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痛みから2

***



 それからは、突発的なことが立て続けに舞い込んで、あちこちの部署に顔を出しているうちに、今朝のことを忘れてしまうほど忙しい一日になった。


 ユートレクトとはあれきり顔を合わせていなかった。


 昼間、ベイリアルに呼ばれて移動しているとき、談話スペースでザバイカリエと打合せしているのを見かけたけど、声はかけなかった。いつもなら声くらいかけるのに。

 そのとき、ザバイカリエと眼が合って、おやというような顔をされた。

 二人に声をかけなかったせいもあると思うけど、ザバイカリエの視線は私のおろしている髪に向けられていた。


 ベイリアルや、何人かの官吏たちにも珍しそうな眼をされた。

 どうして今日は髪をおろしているのか、なんて誰も聞かない。けど、もし聞かれていたら平静を保てたかわからなかった。


 ようやく執務室に戻ることができてほっと一息つくと、窓の外には何日ぶりかの星空が見えていた。

 私は今日何杯飲んだかわからないコーヒーを淹れて席に着いた。


 ユートレクトは今も席にいない。


 あんな態度を取ってしまったことを謝りたかった。


 大人気ない言葉で彼の厚意をはねつけて……どうしてもっと別の言い方ができなかったんだろう。相変わらず成長していない自分がいやでならなかった。


 いつもの場所に身を落ち着けて気が抜けたせいか、そんなことを考えてしまうのを止められなかった。こういうときは、頭を使わずにこなせる作業をするに限る。朝から飛び回っていたおかげで、目を通せていなかった経済カルテを開き数字を追う。


 確かに今の私は不安定だと思う。

 彼が言っていたとおり、東19番街の実情を目にして、気を強く持っていられるかと言われたら、自信はなかった。

 それでも、東19番街のことは、早いうちに掴んでおかなくちゃいけないと思う。

 私的なことで心が揺らいでいたって、私はこの国の主君なんだから。自分の責務をおろそかにはできない。


 今日一日、重臣や官吏たちと接していて、改めて自分の権限と責任の大きさを感じた。

 そばにいてほしいからとか、彼にふさわしい主君になりたいとか、そんな思いがなくなったわけじゃない。だけど、別の決意が私のなかで静かに固まっていた。


 私の命令でみんなが動く。

 その一言が多くの国民の生活を……ひいては命を左右する。こんな小娘が持つにしては、間違いなく大きすぎる権力だった。

 それを私のごく個人的な都合だけで、滞らせたり曇らせたりするわけにはいかない。

 女王である私には、この国で起こっていることなら、どんなことからも目を背けずに見据える義務があるはずだった。


 彼に今朝のことを謝って、今のこの気持ちを伝えたかった。そして明日は、いやいやではなく私を連れて行ってほしかった。主君として、臣下として。


 それ以外の感情は望まないから。


「……陛下?」


 覚えのある声に身体が反応した。あまり顔を合わせたくない人物が目の前に立っていた。


「アンウォーゼル捜査官……お疲れさまです、何か御用でしょうか」


 アンウォーゼル捜査官は人のよさそうな顔で私に微笑むと、今の私には最大の禁句を口にした。


「フリッツはまだ戻っていませんか」


 その響きが、後悔と恥じらいの渦を作って心を荒立てる。動揺を抑えるために、そっと息を吐き出してから口を開いた。


「……はい、私も先ほど席に戻ったばかりですが、見かけておりません。彼に御用ですか? でしたら」


 伝言があれば伝えておきますが、と言おうとしたのだけど、幸か不幸か私の親切は、アンウォーゼル捜査官の言葉に遮られた。


「いえ、いいんです、陛下とお話ができればそれで。そうだ、久しぶりに夕食をご一緒にいかがですか?」


 思いがけない申し出に、気まずい過去が頭によみがえって、顔がひきつりそうになった……アンウォーゼル捜査官が私に近づいていたときのこと。

 このところは朝晩しか顔を合わせていなかったから、気まずさは少し薄れてはいたけど、まだわだかまりはあった。


 でも、これはいい機会なのかもしれない。


 昨日ユートレクトから聞いたことを思い出した。アンウォーゼル捜査官にそれとなくでも話を聞けたら……


 アンウォーゼル捜査官が十年前の事件をどう考えているのか。

 そして、本当にペトロルチカと手を組んで、ユートレクトや私を陥れようとしているのか。

 私に止められるものなら止めたかった。余計なことをするなと言われていても。


 思い過ごしかもしれないけど、アンウォーゼル捜査官の琥珀色の瞳が、何かを訴える光を帯びているように見えた。


「わかりました」


 そのひらめきに背中を押されて、私は頷くと立ちあがった。




「先刻あいつを見かけたのですが」


 人がまばらになっている食堂で、私はきのこのリゾットを、アンウォーゼル捜査官は夜定食を注文してトレイに乗せると、窓際の席に向かい合って腰かけた。

 アンウォーゼル捜査官の言う『あいつ』というのは、ユートレクトのことだろうから、確認はせずに次の言葉を待った。


「まだ顔色がよくなくて。今朝会ったときも、いつもの毒舌がなかったし……」


 風邪でもひいたか、いや、あいつが風邪などひくわけがない、奴は上にばかがつくほど身体が丈夫だからな……などというアンウォーゼル捜査官のつぶやきに、相槌を打てなかった。


「それとも、何かあったのかな。陛下、ご存知ですか?」

「えっ」


 突然話を振られて内心おろおろしていると、アンウォーゼル捜査官の視線がこちらに向けられているのがわかって、ますます焦って喉が干上がりそうになった。

 答えなくちゃいけない。答えは簡単なんだから。


「いいえ、何も」


 ねじりあげられるような痛みが胃壁に走る。

 朝以来ユートレクトとは話をしていないから、その間に何か問題が起こっているのかもしれないけど……


 うそ。そんなこと、ちっとも思ってないくせに。


 私があんな風に言ったせいでいやな思いをさせているのかもしれないと思うと、また後悔で胸が一杯になった。

 でも、そんな考えこそ思い上がりなんだ。私なんかの言葉一つで、彼が感情を浮き沈みさせるわけがないもの。


「特に何も聞いていませんが」


 自分に言い聞かせるように継いだ言葉が、心の中で虚しく反響した。


 アンウォーゼル捜査官はそうですか、とつぶやくと夜定食の焼肉を口に運び始めた。

 これ以上は聞いてきそうになかったので、私もきのこのリゾットをスプーンにすくった。

 できたてのリゾットはまだ湯気をあげていて、すぐには口にできそうになかった。


「……あなたがたは」


 はしたなくならない程度に息をふきかけてリゾットを冷ましていると、アンウォーゼル捜査官の音量をひそめた声がした。

 その声がいつもの陽気なものでないことに気づいたのは、次の台詞を聞いた後だった。


「本当に思い合っておいでなのですね」


 初めてアンウォーゼル捜査官と会った日、『マロ食』で聞いたものと同じ声だった。

 他人の本心を自然と引き出するような、だけど、相手が心を開いた途端、手のひらを返すように叩き落としそうな危うさを感じる声。


 アンウォーゼル捜査官は、私と一緒にユートレクトの家に泊まった。

 あのときは、私たちを冷やかしていたけれど、本心でどう思っているのかはわからない。


 ユートレクトから聞いた話が頭の中によみがえってきて、胸を締めつけた。

 アンウォーゼル捜査官が愛した女性は、十年前に亡くなっている……親友の部下たちのせいで。

 でも、アンウォーゼル捜査官の怒りは、部下たちだけではなく親友にも向けられていて……


 止められるものなら、なんて、どうして思えたんだろう。

 当事者でもなく人生経験も浅い私が、自分より深い傷を負った人を説得するだなんて、生意気で傲慢な考えだった。そう思わせるものをアンウォーゼル捜査官から感じ取ると、心が震えあがった。


 許されなかった、と言ったときのユートレクトの気持ちが、より近く感じられたように思えた。


 自分一人が、どうして幸せになれるものか……


 そんな彼の声が心に湧いたとき、何か他のこともわかりかけた気がしたけど、完全につかむ前にアンウォーゼル捜査官の声に遮られた。


「そんな顔をしないでください。既にご存知なのでしょう? 私とフリッツとの因縁、私の正体は」


 私にしか聞こえない、小さな小さな声だったけど、その声は雷のように私の全身を貫いた。



****



 まさかそんなことを話題にされるとは思っていなかったので、すぐに表情が繕えなかった。

 アンウォーゼル捜査官は私の顔を見ると、すべてを悟ったように頷いてから再び口を開いた。


「……レオニーとは学士院時代に知り合いました」


 誤解です、私は何も知りません、聞いていません…そう言いたかったけど、声が出てこなかった。


 アンウォーゼル捜査官は、とても重大なことを語ろうといている。

 それが直感でわかったからこそだろう、知らないうちに心だけでなく腕や足まで震えていた。


 私が二人の関係を知っているといっても、恋人だったということ以外は何もわかっていない。

 そんな大切な……大切でずっと心の奥底に秘めていたはずの思い出を、知り合って間もない私のような小娘が聞いてしまっていいのか……


 どう言っていいのかわからないけど、アンウォーゼル捜査官とさほど親しくない私なんかが、他の人を差し置いて彼の宝物のような過去に触れるだなんて、大それたことに思えてならなかった。


 だれど、聞かせてもらえるのなら、本当にアンウォーゼル捜査官の立場になって考えられるかもしれない。

 そうしたら私にも何かできないだろうか……二人を助けられることが。


 こんな風に考えるのも、思い上がった浅はかなことかもしれないけど、せっかく私に明かしてくれるのなら、私も何かを返したい、少しでも役に立ちたい。

 思い上がりだとしても、人のために何かしたいという気持ちは、持っちゃいけないものじゃないはず。そんな気持ちまで否定されたら、誰にも何もしてあげられなくなる。


 私は軽く座り直すと、勇気出してもう一度アンウォーゼル捜査官の顔に目を向けた。

 アンウォーゼル捜査官は、私が話を聞く覚悟を決めたのを見て取ったのか、わずかに口の端をあげて微笑んでから過去を繋いだ。


「当時、彼女は帝国首都にいたのです。さる貴族の娘に話相手として仕えていたのですが、実際は小間使いと変わりない……いや、それ以下の扱いを受けていました。

 地方領主の娘など、首都の貴族にとっては平民よりも従順で御しやすい駒同然らしいのでね、ローフェンディアでは」


 アンウォーゼル捜査官の声は、ローフェンディアの貴族たちを快く思っていないように聞こえた。


 ローフェンディアの貴族たち、と言ってしまうと、キアラさんのことまで悪く扱うことになってしまって申し訳ないけど、私もローフェンディアの貴族たちには『世界会議』でも軽んじられたので、いまだにいい印象は持てない。


「レオニーは優しい女性でした。

 華やかに着飾った娘たちと一緒にいても、目立たない、おとなしい人でした。

 大勢が集まる場ではほとんどしゃべりませんでしたが、私と二人になったときは……よく笑ってくれた」


 そう言ってアンウォーゼル捜査官は、目の前で恋人が微笑んでいるみたいな顔をした。眩しそうに細められた目には、見たことのない優しさがあふれていた。


 アンウォーゼル捜査官は学士院時代から女性関係が華やかな人だったのか……私の勝手な印象だけど、そうではない気がした。きっとあのことがあってから、変わってしまったように思えてならなかった。


「学士院で共に学んでいた娘たちや、舞踏会などで見かける貴族の令嬢たちとは違っていた。

 お高くとまることもなく、素朴で温かくて……そう、あなたによく似ていたんですよ。面差しは全く違いますが、雰囲気がね」


 だから、あなたには話せるのかもしれない、とアンウォーゼル捜査官は私に眩しい笑顔を向けた。

 裏表のない優しい眼差しに心が緩みかけたけど、その優しさはレオニーさんを慕う思いから生み出されたものだと気がつくと、胸が痛んだ。


「生まれて初めて、人を好きになりました。

 初めてのことでしたから、自分でもどうしたらいいのかわからなくて。

 なにより、冷やかされるのがいやでね、フリッツや他の親友にもずっと話せませんでした」


 はにかんで笑ったアンウォーゼル捜査官の顔は、汚れたものをまだ知らない少年のもののように澄んでいた。


「ですが、レオニーと交際していくうちに、彼女の境遇が次第にわかってきたんです。

 奉公先で暴行を受けていたようでした。

 その貴族の屋敷に乗り込んでいきたいのはやまやまでしたが、私はよそ者で留学生の身分、他国の貴族と争うことはできませんでした。

 ですから、フリッツに話してどうにかしてもらおうと思ったのですが、あいつに話す前に、レオニー釘を刺されてしまいました。レオニーは私の話から、私の友人の一人が自分の国の第二皇子であることを知っていたんです」


 レオニーさんの判断は、悔しいけど正しかったと思う。

 ユートレクトに暴行の事実を明かしたことがばれたら、それを逆恨みされて、余計にひどい仕打ちを受けたかもしれない。

 権力を持つ人は、自分より上の立場の人間にはいくらでも媚びへつらうけど、見下している人には、どこまでもひどいことをする。


「自分のことはそっとしておいてくれ、と言われました。

 この境遇がいつまでも続くわけではないし、もうすぐ奉公の期間は終わるから、それまでの辛抱だと。

 レオニーは私といるとき、いつでも笑っていました。辛くないはずがないのに」


 いつでも笑っていたというレオニーさんの気持ちはすごくよくわかったけど、私にはできないことだと思った。

 好きな人の前ではいつも最高の自分でありたい、一番かわいい自分を見てほしいし、そんな自分と接して幸せな気分になって欲しい。笑顔で迎えて、笑顔で別れたい……そう思う。


 だけど、そこまで辛い仕打ちを受けて、どうして笑っていられたんだろう。

 私にはできそうになかった。

 今だってアンウォーゼル捜査官の話を聞きながら、誰かにすがりつきたいと思っているのに。

 それだけ、レオニーさんにとってアンウォーゼル捜査官は、大切で失いたくない人だったんだと思う。


「彼女を早く幸せにしてやりたいと思いました。

 何もしてやれないことが悔しくてたまらなかった。早く一人前の男になりたかった」


 こんなこと言いたくないけど、アンウォーゼル捜査官の故郷ハーオイレナ王国の格式を考えると、ローフェンディアの貴族とはいえ、爵位を持たない地方領主の娘を配偶者にするのは難しいはずだった。


 アンウォーゼル捜査官は本当に……本気だったんだ。


 はっきりと結婚したかったとは言っていない。でも、琥珀色の瞳が放つ光はとても真剣で、そう思っていたんだと私に信じさせる力を持っていた。


「奉公の期間が終わる直前、レオニーの父上が仕えていた貴族が、事業で大きな負債を出しました。

 そのため、レオニーの父上も多額の借金を背負わされることになり、彼女はまた別の屋敷で奉公することになりました。

 爵位を持っていないとはいえ、レオニーの家も貴族ではあります。

 その彼女が働かなくてはならないとは、父上が負わされた借金はよほど巨額だったのでしょう。援助すると申し出ましたが、断られました」


 アンウォーゼル捜査官がレオニーさんを好きになった理由が、わかった気がした。

 恋人だからって簡単に寄りかかったりしない強さと、いつも笑顔でいるいじらしさを持った人だから惹かれたんだと。


「私が帝国学士院を卒業してからも、交際は続きました。『世界機構』に入った直後、レオニーの郷里の実入りもよくなったらしく、故郷に戻り平穏な生活を送っていたはずでした。

 ところが、ある日を境にレオニーから手紙が届かなくなりました。

 何度手紙を送っても返事が来ない。

 たまりかねてローフェンディアに向かおうとしたとき、かの国で起こった事件のことを知ったのです。

 『バルサックの悪夢』と……事件はローフェンディアではそう呼ばれて、賞賛されていました」


 『バルサックの悪夢』……聞いたことがある響きだった。


 あれは確か、『世界会議』の最中に私をさらった賊の皆さんが、あんな目にだけは遭いたくないと言っていた事件のこと。

 それがあの事件で、『バルサックの悪夢』だったなんて。


「私がレオニーの故郷に着いたときには住民たちの姿はなく、ゲスタリクが焼却処分された焼け跡と、おびただしい数の墓標が立つだけでした……レオニーの小さな墓も」

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