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東19番街5

*******



「おまえが俺にこんな態度を取るのは、俺が一昨日言ったことが原因だろう。これで満足か、と」


 自分の顔が明らかにこわばったのがわかった。いきなり核心を突かれるとは思っていなくて。


 ユートレクトは私に構うことなく言葉を継いだ。


「どのような理由であれ、口にすべきことではなかった」


 他人のことを話しているかのような、感情のこもっていない声音だった。

 だからこそなのかもしれない。彼があの言葉を心の底から悔んでいるのが伺えた気がした。

 でも、そうだとしたらなおさら、どうしてあんなこと言ったの……?


 考えようとしたときだった。


「おまえを、自分から遠ざけなくてはと思った」

「どうして、そんな」


 とっさに問いかけてしまったのは、彼の思考があまりにわからなくなったからだと思う。

 私を遠ざけるためにあんなこと言ったって……私に嫌われたかったとでもいうの?


 少しの沈黙のあと戻ってきた言葉は、更に思いも寄らないものだった。


「怖くなった」


 結ばれている彼の両手に力がこめられた。


「あのとき、おまえが本当に俺を信じて、身を委ねていることがわかったからだ」


 ここまで聞いても、私にはまだわからなかった。

 彼が何をどう考えてあんなことを言ったのか、どうして怖くなったのか。

 『あのとき』のことを思い出して身体が熱くなったけど、すぐに自分を心の中で叱りつけた。


「俺にそんな権利があるのかと」


 そんな権利……私が彼を慕っていることを言っているの?

 私に思いを寄せられる権利なんてない、って言いたいの?


 いつも自信に満ちあふれている人が、どうして自分を卑下するようなことを言うの?

 自分を貶めるような言動を取る人じゃないのに。


 そこまで考えを進めて、ようやくわかった。

 彼の心の奥底では今も、深く重い罪の意識が牙を剥いていること。『バルサックの悪夢』はあのときからずっと……一昨日も今日も彼を縛っていることを。


「これほど、俺を信頼して身も心も預ける存在が許されるのかと。許されるはずがない、俺は親友の幸せを奪った」


 ほんのわずかにだけど、彼の声は揺れていた。

 自分の感情と私の存在との間で、今までどんなに心を揺り動かして、すり減らしてきたんだろう。その葛藤の辛さを思うと胸がいっぱいになった。

 気の利いた言葉なんてまるで思い浮かばないくせに彼を救おうとして、かえって傷つけることを言ってしまいそうで、きつく唇を結んだ。


「そう思ったときには、言ってはならないことが口をついていた」


 もしかしてこの人は、あの事件があってからずっと、こうして生きてきたの?

 幸せを目の前にしたとき、いつもとまどって、避けて、拒んできたの?

 だから、私を遠ざけるようなことを言って……言ってはいけないとわかっていたのに、その思いすら打ち消してしまうほど、幸せになってはいけないと思っているの?


「俺は、傷つけなくていいときにまでおまえを傷つけている、いつもそうだ……」


 言葉にならない感情の波動が空気を震わせた。ため息というには、苦しみに満ちすぎた嘆息だった。私のことで、こんなに苦しまないでほしかった。


「すまなかった」


 彼は昨日の晩、こんなにも重い苦悩を打ち合けてくれようとしていた。

 私が最後まで聞いていたら昨日で終わっていた話なのに。もう思い返さなくてもよかった話なのに。

 それを私は、あんなに簡単にはぐらかしてしまったなんて……!


「ごめんなさい、昨日気がつけなくて」


 謝罪の言葉が、意味をなさないほど軽いものに思えてならなかった。今までたくさん謝りすぎているせいかもしれない。


「最後まで話を聞いてあげられなくて」


 勇気を出して顔をあげると、となりに座る人を見た。固く結ばれたままの手と同じく、こわばった横顔だった。


 そう思った瞬間、一昨日のある光景が頭に浮かび上がってきた。

 あの言葉をかけられる前……二人で螺旋階段に座って話していたこと。


『おまえの考えもよくわかった。今度からは一人で落ち込む前に、今のように俺に聞け』

『うん』


 私は確かに『うん』と言っていた。


 事の始まり……あの言葉で傷ついたとき、彼を無理に引き止めてでも問い正せばよかったんだ。

 だけど、私は傷ついたと思うばかりで何も言えなくて。

 本当は傷ついただけじゃなく、『どうして』の中には怒りすらこもっていたのに、心の叫びをぶつける勇気もなくて。


 私が心の殻の中で悲劇の主人公になっているあいだに、彼に余計な苦痛を負わせていたなんて。


「私、約束してたのに、わからないことがあったら聞くって、約束してたのに……!」


 どうして私は、いつも大切なことを忘れてしまうんだろう。

 しかも、こんな時に限って視界がぼやけてくるなんて。

 みっともない後悔と情けない自己嫌悪の涙なんて、見せたくないのに。


 うつむくより早く、涙が頬を伝って落ちてしまった。慌てて指でみじめな跡を消した。そんなことをしても自分の愚かさは消せないのに。


「俺が早く言っていればよかっただけだ。それに、元を正せば俺がまいた種だ、おまえのせいではない」

「でも」


 涙は無理やり瞳の奧にしまいこんだけど、たかぶった気持ちまでは抑えきれなくて、それ以上何も言えなかった。


 彼は黙ってこちらを見ていたけど、不意に視線を壁の方へ向けた。

 どうにか心を落ち着かせて、私も壁の向こうへ意識をやると、となりの部屋……執務室から、かすかに人の話し声が聞こえてきた。


「まだ片付いていなかったのか」


 うんざりしたようにつぶやくと、ユートレクトは立ち上がった。血色はあまりよくなかったけど、いつもの冷静すぎる表情が戻っていた。


 執務室にいるのはユートレクト配下の官吏たちみたいだった。宰相閣下のご判断を、とかなんとか話し合っている。

 最強の臣下は険しい面持ちをこちらに向けると、


「まだ時間はいいか」

「う……ん」

「少し待って……いてくれるか」


 表情からは想像できない穏やかな口調で私に問うた。

 きちんと返事をしたかったのだけど、口を開くと嗚咽が出てきそうだったから、大きく首を縦に動かした。

 私の了承を見て取ると、宰相閣下も無言で頷いて部屋を出ていった。


 ほどなく執務室のドアが開く音がして、公の鎧をまとった冷ややかな声が容赦なく官吏たちに浴びせられた。

 官吏たちは突然の宰相閣下出現に驚いたみたいだったけど、急いでご判断を仰ぐことにしたようだった。

 私には壁一つ向こうの会話を全て聞き取れる能力はないので、それ以上聞き耳を立てるのはやめておいた。ユートレクトや官吏たちには申し訳ないけれど、今は公務のことをまともに考えられそうになかった。


 私はどれだけ自己嫌悪したら、成長できるんだろう。

 こんな思いはもうしたくないと反省し続けて、いつになったら目指す女性に……人間になれるんだろう。


 でも、塞ぎこんでいても前には進めない。


 とにかく、彼が戻ってきたらもう一度謝ろう。

 そしてもし、次に傷つくことを言われたら、どんなに傷つくのが怖くても勇気を出して聞こう。


 これができなかったら、また同じことの繰り返しだ。自分だけじゃない、彼も傷つけてしまうんだもの。

 そんなのはもういやだ。


 そして……一番大事なことも言おう。


 心を固めると、五感に余裕が出てきたのか、執務室の話し声が先ほどよりもはっきり聞こえるようになった。


 ところどころ聞こえない部分もあるけど、どうも『中央大陸縦貫道』建設のための事前調査で、問題が起きたみたいだった。

 話の内容からすると、宰相が直接指示を出すものではなさそうなんだけど。記帳の手順がどうとか、担当の分担方法だとか、かなり末端の実務者レベルの話をしている。

 でも、宰相閣下が直々に『ご判断』を下しているということは、何か事情があるんだろう。


 ユートレクトは少し待っていろと言ったけど、ここまで掘り下げた話になると、もしかしたらかなり時間がかかるかもしれない。

 私で手伝えることなら顔を出すんだけど、一応私も女王なので、末端の官吏のお仕事にまで首をつっこむのはあまりよろしくないのよね。


 なんて、まじめに考えているときなのに、あの人の声は私の乙女な部分を甘やかに撫でていく。怖いけど、低くてよく通る声。

 指示を仰いでいる官吏たちは、生きた心地がしてないだろうけど。


 どのくらい経ったときだろう。執務室から、


「かしこまりました!」

「早速作業に取りかかります!」

「ありがとうございました!」


 という複数の元気な声がした。


 それに続いて、足音が賑やかに遠ざかった後、ユートレクトがこちらの部屋に戻ってきた。とても疲れた顔をしている。


「お疲れさま。どう、うまくいきそう?」


 私の声に、宰相閣下はいらだちと諦めの硬い板に挟まれたような顔で首を振った。


「だめだ、今日中に終わらないかもしれん、数が多すぎる」


 彼が少しでも弱気なことを言うなんて、滅多にないことだった。よほど切迫した状況なんだろう。


「なぜああなるまで放置しておいたのだ、奴はどこに目をつけて部下を監督しているつもりだ。おかげで週明け早々説教から始めねばならん……明日」


 だけど、『奴』という官吏たちの直接の上司に怒ってはいるものの、これだけ文句を並べてるうちは問題ないと思う。本当に怒ってるときは、むしろ無口になるはずだから。


 私はちょっとした疑問をぶつけてみることにした。恐らく私の想像で合ってるだろうけど、という程度のことを。


「奴って、あの官吏たちの直接の上司?」

「それは今はどうでもいい、明日だ」

「明日?」


 いえ、私は明日がどうこうなんて聞いてないんだけど、私の質問の仕方が悪かったのかな。

 別に重要なことじゃないから答えてもらわなくてもいいんだけど、どう言ったら通じるかしら、と頭を動かそうとしたとき、


「明日の昼からは空いているか」


 そう問われて、しばらく思考が固まってしまったけど。


 言われてみれば、さっき説教うんぬんの後にぼそっと言ってたわね、明日って。


 そういう意味だったんだ……


「うん、空いてる」

「では迎えに行く」


 ここは空気を読んで素直に答えると、ユートレクトはいらだちと諦めの表情は収めたものの、今度は別の感情を乗せた顔でぶっきらぼうにつぶやいた。


「今度こそ、気の利いたところに連れて行く」


 こういう態度は照れているって言っていいのかしら。本人は絶対否定するだろうけど。


「あ、ありがとう」

「すまない」


 相変わらずそっけない口調だったけど、紛れもなく謝罪の言葉だった。

 今日は何度も彼の謝罪を聞いている。

 私のせいだと思うと心苦しくなってきて、今の気持ちを声と笑顔に込めた。


「ううん、全然気にしないで! 遅くまでお疲れさま。明日、ありがとう。楽しみにしてるね」


 そして、人手がいるなら手伝うよと言ってみたのだけど、予想してた通り『中央大陸縦貫道』関係の末端業務なので、おまえは手を出さなくていい、と断られた。


 あと私にできることは……


「そうだ、お夜食用意しようか? 日付が変わるまで業務だなんて、滅多にないもの。みんなお腹空いてるでしょ」


 自分の胃腸も求めてるものを提案してみると、最強の臣下は喜んで十人前を注文してきた。


「わかった、料理長に言っておくね。みんなはどこにいるの?」

「第五会議室にいる、そこへ頼む」


 宰相閣下は、俺の夜食は二倍量にしろ、と指示することも忘れなかった。


「うん、じゃあ頼んでおくね。侍女の誰かが持って行くと思う。お先でごめんね、おやすみなさい……また明日」

「ああ」


 自分だけ私室へ戻るのは気がとがめたけど、もう私にできることはなかった。

 ベッドから腰を上げると、ドアの前に立つ宰相閣下と目が合った。

 何か言いたそうにしてるような気がしたので、首を横に傾げてみたのだけど、ユートレクトは何も言わずにドアを開けてくれた。


 私は先に部屋の外へ出た。執務室に置いたままにしていたコートを取ってから、厨房に向かう。

 しばらくすると、背後から反対側へ伝う靴音が聞こえてきた。彼も官吏たちがいる第五会議室に向かったのだろう。

 仮にもベッドがある(というかベッドしかない)部屋から、男女が同時に出てくるのはよろしくないという暗黙の了解が、私たちの間にはできていた。


 厨房に着くと、料理長に夜食十人前(内一つは二倍量)と私用の軽食を頼んで、軽い足取りで私室に向かった。


 明日はどんな服を着ようかな、『気の利いた場所』ってどこかしら、なんて浮かれたことを考えていると、さっき小部屋から出る前のことを思い出した。


 ユートレクトはどうしてあんな顔をしてたんだろう。


 何か言いたげというか、こちらに訴えてるとまで言うと大げさなんだけど、私に伝えたいことがある風に見えたのは、気のせいだったのかな……と考えていたら、とても深刻なことを思い出した。


 私、きちんと謝ってなかった。


 もう一度謝ろうって思ってたのに。浮かれてる場合じゃなかったのに。


 落ち込んでいても、残念だけど時間は戻ってこない。

 ユートレクトは執務に戻ってしまった。どうしたらいいんだろう、明日謝るしかないのかな。

 大事なことも伝えたかったのに。


 そうだ。

 確かベッドに、あの人の鞄とかがあった。


 思い出したときには、足がさっきまでいた小部屋を目指していた。あの部屋で彼を待っていようと思って。


 最高位の淑女に許される範囲内の早足で小部屋の前まで来ると、迷いなくノブを回して。


 鍵がかかっていた。


 よく考えなくても、彼が誰もいない部屋に私物を置き去りにしていくはずがなかった。たとえ、私物を置いて行くにしても、部屋の鍵はかけていって当然だった。

 私って本当にばかだ、ばかすぎる……


 部屋の前でがっくりと肩を落としていると、


「何をしている」


 左側から聞き慣れ過ぎた声がした。

 驚いてそちらを見やると、さっきまで一緒にいたあの最強の臣下がいた。


「え、あの、その」

「忘れ物か」


 そう言うとすぐ、ユートレクトは私を押しのけて小部屋の鍵を開けた。


「あ、あの、忘れ物といえば、忘れ物なんだけど、ううん、正確には、物じゃないんだけど」

「早く探せ、俺は執務室に資料を取りに来ただけだ、余計なことに巻き込むな」


 私を半強制的に小部屋へ押し込みながら、いらだっているような早口で言うと後手でドアを閉めた。


「それともなにか、まだ苦情があるのか」

「そんなことないよ!」

「ではなんだ」


 問いつめられて、少し心がおじけづいたけど。


 ちゃんと言わなくちゃ。くどいと言われてもいいから。


「ご、ごめんなさい!」


 私はきっちり三秒間頭を下げた。


 頭を元に戻したとき、勇気を出して視線を上げると、ユートレクトは不思議そうな顔をしていた。


「あの、私、ちゃんと謝ってなかったから。また約束破ってごめんなさい。

 今度こそ、不安に思うことがあったら、ちゃんと聞くから。本当にごめんなさい!」


 でも、言ったとたん思い切り後悔した。彼の表情が曇ったような気がしてうつむいた。


 私、余計なことをしてしまったんだ。


 忙しいときに、さっきも謝ったことをもう一度聞かされたら、うっとうしいに決まってる。

 冷静に考えればわかることなのに。


 どうして私はいつも……


 不意に身体が傾いで、視界が動いた。

 目の前が暗くなったと同時に温かいものが頬に触れ、背中からも温もりを感じた。


「まいったな……」


 私を胸の内にうずめている人の苦笑がした。耳元でしたかすれた声に、悩ましいほどの色香を感じた。


「公私混同も甚だしいが、今は定時ではないな?」


 私を見つめる水色の瞳は、とても澄んでいる中に燃え立つものを宿しているかのようで、静かでいて激しい感情を映し出していた。その表情に魅せられて、いつの間にか身体が震えていた。


 彼の問いかけに答えられる余裕もなくて黙っていると、節くれ立った長い指が私の顎を上げて、唇と唇が結ばれた。


 驚きと悦びが抑えられなくなろうとしたとき、ようやく顔が離れて、


「続きは明日だ、ここでは防音がなさすぎる」

「……!」


 乙女が絶句するようなことをのたまった。


「帰るのも面倒になってきた、今日はここに泊まるか。

 だが、おまえの相手ができるほど体力は残っていないぞ」


 そう言って笑った顔は、大人の男性の余裕に満ちていて、先ほどまで見せていた苦悩の陰はかけらもなかった。

 いつの間にあの葛藤を清算したんだろう。すごく辛かったはずなのに、どうしてふっきれたんだろう。

 公務中だから私的な感傷は隠してるのかとも思ったけど、だったら私にこんなことしないよね……?


 やっぱり、この人は強いんだ。私の助けなんていらないくらい。


 そのはずなのに。


 彼の両腕はまだ緩められる気配がなかった。


「こんなこと言うと、怒られるかもしれないけど」


 だから、全身に伝わる温もりを確かめながら、口を開いた。


「幸せになっちゃいけないなんて、もう思わないでね?」

「ああ」


 自信に満ちた即答だった。けれど、その後は何も継がれない。

 そして、私はまだ彼の胸の内にいる。


 やっぱり言うべきなんだと思ったから、意を決して思い切り息を吸い込んだ。

 とても恥ずかしいけど、大事なこと。

 もう幸せを拒まないでほしかった。誰より彼のために。


「もし、今度幸せになるのが不安になったら、私といるのは、自分が幸せになるためじゃない、私を幸せにするためだって考えて……そう、慈善活動だと思えばいいのよ。ね、だから」


 本当はこんな傲慢な台詞を並べるのはいやなんだけど、これくらい強気で言わなくちゃ、安心してもらえないと思った。


「私を幸せにして」


 心に響く言葉なんて知らないから、うまくは言えない。

 ただ、私にたくさんの思いを注いでくれる人に、私もできる限りの思いを捧げたくて。


「それでね、幸せになろう、二人で。大切な人たち……私の友達もあなたの友達も、みんなで」


 告白したときよりも恥ずかしかったけど、目はそらさなかった。


 『バルサックの悪夢』は消せない過去だけど、彼にもアンウォーゼル捜査官にも幸せになってほしい。

 お互いに大切に思っているなら、いつまでも親友でいてほしかった。


 ユートレクトも私をずっと見ていてくれていた。私と違って、恥ずかしさは微塵もないまっすぐな眼差しで。

 そのかわり、というとおかしいけど、今までに見たことがない顔つきをしていた。

 きっと、私の眼がおかしいんだろう。私がこんな顔をしていたら、あと少しで泣き出しているはずだから。

 顔つきはともかく、水色の瞳はいつも通り凪いでいるし。


 最強の臣下はそんな説明しづらい表情で、見飽きたはずのどこにでもいそうな私の顔をまじまじと見つめて一言、


「慈善活動に興味はないが」

「……」

「早く明日になればいい」

「……え?」


 問い直したのは、聞こえなかったからじゃなくて、慈善活動うんぬんから、どうして突然明日の話になったのかがわからなかったから。


「なんで早く明日になってほしいの?」


 だから聞いたのだけど、この台詞の何が彼を刺激したのか、宰相閣下はいきなり両腕の温かい呪縛をほどいて、私を害虫かのように睨みつけると、


「おまえの頭の中身はやはり食い物か、早く寝て人間の女のものにしておけ!」


 そう言い捨てて、部屋を出て行ってしまった。


 また悪いことをしたのかとも思ったのだけど、放たれた悪態から考えたら、それほど深刻なことでもなさそうなので気にしないことにした。

 私も心臓に毛が生えてきたわね、うんうん、強くなるのはいいことよ。


 心の中で頷きながら仰せのとおり寝ることにして、私は小部屋を後にした。




『早く明日になればいい』


 私がその言葉の意味に気づいて一人赤くなったのは、私室のドアノブを手に取ったときだった。

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