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星の向こう側5

*****



 脱衣場のドアを閉めると、思わずため息が漏れた。

 洗面台の鏡にしかめ面の顔が映っている。もちろんかわいくない。


 両手で頬を二回叩いた。

 しっかりするのよアレクセーリナ・タウリーズ、今日は……


 誰なのよ、意識しすぎとか言う奴は。

 意識するなという方が無理なんだから。

 かといって、全く意識しないでいたら、色気がないとか言うくせに。うん、絶対言うに決まってる。


 どうしろっていうのよ、男ってやっぱりわかんない!


 心の中で叫ぶと、鏡に背を向けて服を脱いだ。自分の裸を見たくないから。

 服を全て脱ぎ終えると、振り返らずそのまま浴場へ入った。


 当たり前だけど、この寒いのに水浴びなんかする訳はなく、温かいお湯を全身に浴びた。

 それほど身体が冷えているとは思っていなかったのだけど、お湯の温かさが肌を伝って、全身にいき渡っていく感覚がとても心地よかった。少しは冷えていたのかもしれない。


 お湯を浴びながら、身体のあちこちを見直す。

 昨晩念入りに整えておいたので、見苦しいところはないと思う。

 いつもより少しだけ丁寧に全身を洗って泡を流すと、浴場を出た。


 脱衣場で身体を拭いて……そういえば、着替えはここにあるとユートレクトが言っていたっけ。


 洗面台のとなりにある棚を下から順に開けていくと、三つ目の引き出しに淡いピンク色の少し大きな袋が入っていた。

 中を開けてみると、女性が身につけるもの一式が綺麗に収められていた。

 これもパトリシアさんが用意してくれたのかしら、とか、今日身につけていたものはどうしよう、このかわいい袋に入れて持って帰ろうかしら、などと考えながら着替えていくと。


「……」


 またしてもなかった。

 白い寝巻きの下半身が。


 これはパトリシアさんのど忘れなんかじゃない、間違いなく奴の陰謀よね。


 しかもこの寝巻き、女性用なので、前回ほど私の脚を隠してはくれない。

 かろうじて下着は見えないけど、太腿がほとんどあらわになってしまう。

 脱衣場のあらゆる引き出しを全部開けて、寝巻きの下半身や脚を隠せるものを捜索してみたけど、それらしきものは出てこなかった。


 こんなことされてね。

 どうやってね。

 平気な顔していられるのよ!


 まだきちんと話さないといけないこともあるのに。

 これからのこと……愛人関係しか結べないこと。

 あんたは『俺の考えは既に示しているだろうが、何を今更』とか考えてそうだけど、こっちはちゃんと言っておかなくちゃと思ってるのに。


 ……下半身にさっきまで着ていたスカート履いてやろうかしら。


 いやいやいやいや、それはちょっと奇妙な格好すぎる。

 それこそ『意識しすぎ』とか言われそうな気がするので、とても残念だけどやめておくことにした。


 いいわよ、そっちがその気なら、こっちだってやりたいようにさせてもらうわ。

 このままの格好で、色気ないこと話してやる。

 私がこんな話をする前に、変な格好しか用意してない方が悪いんだからね!


 私は意を決すると、脱衣場のドアを開けて外へ出た。


 台所に着くと、生脚がお好みらしい臣下は、殊勝にも自分が使った食器を洗っていた。私の気配にすぐ気がつくと、


「冷水でよく頭を冷やしてきたか」


 のん気な軽口にちょっとだけかちんときたけど、彼の視線が私の全身を素早く……そして深く捉えたのに気がついてしまうと、気の利いた返事ができなくなった。浴びてないよ、と言うのがやっとだった。


 いつもは鈍感なのに、今日に限ってどうして気づいてしまったんだろう。


 私の脚なんか見て何が楽しいんだろう。


「あのね、色気のないことだから、今のうちに言っておこうと思うんだけど」


 私は臣下が洗い上げた食器を拭こうと、布巾ふきんを手にとって奴の横に並んだ。


「いい心がけだ、やっと学習したか。それでどんな色気のない話題だ」

「私ね、自分なりによく考えたんだけど」


 『あなたを愛人としてしか遇せない』


 この台詞を声にする前に、突然涙がこぼれてしまった。


 心はもう決めている。これしか選べないこともわかっている。

 だけど、さっきはなかった弱気な思いが、無意識のうちにあふれ出てきてしまった。

 彼に嫌な思いをさせないだけの主君になれるの、本当に?


 そして、もう一つ今になって湧いてきたのは、私の些細で子供じみた夢だった。

 普通の結婚をして、普通に誰かの妻になること。


 女王になった時点で、普通の人生は望めなくなったと、頭ではわかってはいた。わかっていたはずだった。

 けれど、幼い頃からの漠然とした憧れを完全に捨てられてはいなくて。

 ごく普通の平民として暮らしてきて染み付いた価値観は、覆せていなかった。

 弱気な自分にも腹が立ったけど、本当の意味で女王になりきれていなかったことに、今更ながら気づかされた。


 でも、もう……決めた。


 どうしようもなく弱気なことを考えてしまうのも私だけど、この結論に至れたのも私。

 だから一歩踏み出そう、目の前にいるこの人のためにも。


「どうした」


 涙は二、三粒落ちただけですぐ止まってくれたけど、声はすぐには出せなくて、答えることができなかった。


 ユートレクトはそんな私を急かすことなく待ってくれた。

 私に触れないでいてくれたのが嬉しかった。触れられたら、理性的に話せなくなりそうだったから。


 私は呼吸を整えると、少しずつ声を絞り出した。


 これからの彼との関係のこと……将来のことや王政のこと、彼の気質も考えると、愛人関係でしかいられない、私にはその結論しか導けなかった、と。


 ごめんなさい、と言いたかったけれどその言葉は飲み込んだ。

 私の選択を受け入れると言ってくれた彼に、かえって失礼な気がした。


「やはりその話だったか」


 洗い物を終えたユートレクトは、私から布巾を取り上げると食器を拭き始めた。


「自分で結論を出したな」

「うん……」


 淡々とした声に少し怯えて、謝罪の言葉が口をつきかけたけど、心の中で頭を振った。


 今ここで謝ったら、自分の判断を否定することになる。

 そうしたらどうなるの? また二人の関係が曖昧なものになってしまう。

 私はこの国の君主で、彼は私の臣下。お互いに私的な感情を優先させることはできない立場にある。

 私が定めた道を支え、守ると言ってくれた、彼に応えるためにも……


 口、喉、胃、肩、腕、脚……全身の力をこめて『ごめんなさい』を喉の奥に封じ続けながら、彼の言葉を待った。


 やがて、私の肩に大きな手が降りてきた。


「それでいい」


 先ほどまでの淡々とした声ではなかった。

 いつもの冷静すぎる声でもなかった。

 聞いたことのない声色に、彼の気持ちが推し量れなくて不安になった。


 少し怯えながら顔を上げると、今までに見たことのない表情で私を瞳に映す臣下がいた。その眼差しの深さに、自分が自分でなくなったような気がした。


 私はそんな目で見られるような立派な人間じゃない、あなたに……敬われるような人間じゃないのに。


 私の肩からユートレクトの手が離れたかと思うと、急に彼の頭が低くなった。

 驚いて視線を下に向けると、片膝をついて頭を垂れる彼の姿があった。


「ちょっ……何してるの!? やめてよそんな」

「黙って立っていろ!」


 慌ててやめてもらおうとした私を、低く鋭い声が制した。

 どうしてこんなことするの、と言い出せないほど、その声は真剣で有無を言わせない迫力があった。


 だけど、どうしていきなりこんなことするの?

 頭を下げないといけないのは、むしろ私の方なのに。


 気が動転してる私に、彼はもう一度、


「情けなく腰をかがめるな、背筋を伸ばせ」


 と釘を刺した。


 不安で仕方がなかったけど、ここでまだ動揺していたら更に叱られそうな気がして、かがめていた腰を伸ばすとまっすぐ前を向いて立った。


 私が表向きは落ち着いたと見ると、ユートレクトは静かに私の手を取った。

 壊れ物に触れるかのようにそっと、優しく、そしてうやうやしく。こんな風に触れられたのも初めてだった。

 心臓が燃え出しそうなほどびっくりしたけど、おたおたしたらまた怒られると思って、精一杯直立不動を保った。


 多分、私が混乱しているのなんてお見通しなんだろうけど、いきなりこんなことされたら、びっくりするに決まってる。だって、これって……


「……わが女王陛下」


 私の心の中に浮かびかけた妄想は、その声にかき消された。


 今、なんて言った?


 私のこと、この人はなんて呼んだの?


「陛下のお覚悟、しかと賜りました」


 空耳じゃなかった。幻聴でもなかった。

 初めて、ちゃんと呼んでくれた。ふざけてでもなく、公的な場だから仕方なくでもなく。

 『陛下』と。


 少しでも『プロポーズ』なんて考えた自分が恥ずかしかった。そんなものより何百倍も嬉しかった。


「私の使命は、陛下とそのお覚悟をお守りし、お支えすることです……この生涯かけて」


 低いけどよく響くその声は、私の心を今までになく強く揺り動かした。

 口にしてくれた信じられないほどの言葉には、重い決意と暖かい思いと……何か深くて尊いものがこめられている気がした。


 その深くて尊いと感じたものの正体がわかったとき、そんな大切な思いを向けられるのが恐れ多くて申し訳なくて、心が震えるのを止められなかった。


 台詞だけを見たら、うぬぼれかもしれないけれど、プロポーズと言えないこともないのかもしれない。

 だけど、私がそれよりも嬉しかったのは……


「初めて、おまえをまともに陛下と呼んだな」


 私の心は、今までの人生で一番ざわついてどうしようもないのに、どうしてあなたはそれほど簡単にいつもの調子に戻れるの?


「なぜだと思う?」


 いつもの冷静すぎる口調のくせに、その宝石のような眼差しのままで、そんな風に微笑まないで。

 私、思いあがってしまう、舞いあがってしまう。


 やっと『あなたの』主君として認めてもらえた? って。


 また揺らいでいく視界の中に、私の手を取ったまま立ち上がる最強の臣下が映った。


「よく頑張ったな」

「う……ん」

「これからも何も変わらんがな。お互い溝に落ちそうになったら引き上げるぞ」

「うん……!」


 背中に回された腕に、手に、感じたのは、私を柔らかく包んでくれる温もりだった。

 ゆっくりと私の背をさする手は、とても優しくて、ほどなく涙を止めてくれた。

 彼の手の感触と、広い胸の内が心地よくて瞳を閉じた。

 このまま時が止まってもいいと思った。


 この人と、これほどまでに深い関係になるなんて、去年の今頃は欠片ほども考えていなかった。

 去年の『世界会議』に初めて一緒に出席して、それから距離が縮まって……あの時も、一国の君主として至らないことを思い知らされた。女性として未熟なことも。


 今もまだまだ足りないことだらけだけど、それでも彼は選んでくれた。

 一番尊敬している人が、私を。

 その事実が少しずつ心を満たして、私に勇気をくれる。


 彼にもらっている心地よさを、ぬくもりを、私も返したい……


 ゆっくり彼の背中へ手を回し、敬愛と感謝を込めて力を入れた。


 少し恥ずかしいな、なんて思う余裕もあったのに、それが一瞬でなくなったのは、彼が私の背をなでていた手を止めて、私を抱く力を強くしたからだった。


 先ほどとはまるで違う力強さに、驚きと別の感情が揺さぶられて、言葉にできない声が宙に漏れた。

 今度は顔が燃え尽きてしまいそうなほど恥ずかしかった。その恥ずかしさに拍車をかけるように、


「抱き合うだけでもくるだろう」


 私の耳元で囁かれた声には、いつもの冷静さだけではなく別の色も混ざっていた。

 あんな反応をしておいて、否定しても嘘になるだけだから、黙って頷いた。


 彼の腕により力が入った。

 私も抱きしめるというよりしがみつく手を強くした。

 身体の内で絶えることなく湧き上がる激しいものを抑えるために。

 彼にも私と同じものを感じてほしくて。


 抑えられなくなりつつある感覚が、吐息になってこぼれ出していく。

 彼の息遣いも私の耳に留まるほど穏やかではなくなっていた。


「言い忘れていることはないか、あれば今のうちに言っておけ」


 台詞は理性的だったけれど、声音は違っていた。

 内にあるものを無理に抑えているのがわかった。

 今口を開いたら、いつもと違う声が出てきそうで、黙って首を振った。


「……本当にいいんだな」


 とうとう何かを解き放ったかのような声に顔を上げると、いつか見た熱をはらんだ水色の瞳があった。


 彼の大きな手が私の両肩を包んだ。身体がゆっくりと動かされて、背中が冷たい壁に触れて。


 素肌があらわになっている両脚の間に、何かが割って入った。

 彼の膝だった。

 その感触に、こらえていた衝動が唇を力づくでこじ開けて、再び空気を震わせた。


 どうしようもなく恥ずかしくて、慌てて視線を逸らそうとしたとき、


「今日は、何があっても止めない」


 彼の剥き出しになった情念が、私の全身を駆けめぐった。

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