来訪者3
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何か忘れてはいけないことを言われていたかしら……冷たくなる心を必死に動かして考えた。
でも、私の記憶は、先刻のアンウォーゼル捜査官との会話の印象と、となりの人の言葉にかき消されてしまっていた。
思い出せないことを申し訳なく思うと、それだけで頭が混乱してしまって余計に記憶をたどれなくなった。
「な、なに? 私、また、何か悪いこと」
自分でそう口にしながらみじめになった。記憶が曖昧になるのも今の病気の症状らしいのだけど……本当にそれだけなの?
私はもしかしたら、無意識のうちに病気を盾にして、楽をしようとしているだけなのかもしれない。
女王と言う重責にも、実はとうの昔から嫌気がさしていたのかも。
才覚も生まれにも恵まれた人が臣下になったことで、自分の居場所や価値さえも奪われたような気がして、いるべき場所から逃げる口実を探しているんじゃ……
心の海溝深くに閉じ込めていた思いが膨らんで、封印の鎖をねじ切ると、今日診察を受けて感じたこととぶつかって、私のすぐ見えるところにまで浮かび上がってきた。
未知の生命体のような恐ろしい感情に動揺して、心が暴走を始めようとしていた。
けれど、そんな私の心の内を知らない臣下は、普段の口調のまま言葉を繋いだ。
「そうではない。このところのおまえを見ていて、わかったことがある」
止まらなくなった黒い感情が、心の中で思いもよらなかった悲鳴を叫ばせる。
もしかしたら、この人を異性として見ているのも、自分を否定されたと思いたくないから?
女として屈服したと思い込んで、男としてこの人を見るふりをして、それで安心したつもりになっているの?
そのあまりに卑怯で性別を軽んじた考えに、ようやくわれに戻ることができた。
それだけは違うと誓えた。そんな思いで人を好きになるほど、私は愛に飢えてはいない。
母からも友人からも、もったいないくらい、両手に抱えきれないほどの愛情をもらっているから。
私の様子がいつもと違うことに気がついたのか、ユートレクトは足を止めると、少し後ろで立ちすくんだままの私を肩越しに見て、
「おまえが物覚えが悪いことは、とうの昔にわかっている。だから、そんなおまえにでもわかるように言ってやる。一つだけで構わん、これだけは絶対に忘れるな」
うるむ視界に情けなくなりながらも、私に向かって歩いてきてくれる人の存在が嬉しかった。その声はさっきより近くで聞こえた。
「何があっても俺を信じろ。たとえ俺がおまえにどんな害をなそうとだ。俺にその意思がないことは、既に証明している」
私の息も彼の息も、白い蒸気になって街に消えていく。
けれど、この言葉はどんなことがあっても、私の心から消すことはできない。
私の記憶が病に侵されているとしても、たとえ悪魔のような心に食い尽くされたとしても。
私の心を刺すようなことを言ったとしても、それは、わざと傷つけようとしてのことじゃない。そういうことだよね?
その証は確かにもらったから……『世界会議』のときに。そう思っていいよね?
でも、こんなこと聞いても、絶対に答えてくれないよね?
疑り深くてひどく後ろ向きで、なかなかいいことを信じられない私だけど。
そんな私のそばにいる人も、頭がよくて人の気持ちもよくわかるのに、理性で片づけられない思いを言葉にするのは、苦手なうえに多分大嫌いで……
「わかったな」
「うん……」
本当はありがとうと言いたかった。
でも、目の前の人の表情は見たことがないもので、はっきりとはわからないけど、さまざまな感情に揺れているように思えた。その表情が『それ以上口を開くな』と言っているようで、何も言えなかった。
しばらく黙って向き合っていると、病床で伏せっていたとき交わした言葉がよみがえってきて、私の物覚えの悪さをこきおろしていった。
あのとき、彼の思いは聞いていたはずなのに、どうして私は自分の心弱さだけで大切なことを見失ってしまえたんだろう。
そう考えるとまた落ち込みそうになったけど、もう動揺することはなかった。
私の表情を見てまともに戻ったと思ったのか、ユートレクトはいつもの冷静すぎる表情になると、王宮への道をまた歩き始めた。
「今後、あのとち狂った過激派組織が何を仕掛けてくるかわからん。奴らが企めるのは暗殺だけではない、謀略を弄する可能性もある」
「そ、そうなの?」
突然ペトロルチカの話になったことに驚きながらも、自分の立場が危険なものだということを、改めて思い知らされた。
だけど、謀略だなんて。
謀略なら、その道の達人がいるじゃないのここに。
ペトロルチカがそれを知ってて、謀略で私やセンチュリアをどうこうするとは思えないんだけど。
「仮に謀略でおまえを潰すとして、一番邪魔になるのはなんだと思う」
「それはやっぱり…….」
「そう、俺だ」
私があえて言わなかったのに、本人はさらっと肯定すると、
「いっそ暗殺なら、襲ってきたところを返り討ちにもできるが、リースルの襲撃が失敗に終わっているのは、奴らも知っているだろう。
今回おまえを狙ってくるなら、襲撃よりも他の方法の可能性が高いと思っている」
「そ、そうかしら?
だって、あの組織がいくら頭の配線が少しおかしいからって、あんたのことを知らないとは思えないわ。あんた相手に謀略を働ける人間がそういるとも思えないし」
私は考えていたことを言ってみた。
そうよ、ユートレクトはローフェンディアでも、『バルサックの悪夢』(だったかしら)がどうのこうのと恐れられていたし。
「それに、リースルさまの襲撃がうまくいかなかったのは、リースルさまはローフェンディアの皇太子妃だし、超守ってもらえるお立場だったからじゃない? あんたも、ホク皇子まで警備に出てたし。
私だったらもっと警備も手薄だし、成功する確率も高いと思う」
成功されるのはぜひとも勘弁してほしいけど。
「そうだ、おまえの警備には今以上人員は割けん。だから自分の身は自分で守れと言ったのだ」
去年、私のことたるんでるみたいに言ってたけど、たるんでると思われても仕方がなかったことは認めるとして、現実問題、私の警備に人が割けないのも事実だった。
「謀略は時間がかかる分、失敗したときのリスクも大きいが、謀った人間の手は汚れずに済む。
まして俺は、各方面からの恨みを買っているらしいからな。
この機会にあの過激派連中と結託して、俺を陥れようとする人間がいてもおかしくはないのだ。
レシェクにも釘を刺された。落ち着くまであまり大きな改革はするなと。しかし、そんなものを恐れていては国政が滞る」
「ちょっ……ってことは、アンウォーゼル捜査官も、謀略の可能性が高いと思ってるってこと?」
なんだか話が急に具体的になってきて、平和にとっぷりと慣れ親しんでいる私の頭では、ついていけなくなりそうだった。
ユートレクトは私の質問には直接答えずに、
「俺をなんらかの策でセンチュリア宮廷から追放し、うるさい人間がいなくなったところで、おまえを手玉に取ろうとする輩が現れるかもしれんということだ」
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淡々とした口調で、陰険な策を謀ろうとしている人Pさん(私命名)の作戦概要を説明してくださったけど。
「そんなこと……」
信じられるわけがなかった。
「そんなこと信じられない!
ていうか、あんたも淡々と説明しないでよ。
あんたがそんな風に言うなんておかしいわ。今まで誰が相手でも負けたことないんでしょう? どうして今回に限って」
思わず声が高くなってしまった私に、ユートレクトはとがめるように視線を鋭くしたので、むっとしながらも口を閉ざした。
歩道に凍りついた雪が、ユートレクトの足の下で少し大きな音をたてた。
私と違って感情を物にぶつけることはしない人だけど、このとき凍った雪がたてた音には、やり場のない感情が込められているような気がした。
「今回はいまだにわからないのだ、奴らの出方が。
調べても調べても、手がかりがほとんどつかめない。それが怖い。今までこんなことはなかった」
それは、認めたくないことを口にするのが心底無念だというような押し殺した声だった。
『わからない』『怖い』なんて言葉を彼から聞くのも初めてだった。
私は今までペトロルチカからの復讐は考えていたつもりだったけど、それが浅い考え方でしかなかったことを思い知らされた。
「もし今の状態で策が動き出せば、俺は身動きが取れなくなるかもしれん」
「それは……」
身動きが取れなくなるって、本当に宮廷から追放されるかもしれないってこと?
身の凍る想像に思考が止まりそうになったけど、寸前のところで、日頃あまり自覚しない自分の権限の大きさを思い出した。
宰相の罷免は主君である私にしかできない。
ということは、ユートレクトを失脚させるなんて、私を落とさない限りできっこないのよ。
なんだ、それなら全然心配ないじゃない。私がユートレクトを辞めさせるなんて、ありえないんだから。
「あんたが誰かにはめられて失脚するかもしれない、って言いたいの?
よく考えたら、そんなことありえないじゃない。
いくら陰謀をめぐらしても、あんたを辞めさせたり権限を奪えるのは私だけなんだから。私さえしっかりしていれば、あんたを追放するなんて無理だもの」
私は怖い想像から解放された安心から、明るい声で言ったけど、
「今のおまえの状態で、本当に自分がしっかりしていると言い切れるか」
となりから聞こえてきた言葉は、私の心をすぐにまた凍らせた。
「最近のおまえを見ていてわかったのは、おまえは俺が思っていたよりずっと、負の方向に感情が向きやすいということだ。十の好意より一の傷の方が、おまえの心には深く残る。違うか」
また私の見られたくない心に触れられたことが、とても情けなくて恥ずかしかった。
この人はこんなにも私を見てくれているのに、私はこの人をここまで理解できているの?
そう考えると、申し訳ない気持ちで心が一杯になった。
けれど、『好意』という言葉に、思い出してはいけないはずの、嬉しかったり楽しかったりした時間の数々が堰を切ったようにあふれ返って、私の心を優しく抱きとめたときだった。
その記憶があまりに暖かくて心地よくて、私はたちまち現実に引き戻された。
一の傷が心に残るのはきっと、十の好意を本当に受け止めてしまっていいのか、わからないから。
それなのに、そんなことを言われたら、受け止めてしまいそうになる。
今のままの私じゃだめなのに。
それに、たとえ強くなったって、私の立場じゃ結ばれないことだってわかっているのに。
それでも『十の好意』を受け入れてもいいの?
こんな私の不安をわかって言ってくれているの?
それとも私の思い違い……純粋に女王として強くなってほしいだけ?
『俺を信じろ』と言ってくれたとき、本当は訊きたかった。
言えなかったのは、答えてくれないと思ったせいもあるけど、こんなこと訊いたら今の関係が悪い方向に崩れるかもしれないと思うと、それがなにより怖かった、今も。
「ごめんなさい……」
そして私は、いろいろな思いをこめた短い言葉を口にのぼらせた。
「悪いと思って心を落ち込ませるくらいなら、前を向いて自分にできることをしろ」
私の思いを拾ってくれたのか、それとも気づいていないのかはわからなかった。
でも、かけてくれた言葉は理性的なもので、女王としての私を安心させ前を向かせるものだった。
これほど彼の言葉一つで感情をあちこちに動かされているようじゃ、しっかりしているなんてとても言えない。
まして謀略を企む相手なら、心理戦だってきっとお手のものなはず。こんな心弱い私のままでは、認めたくないけど陥れられてしまうかもしれない。
今の私にできることは、謀略なんて企む相手に負けない、揺るがない心を持つこと。
そのためには……と考えると、やっぱり早く薬に頼らなくていい、健康な心と身体を取り戻したいと思う。
「わかった、ありがとうね」
自分の心の浮き沈みの激しさがいやだった。
それでも、いつまでも沈んでるわけにもいかないから、浮いてきたのはいいことだと思うことにした。
浮いてきた心につられたのか、ふとあることを思い出した。
怒られるのは怖かったけど、このことは勇気を出して訊いてみることにした。
「さっき聞きそびれたけど、私、また何か言われたこと忘れてるの?」
私の気が持ち直したことに気づいてくれたのか、それとも別のことを思い出したのか、ユートレクトは軽く口元を緩めると冗談めかした挑戦的な口調で、
「ああ、思い出せるものなら思い出してみろ。
そうだな、俺がローフェンディアに発つまでに思い出せたら、土産を考えてやってもいい」
やっぱり何か言われたのに忘れてるんだと思うと、また申し訳ない気持ちになったけど、言い方からすると、そんなに重要なことじゃないのかな、と思って安心した。
「思い出したら、お土産買ってきてくれるの?」
「思い出せたらだ、どうせ無理に決まっている」
「どんなこと? ヒントは?」
私も調子に乗せられて軽い口調で訊ねると、ローフェンディア行きを3日後に控えた臣下は、なぜか少し不機嫌そうになった。
「やるかそんなもの、今の話の流れで考えろ」
「えー!? 今の話って範囲広すぎじゃない!」
「やかましい、大声を出すな、近隣の迷惑だろうが。
ここは主要道路だ、『調査票』に女王がうるさくて眠れんと書かれたら、集計を取る官吏たちのいい笑いものだな」
「な、なんてこと言うのよ、この……!」
とはいうものの、『調査票』に私の声がうるさいなんて書かれたらしゃれにならないので、おとなしく今の話の流れをさかのぼって奴の言葉を思い出すのに、四苦八苦することにしたのだった。