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星の向こう側6*

******



 カーテンの隙間から漏れる陽の光が、まぶたを暖かく照らしていた。


「起きたか」


 その明るさに目を開くと、右側で私の寝顔を観察していたらしき人物の声がした。


「おはよう……寝顔見ないでって、あんなにお願いしたのに」


 昨夜、眠る前に私が頼んだことなんてこれっぽっちも気にかけていない人は、私からのため息まじりの苦情を無視して頬に口づけた。


「今更よだれのついた顔を見ても驚かんから安心しろ。それよりどうだ」


 いつもの冷静すぎる表情でひどいことを言うものだから、応戦しようとしたのだけど、最後の一言がなんだか気になった。


「どうだってなに、体調のこと? 大丈夫、おかげさまで釣りくらいならなんとかできそう……」


 そう答えてから改めてユートレクトの表情を見ると、何となく少し困っているような、残念そうなようにも見えた。

 氷上の釣りは座ってするものだから問題ないと思うんだけど、他に気になることでもあるのかしら。


「どうしたの?」

「いや、いい」

「なによ、何か隠してるでしょ。気になるから言ってよ」


 問い詰めても答えてくれないだろうな、と思いながら言ったのだけど、意外なほどあっさり答えは返ってきた。とんでもない答えが。


「その程度の余力しかないならやめておこう。男女の営みは強いてするものではない」

「……!」


 そういう意味の『どうだ』だったとは、夢にも思っていなかったので、昨日からもう何十回目かわからないけれどまた頬が熱くなった。


 できればご希望に応えてあげたいんだけど、まだ昨夜……経験した初めてのことの余波が身体から消えていなくて、大丈夫だから気にしないでとは言えなかった。全身に力が入らないし、頭もかなりぼーっとしている。


「ごめんなさい……」

「気にするな」


 ユートレクトがカーテンを開けた。日射しが暖かくて気持ちいい……とぬくぬくしていると、あることに気がついた。


「ていうか、まだ朝だよね」

「そうだな」


 平然と返ってきた相槌に、


「朝だよ、朝からその……つもりだったの!?」

「何か問題でもあるのか」

「大ありでしょ! こんな明るいところでその……そんなことになったら、いろいろ見えちゃうじゃない」


 冷静に考えたら、朝からそんなことをするなんて私の中では考えられないことだった。体調がよかったらとかいう問題じゃない。


「今更何を言っている。朝も昼も夜も、見るのには変わりないだろうが」

「変わるわよっ! それに朝からそんなことするなんて……」

「そういうことは、朝からできる身体になってから言うんだな」


 こっちを見て笑っている顔が、余裕に満ちあふれているような気がしてくやしかったけど、まだ昨夜の色を残した表情に魅せられてしまった。

 そんな私の変化に気づいたのか、すかさず、


「今からでも遅くないぞ、前言撤回するか」


 こういうことを言ってくるから、油断も隙もあったもんじゃない。


「いえ、本当に申し訳ないけど、お気持ちだけ頂いときます……」


 私だってご期待に添いたいのはやまやまなんだけど、と心の中でつぶやいていると、


「そうか、では明日だな」

「あ、明日? 明日は月曜日だよ!?」

「だからどうした」


 どうしたもこうしたもないでしょ、そんな月曜日から……と言おうとしたのだけど、


「今夜でも構わん、いやむしろ今夜がいいな。次は早い方がおまえのためにもいい、なぜなら……」


 わーーーだめだめ、これ以上はもう無理!


 ここから先の奴の発言を文字に起こすと、紳士淑女の皆さんが見るに耐えないものになるから、朝の描写はここまでにさせてもらうわね!

 文句はムードもへったくれもなく……下着一丁でうろうろし始めたあの男に言ってね!




 私がばかだってことは、今更言うほどのことじゃないけど。

 それにしても、色気がなさすぎる寝起きだったと思う。

 まあ、その……私をご所望してくださるのはもちろん嬉しいんだけど、もっと他に言いようはないのかしら。


 ないからああいう台詞たちになったんだろうけど。


 もっとこう……暖かなデュベの中で抱き合うとか、甘い言葉をかけ合うとか、普通っぽい展開になってもよかったのに。私と奴でまともを期待しても無理だったんだわ。


 いいじゃない、一応『私と』奴、って言ってるでしょ。私だって自分に色気がないのは自覚してるんだから。奴だけ悪いとは言わないわよ。


 私たちは今、別荘の前にある池の氷に穴を開け、そこに釣り糸を垂らして魚釣りを楽しんでいる。

 初めは針にえさをつけるのに苦労したけど、慣れると手早くつけられるようになって、ユートレクトと同じくらい魚を釣り上げていた。


「やるな」


 私のバケツを覗いたユートレクトが少し感心したように言ってくれたので、


「譲位したらこのへんに別荘でももらって、釣り人生活送ろうかな」


 軽い気持ちで答えたんだけど、


「それはいい、もうろくした老婆に居座られていては、次の国王も困るだろう。早々に隠居するんだな」


 あんまりな言いようだと思う。


 ユートレクトは私がお婆さんになったところを想像して気をよくしたのか、声を高くして言葉を継いだ。


「安心しろ、次の国王は俺が最初からきっちり教育してやる。おまえは他人の迷惑にならんように、日々魚を釣っててんぷらでも作っていろ」


 氷の下で魚が跳ねる音が聞こえた。


 ユートレクトと若い皇太子が(皇太女で想像できなかったのは、私が女王になって苦労しているせいだと思う)今の彼と私のように、二人で机を並べて執務しているところを想像したら、そこに私がいないのは、なぜだかとても寂しいというか不公平なような気がした。だからつい、


「がんこ爺さんが居座っても、若い王さまは困ると思うわよ」


 なんて言ってしまったのだけど、ユートレクトは、


「それはそうだ」


 意外と素直に認めた。だけど、


「後継が国王になる頃には俺も隠居する。後はザバイカリエがなんとかしてくれるだろう」


 なんておっしゃった。


 ザバイカリエの方があんたよりずっと年上なんだけど……とつっこもうしたんだけど、その前に、ザバイカリエが今のベイリアルみたいになってる姿が浮かんできて、つい笑ってしまった。


「何がおかしい」

「だって、ザバイカリエがじいみたいに『わしはもう年ですじゃ。あまりこき使わんでほしいものですのう』とか言ってるとこが頭に浮かんできちゃって、おかしくって」

「彼がベイリアルみたいなことを言うものか……いや、そうとも言い切れないか。人は年を取ると変わるものだからな」


 そんなザバイカリエも見てみたいものだ、と言いながら、ユートレクトは釣り糸を引き上げた。今まで釣った中で一番大きな魚が釣れていた。




 昨夜。

 ようやく結ばれて。


 本当に幸せだった、嬉しかった。


 思い出すと、頭だけじゃなくて足元もふわふわしてくるくらい浮き足立ってしまう。

 明日の執務がまともにできるか、心配になるほどに。


 右手の薬指で光る指輪が、幸せだけでなく不安も突きつける。

 結ばれた後で、彼が私の指にはめてくれたのは母君の形見だった。


 預かっておいてくれ、と。

 戻ってきたらおまえ専用のものを買ってやる、そう言って笑った。

 白銀の台座に水色の宝石がついた、上品なデザインの指輪だった。


 間もなく彼は『世界会議』に連行されてしまう。

 必ず帰ってくると信じていても、姿を見られなくなると思うだけで、どうしようもなく寂しくなった。


 こんな弱気じゃいけないのに。


 両手で頬を叩いて自分を叱りつけた。

 不安なのは彼も同じはずだから、私が支えてあげなくてどうするの。

 彼に少しでも安心して『世界機構』に行ってもらわなくちゃ。

 私の心配をすることなく戦えるように。


 この指輪はこれからずっとはめておこう……私専用のものを買ってもらうまで。


 王宮で顔を合わせる重臣や官吏たち、キアラさんにも何か思われるだろうけど、その心配よりも、私の思いとセンチュリアの温もりを、指輪を通して彼に届けられたらという思いの方が大きかった。


 遠いところに行ってしまう彼に、ほんの少しでもいいから力になりたかった。

 形のない思いだけれど、それでももし届けることができるなら。


 ……大切な指輪が輝く右手を、左手で包んでぎゅっと握りしめると、ボウルに入れた水と粉を混ぜ始めた。

 大分たくさん魚が釣れたので、一度揚げてみようということになって、魚につける衣を作っていたところだったのよ……もちろん私が。


「まだできんのか」


 昨日、お昼ご飯を食べたテーブルで臣下がお待ちかねだった。


「はいはい、すぐできるからもう少し待っててね」


 あと数十日の間、思い切り堪能させて。


 そこに横柄な臣下がいる幸せを。




 やがてほどなく揚がった魚たちは、それはそれは美味しかった。


「おいしい! やっぱり釣りたての魚は違うわね」

「まったくだ、何でも獲れたばかりのものが一番うまい」


 私たちはテーブルの上で魚を揚げながら食べるという、最高の贅沢を味わっていた。


「昔、王宮の後苑で育てていた果物をその場で採って食っていたが、あれを思い出す」

「つまり、王宮の農園的なとこで育てられてた苺やらりんごやらを、勝手に収穫してこっそり食べてたわけね」

「こっそりではない、堂々と頂戴したぞ」

「堂々と食べたって、それどう考えても盗みぐ」

「他にも色々植えてあったぞ。桃、梨、葡萄にみかん…佐藤錦は開いた傘を逆さにして木の下で待っていると、ベルナルトが泣きながら木を揺らして落としたものだ」


 私の台詞を遮った無礼はさておき、二つほどつっこみたい固有名詞が出てきたんだけど。一つ一つ教えて頂こうかしらね。


「サトウニシキってなに、新種の果物?」


 私にはお米の品種にしか聞こえないこの響きは、どんな果物なのか全く想像つかない。


「知らんのか、おまえの食堂でもアイスクリームの上に乗せているだろう、あれだ」

「さくらんぼのこと?」

「それの最高品種だ、うまいぞ。味に品がある」


 うん、確かに『マロ食』でもさくらんぼはアイスの上に乗ってるわ。

 お酒ばっかり飲んでると思ったら、細かいとこまでよく見てるわね。

 ていうか『おまえの食堂』っておっしゃいましたけど、『マロ食』は私が働いてた食堂で、私の所有物じゃないから。


 にしても、そんな最高品種の果物がぽんぽん植えてあるなんて、さすがはローフェンディアの王宮の農園よね。


「そうなんだ、今度『世界会議』でそちらの王宮に行ったら、ぜひ盗み食いじゃない方法で食べさせてほしいわ。

 で、ベルナルトさんってどなた? なんで楽しい盗み食いをするのに泣いてるのよ」


 油の中から浮かび上がってきた魚たちを取り分けつつ、もう一つ謎の固有名詞についても訊いてみる。


「ベルナルトは兄上の乳母兄だ。リースルの兄でもある。今度の行幸でも兄上について来るから覚えておけ。

 今でこそまともになったが、子供の頃はどうしようもない臆病者だった。俺たちの前で何度失禁したことか。

 それが今では皇帝主席秘書官だ。世も末だな」


 私の脳裏にあくまで私の想像上のものだけど、二十年前くらいの光景が浮かび上がってきた。


 王宮の後苑に侵入する四人の子供。

 一人は怖いものなしの皇太子。

 もう一人も同じく怖いものなしだけど、かわいげのない少年。

 紅一点の少女は、一見おとなしく可憐に見えるけれど、芯の強さを感じさせる雰囲気を持っている。


 皇太子に明るく悪事を持ちかけられて、冷静に賛同する少年とにっこり頷く少女。

 三人の視線を浴びて、反論することはするけど、多数決で負けて観念するごく普通の常識人ベルナルト少年。


 きっと、


『後で怒られても知りませんから! 僕は悪くないですから! やめておきましょうって言いましたからね!』


 とか言いながら、泣く泣く佐藤錦の木の枝を揺さぶったのね、かわいそうに。


「私よりも不幸な人がいるとは思わなかったわ。ベルナルトさんとは話が合いそうよ」


 私は会ったこともない皇帝主席秘書官に、心から同情した。


 皇帝主席秘書官といえば、クラウス皇帝の側近中の側近よね。

 乳母兄として、生まれたときからずっと一緒にいるなんてすごいと思う。それだけ仲が良くて信頼されてるってことよね。


 そうこう話しながら食べているうちに魚がなくなってきたのだけど、二人ともまだ満腹にはなっていなかったので、もう一度魚を釣ることにした。


「今回兄上が皇帝に即位されたとき、王宮の閣僚たちをほぼ入れ替えたらしい」


 そう言ってユートレクトは釣り糸を穴の中に垂らすと、懐中時計を磨き始めた。


「先の皇帝陛下とクラウスさまは仲が悪かったわけじゃないのに、総入れ替えしちゃったの?」


 不思議に思って訊ねると、


「父上の時代からの閣僚の中には、世代交代の際により高い地位に就こう、私服をこやそうと考える輩もいたのだ。

 他の皇子を次期皇帝にと望む者もいたしな」


 というお答えが返ってきた。


 やっぱりローフェンディアは権力闘争がすごいのね、と思っていると、ユートレクトが懐中時計をしまって、急にバケツの中身を氷の穴の中へ返し始めた。


「どうしたの、もう食べないの? まだお腹いっぱいじゃないのに。お腹でも痛くなってきたの?」


 心配して聞いたのだけど、未だローフェンディア帝国の皇族でいらっしゃる方は、私の思いやりがお気に召さなかったのか、無愛想にこちらを見ると、


「中に入るぞ、おまえも魚を湖に返してやれ」


 押し殺した声を私に向けた。


 鈍感な私でも危険を察したのだとわかる声だった。


 私も内心すごく動揺しながらもお魚さんたちを湖に返し、不自然に見えない程度に急いで後片付けを済ませると、二人で屋内に戻った。

 ここで慌てて片付けたら、危険の素の人たちが自分たちに気づかれたと察しちゃって、襲撃とかされる確率が格段に上がるから、あえて普通に片付けたのよ。


「……何が起きてるの、まさか暗殺者でもきた?」


 平然を装って言ったつもりだったけど、私の声は微かに震えていた。


 ユートレクトは私自身より私の不安を感じ取ってくれたようだった。

 黙って首を横に振ると、私の肩に力強い手を優しく乗せた。

 だけど、次に継がれた言葉は私の首を傾げさせるものだった。


「迎えが来たようだ」

「迎え……何の?」

「『世界機構』」


 その組織名は、私の顔から血の気を失わせるのに十分すぎる力を持っていた。


「どうして!? まだ期日までには時間が」


 かろうじて声量は抑えることができたけど、感情までは抑えられなくて、動揺しているのが丸わかりな声を出してしまった。


 だけど、突然『世界機構』が来たと聞かされて、驚かないでいられる方がどうかしてる。それに……


 落ち着け、という低い声と共に、肩に置かれていた手に力がこめられた。私は感情的になった思考を理性の方へ引き戻そうと、


「どういうことなの、まだ期日前なのに。しかもこんな所にまで来るなんて。違法行為じゃない、何のつもりで」

「もう一度言う、落ち着け」

「落ち着いてるわよ、冗談じゃないわ、ただでさえ難癖つけてきているくせに何様のつもり?

 その上、期日前にあんたを連れて行くっていうの? 何の権限があってそんな」


 ひどいことするの?


 ……だめだ、頭ではわかってるのに。

 きっと彼が今から事情を話してくれるはずだから、落ち着いて聞かなくちゃって。


 でも、どうしても心がついてこない、ついてきてくれない。


 今彼を連れて行かれたら、当分……もしかしたら、一生会えないかもしれない。

 そう思っただけで、胸が締め付けられる、涙がこみあげてくる。


 どうしてこんなに思いが抑えられないんだろう。答えは一つしか考えられなかった。


 思いがようやく通い合って、心も身体も一つになったばかりだから、やっと、昨夜。


 いやだ、まだ離れたくない、一緒にいたいずっと……!


 やっぱり私はこの人にふさわしくないのかもしれない。

 冷静でないといけない時にも、こんな風に取り乱してしまうなんて。


「ごめんなさい……」


 震える声で謝る私を、不思議なことにユートレクトは責めなかった。

 怒られると思っていたから意外だった。


「わかってる、冷静にならなくちゃって、でも抑えられなくて。ごめんね、もう大丈夫。

 だから教えて、どうしてあの人たちが今ここに来たのか……知ってるんでしょう?」


 まだ涙声だったけど、なんとかこれだけ言うと、ユートレクトは私の肩に置いていた手を背中に回して、優しくさすってくれた。そのおかげで私の気持ちも落ち着くことができた。


「昨日も言ったが、こちらも水面下で工作をしている。

 もしかしたら、それを感づいた武闘派の奴らが実力行使に出たのかもしれん」

「え、それじゃあ工作が失敗したってこと?」

「まだそうとは言い切れんが、手元の情報が少なすぎて判断できない。

 ただ、この件には様々な人間の思惑が絡んでいる。

 事の次第によっては、災い転じて何とやらということも考えられるが……今のところあまりいい状況とは言い難い」


 最強の臣下は相変わらずどこまでも冷静だった。

 どうしてこんなに落ち着いていられるんだろう。

 どうも『世界機構』側にユートレクトの協力者もいるみたいだけど、それにしたって、敵が自分を捕らえに来てるっていうのに。


 私は頭をぶんぶん振って、悲観的な気持ちを吹き飛ばそうとした。

 この人がこんなに冷静なんだもの、きっと思うところがあるに違いないんだわ。


 それに約束したんだから、何があっても信じるって。


 私は手の甲で涙を拭うと、頭一つ分上の高さにある人の顔を見上げた。


「もう、すぐそこまで来てるのよね、その人たち」

「ああ」

「私に何かできることはない? 例えば奴らを撹乱するとか」


 ユートレクトは私の顔を見ると、何がおかしいのかすがすがしいほどの笑顔になった。


「ちょっと、この非常時になんで笑ってるの、私の顔に変なものでもついてるとか言うんじゃないでしょうね」

「おまえの顔の造作に今更笑うほど、俺が鈍感だと思うのか。二つ頼みがある」


 とても不審な笑顔のままユートレクトは続けた。


「重臣達には俺が『世界機構』に連行されたとは絶対に言うな。

 諸般の都合でしばらく他国に潜伏することになったとでも言っておけ。もっとも、言わなくとも『世界機構』がらみだと察するだろうがな。それから」


 見上げていた顔が急に降りてきて、人差し指一本分の距離に近づいた。


「俺は白が好きだ」

「?」

「俺がいつ帰ってきてもいいように、身につけるものの準備を怠るなよ」


 ……そうなんですか。

 では、昨夜はご満足頂けたことと存じますわ。


 じゃなくて!


「なに色ぼけたこと言ってんのよ、この非常時に、この……!」


 女王にあるまじき下品な言葉が口に出かけたので、最後の理性で悪態を止めたけど。

 言われた方は、先ほどからの(私にとっては)根拠のない笑顔を絶やすことないまま、更に顔を寄せると唇を重ねた。


 長くはない、けれど互いの思いが深く交わりあった口づけの後、ユートレクトはつぶやいた。


「その元気があれば、何の心配もいらないな」


 どうしてそんなこと言うの? そんなこと言うから、また泣きそうになるじゃない。


 だけど、元気じゃないとは口が裂けても言いたくなかった。

 これ以上彼の心配事を増やしたくなかった。


「そうよ、元気だけが私の取り柄だもの」


 どうしてかさっぱりわからないけど、元気そうに見えてるなら、そう思い込んでてもらおうと思って、私は見え見えの虚勢を張った。

 だというのに、いまだに謎の笑顔を保っている男は、改めて私の顔をまじまじと見て一言、


「おまえの取り柄は暗い思考回路ではなかったのか」


 なんて図星のことを言うもんだから、やぶれかぶれになってしまった。


「そうよ、元気に暗い方暗い方に考えるの! なんか文句ある!?」

「またわけのわからんことを」


 あんたの方がよっぽどわけわかんないわよ! と応戦しようと思ったのだけど、ユートレクトが急に謎の笑顔を引っ込めた。周りの気配を探るような鋭い視線に、私の緊張感も否応なしに高まった。


「もうそこまで来てるの?」

「ああ」


 押し殺した私の声に、いつもの冷静すぎる顔に戻った臣下は短く頷いて、


「今から一、二時間後、ここに俺の部下が様子見で来ることになっている。

 そいつには事情を話して構わない、彼に王宮まで送ってもらえ。

 それまでは絶対にここを動くな、何があってもここから出て来るな」


 そう言うと私の背中に回していた手を解いた。

 今までのどんな触れ合いの終わりより寂しかった。


「わかった……じゃあ待ってる」


 どれだけ泣けば済むのか、また瞳に熱いものがこみ上げてきたけど、女の根性で押しとどめて。


「私とセンチュリアは大丈夫。どうにかなるし、なんとかするから」


 外から不自然な木々のざわめきが聞こえる。昨日も今朝も、こんな音は聞こえなかった。


 今からのやりとりが最後の会話になるかもしれない。

 私は大きく息を吸い込んだ。


「だから、あんたはここに帰って来ることだけ考えて……白の勝負下着つけて待ってるからね!」


 とにかく明るく見送りたかった。私は放置しておいても大丈夫だって思ってほしかった。


 明らかに女王にあるまじき激励だったけど、ユーモアのセンスがあまりない私にとって、今はこれが限界だった。


 ユートレクトは黙って私に背を向けると、そのまま戸口へ向かって言った。

 こんなときはやっぱり、好きとか愛してるとか言った方がよかったかな……と落ち込んでいると、


「俺を信じることも重要だが、最後は自分自身を信じろ」


 かすれた声が聞こえた。


「おまえは俺の女王だからな」


 肩越しに見せた笑顔は、今までに見た中で一番不敵で精悍だった。


「俺が戻るまでに十分な体力をつけておけよ、帰って来たら朝までだ」


 ……もう!


 『おまえは俺の女王だ』って言ってくれて、また涙が出そうなほど嬉しかったのに、どうしてそうやって変な方向に話をもっていくの! そこは私の発言に合わせてくれなくていいってば!


 お互い余計なことを言ってしまうのは、似た者同士ってことなのかしら。


 そう考えたとき、なんだかまた彼と近くなれた気がして顔がほころんだけど、


「なに言ってるの、ちゃんと寝るに決まってるでしょ!」


 ……だめだ、今は照れ隠ししてちゃいけない。


 言葉にして、声にして伝えなくちゃ。

 それが二人の力になるって知っているから。


 私は恥ずかしくてまだ数回しか口にできていない彼の名前を、勇気を振り絞って呼んだ。

 冷静すぎる彼の表情が、ほんのわずかにだけど変わったような気がした。


「いってらっしゃい……だいすき!」


 視線の先で崩れた不器用な笑顔を、私はこの先ずっと忘れないだろう。


 扉は私を残して閉ざされた。

2021.6.10一部訂正しました。

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