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東19番街4*

******



 心臓がお湯を沸かしてるやかんみたいに熱くなった。

 ばくばくばくばくという鼓動と一緒に、お湯の沸騰を知らせる笛の音まで聞こえてきそうだった。

 それでも、となりに座っている臣下は、私の動揺なんか気にも留めていないようだった。


「起きたか」


 お決まりの冷静すぎる声音に、含みのある笑みが重なって。


 これはもう、確実に完璧に明らかに、寝顔を見られたに違いなかった。


 穴があったら入りたい、って言葉はこういうときにこそ使うんだわ。


 がっくりと肩を落としてベッドに両手をついたけど、落ち込んでばかりもいられない。寝てたのは確かによくなかったから謝らなくちゃ。


「ごめん、寝ちゃってた……」


 ここで、嘘でもさらっと『いや、今来たところだ』とか言ってくれれば、寝顔を見られてないかも、なんて淡い希望を持てたのだけど、わが臣下は妙なところで正直者らしかった。


「見ればわかる」


 ……。


 見れば、わかる、ね。


 そうね、そう答えてくれれば、いやでも寝顔を見られたことがわかるわね。ご親切にどうもありがとう。


 もっと遠回しに、やんわりと表現できないのかしら。

 こういうのをなんて言うんだったかな、そう、デリカシーが足りないのよ。足りないっていうか、かけらもないわ……なんて心の中でぶつぶつ言っていると、


「何を今更恥じらっている。

 そこに転がっていれば、いやでも目に入るだろう。大口開けて気持ちよさそうに寝ていたぞ。よだれはかろうじて垂らしていなかったが」


 恥ずかしさに追い打ちをかける無慈悲な台詞が降ってきた。


 このまま石化、更にすぐさま風化して、砂となって風に吹かれて飛んでいけたら、どれほど幸せかしら。


 だけど、ユートレクトには私の乙女心を気遣うつもりはないらしかった。魂が抜け切ってる顔の私には目もくれずに言葉を続ける。


「おまえの寝顔が見るに耐えないことも問題だが、もっと差し迫った危機がある」

「……?」


 魂の抜け殻と化したまま首を傾げると、偉大なる宰相閣下は真顔で危機の正体を明かした。


「残食を食べ損ねた」


 そういえば、私も夕食を摂っていないけど、


「残食を食いっぱぐれたって、今何時なの、まだそんな時間じゃないでしょ?」

「21時」


 えっと。


 私がこの部屋に来たのは、定時の鐘が鳴ってからだから、17時過ぎよね。


 奴は一時間待て、って言ったわよね。

 17時の一時間後っていったら、18時よね。


 それがどうして21時になってるの……?


 まさか。


「本当にごめん、そんなに寝ちゃってたなんて!」


 そんなに長い間寝てたとは思わなくて、慌てて謝ったけど、私の殊勝さはそれほど報われなかった。


「勘違いするな。おまえの醜悪な寝顔を放置しておくほど、俺は酔狂ではない。先ほどまで部下につかまっていたのだ」

「そうなの、本当に?」

「ああ」


 私を気遣って遅くなったわけじゃないのはよかったけど、醜悪な寝顔ってなによ。仮にも自分の主君に向かって吐く言葉かしら。


 ……ううん、もう考えちゃだめよ。

 悔しいし、やっぱりすごく気になるけど、もう私の寝顔については触れないことにしよう。

 私の寝顔についてこれ以上事細かに語られたら、きっと立ち直れないわ。


 そう決意して黙っていると、となりに座る臣下は自分のお腹あたりに目を向けた。


「それにしても腹が減ったな」

「そうだね、遅くまでお疲れさま。

 いつもなら、この時間まで執務するんだったら、必ず何か食べてるもんね」


 そうなのよ。

 普段だったら、残業のときは食堂で軽いものをもらってきたりしてるし。

 私と奴が一食でも食いっぱぐれることなんて、滅多にありえないのよ。


 だから、落ち着いて胃腸と向き合ってみると、確かにお腹はひもじい声を挙げている。


 挙げてはいるんだけど。


「よし行くぞ、コートを取ってこい」


 ユートレクトは元気にそう言うと、ベッドから立ち上がった。


「え、行くぞって」


 いきなり言われておろおろしていると、空腹の宰相閣下は、さっさと部屋から出て行こうとしている。


「ちょっと待ってよ、行くぞってどこに行くの」


 コートを取ってこい、ってことは王宮の外に出るってことよね。

 それって、二人で夕食を食べに行くってこと?


 心をときめかせかけて、恥ずかしくなった。

 東19番街の視察を終えたばかりなのに、こんなことで浮ついてしまった自分が情けなかった。


 私は臣下が外に出ていくのを、とりあえず止めることした。

 どう言えば穏やかに事を収められるんだろう。考えながら言葉を紡ぐ。


「今から出かけても、こんな週末の夜なんてどこも空いてないわよ。

 応接室でよかったら、料理長に頼んで何か持ってきてもらうけど」


 私の葛藤をよそに、ユートレクトは扉の前で振り返ると、こともなげに行く店を指定してきた。


「おまえの顔でなんとかなるところがあるだろうが」

「マロ食のこと?

 あそこだって、今日みたいな週末にはいっぱいになるわよ。それにこの時間じゃ、日付が変わっても席が空かないかも」

「そこをなんとかするのがおまえの役目だ」

「なんとかって言ったって」


 無理なものは無理だし。

 本当なのよ、『マロ食』が週末満席になるのは。外出したくないから嘘ついてるわけじゃない。

 もしここで一緒に『マロ食』に行ったとしても、今日みたいな混んでいるときに、みんなに気を遣わせるのも気が進まなかった。


 なによりチェーリアに、最近彼とはどうなの? とか訊かれたら、なんて答えていいか困ってしまう。


「無理なものは無理よ。

 それに、忙しいときに私たちが行ったら、向こうだって気を遣う人間が増えて大変じゃない。

 また空いてる時に行こうよ、ね?」


 だから、思っていることを正直に伝えた。最後の一行以外は。

 もう二人で『マロ食』に行くことはないけど……きっと。


「それほど俺が疎ましいか」


 気圧の低い声が小さな部屋に響いた。

 ただ怒っているのとは違うような感じもしたのだけど、彼が他にどんな感情を抱いているのかわからなくて、怖くなった。


 誰があなたを疎んでいるの?

 いやがってるのは、軽蔑してるのは、私じゃなくてあなたじゃない。

 私のことをいやらしい女だと思っているんでしょう?

 そんな女、わざわざ食事に誘わなくたっていいじゃない……


「違うよ」

「ではなぜ来ない」


 水色の瞳が私を射抜くようにこちらを向いている。

 すぐ言葉が返ってきたのが恨めしかった。

 身体の中で暴れる心を抑えながら会話をするのが辛かった。


「今日は本当に疲れたから外に出たくないの、それだけだよ。

 それに、東19番街の様子を見たら、そういう気分になれなくて」


 東19番街のことはあまり口にしたくなかったけど、間違いなく事実だったから白状することにした。

 これを言わなくては納得してもらえそうになかったし、なにより、東19番街があんなことになってしまったのは、自分のせいなのだから仕方がなかった。


「だから、疎ましいとか、そんな風になんて絶対に思ってないよ。

 思ってたら、今までここで待ってたりしないもの。寝ちゃったのは……申し訳なかったけど」


 ベッドで伸びていたことがますます恥ずかしくなってうつむくと、


「半分は本心だな」


 冷たく厳しい声が耳を突いた。

 暴れていた心が串刺しにされたみたいに動かなくなった。


 半分……そのとおりだった。

 だからって、はいそうですもう半分の理由もあります、と認めるわけにはいかない。


「半分ってなによ、他に理由なんて」

「まあいい、まずは東19番街の件から解決するか」

「解決って」


 解決するもなにも、あれは自分でまいた種だから、これからの施政でどうにかするしかない。


 それを、今解決するってどういうことなの?


 予想していなかった話の流れにとまどっている間に、ユートレクトはこちらに戻ってくると、コートと鞄をベッドの端に置いた。

 まだベッドのそばにいた私に、眼で腰を下ろすように促すと、自分も隣に座った。


「おまえは、あの有様を自分のせいだと思っているようだが」


 『あの有様』が、東19番街の現状のことを言っているのはわかる。


 でも、その後の意味がわからなかった。

 東19番街があんな風になってしまったのは、私のせいだと『思っている』って。


 最強の臣下が言おうとしていることを量りかねていると、短いため息のあとに、何かに観念したような声が続いた。


「あれは、規模こそ今ほどではないが、以前……先代国王よりもっと昔から続いている悪習だ」


 ユートレクトの横顔から一瞬だけ、いつもの冷静すぎる仮面が外れたような気がした。

 けれど、仮面の下の素顔が浮かべていた感情まではわからなかった。


 あの東19番街の慣習は、今に始まったことじゃなくて、先代国王……私の父よりもっと前の時代からあった、ってことなの?


「東19番街は昔から差別を受け、日陰の立場にあった。

 どれほど働いても報われず、冷たい目で見られてきた。

 国に訴えてもわずかな金を恵まれるだけ、自分たちの地位の向上には無関心。

 とはいえ彼らには、センチュリアを出て行けるだけの金もなければ、反乱を起せるほどの人数もいない。

 どうにかして、この国にしがみついているしかなかったわけだ」


 ユートレクトの口調は淡々としていたけれど、言葉にはやり場のない怒りや悲しみが込められている気がした。


「これはベイリアルの見解だが、そうした抑圧された生活を送っている間に、何かが屈折したのだろう。

 いっそのこと、王宮や他の国民を餌にして生きてやろう、自分たちを蔑んでいる奴らの鼻を明かしてやろう、それくらいしてもいい権利が自分たちにはある……

 そのように思っているのではないかと言っていたが、今日あれを見てよくわかった。ベイリアルの言うとおりだった」


 だけど、突然そんなことを言われてもすぐには飲み込めなくて、何も言えないでいると、私の中の疑問符が更に増えるような台詞が降りてきた。


「重臣たちから、おまえにはまだ教えるなと請われていた」


 さっきはわからなかった仮面の下の表情が、見えたような気がした。

 気まずさと……不本意な恥ずかしさを、雑にかき混ぜたような思いを乗せた素顔が。


「おまえには、まだあの類のものは知らせたくないと。

 あの重臣たち全員が口をそろえてだ。

 それも、おまえの気質を案じてのことだ」


 東19番街のこと、みんな知っていて私には伏せていたんだ……


 自分の未熟さがまた身にしみた。

 でも同時に、ユートレクトも含めたみんなの思いやりが嬉しくて、となりを見ると、重臣たちと一緒にされるのを嫌がるはずの宰相閣下と目が合った。

 宰相閣下はいつもの冷静すぎる顔をしていたけど、無理やり表情を戻したようにも見えた。


「だが、俺が今回おまえを連れて行ったのは、おまえがどうしてもと言ったからだ。

 君主たるおまえには知る権利があると思った。どのような事実であれだ」


 言葉も事実を並べた当たり前のことだった。口調も理性的でいつもの彼そのものだった。


 なのに、温かいと思ったのは、どうしてなんだろう。


「ないと思うが、重臣たちを責めるなよ」

「もちろん」


 私のことを思って、今まで東19番街のことに触れさせないでくれていたのに、非難するなんて考えられなかった。

 重臣たちやユートレクトに気を遣わせたのも、私が主君として一人前じゃないせいだし。それに、


「東19番街がずっと昔からあんな状態だったからって、私の責任が軽くなるわけじゃないもの」


 私より前の代からあんなことが横行していたからといって、私が目をそらせていいことにはならない。

 また胃が痛んできたけど、改めて東19番街と向き合う覚悟を決めると、身が引き締まる思いがした。


「それは当然だが、責任の重さなら俺たちも同等だ」


 責任なんて、国王である私の方が圧倒的に重いのに。

 それを私と同等だなんて言うとは思ってもみなかった。


 彼が東19番街のことを、私と同じように切実な問題として受け止めてくれたことが、なにより嬉しかった。私を慰めるためにこんな風に言う人じゃないから。


「ありがとう、私のこと……心配してくれて、みんなも」

「俺はホルバン卿に脅迫されて従っただけだ。心配などしていない」


 本当かどうかわからないけど、センチュリア最強の臣下が、年上とはいえ同僚に脅迫されて、おとなしく言うこと聞くかしら

 そう考えたら、さっき感じた温かさの理由が、なんとなくわかったような気がした。


「おまえも、強くなったしな」


 低く小さな声が、滴のように心の海に落ちて、柔らかな波紋を生んだ。


「それに、まさかこれは忘れていないと思うが、俺がそばにいる限り、おまえが呆けていたらどんな手段を使ってでも立ち直らせる……そうだったな?」


 言葉の端々から感じ取っていた温かさは、彼の私への信頼と深い思いだった。


 ……遠くで靴音が慌ただしく行き交うのが聞こえた。

 まだ残っている官吏がいるみたいだった。

 恐らく、ユートレクト配下の官吏たちだろうけど、業務で問題でもあったのかもしれない。

 だけど、不運な官吏たちの鬼上司は、部下を気にする様子もなく立ち上がると、私を嵐の中へ放り投げる一言を放った。


「では行こうか」


 温かく柔らかな思いに包まれた心が、再び荒れ狂う吹雪のなかに放り出されたかのようだった。


 どうしてそっとしておいてくれないの?

 どうしてこんな私と一緒にいようとするの?


 早くなる鼓動と苦しくなる呼吸で埋もれてしまいそうになる声を、懸命に絞り出した。


「ごめん、やっぱり今日は疲れたからやめておくよ」

「嘘をつくな」

「だから嘘じゃないよ」


 嘘なんかついてない、どうして私の言葉を信じてくれないの?


「言っただろう、今度はもう少し気の利いたところに連れて行くと。だから来いと言っている」


 ベッドから立ち上がれない私を見つめる水色の瞳には、疲れの色がにじんでいた。

 だったらこんな疲れる女、放っておけばいいのに……


 そう思うと、どうして、どうしてを頭のなかで繰り返すだけで、口に出せない自分が心底嫌になった。


「ごめん、また今度にして……」


 彼に対するいろいろな思いが醜い自己嫌悪にまみれて、葛藤の末に出た声までも、ひどく汚れたもののように耳に障った。


 うつむいた先の視界がにじんでいないのが信じられなかった。

 この頃泣きすぎているから、涙腺も鈍感になってしまったのかもしれない。


「わかった、ではもう半分の話をしよう」


 何かを振り払うような声だった。

 その強い声音に引き込まれて顔を上げてしまった先には、先ほどとは違う色の真剣な表情があった。


 もう半分……私があなたについて行けない残りの理由を、本当に知っているの?


 この人は私のことを、どれだけ知り尽くしているんだろう。

 でも、そこまで私をわかっているなら……


 どうしてあんなこと言ったの?

 どうして出て行ってしまったの?

 どうして昨日私に謝ったの?

 どうして自分が弱いだなんて言ったの?


 ますますわからなくなって、どうしてばかりが浮かんでくる私の耳に届いたのは、


「いいか、今日は最後まで聞け……いや、聞いてくれ」


 彼が自分の発言を控えめに言い替えたことにも驚いたけれど、それ以上に私の心を打ったのは、『今日は』という言葉だった。


 その響きに、昨日彼の話を最後まで聞けなかったことが思い起こされて。


 私は今も……逃げていたことに気づかされた。

 主君と臣下の関係しか求めない、だなんて綺麗ごとにわだかまりを隠して、本当の彼と自分に向き合おうとしていなかったことに。


 主君と臣下でいいなら、今からの話でもっと気まずくなったとしても、それこそ構わないはずだった。

 どれほど傷ついて、傷つけたとしても、主従関係に私情はいらないから。


 彼は私が嫌いだからという理由で、私の元を去る人ではないし、私も彼を罷免するつもりはない。


 それなら自分に後悔しないように進みたい。


 彼にふさわしい主君でありたいなら、どんなことからも逃げちゃいけない。

 私がどれほど未熟で、無様で、愚かであっても。

 そんな自分と向き合って、少しでも変えられるのは、私自身しかいないから。


 自分が傷つくのを恐れて、この人の言いたかったことを最後まで聞きとげられないなんて、みじめなままではいたくない。


 私は覚悟を決めて頷くと、


「座って。立ったままじゃ疲れるよ」


 私のささやかな勧めに、ユートレクトも心を定めたみたいだった。深くベッドに腰かけると、膝の間で両手を組んだ。

2019.12.4.一部修正しました。

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