痛みから1
*
白む空からは、今も雪が舞い降りていた。
カーテンの隙間から漏れる微かな空の明るさに、何度目かわからない浅い眠りがかき消された。
時計はいつも起きる時刻より少し早い時間を指している。もう一度寝直すには半端な時間だった。
損した気もしたけど、どうせ目を閉じても眠れないのだからと思い直して身を起こすと、ベッドから出て洗面所へ向かった。
洗面所で鏡に映った顔に驚いた。
あれだけ泣いたのに、思っていたより目が腫れていなかったから。これなら執務に出ても問題ない。
床に落ちた視線が脱衣籠をかすめて、慌てて目をそらせた。
そこには、昨日寝る前に脱ぎ捨てた、私には似合わない寝巻きがくしゃくしゃになって入っているはずだった。
冷たい水で顔を洗うと、髪をとかし、結い上げようとして、今度は見たくないものから逃げられなかった。昨日感じた熱がよみがえってきて、タオルで首元を覆う。
消えて欲しいと願いながら、首筋の左側についた過ちの印をタオルでこすってみたけど、いくらこすっても首が赤くなるだけで、消えてくれなかった。
髪を下ろしていれば見えないところでよかった。今日は結い上げないでいるしかない。
洗面所を出てドレッサーの前に座り、いつもよりしっかりと化粧をすると、クローゼットに入った。
最近、膝上くらいの丈のスカートをよく選んでいたけど、今日は灰色のパンツスーツを着ることにした。
これで身支度は完了。あとは……
いつもの私なら、侍女を呼んで向こうの部屋にお茶や新聞を持ってきてもらったり、来てくれた侍女と世間話をしたりするのだけど、今朝はとてもそんな気分になれなかった。
とりあえず寝室から出て呼び鈴を鳴らす。執務に行く前には、侍女に声をかけることになっているから。
しばらくしてやって来たのは、今日の当番の侍女ではなくマーヤだった。
「おはようございます姫さま……ご気分はいかがですか?」
どうしてそんなこと訊くんだろう。
確かにこの頃薬を飲んではいたけど、朝からマーヤが顔を出すことはなかったのに。
マーヤの気遣わしげな視線に、いやな予感がして胸がきしんだ。
寂しさといらだちに耐えながら言葉を探す。
マーヤは第二のお母さんと言っていい存在だけど、だからって朝っぱらから泣きつくわけにはいかない。
「おはようマーヤ。私は元気よ、だから心配しないで。それよりお願いがあるんだけど」
「は、はい、なんでございますか」
いつもよりずっと優しくて心配そうにしているマーヤに、申し訳ないと思いながらも、自分の用件を済ませることにした。
「これを、私が帰ってくるまでにに片づけておいてほしいの。この部屋には大きいし、私、あんまり使ってないから。誰かいる人がいたら、あげてくれても構わないわ。これは歴代の王妃さまのものじゃないから、問題ないでしょ」
私はソファを指すと、不自然なくらい明るい声で言った。
こんなところにソファなんていらない。
「はい、確かにそうですが、姫さま」
「お願いね、じゃ、行ってきます」
「姫さま……」
マーヤの悲しそうな顔に、わざと気づかないふりをして部屋を出た。
ごめんね、マーヤ。
きっと昨日、何か言われたんでしょ?
わかるもの、マーヤの顔を見たらそのくらいのこと。
私の様子に気をつけてほしいとかなんとか、言われたんだよね。
だから、わざわざ来てくれたんだよね。ありがとう。
そんなことマーヤに頼むくらいなら、もっと……
もっと私に、本当のことを話してよ!
曇りそうになる視界を、目を見開いて押しとどめながら、私はいつもどおり朝食を摂るために食堂へ向かった。
彼が出て行ってから、どのくらいのあいだ閉ざされた扉を見つめていただろう。
恥ずかしさだけじゃない、いろいろな感情がたかぶって押し寄せて、何からどう考えればいいのかわからなくなっていた。
全身に受けた熱が引いていくと、乱れたままの自分の姿がまるで安っぽいからくり人形のように思えて、情けなくなった。
涙をぬぐいながらクローゼットに飛び込んで、いつも着ている普通の寝巻きを出すと、ばかげた寝巻きを脱ぎ捨てた。
握り飯とから揚げは、昨日のうちに全部一人で食べてしまった。
何か胃に収めたら、心から漏れだして胃壁を突き刺している苦痛を、食べ物と一緒に胃の底に沈めてくれるような気がして。だけど、食べ物ではこの痛みを消すことはできなかった。
薬はもう飲まないと言ったから、意地でも飲みたくなくて、とうとう飲まなかった。
今日も頭は痛い……頭だけじゃなくて、喉も胸も痛いけど、薬を飲まなくてもなんとかなるものらしかった。
眠ったのか眠っていないのか自分でもわからないまま、夜中ずっと考えた。
いろんな気持ちが重なり合って、ぐちゃ混ぜになって、冷静に自分を見られなくなりそうだった。
もしかしたら今も冷静じゃないのかもしれないけど、自分ではもうわからない。
そうやって、さんざん考えて……本当は考えなくても、彼が出て行ったときからわかっていたことだった。
結論はとうの昔に出ていたのに、私はそれと向き合うのを恐れていただけだった。
私は、彼の助けにも力にもなれなかったばかりか、女性として労わることも慰めることもできなかった。
これが事実で、私に残された結末だった。
だけど私は……そばにいたい。そばにいてほしい。どんな形であっても、主君としてだけでも。
はっきりしていることはこれだけだった。
だったら、そばにいるために、いてもらうために、私はこれから何をしなくちゃいけないのか。泣いてばかりいても答えは出ないから、考えなくてはいけなかった。
きっと私は、彼の抱える問題に答えられるには、まだ若すぎるのかもしれない。経験も足りないのだと思う。
けど、一緒に歩いていくと誓ったから、彼の心に寄り添って、支えられるようになりたかった。
それは、これからもっと経験を積んで月日を重ねれば、きっと追いつける……追いついてみせる。
何度誓ったかわからない思いをまた胸に刻んで、改めて自分がどれほど足りない人間なのか思い知った。
そんな自分が本当にいやだったけど、私を変えられるのは私しかいないから、いやだけど目をそむけるわけにはいかなかった。早く胸を張って自分に向き合えるようになりたかった。
それでも……女性としての私は、決意の向こう側に行けないまま、檻の中に閉じこもっていた。
自分の何がいけなかったのか、思い出すだけでも恥ずかしかったけど、何度も記憶をたどった。
あのときの私の姿、仕草、応え方……
自分に女性としての魅力があるなんて、思っていなかった。
だから、あのとき彼は苦しんでいたのに、こんなことを考えるなんて不謹慎だけど、本当に嬉しかった。
私だってもう子供じゃない。
これでも一国の女王で、王位を後の世代に継がなくてはならない使命を持っている。
『夜の帝王学』でもいろんなことを学んでいた。男の人が喜ぶ仕草とか、言葉とか、行為とか……
だけど、その手練手管の数々は、あまりに艶かしすぎるように思えて、使う気になれなかった。
それに、たとえ使えたとしても、彼がそんな『技』を喜んでくれるとは思えなかったし、彼にはありのままの私を見てほしかった。
その、ありのままの私が拒まれた。
『これで満足か』
思い出すだけで、身体が引き裂かれそうだった。
私が無理に望んだから応えた、とでも言いたいような台詞に、自分がみだらで不潔な女だとみなされた気がした。
それほど、あのときの私は…見苦しかったのだと思うと、恥ずかしさに身を焼いてしまいたいほど、自分の存在が汚らわしく、いとわしかった。
どうして名前を呼んだりしてしまったんだろう。あんなことを言ってしまったんだろう。
それ以外にも、興の覚めることをしたのかもしれない。
こんな経験も全くない私には、何がいけなかったのかわからなくて……全部私が悪いのだとしか思えなかった。
『こんな無様なまねは、二度としない』
その言葉も、思いを露骨にさらけ出した私に対する哀れみとしか思えなかった。無様なのは私の方だった。
いつもは、女性であることをそれほど意識していないのに、こうして否定されたら、女性らしい格好や振る舞いさえ私にはふさわしくないと思われているような気がした。
男性に触れられて打ち捨てられることが、こんなに傷つくものだとは思ってもみなかった。
……なのに、思いを寄せ合ったわずかな時間が、心の奥底で傲慢に鎌首を振りあげて叫びたてる。
どうして、あのとき帰ろうとしたの? 本当はあんな理由じゃないでしょう、私に打ち明けたことを後悔したんでしょう? 私があまりに無力だったから……
だったら、なんであんなことしたの?
あのときの私に、かきたてられたわけじゃないでしょう?
言葉にはできなくても本当は辛いんだっていうこと、見せてくれて、感じさせてくれて、すごく嬉しかったのに。
どうして、私のいけないところを教えてくれなかったの? 私、ちゃんと聞いたのに。
そんなにあのときの私は……ひどかったの?
私に愛想を尽かしたなら、それでもいいから。
マーヤに私のことを頼むくらいなら……
もっと私に、本当のことを話してよ!
こんな風に考えるなんて、思いあがりもいいところだとわかっていても、暴れる気持ちを止められなかった。
けど、止められないなら、せめて表に出しちゃいけない。
こんな身勝手な考えこそ無様で、未練がましいから。
もしも、壊れられたら。
数年前のあのときみたいに、彼の声や顔が見えなくなっていたら、楽になれるのかもしれない。
でも、そんな都合のいいことは起きるはずがないし、それで彼の存在を軽くできたとしても、なんの解決にもならない。
彼の主君にふさわしい人間になること。
彼の前では……女性を捨てること。
今の私は、この二つの思いだけで、痛みから逃れようとしていた。
**
朝食を摂り終え、執務室に入ったのは、いつもより大分早い時刻だった。
給湯室でお湯を沸かしている間に、昨日置き去りにしてきた書類たちに眼を通す。
書類の文字や数字を見ていると、昨日あったことが夢の中のことのように思える。あの出来事たちすべてが夢だったら、どれほどいいだろう。
しばらくすると、給湯室からお湯の沸いた音が聞こえてきた。慌てて火を止め、お湯をポットに移しかえる。
そうしておいてから、小さな食器棚から自分のカップを取り出し、いつもより濃いコーヒーを淹れた。
熱くなったカップの持ち手に気を取られながら給湯室から出ると、肩が何かとぶつかって、カップの中味が危うくこぼれそうになった。
コーヒを床にぶちまけなかったことにほっとしたのもつかの間、肩の先にいる人の存在に気がついた。見たくなかったけど、ここは執務室で私は主君で……
「……おはよう」
なんとか顔を見て挨拶した。
私は今どんな顔してるんだろうだとか、声がおかしかったかもだとか、気にする余裕はなかった。ただ声を出すだけで精一杯だった。
飛び出しそうな心臓を抑えながら席に戻る背に、
「今朝は早いな」
いつもと同じ冷静すぎる声が聞こえてきて、冷たい寂しさが胸を刺した。
わかってる、いつもどおりにしなくちゃいけないことは。たとえこの場に二人しかいなくたって。
だけどこの人は、どうしてこんなにも、何事もなかったように振る舞えるんだろう。
自分勝手な感情だとわかっていても、置き去りにされたような寂しさがまとわりつくのを払いのけられない。
「え、そ、そうかな? ちょっと早かったかもしれないけど」
席に着いて、コーヒーの入ったカップを机に置いてから顔を上げた。
思い過ごしかもしれないけど、疲れがにじんでいるような水色の瞳と視線が合った。
彼も昨日眠れなかったのかと思うと、少しだけ寂しさが紛れたけど、すぐにそんな自分中心な考え方がいやになって打ち消した。
私はばかだ。
彼が眠れない思いをしたとしたら、それは昨日、過去の辛いことを口にしたからに決まっているのに。
ユートレクトはコートを脱いでハンガーにかけると、給湯室に姿を消した。コーヒーを淹れに行ったのだろう。
いつもは彼がお湯を沸かしてくれているけど、今日は私が先に執務室に入っていたから、お湯はもうできている。すぐに湯気の立つカップを手にして出てくると、
「明日のことだが」
私にとっては、いきなり聞こえた声に驚いてしまって、何のことだかとっさに思いつけなかった。
「え!? あ、明日?」
裏返った声を出してから思い出した。
明日は昼から東19番街に行くことになってたんだ、二人で。
「ああ明日! 昼からのあれね、あれがどうかしたの?」
あんなことがあった後で二人きりなんて、いやだなあ……気が重い。
けど、そんな気持ちもねじふせなくちゃいけない。彼にそばにいて欲しいなら弱音は吐いていられない。
そう考えているのを悟られないように、わざと明るい声と……ひきつり気味に違いない笑顔を出すと、思いがけない言葉が返ってきた。
「延期しよう」
重々しい気持ちがこめられている瞳がこちらに向けられて、心が凍りついた。
私が内心いやがっていることがばれたのかもしれない……ううん、かもしれないじゃなくて、彼のことだから気がついたに違いなかった。
「何か急用でもできたの?」
だけど、認めるわけにはいかない。言葉を選びながら彼の心を探る。
「いや、そうではない」
「じゃあどうして」
返事はなかった。
私を見据える眼が、何か他のことをを訴えているようにも見えたけど、それがなんなのか私にはわからなくて……ただ私が、少しでも公私混同したことを怒っているのだとしか考えられなかった。
「わ、私なら大丈夫だから、ほらこのとおり元気だし!
それに、あの地区のことは早く見ておかなくちゃ、心配だもの」
重くなる心を打ち消すように、力をこめて明るい声と笑顔を振り絞った。
早く『わかった』と言ってほしかった。
少しでも主君にふさわしくない考えを持ったこと、反省してるから、お願いだから今日だけは責めないで。何も聞かないでこれで終わりにして……
なのに、ユートレクトは険しい視線を緩めてはくれなかった。
無理やり張りめぐらせた元気の糸が切れ始める音が、身体の中で響くのが聞こえたような気がした。
目の奥が熱く痛くなる感覚が湧いてきてうつむいた。
私の変化を察したのだろう、ユートレクトが執務室の扉を閉めに行ったのがわかった。足音が戻ってくると、うつむいた私の足元のすぐそばで黒い靴先が止まった。
「無理をするな」
この部屋では聞いたことがあまりない優しい声だった。
思いがけない温かさに、視界が涙の先で揺らぎ始めた。
いやだ、これ以上弱い私になりたくない、弱いと思われたくない、足をひっぱりたくない、一緒に歩きたい。
「無理なんかしてないよ」
泣いてしまいたくたって、すがりたくたって、この人にそんなことしたくないし、私的な理由で泣ける立場でもないから、強がりに聞こえたって強がるしかなかった。
だけど、次の彼の言葉が私の幼い自尊心を刺激した。
「大人げない意地を張るな」
本当のことだった。
だから悔しくなったのだと思う。
弱い自分を認めたくなくて、もう手遅れなのに、弱さを知られたくなくて……
子供じみた意地みたいな感情が、心で破裂しそうに膨れあがって止められなくなった。
「大人げないってなに? 私は無理してないって言ってるじゃない。
本人が大丈夫だって言ってるんだから、余計な詮索しないで、私の言うことを信じればいいのよ。
もし、それで私に何かあったとしても、私が大丈夫だって言ったせいで起きたことなんだから、あんたの責任にはならないわ、それでいいじゃない」
後先のことを考えないまま乱暴な言葉を吐き出した。
口にしてすぐ後悔したのに、止められなかった。
言い終わってからますます自分がいやになって、また目の前がかすみ始めた。
目の前の人がどんな顔をしているのかなんて、怖くて考えたくもなかった。
どうしてこんな形でしか自分を表現できないんだろう。
弱いなら弱いなりに、せめて響きのいい言葉で伝えられたらいいのに。
これでは……ただのわがまま女だった。
沈黙が時を止めたように長く感じた。
「……わかった」
やがて聞こえたかすれた声は、怒っているでもなく傷ついた様子でもなかった。
ただ、ひどく疲れていて、何事も突き放す風にも聞こえる声色は、心の中に鉄格子が降りたように重く響いた。
「では明日13時、通用門前」
用件だけを発した声の後に、始業を告げる鐘の音と扉の開く音……そして遠ざかる靴音が重なった。
今朝もまた、私は部屋に一人取り残された。
私は完全に『いやな女』になった。




