東19番街4*
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心臓がお湯を沸かしてるやかんみたいに熱くなった。
ばくばくばくばくという鼓動と一緒に、お湯の沸騰を知らせる笛の音まで聞こえてきそうだった。
それでも、となりに座っている臣下は、私の動揺なんか気にも留めていないようだった。
「起きたか」
お決まりの冷静すぎる声音に、含みのある笑みが重なって。
これはもう、確実に完璧に明らかに、寝顔を見られたに違いなかった。
穴があったら入りたい、って言葉はこういうときにこそ使うんだわ。
がっくりと肩を落としてベッドに両手をついたけど、落ち込んでばかりもいられない。寝てたのは確かによくなかったから謝らなくちゃ。
「ごめん、寝ちゃってた……」
ここで、嘘でもさらっと『いや、今来たところだ』とか言ってくれれば、寝顔を見られてないかも、なんて淡い希望を持てたのだけど、わが臣下は妙なところで正直者らしかった。
「見ればわかる」
……。
見れば、わかる、ね。
そうね、そう答えてくれれば、いやでも寝顔を見られたことがわかるわね。ご親切にどうもありがとう。
もっと遠回しに、やんわりと表現できないのかしら。
こういうのをなんて言うんだったかな、そう、デリカシーが足りないのよ。足りないっていうか、かけらもないわ……なんて心の中でぶつぶつ言っていると、
「何を今更恥じらっている。
そこに転がっていれば、いやでも目に入るだろう。大口開けて気持ちよさそうに寝ていたぞ。よだれはかろうじて垂らしていなかったが」
恥ずかしさに追い打ちをかける無慈悲な台詞が降ってきた。
このまま石化、更にすぐさま風化して、砂となって風に吹かれて飛んでいけたら、どれほど幸せかしら。
だけど、ユートレクトには私の乙女心を気遣うつもりはないらしかった。魂が抜け切ってる顔の私には目もくれずに言葉を続ける。
「おまえの寝顔が見るに耐えないことも問題だが、もっと差し迫った危機がある」
「……?」
魂の抜け殻と化したまま首を傾げると、偉大なる宰相閣下は真顔で危機の正体を明かした。
「残食を食べ損ねた」
そういえば、私も夕食を摂っていないけど、
「残食を食いっぱぐれたって、今何時なの、まだそんな時間じゃないでしょ?」
「21時」
えっと。
私がこの部屋に来たのは、定時の鐘が鳴ってからだから、17時過ぎよね。
奴は一時間待て、って言ったわよね。
17時の一時間後っていったら、18時よね。
それがどうして21時になってるの……?
まさか。
「本当にごめん、そんなに寝ちゃってたなんて!」
そんなに長い間寝てたとは思わなくて、慌てて謝ったけど、私の殊勝さはそれほど報われなかった。
「勘違いするな。おまえの醜悪な寝顔を放置しておくほど、俺は酔狂ではない。先ほどまで部下につかまっていたのだ」
「そうなの、本当に?」
「ああ」
私を気遣って遅くなったわけじゃないのはよかったけど、醜悪な寝顔ってなによ。仮にも自分の主君に向かって吐く言葉かしら。
……ううん、もう考えちゃだめよ。
悔しいし、やっぱりすごく気になるけど、もう私の寝顔については触れないことにしよう。
私の寝顔についてこれ以上事細かに語られたら、きっと立ち直れないわ。
そう決意して黙っていると、となりに座る臣下は自分のお腹あたりに目を向けた。
「それにしても腹が減ったな」
「そうだね、遅くまでお疲れさま。
いつもなら、この時間まで執務するんだったら、必ず何か食べてるもんね」
そうなのよ。
普段だったら、残業のときは食堂で軽いものをもらってきたりしてるし。
私と奴が一食でも食いっぱぐれることなんて、滅多にありえないのよ。
だから、落ち着いて胃腸と向き合ってみると、確かにお腹はひもじい声を挙げている。
挙げてはいるんだけど。
「よし行くぞ、コートを取ってこい」
ユートレクトは元気にそう言うと、ベッドから立ち上がった。
「え、行くぞって」
いきなり言われておろおろしていると、空腹の宰相閣下は、さっさと部屋から出て行こうとしている。
「ちょっと待ってよ、行くぞってどこに行くの」
コートを取ってこい、ってことは王宮の外に出るってことよね。
それって、二人で夕食を食べに行くってこと?
心をときめかせかけて、恥ずかしくなった。
東19番街の視察を終えたばかりなのに、こんなことで浮ついてしまった自分が情けなかった。
私は臣下が外に出ていくのを、とりあえず止めることした。
どう言えば穏やかに事を収められるんだろう。考えながら言葉を紡ぐ。
「今から出かけても、こんな週末の夜なんてどこも空いてないわよ。
応接室でよかったら、料理長に頼んで何か持ってきてもらうけど」
私の葛藤をよそに、ユートレクトは扉の前で振り返ると、こともなげに行く店を指定してきた。
「おまえの顔でなんとかなるところがあるだろうが」
「マロ食のこと?
あそこだって、今日みたいな週末にはいっぱいになるわよ。それにこの時間じゃ、日付が変わっても席が空かないかも」
「そこをなんとかするのがおまえの役目だ」
「なんとかって言ったって」
無理なものは無理だし。
本当なのよ、『マロ食』が週末満席になるのは。外出したくないから嘘ついてるわけじゃない。
もしここで一緒に『マロ食』に行ったとしても、今日みたいな混んでいるときに、みんなに気を遣わせるのも気が進まなかった。
なによりチェーリアに、最近彼とはどうなの? とか訊かれたら、なんて答えていいか困ってしまう。
「無理なものは無理よ。
それに、忙しいときに私たちが行ったら、向こうだって気を遣う人間が増えて大変じゃない。
また空いてる時に行こうよ、ね?」
だから、思っていることを正直に伝えた。最後の一行以外は。
もう二人で『マロ食』に行くことはないけど……きっと。
「それほど俺が疎ましいか」
気圧の低い声が小さな部屋に響いた。
ただ怒っているのとは違うような感じもしたのだけど、彼が他にどんな感情を抱いているのかわからなくて、怖くなった。
誰があなたを疎んでいるの?
いやがってるのは、軽蔑してるのは、私じゃなくてあなたじゃない。
私のことをいやらしい女だと思っているんでしょう?
そんな女、わざわざ食事に誘わなくたっていいじゃない……
「違うよ」
「ではなぜ来ない」
水色の瞳が私を射抜くようにこちらを向いている。
すぐ言葉が返ってきたのが恨めしかった。
身体の中で暴れる心を抑えながら会話をするのが辛かった。
「今日は本当に疲れたから外に出たくないの、それだけだよ。
それに、東19番街の様子を見たら、そういう気分になれなくて」
東19番街のことはあまり口にしたくなかったけど、間違いなく事実だったから白状することにした。
これを言わなくては納得してもらえそうになかったし、なにより、東19番街があんなことになってしまったのは、自分のせいなのだから仕方がなかった。
「だから、疎ましいとか、そんな風になんて絶対に思ってないよ。
思ってたら、今までここで待ってたりしないもの。寝ちゃったのは……申し訳なかったけど」
ベッドで伸びていたことがますます恥ずかしくなってうつむくと、
「半分は本心だな」
冷たく厳しい声が耳を突いた。
暴れていた心が串刺しにされたみたいに動かなくなった。
半分……そのとおりだった。
だからって、はいそうですもう半分の理由もあります、と認めるわけにはいかない。
「半分ってなによ、他に理由なんて」
「まあいい、まずは東19番街の件から解決するか」
「解決って」
解決するもなにも、あれは自分でまいた種だから、これからの施政でどうにかするしかない。
それを、今解決するってどういうことなの?
予想していなかった話の流れにとまどっている間に、ユートレクトはこちらに戻ってくると、コートと鞄をベッドの端に置いた。
まだベッドのそばにいた私に、眼で腰を下ろすように促すと、自分も隣に座った。
「おまえは、あの有様を自分のせいだと思っているようだが」
『あの有様』が、東19番街の現状のことを言っているのはわかる。
でも、その後の意味がわからなかった。
東19番街があんな風になってしまったのは、私のせいだと『思っている』って。
最強の臣下が言おうとしていることを量りかねていると、短いため息のあとに、何かに観念したような声が続いた。
「あれは、規模こそ今ほどではないが、以前……先代国王よりもっと昔から続いている悪習だ」
ユートレクトの横顔から一瞬だけ、いつもの冷静すぎる仮面が外れたような気がした。
けれど、仮面の下の素顔が浮かべていた感情まではわからなかった。
あの東19番街の慣習は、今に始まったことじゃなくて、先代国王……私の父よりもっと前の時代からあった、ってことなの?
「東19番街は昔から差別を受け、日陰の立場にあった。
どれほど働いても報われず、冷たい目で見られてきた。
国に訴えてもわずかな金を恵まれるだけ、自分たちの地位の向上には無関心。
とはいえ彼らには、センチュリアを出て行けるだけの金もなければ、反乱を起せるほどの人数もいない。
どうにかして、この国にしがみついているしかなかったわけだ」
ユートレクトの口調は淡々としていたけれど、言葉にはやり場のない怒りや悲しみが込められている気がした。
「これはベイリアルの見解だが、そうした抑圧された生活を送っている間に、何かが屈折したのだろう。
いっそのこと、王宮や他の国民を餌にして生きてやろう、自分たちを蔑んでいる奴らの鼻を明かしてやろう、それくらいしてもいい権利が自分たちにはある……
そのように思っているのではないかと言っていたが、今日あれを見てよくわかった。ベイリアルの言うとおりだった」
だけど、突然そんなことを言われてもすぐには飲み込めなくて、何も言えないでいると、私の中の疑問符が更に増えるような台詞が降りてきた。
「重臣たちから、おまえにはまだ教えるなと請われていた」
さっきはわからなかった仮面の下の表情が、見えたような気がした。
気まずさと……不本意な恥ずかしさを、雑にかき混ぜたような思いを乗せた素顔が。
「おまえには、まだあの類のものは知らせたくないと。
あの重臣たち全員が口をそろえてだ。
それも、おまえの気質を案じてのことだ」
東19番街のこと、みんな知っていて私には伏せていたんだ……
自分の未熟さがまた身にしみた。
でも同時に、ユートレクトも含めたみんなの思いやりが嬉しくて、となりを見ると、重臣たちと一緒にされるのを嫌がるはずの宰相閣下と目が合った。
宰相閣下はいつもの冷静すぎる顔をしていたけど、無理やり表情を戻したようにも見えた。
「だが、俺が今回おまえを連れて行ったのは、おまえがどうしてもと言ったからだ。
君主たるおまえには知る権利があると思った。どのような事実であれだ」
言葉も事実を並べた当たり前のことだった。口調も理性的でいつもの彼そのものだった。
なのに、温かいと思ったのは、どうしてなんだろう。
「ないと思うが、重臣たちを責めるなよ」
「もちろん」
私のことを思って、今まで東19番街のことに触れさせないでくれていたのに、非難するなんて考えられなかった。
重臣たちやユートレクトに気を遣わせたのも、私が主君として一人前じゃないせいだし。それに、
「東19番街がずっと昔からあんな状態だったからって、私の責任が軽くなるわけじゃないもの」
私より前の代からあんなことが横行していたからといって、私が目をそらせていいことにはならない。
また胃が痛んできたけど、改めて東19番街と向き合う覚悟を決めると、身が引き締まる思いがした。
「それは当然だが、責任の重さなら俺たちも同等だ」
責任なんて、国王である私の方が圧倒的に重いのに。
それを私と同等だなんて言うとは思ってもみなかった。
彼が東19番街のことを、私と同じように切実な問題として受け止めてくれたことが、なにより嬉しかった。私を慰めるためにこんな風に言う人じゃないから。
「ありがとう、私のこと……心配してくれて、みんなも」
「俺はホルバン卿に脅迫されて従っただけだ。心配などしていない」
本当かどうかわからないけど、センチュリア最強の臣下が、年上とはいえ同僚に脅迫されて、おとなしく言うこと聞くかしら
そう考えたら、さっき感じた温かさの理由が、なんとなくわかったような気がした。
「おまえも、強くなったしな」
低く小さな声が、滴のように心の海に落ちて、柔らかな波紋を生んだ。
「それに、まさかこれは忘れていないと思うが、俺がそばにいる限り、おまえが呆けていたらどんな手段を使ってでも立ち直らせる……そうだったな?」
言葉の端々から感じ取っていた温かさは、彼の私への信頼と深い思いだった。
……遠くで靴音が慌ただしく行き交うのが聞こえた。
まだ残っている官吏がいるみたいだった。
恐らく、ユートレクト配下の官吏たちだろうけど、業務で問題でもあったのかもしれない。
だけど、不運な官吏たちの鬼上司は、部下を気にする様子もなく立ち上がると、私を嵐の中へ放り投げる一言を放った。
「では行こうか」
温かく柔らかな思いに包まれた心が、再び荒れ狂う吹雪のなかに放り出されたかのようだった。
どうしてそっとしておいてくれないの?
どうしてこんな私と一緒にいようとするの?
早くなる鼓動と苦しくなる呼吸で埋もれてしまいそうになる声を、懸命に絞り出した。
「ごめん、やっぱり今日は疲れたからやめておくよ」
「嘘をつくな」
「だから嘘じゃないよ」
嘘なんかついてない、どうして私の言葉を信じてくれないの?
「言っただろう、今度はもう少し気の利いたところに連れて行くと。だから来いと言っている」
ベッドから立ち上がれない私を見つめる水色の瞳には、疲れの色がにじんでいた。
だったらこんな疲れる女、放っておけばいいのに……
そう思うと、どうして、どうしてを頭のなかで繰り返すだけで、口に出せない自分が心底嫌になった。
「ごめん、また今度にして……」
彼に対するいろいろな思いが醜い自己嫌悪にまみれて、葛藤の末に出た声までも、ひどく汚れたもののように耳に障った。
うつむいた先の視界がにじんでいないのが信じられなかった。
この頃泣きすぎているから、涙腺も鈍感になってしまったのかもしれない。
「わかった、ではもう半分の話をしよう」
何かを振り払うような声だった。
その強い声音に引き込まれて顔を上げてしまった先には、先ほどとは違う色の真剣な表情があった。
もう半分……私があなたについて行けない残りの理由を、本当に知っているの?
この人は私のことを、どれだけ知り尽くしているんだろう。
でも、そこまで私をわかっているなら……
どうしてあんなこと言ったの?
どうして出て行ってしまったの?
どうして昨日私に謝ったの?
どうして自分が弱いだなんて言ったの?
ますますわからなくなって、どうしてばかりが浮かんでくる私の耳に届いたのは、
「いいか、今日は最後まで聞け……いや、聞いてくれ」
彼が自分の発言を控えめに言い替えたことにも驚いたけれど、それ以上に私の心を打ったのは、『今日は』という言葉だった。
その響きに、昨日彼の話を最後まで聞けなかったことが思い起こされて。
私は今も……逃げていたことに気づかされた。
主君と臣下の関係しか求めない、だなんて綺麗ごとにわだかまりを隠して、本当の彼と自分に向き合おうとしていなかったことに。
主君と臣下でいいなら、今からの話でもっと気まずくなったとしても、それこそ構わないはずだった。
どれほど傷ついて、傷つけたとしても、主従関係に私情はいらないから。
彼は私が嫌いだからという理由で、私の元を去る人ではないし、私も彼を罷免するつもりはない。
それなら自分に後悔しないように進みたい。
彼にふさわしい主君でありたいなら、どんなことからも逃げちゃいけない。
私がどれほど未熟で、無様で、愚かであっても。
そんな自分と向き合って、少しでも変えられるのは、私自身しかいないから。
自分が傷つくのを恐れて、この人の言いたかったことを最後まで聞きとげられないなんて、みじめなままではいたくない。
私は覚悟を決めて頷くと、
「座って。立ったままじゃ疲れるよ」
私のささやかな勧めに、ユートレクトも心を定めたみたいだった。深くベッドに腰かけると、膝の間で両手を組んだ。
2019.12.4.一部修正しました。




