東19番街3*
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だけど、喜んでいたのもつかの間、王宮の方を向いて泣いているのに気がついて、慌てて涙をぬぐった。泣いてるところを門番に見られたら、女王としても恥ずかしい。
涙は止まってくれたけど、このままだと門番とまともに会話できそうにないので、呼吸を整えることにして深呼吸をした。
三回深呼吸したところで、ユートレクトが私の顔を覗き込んだ。もう歩けるかと言いたげな表情に、私は大きく頷いた。
空を見上げると、雲の隙間から漏れる夕やけの赤い光が街を茜色に染めていた。
世界で最初に神さまが舞い降りたのは、この国だという伝説が信じられそうなほどに、厳かな光景だった。あまりに神々しく見えたので、身震いするほどだった。
私はこんなに素晴らしい国を預かっているんだと思うと、改めて心が引き締まる思いがした。
「綺麗だな」
ユートレクトも私と同じ方角を見てはいたけど、まさか景色のことでこんな感想を漏らすなんて思わなくて、少し驚いた。
「うん」
でも、逆らう理由はないので相槌を打ったら、
「おまえでよかった」
すぐに消えてしまいそうなほどの声が、耳に届いた。
先ほどよりも更に小さな声で、私の耳に届いたのも奇跡に思えたけど、言葉の意味を図りかねて返事ができないでいると、
「行くぞ」
そうつぶやいて、さっさと王宮へ歩き出した臣下の顔は、夕日の茜に染まって見えた。
でも……声音にも、夕日の温かさと恥ずかしさが混じっていたように思えたのは、私の気のせいなの?
おまえでよかった、ってなに?
「ちょっと、おまえでよかったってなに、ねえ、どういう意味?」
「言葉通りの意味だ」
まっとうな答えが返ってくる気配はしなかったけど、あえて訊いてみることにした。
「何が私でよかったのよ」
そう問うた瞬間、ユートレクトの表情があからさまに変わった。水を得た魚類のようにいきいきし出したかと思うと、嬉しそうにこうのたまった。
「そのコートを着たのがおまえでよかった。それは普通体型の女性ではきつかったはずだ、特に胸のあたりがな。すまなかったな、そんなコートしか用意できずに」
ちょっとでも期待した私がばかだった。
「なによ、また断崖絶壁扱いして!
それになんなの、その口調! 悪いなんてこれっぽっちも思ってないでしょ!?」
予想通り、最強の臣下からまともな回答はないまま、私たちは騒々しく王宮に帰還したのだった。
執務室に戻って時計を見ると、定時までまだ30分以上時間があった。
かなり気持ちは落ち着いていたけど、やっぱり今日は早々に執務を終えることにして、いつでも切り上げることができる作業をすることにした。
「今日の残食はなんだ」
斜め前に座る臣下は、まだまだ仕事漬けになるつもりなのか、今日の残食……定時過ぎから食堂で出してる食事のメニューを聞いてきた。なんで私に訊くかな……
「確か、南国海軍風カレーと山の幸ピザ、夜定食は豚の香草焼きだったと思うけど。あとはいつものおにぎりとパン、から揚げにフライドポテトね」
「そうか」
そう言ったきり、空腹らしい臣下は黙々とペンを動かし始めたので、私も執務に戻ることにした。
書類に眼を通したりサインをしながら考える。東19番街のこと。
御前会議で重臣たちに言うのはいいけど、きっとみんな驚くだろうな……ていうか、みんなに知らせる前に、この人の許可取っておいた方がいいわよね。
ちょうど、ユートレクトが私の机に大量の書類を置きにきたので呼び止めると、
「なんだ、安心しろ、まだ回すから早く机を空けておけよ」
涼しげな声にすました顔でおっしゃった。私が書類の多さに文句をつけるとでも考えてたようだった。
確かにいつもなら、『ちょっと、なんで一度にたくさん回してくるのよ。ここまで溜まる前にちょうだいよね』なんて言ってるところだから仕方がない。
「今さら書類の多さで文句言わないわよ。
あのね、今日あそこで見たこと、今度の御前会議で話したいんだけど……お忍びで行ったのばれちゃうから、だめかな?」
今日見てきたことは、重臣たちにはぜひ知ってほしいことだった。
でも、それを話すということは、今日お忍びで東19番街に行ったことをばらしてしまうことになる。
そうなれば、私の警備を担当してくれているトゥリンクスあたりに気を遣わせてしまいそうで、それだけが心配だった。
意外なことに、ユートレクトはすぐに構わんと言ってから、
「俺から話す。俺がおまえを社会見学がてら東19番街に連れて行ったと言えば、恐らく誰も何も言わんだろう」
自分の席に戻ると、いつもの冷静すぎる口調でつけ足した。
『おまえは隠密で行動した意味を未だに理解していないのか』とか、『トゥリンクスの寿命を更に縮めるつもりか』なんてお説教されるかもしれないと思ってたから、内心びっくりした。
まして、自分から東19番街のことを話してくれるだなんて、いつもの私への態度から考えたら、破格の優しさと言ってよかった。
「ありがとう、じゃあ宜しくお願いね」
だから、殊勝に頭を下げておいた。
尊大な臣下からは何も返事がなかったので、私も執務を再開することにした。
そうやって、しばらく黙々と仕事していると、明るい鐘の音が聞こえてきた。定時の鐘だ。
先ほどユートレクトが持ってきた書類の山を、まとめて『処理中』の引き出しにつっこみ、今机に広げていた書類も片付けると、私は椅子から腰を上げた。
「もうあがるのか」
「うん、今日は終わっておく。お先でごめんね」
斜め前に座る臣下は、意外そうな口調で訊いてきたけど、今日は長々と執務をする気分になれない。先に帰ることを謝って執務室を出ようとすると、
「二時間、いや一時間待て」
後ろから聞こえてきたのは、耳にしたことのない感情を含んだ声だった。
なんと言ったらいいんだろう、困っているような、焦っているような……うまく言えないけどそんな声色だった。
けれど、振り返ったところに見えたのは、いつもの通り落ち着いた、というよりも偉そうで自信に満ちた顔だった。
「この書類だけは、今日中に片付けなくてはならんのだ、終わり次第、残食フルコースを食いに行くぞ」
残食フルコースって、あれを全部食べるつもりかしら。
南国海軍風カレーに山の幸ピザ、夜定食の豚の香草焼き、おにぎりとパンに、から揚げ、フライドポテト。
で、なんでこの人が残食を食べるのに、私が待ってないといけないわけ?
そんなことしたら、また心が躍り出してしまう。
せっかくいい感じで執務できてるのに。以前みたいに、軽口言い合いながら和やかに執務できてるのに。それだけでもう幸せなのに。
私はさりげなくお断りすることにした。
「でも私、今日はもう執務する気になれないし」
「となりの部屋で寝ていろ、よだれを垂らして寝ていても起こしてやる」
執務室のとなりは、仮眠室になっている。
特に忙しかった年末年始にお世話になったけど、本当にベッドしかない部屋なのよ。
そんなところでこの人を待ってるなんて、今の私にはできない話だった。
ベッドで寝ずに座って待っているにしても、そんな部屋へこの人が私を呼びに来る……そう考えただけで鼓動が早くなる私は、自意識過剰としか言いようがない。自分がどこまでも情けなかった。
それでも、精一杯さりげなくかわさなくちゃ。ここで余計なことを言ったら、また気まずくなる。
「寝ないわよ。それに、あんなとこで待ってても、気分転換にも何もならないじゃない。今日は私室でおとなしくしてるわ」
なのに、返ってきたのは、私の気持ちなんて全然考えてないような台詞だった。
「おまえは恩を仇で返すのか。
この俺が、この国で最も多忙な俺がだ、寛大にもおまえの言うことを聞いてやって、隠密行動にまで付き合ってやったというのにだ。
にも関わらず、おまえは俺に対して何一つねぎらいをしないまま先に帰り、あげくの果てに一人でうまい飯を食うというのか」
いつもの彼から考えると、乱暴な……というかあまり洗練されてない言いような気もする。
でも、忙しい中時間を割いてもらって、東19番街に連れて行ってもらったのは事実だった。
ここで断ったら、今のいい雰囲気まで壊れてしまいそうな気がした。というか、穏便にお断りできる台詞がこれ以上思いつけなかった。
「……わかったわよ」
と返事して。
たちまち心が色めき立つのがわかった。
止めなくちゃ。
これはただの仕事上のおつきあいよ、何を浮かれてるの?
食堂でご飯を一緒に食べるなんて、アンウォーゼル捜査官ともしてたことじゃない……
「ここにいると目障りだ、となりに行っておけ」
そう言いながらユートレクトは、早速となりの部屋の鍵を私の顔の前に突きつけてきた。
どうしてこの人が、となりの部屋の鍵を持ってるんだろう。今日はあの部屋で寝るつもりだったのかしら。
……だめだめ、余計なこと考えちゃだめよ!
心の中で、吹っ飛んでいきそうなほど頭を振ると、私は尊大に差し出された鍵をしぶしぶ頂戴して、となりの部屋に引っ込むことにした。
執務室を出ると、十歩もいかないうちに仮眠室の前に着いた。
ドアノブを回したのだけど、扉が開かなかったので、早速お預かりした鍵を鍵穴に差し込んで部屋の鍵を開けた。
この部屋には本当に何もない。
白い清潔なシーツが敷かれたベッドがあるだけ。あとは、人が身体を横にしてベッドの横をすれ違えるほどの隙間しかない。本当に狭くて殺風景な部屋だった。
そんな部屋なので、できることといえばベッドに腰かけるか寝そべるくらい。
私はもちろん座って待つことにした。
そうして思いをめぐらせるのは、やっぱり東19番街のことだった。
私の治世は、まだ五年しか経っていない。
そのあいだに、東19番街があんなことになってしまったと思うと、胸が締め付けられる思いがした。
どうしてあんなことになってしまったんだろう。
二年前の災害は、あの地域に甚大な被害をもたらしていた……住民の良心にまで。
そんなこともろくに知らなかった自分が、情けなくて悔しくてたまらなかった。
人の心は、よくない方向へはあっという間に変わってしまうんだということを、まざまざと思い知らされた。
気は進まないけど、もしも荒療治的に東19番街を分岐道建設地にしたらどうなるだろう。
あの場所を出ていかなくちゃいけなくなったら、みんな働くようになるんだろうか。
確かに働くようにはなるかもしれないけど、そういう力づくのやり方はしたくなかった。
それに、そんなことをしたら、余計王宮に反感を持たれるだろう。
私にだけならまだしも、重臣や官吏に恨みつらみを向けられるのは、なんとしても避けたかった。
本当に、どうしたらいいんだろう……
やりきれない思いが募って、つい身体を横へ倒してしまった。
初めのうちは、シーツの冷たい感触が心地よかった。
そのうち、全身の筋肉や骨の緊張が解けたのか、身体がじんわりと温かくなっていくのがわかった。
自分で思っているよりも、私は疲れていたみたいだった。
気がつくと、視界が暗くなっていた。
自分が目を閉じていた……つまり、眠ってしまってたことに気がついた。
ぎょっとして飛び起きると、となりにあの臣下が座っていた。
2019.12.4.一部修正しました。




