星の向こう側2
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……なななななっ!
なんてことを言ってくださるの、このおばちゃんは!
『はいそうです』とはもちろん言えないし、かといって、『まさか、冗談言わないでよおばちゃん!』とか言って否定したり、『ち、違うの、今日は久しぶりに市街地を視察しに来たのよ』なんて嘘をつく気にもなれなかった。
普段の私なら間髪入れずに否定したと思うけど、今日はこの場をやり過ごすためだとしても嘘は口にしたくなかった。
だって、誘ってくれたんだから。
『今度こそ、気の利いたところに連れて行く』って言ってくれたんだから。
嘘をついたり否定したりしたら、そんな彼の気持ちを壊してしまうような気がした。
それでも、このまま黙っている訳にもいかない……だけど、やっぱりどう返答したらいいのかわからなくて、まごまごしていると、
「女将はどう思う」
背後から今後の政治情勢でも訊ねるみたいな、落ち着き払った声がした。
おばちゃんは、さすが中年女性というべきか、あくまで冷静すぎる表情のわが臣下に戸惑うこともなく、
「そうだねえ、こんな休日にくだけた格好で街を歩くなんて、やっぱり今日は視察じゃなくてデー」
と断定しかけたところで、
「いやおばちゃん、姫さまにはもう決まったお相手がおいでになるって話だぜ。なんていう名前だったかな、えーと……」
となりの綿菓子屋台のお兄さんが、話に割って入ってきた。
って、ちょっと待った。『決まったお相手』って誰のことよ。
まさかアンウォーゼル捜査官、私たちの縁談のことを、善良な国民の皆さんにまで言いふらしてるんじゃないでしょうね。
可能性がないと言い切れないことが、私の気分を滅入らせた。
お兄さんだけでなくおばちゃんまでも、私の『決まったお相手』の名前を思い出そうと首をひねっていたけど、幸いなことに、二人の口からアンウォーゼル捜査官の名前は出てこなかった。
お兄さんは、でも姫さまに婚約者がいらっしゃることに変わりはないんですよね、と断定した後でこうつけ加えた。
「それに、宰相閣下にだって、ローフェンディアに将来を誓った方くらいいらっしゃるんじゃないですか? まさか大帝国の皇子さまが、一生こんな小国にいらして骨を埋めるはずが……」
お兄さんの語尾がしぼんだのは、一応この国の女王である私の前で不敬な発言をしたと思ったからだろうけど、とがめるつもりはもちろんなかった。
ユートレクトが私に仕えてくれていることは、他の誰よりも私が一番信じられない気持ちでいたから。
だけど、お兄さんが申し訳ありません、と頭を下げるのを制していると、
「婚約者はいない」
気圧の低い声が頭の上を通り過ぎた。
「ローフェンディアに戻るつもりもない」
淡々とした口調だったけど、私には彼が次に何を言おうとしているのかわかってしまった。
「この国の宰相は、忠誠を誓った国で生涯を終えることも許されていないのか。
それに、こんな小国とは、貴殿が足を着けているこの地のことか。
そうだとすれば、今の貴殿の発言は、この地を治める陛下に対して明らかな不敬にあたるが」
「待って、そんなこと誰も言ってないでしょ」
今すぐ屋台をたため、貴殿を憲兵に引き渡す、と続けたユートレクトを慌てて止めた。
「あなたにとっては、ローフェンディア皇族の肩書きは邪魔なだけかもしれないけど、この国の人たちにしてみたらとても栄誉あるものなのよ。私だってそう思ってたわ」
もう幾度となく浴びてきた、氷と雪の入り混じる眼光を受け止めながら、どうにかこの場を収めたくて言葉を探した。
「お兄さんも、別に私やセンチュリアを軽んじてるわけじゃなくて、純粋にそう思ってるだけよ。
だって、うちは本当に小国じゃない。事実を言って何が悪いの? それでも納得してくれないなら」
だけど、これ以上穏便な言い回しを思いつけなくて、私は爆弾になりかねない手札を切ることにした。
「私が不敬罪にあたることを言われる君主なのがいけないのよ。
私がもっとしっかりした女王になれば、みんなもあなたが気にするようなことを口にしなくなるでしょう、違う?」
私の後ろでお兄さんが、そんなことはありません、姫さまは今でも素晴らしい女王さまでいらっしゃいます、とか言ってくれているけど、今はお兄さんに向き直ってお礼を言っている余裕はない。
元はみんなと同じ平民だった私に対する不敬罪とやらで、誰かが罰せられるなんて耐えられなかった。目の前の人にはそんな考えが甘いと映るのだろうけど。
ユートレクトは冷たい視線の矛先をお兄さんとおばちゃんに向けたまま、
「覚えておくといい、これが貴殿たちの主君だ」
そう言い残して踵を返すと、次の屋台を探しに行ってしまった。
私はおばちゃんにお金を払って焼きそばをもらうと、土下座しそうなお兄さんをなだめすかして、急いで最強の臣下の後を追った。
なんだか私、しょっちゅうこの人を追いかけてるような気がするけど、気のせいじゃないわね。
ユートレクトは先ほどの焼きそば屋さんから、そう離れていない握り飯の屋台を眺めていた。
私が自分のとなりに来たことを目の端で確かめると、歩き出したのはいいんだけど、
「あの屋台の握り飯は全部おまえが握ったのか、おぞましいことだ」
突然わけのわからないことを言い出した。
「そんなわけないでしょ。大体、私のどこに握り飯作ってる暇があるっていうのよ」
「あの忌まわしい形状を大量に見たら思い出した。
昨年の『世界会議』の期間中、どこぞの女王が自分を誘拐した雇われ暗殺者集団と、意気投合して飲み食いし明かしていたことを」
何の話かと思えば大分昔のことを掘り出してきたから、思い出すのに時間がかかったけど、こういうことよね。
去年の『世界会議』中、私はさるローフェンディア皇族の手先に誘拐されたのだけど。
首謀者である某皇族が、手下である誘拐犯たちにも暴力を振るうとんでもない輩で、その現場を目の当たりにした私は、誘拐犯たちを説得して味方につけたってわけよ。
……ユートレクトの名前を出して脅しただけじゃないか、とか言っちゃだめよ。
ちなみに、この時の誘拐犯の皆さまは、現在ユートレクトの手下としてこき使われている。お気の毒に。
余談だけど、東十九番街を視察したとき、先に東十九番街に入って私たちが立ち入っても大丈夫な状況か見てきてくれたのも、この元誘拐犯チームの人なのよ。
ごめんね、話が思い切りそれたわね。
確かにあのときは、ローフェンディア皇妃のリースルさまのお命が狙われていたし、ローフェンディアの首都も洪水に見舞われていた。
そんな緊迫した状態のうえに私が誘拐されたものだから、ユートレクトも血相を変えて私を助けに来てくれた。
だから、恨みつらみを言われても文句は言えないんだけど、どうして握り飯を見てあのときのことを思い出したのかしら。
「……それは、あのときは申し訳なかったけど、それが握り飯とどういう関係があるのよ」
「あのときおまえは、俺がせっかく確保してきてやった夜食など無駄と言わんばかりに、誘拐犯どもと飲み食いしていたな」
「そこまで食べ漁ってないわよ」
本当にそれほど食べてなかったからありのままのことを言ったのだけど、食べ物の恨みは恐ろしいと言うべきか、大食いの宰相閣下は私の発言にはまるで耳を貸さなかった。
「それならば、ありがたく全て一人で食ってやろうと思ったら、事もあろうに持って来た握り飯の一つが、おまえが握ったものだと言うではないか。ここまでおぞましいことがあるか」
淡々と失礼なことを言うと、食い物の恨みを決して忘れない臣下は、次に目指す屋台を見つけたらしく歩調を早めた。ひどいわよね、そこまで私の作った握り飯を嫌わなくてもいいじゃないのよ。
誘拐されたとき、私はローフェンディア王宮の厨房でリースルさまやララメル女王と炊き出し用の握り飯を作っていたのよ。褒められたいとは思わないけど、避難されることじゃないと思う……って。
なんか話が変な方へそれてないかしら。大事な事を忘れてる気がするんだけど。
あ。
私が『不敬罪』の三文字を思い出した頃には、ユートレクトは串焼きを十本買い、また別の屋台を物色し始めていた。
もしかして、さっきの私の発言をなかったことにしてくれているのかしら。
いやいやいやいや。
まさか、そんなことがあるわけない。
たまたま、握り飯が目に入ったから話題にのぼらなかっただけで、あんな重大な失態(よね、奴にしてみれば)を奴が忘れるわけないんだわ。
後で怒られるくらいなら、今怒られた方が気が楽ってものよね。
元々みんなと同じ平民の私に対する言動で、センチュリアの誰かを『不敬罪』で罰したくはない……たとえ甘いと言われても。
「ねえ」
私は一見のんきに屋台を見物している風の臣下の袖を引っ張った。
「なんだ、いい屋台があったか」
「そうじゃなくて」
信じられないくらい、いつもの冷静さを保っている臣下に、私は思い切って謝罪と主張をすることにした。
「あの、さっきのこと、ごめんなさい」
冷静すぎるまなざしに、鋭いものが混じった。
喉の奥が震えてきたけど、勇気を振り絞って声を出した。
「でも、さっきのことはやっぱり、不敬罪とかそういうのには当てはめたくないの」
「ああ」
「……へ?」
今、私の耳には耳栓は入っていない。
だから、ちゃんと聞こえてると思うんだけど、確かに『ああ』って言ったわよね。
それって、私の言ったこと肯定してることになるんだけど、いいの?
全く予想していなかった相槌に、間の抜けた声しか返せないでいると、
「俺の言うべきことは言った。後は君主たるおまえがどう判断するかだろう」
宰相閣下はそうおっしゃって、『お好み焼き』と書かれた屋台へ向かっていってしまわれた。
これは。
まさか、もしかして、ひょっとすると、ありえないけど、信じられないけど。
私の言ったこと、怒ってないのかしら。
……いやいやいやいや。
私は思い切り頭を振った。
わが最強の臣下はといえば、ちょっとくらくらする視界の先でお好み焼き屋のおじさんと楽しそうに話している。
まもなくユートレクトは、まいどあり! というおじさんの景気よさそうな声を背にして、こちらへ戻ってくると、
「あとは芋か、それともパンか」
私が食べたいと思っていたものを的確に言い当てた。
こういうところもすごいとは思うんだけど、今の私にはもっと心配なことがある。
「どっちも欲しいんだけど、ちょっと聞いてもいいかな」
さりげなくお芋とパンは希望しておいてから、聞いてみることにした。
「なんだ」
「あの……もしかしてなんだけど、さっきのこと、怒ってなかったりする、かな?」
とても遠慮がちに訊ねたんだけど、宰相閣下から返ってきたのは冷たい視線と、
「この国の君主は誰だ」
彼お得意の『問いかけの問いかけ』、しかも、私の質問にまるで関係なさそうな問いかけだった。
「それは私だけど、だか」
「ならば、俺の機嫌を伺うようなまねをするな」
だからどうしたの、と続けようとして被せられた言葉は、私の心をえぐるのに十分過ぎた。
そんなつもりじゃなかった。
だけど、自分が正しいと思っているなら他人がどう思うかなんて気にしなければいい、と言われればその通りだった。
それでも、彼が私の判断をどう思っているのか気になるのは、私にとっては仕方のないことだった。
私に君主としてのあり方を本当に教えてくれたのは、彼なのだから。
彼に認められれば嬉しいし、眉をひそめられれば悲しいと思ってしまうのは止められなかった。
それも『機嫌を伺う』ことになってしまうの?
気がつけば、手足が震えていた。
けど、それは怯えているからじゃなかった。
私の言動を『機嫌取り』と言われたことに、腹が立っているからだ。
今までの私なら、心を震わせて『ごめんなさい』としか言えなかったかもしれない。
なぜか、今日は違っていた。
怖いことは怖い。でも、私と彼が今日こうして一緒にいるのは、主従だからじゃない。
「ご機嫌取りするくらいなら、最初から歯向かったりしないわよ」
ユートレクトの眼がわずかに細められたのがわかった。私のこの返答は予想してなかったんだろうか。
「おとなしくしてて、あの屋台のお兄さんを不敬罪に処してもらうわ。その方が賢いじゃない」
私の語気が荒くなってきたのに気づいてか、ユートレクトは人ごみを抜けて路地裏へ入るように首を動かした。
こんなところで言い争っているのを市民の皆さんに見られるのは、さすがに恥ずかしいのでおとなしく従うことにした。
「……私、いつも怒られてるから、たまに怒られなかったらすごく嬉しいんだもの」
路地裏に入ったところで、私はまた口を開いた。
どうしてこんなことで言い争ってるんだろう……私が一方的に腹を立ててるんだけど。
せっかくのデートなのに。
「でも、本当に怒ってないかどうかは、聞いてみないとわからないもの。だから聞いたの。今更媚びたりしないよ」
それとも、まだ私には彼のそばにいる資格がないの? 彼を不快にさせる物言いしかできないなんて。
喉の奥が熱くなってきて、こみあげてくるものに耐えていると、
「わかった」
おなじみの冷静すぎる声がしたけど、いつもの声音とは少し違うような気がした。まだ言葉が継がれそうだったので黙っていると、
「今度は俺が忘れていたな」
自嘲しているみたいな声が続いた。
「なんのこと?」
「わからなければ俺に聞けと、確かに言ったな」
そうだった。
あのとき……二人で螺旋階段で話したときも約束したし、昨日も誓った。
今度こそ、不安に思うことがあったら、ちゃんと聞くから、って。申し訳ないことに、私も忘れかけてたけど。
やっぱり、我慢しないで聞いてよかったんだ。
約束したことを忘れかけてたのは申し訳なかったけど、約束したから、と気負わなくても彼に聞けるようになったことに嬉しくなった。
「うん……」
「怒るも何もない話だ」
ユートレクトは石畳に転がっているつららの欠片を爪先で軽く蹴った。
「俺の言うべきことは言った、と先程言っただろう。
この国の国民として相応しくない言動を取り締まるのは、俺だけでなく王宮に勤める者の義務だ。ここまでは納得できるか」
さっきの自嘲する響きは消え、淡々と説明する口調だった。私が頷くとユートレクトはまた言葉を継いだ。
「官僚は、法に基づいて国民を罰することはできても赦すことはできない。赦すことができるのは、この国では法を支配している国王だけだ」
センチュリアの官僚の頂点に立つ人に蹴られたつららの欠片が、陽の光を受けて小さくきらめいた。その人は私に背を向けると、
「俺はおまえの平民に対する言動に、注文をつけたことは一度もないはずだ」
肩越しにそう言って、路地裏から出ていこうとしたので、とっさにコートの裾をつかんで引き止めた。
「なんだ」
怪訝そうにというよりは、明らかに不機嫌そうに振り返った最強の臣下の視線が私を突き刺した。
相変わらず怖いけど、勇気を出して言うことにした。
「ありがとうね、その……私の判断を認めてくれて」
言葉にすると単純だけど、そこに込めた気持ちは大きかった。
国民に寛大な言動を取ることは、君主にとってとても大切なことだと思うから。
それを以前から注意したことがない……つまり認めてくれていたのだと思うと、嬉しさで胸が一杯だった。
あんまり嬉しすぎて涙が出そうになったものだから、思わず洟をすすってしまったのだけど、わが宰相はそんな些細な行為も見逃してはくれなかった。
「まだまだ、ゲルトルータ女王とイレーネ女王の足下にも及ばんな」
片頬を上げて笑うと、そう言い残してさっさと路地裏から出ていってしまった。
「な、なによ! そんな比較対象にもならない天の上の方々を引き合いに出すの、やめてよね!
どうせ私なんか、永遠に月とスッポンのスッポンよ、悪かったわね!」
また私は慌てて奴の後を追うはめになった。
賢明な君主でなくていい、偉大な統治者でなくていい。
みんなが幸せに暮らしていける国を守れたらそれでいいんだもの。
あの人と、みんなで。




