がとうとう切れてしまった。
涙が後から後から湧いてきて、頷くことしかできなかった。
『行って……しまったの、遠くへ』
嗚咽を漏らしながら声を絞り出した。
『今度は、いつ会えるか、わからないの……!』
マーヤは私に何も聞かなかった。そうですか、とつぶやいただけで、優しく私を抱きしめてくれた。よほど私の様子がおかしかったんだろう。
なぜ彼が突然いなくなったのかと聞かれたら、返答に困って余計混乱したかもしれない。
しばらくの間、マーヤの優しさと温かさに甘えてじっとしていると、だんだん心が落ち着いてきた。
マーヤもそれを感じたのか、私の背中を撫でながら、
『大丈夫でございますよ、陛下』
一瞬、誰のことを言っているのかわからなかった。
『陛下のような素敵な女性を置いて、宰相閣下がどこへも行かれるはずがございません。必ずお戻りになられますよ』
宰相閣下という言葉に、あの人を思い出してまた涙がこみ上げてきたけど、
『どうして私のこと、陛下って呼ぶの』
奇妙な違和感を覚えて訊ねた。
『陛下はもう立派な淑女であらせられますでしょう?』
『……?』
『お顔を拝見すればわかります』
『そうかな、こんないつもと変わりない……っていうか、いつもに増して疲れた顔』
と口にしたところで、うかつにも初めて思い当たった。昨夜私に起きた変化のこと。
『陛下、ご心配には及びません。女の力はとても強力なのでございますよ。
男は火を前にした夏の羽虫のように、どんな危険を冒してでも女に焦がれ舞い戻ってくるのですわ』
間違いなくなんとも言えない顔になったはずの私に、マーヤはおひさまの笑顔をくれた。
おひさまの笑顔のわりには、とんでもないことを言ってくださったけど。
『お二人はもう全てにおいてつながりをお持ちなのでしょう? その絆があれば、近いうちに必ずまたお会いできますよ』
マーヤは『世界機構』からの通達のことを知らない。彼女がここに来るまでに起こった乱闘のことも。ユートレクトの部下がそれを漏らすわけはなかった。
私がひどく取り乱したのも、初めて男性と関係を持った直後に、その男性と別れなくてはいけなかったせいだとしか思っていないだろう。
だから、これ以上心配させるわけにはいかなかった。
『ありがとうマーヤ、いつも心配ばかりさせてごめんね』
またあの人に会いたい……ううん会うんだ、必ず、絶対に。
日だまりのように暖かなマーヤの笑顔に心の中で誓って、パトリシアさんが入れてくれたココアを飲んだ。身体だけでなく心にも温もりが染み込んだ。
*2020.6.15.『悪玉のボス』の台詞を一部書き換えました。




