夢の終わり
*
私の今の姿……長さは膝下まであるけど、軽い布地で光の加減では透けてしまいそうな薄白色の寝巻きは、これからの真剣な話には絶対ふさわしくなかった。
ストールをはおりたいと思ったけど、クローゼットにまで取りに行かなくちゃいけない。だけど、わざわざ取りに行ったら、かえって空気を壊してしまいそうな気がして迷っていると、ユートレクトが腰を上げて枕元にある氷のランプを消した。
後になって考えれば、このとき多少妙でもストールを取ってくればよかったのだけど、今の私は動くことができなかった。
私が内心おろおろしているあいだにユートレクトは戻ってくると、また私のとなりに腰かけた。
「十年前のことだ」
いつもにも増して低く重い声だった。
「ローフェンディアの南方に、突然急速に豊かになった地方があった。土地は本来肥沃な地域でもないのに、農業による収入が増えていた。
領主と領民たちがよほど勤勉に働いたのだろうと、誰もが思っていた」
ローフェンディアの南部は、海に面しているところは南方地域との貿易のおかげで豊かだけど、一つ山を越えた内陸側には開けた土地はなく、農業には向かない土地柄だったように記憶していた。
「だが、その地の好況を不審に思った奴がいた。他の周辺諸領と比べて、明らかに実入りが違うからだ。
奴の調査の結果、その地で栽培されていたのは、周辺諸領が栽培している百年麦に似た植物ゲスタリクだった」
「ゲスタリクって……」
ゲスタリクは、穂のように生る実から極端に精神を麻痺・高揚させる成分が採れる草で、世界的に栽培が禁じられている植物の一つだった。
例えばペトロルチカならともかく、天下のローフェンディア帝国でそんな危険なものが栽培されていたなんて、思いもしなかった。
十年前といえば、私はまだ子供もいいところ。自分が住んでいるセンチュリアのこともまともにわからないのに、他の国のことなんて知っているわけがなかった。
「ゲスタリクの栽培は、当然領主だけではできない」
ユートレクトは私のつぶやきに答えるつもりはないらしく、そのまま話を続けた。いくら私でも、女王にもなってゲスタリクを知らないなんてありえないから、わざわざ説明する気はないみたいだった。
「領民たちも、自分が育てているものがゲスタリクだと知らずにいるわけがない。その地に住む者全員が、奴の取り調べを受けることになった」
寝室の灯りは、今では暖炉の火と外からの雪明りに頼るだけになっていて、横にいる人の表情は、はっきりとしなかった。
「今まで誰も明らかにできなかったことを突きとめた奴は、得意になって取調べを進めた。
調べるうちにより深刻な事実が発覚した。
その地では、ゲスタリクの栽培だけでなく、精神を麻痺もしくは高揚させる不法な薬物の製造、他国との密売まで、すべてを自分たちで行っていた。
世界的にも、過去最大規模の不法薬物の製造・密輸組織が自国にのさばっていることを知った皇帝陛下は、大変立腹された。ローフェンディアは潔癖な国風だ、薬物などに嫌悪感を持つ国民も多い。そのようなものが自らの国で作られ、まして世界にばらまかれていたとあっては、国の面汚しもいいところだ。
その土地の領主をはじめ、成人男子すべて571名が極刑に処された。
奴の頭のなかには、当時領民たちが長年の不作続きで、ゲスタリクでも作らなければ生きていけなかったという事態が想像できなかった。
皇帝陛下は無論事情を酌んではいただろうが、一国の統治者として世論と法をおろそかにはできなかった。
このようなときこそ、臣下たる奴が領主たちの助命を嘆願すべきだった。
あと少し掘り下げて調べていれば、すぐにわかったはずだった。
急激に豊かになったとはいえ、不作当時からの負債を一掃できるほどのものではなく、当面の生活しか保障できなほどの収益しかなかったことは。
だが、奴は自らの功績を誇るばかりで、おのれの手柄に酔い、この地に住む者たちの苦しみに気づかなかった」
『奴』のことを心底憎むように吐き出される言葉たちが胸に突き刺さる。
抑揚のない声が彼の怒りを一層大きく感じさせた。
「領主一族には、末代までに及ぶ刑が処されることになった。
成人男子は公開処刑、未成年は市民権の没収……センチュリアではこの制度はなじみが薄いかもしれんが、ローフェンディアで市民権を剥奪されるということは、人間としての扱いを受けられないのと同じことだ。そのような処罰を、勅命とはいえよく平気で執行できたものだ」
この世界で、わざわざ国民に市民権が与えられている国では、市民権のある人とそうでない人のあいだに明らかな差別がある。
市民権のない人たちには、いろいろなことに制限があった。
職業や住むところが決められていたり、生活に必要な物……服とか靴なんかも、自分で好きなものを買ってはいけなくて、国から支給される物で我慢しなくてはいけなかったり……
明らかに国から支給されたってわかるものを身につけているせいで、市民権を持つ人たちから迫害を受けたりもするらしかった。
国によっては、読んでいい本まで限られていたり、教育すら受けられないこともある。
センチュリアにはそんな制度はないけど、なくて結構だった。こんな制度早くなくなればいい。
「女子は市民権没収のうえ、他の領主からの希望があれば彼らにもらわれることになった。
この措置は、奴が生活力の乏しい女性に温情を示したつもりのものだったが、そんなものを女性が喜ぶわけはない」
私は力をこめて頷いた。
誰なんだろう、この事の真相を突きとめて、事件を執りしきった人って。
ユートレクトがこの人と、どう関わりがあるのかしら。
「この地の成人男子がすべて処刑され、未成年たちの受け入れ先も決まり、最後に女たちが残された。
奴にはただの罪人だったが、奴の部下たちにとってはそうではなかった。
牢につながれていた女性たちが彼らの慰みものになっても、誰も止める者はいなかった。止めるべき者たちが手を出していたのだからな」
執務中に何度かこういう話をしたことがあるけど、ユートレクトは本当にこういうことが嫌いだった。私も力づくで何かされたことは一度しかない。もしかしたら、こういう事件を知っているからかもしれない。
凍てつくような怒りが、事件を冷静に語っているように聞こえる声の端々から漏れだしていた。
「部下たちを叱責したときには、既に遅かった。
領主の令嬢が息をひきとりかけていた。
引き裂かれていた服を見ても、貴族令嬢にしては粗末なものだったが、そのときの俺は気づけなかった。
人殺しという言葉と、刑を執行した俺たちを呪い殺すような目が、今でも忘れられない。
令嬢はそのまま亡くなった」
私の中で、少しのあいだ時間が止まった。
俺は気づけなかった、とユートレクトは言った。
それじゃあ、今までの話の中の『奴』って誰なの、まさか。
背筋に冷たいものが這いあがってくるあいだにも、ユートレクトの声は止まってくれない。
「レシェクに命を狙われていると知ったとき、思い当たるのはこの事件のことしかなかった。
すぐにわかった。あのときの令嬢はレシェクの恋人だった」
**
頭の中に、今聞いた十年前の光景みたいなものが、切れぎれに映し出された。
狭い山あいに作られた畑に植えられているゲスタリク。
倉庫みたいな暗いところに、隠されたように並ぶ加工機器。
次々にできあがっていくゲスタリクの薬物を詰めているところへ、いきなり乗り込んでくる役人たち。
処刑場に連行される人たちのやせ衰えて疲れきった表情、領主たちに引き渡されるのをただ待つことしかできない女性たち、そして……
全部私が作り出した光景だったけど、それはあまりに鮮やかで、めまいがするほど悲しく、残酷な光景だった。
この光景を、ユートレクトは現実のものにする立場にいて、実際目にしていて……
彼がいつ、自分の行いや判断を悔やむことになったのかはわからないけど、そのとき……どれほど心が痛んだだろう。
かけたい言葉が繋がらないままに湧いてきて、頭と心を埋めつくす。
なのに、その言葉たちをちゃんと集めて結んで、うまく思いを伝えられるかどうか、自信はまるでなかった。
彼の心に刻まれている傷の深さを思うと、どんな言葉も受けつけてもらえないような気がして。
もし言葉を間違えてしまったら、かえって傷を大きくしてしまうかもしれない。
それでも、何か力になりたかった。今までずっと話せなかったことを明かしてくれた信頼に応えたかった。
「それで、アンウォーゼル捜査官があんたを狙っているっていうの? おかしいよそんなの」
私がもしアンウォーゼル捜査官の立場だったら、おかしいとは思わないだろう。そんなことはわかっている。
「本当に悪いのは、その女性に乱暴した人たちだし、その土地の人たちが裁かれたのだって」
こんなこと言っても、慰めにならないこともわかっている。
部下たちを統制できなかったのは彼の責任なのだし、彼が言っていたように、もしも皇帝陛下に進言していたら、人々の処罰も少しは軽くなっていたかもしれない。
「けど、法で禁じられていることをしたら、罰せられなくちゃいけないもの。でなかったら、みんなが悪いことを平気でするようになっちゃう」
誰かがあの土地の人たちを処罰しなくちゃいけなかったんだから、と言うつもりはなかった。そんな慰め方しても喜ぶ人じゃないと思うから。
「アンウォーゼル捜査官は、私なんかよりずっと賢い人だもの。あんたがあのとき法に従わなくちゃいけなかったことくらい、判ってるはずだよ。
もし、本当にあんたをどうにかしようと考えているなら、それだけ、その女性のことを……思ってるのかもしれないけど、あんただって、アンウォーゼル捜査官にとってはその人と同じくらい大切な人のはずだもの、きっとわかってくれるよ。あんたが言えないなら私が」
「謝罪はした」
私の言葉を遮って硬い声が重なった。
「許されることではないことはわかっているが、謝罪せずにはいられなかった。無論許されなかったが」
自分のことじゃないみたいに話す口調が、かえって痛々しくて胸を刺した。どうすれば暖められるんだろう、自分の罪に凍てついた彼の心を。
「狙われて当然だ、現に極刑に処された者の親族にも何度か狙われたことがある。俺の命であがなえるものなら、これほど安いものはない。
だが、俺は死ぬわけにはいかない。それはわかっている。おまえは余計なことをするな」
押し殺した感情がこらえきれずに漏れ出して、決意と後悔を叫んでいるように思えた。
血色の薄くなっている顔のなかで、床の一点を見つめている瞳だけが怖いくらいに輝いていた。
その輝きには、自分の罪を受けとめ、償いながら生きていこうとしている強い理性がうかがえたけど、それと同じだけ死を恐れていないようにも見えて、急に不安になった。
本当は……自分の身で償えるものなら、それで遺族や関係者の気が済むのなら、命を奪われてもいいと思っているような気がしてならなかった。
思い過ごしであってほしい…思い過ごしでないとしたら、そんな考えは今すぐに捨て去ってほしい。
どんなに苦しいこと、辛いことも、冷静な仮面に潜めている傲慢なほどの意思と不器用にあふれる優しさで、砕いて飲みこんで、突き進んでほしい。それができる人だと信じているから。
私はまた口を開いた。
「余計なこと? するよ。だって私は、絶対あんたに生きてほしいもの」
どなられたらどうしよう、と思うと怖かった。自分の声が震えているのがわかった。
「確かに十年前のあんたには……私が偉そうに言えることじゃないけど、経験が足りなかったかもしれない。
その土地の事情をもっと調べられていたら、皇帝陛下に温情を乞うこともできたかもしれない。
そうすれば、もしかしたらみんな極刑を免れたかもしれないし、市民権を取りあげられずに済んだかもしれない。女性たちだって、あんな目に遭わなくて済んだかもしれない」
言いたいことは、まだ全部繋ぎ切れないまま頭と心を漂っていた。器用に言葉にできないのがもどかしかった。
「でも、あんたが見つけなかったら、その土地の人たちは平和に暮らせたかもしれないけど、他の人たち……世界中の人たちが、そこで作られたゲスタリクに苦しんで、身体や心を壊したり、亡くなったりし続けなくちゃいけなかったんだよ。
亡くしてしまった命もかけがえないものだけど、救えた命もたくさんあると思う」
そんなことはわかっている、と怒られるかもしれないと思った。頭ではわかっていても、悔やまずにはいられないことだから。もし、私が彼の立場だったら、多分彼以上に悩んで悔やんで……どうなっているかわからない。
ユートレクトは口を挟まなかった。私がまだ話そうとしているのに気づいたからかもしれないけど、だからって遠慮はできなかった、今は。
「私も……あなたに救ってもらったから」
寝室の空気が大きく動いたような気がした。
「あなたには、たくさん怒られたけど、それでも、今のあなたに会えてよかったと思ってるもの。
私の勘違いだったら悪いけど、命を粗末にするようなことだけは考えないで。あなたは、生きて償える強さを持ってるって信じてる。
だから、今こうして、センチュリアでも力を尽くしてくれているんでしょう?
私にできることなら、なんでもするし……ずっとそばにいるから」
自分の言葉がとても薄っぺらいものに思えていやになった。
本心なのに、どうしてこんな風にしか言えないんだろう。
もっとうまく伝えなくちゃ、でもどうすれば……
止まりそうになる頭を懸命に動かして考えていると、ユートレクトが立ちあがった。
上着の袖に腕を通すと、そのまま寝室を出て行こうとする。
やっぱり余計なことを言ってしまったんだ、怒ってるんだと思うと、身体が動かなくなりそうだったけど、あんな顔のまま帰らせたくなかった。
「待って」
とっさに彼の腕をつかんだ。
「帰る」
低く、何かに揺れるような声が、心の地面を這って霜を降らせた。だけど……
「どうして」
帰らないで。
そんな何もかも閉じこめた心のまま、顔のまま、一人にならないで。
叫んでしまいたかったけど、だからといって、私にできることは思いつけなかった。
どうしたらいいの、早く何か思いつかなくちゃいけないのに、こんな辛そうな顔を見ていたら、それだけで何も考えられなくなる。
胸の内からこみあげてくるものを必死に堪えていると、
「おのれの愚かさをさらけ出すのには、体力がいるらしい。今日はもう限界だ、疲れた」
いつもの冷静すぎるものに調節された声が返ってきた。
彼が意識して普段どおりに振る舞おうとしているのがわかった。
それがここを出て行こうとしている本当の理由じゃないとしても、螺旋階段でいろんなことを話してくれたときからずっと、神経を張り詰めていたのは嘘じゃないだろうから、申し訳なく思った。
「ごめんね、私のせいでいやな思いたくさんさせて」
まともなことを言えたことにほっとしてしまったのか、彼をつかんでいた手が無意識のうちに緩んでいた。
気がつくと、ユートレクトは扉を開けて寝室から出ていた。慌てて後を追いかけた。
ここで彼を引きとめられなかったら、二度とこんな風には彼と会えない……こんな格好を彼の前でする資格はないような気がした。
テーブルの上に乗っかったままの紙袋が眼に入った。つなぎとめたい一心で声をかける。
「まだ時間早いし、握り飯食べない、お腹空いたでしょ?」
「いや、いい」
私の思いをわざとはねつけるような、それでいて、別の強い感情を隠している声だった。もう『疲れた』からだとは思えなかった。
「どうして……?」
きっと別の理由があるはずだった。
私に……これだけ話してくれた私にも言えないことなの?
さっきまで、望んでくれた私にさえも?
「言っただろう、俺はそう若くない。情けないことを何度も言わせるな」
「そ、そんなつもりじゃ」
冗談めかそうとする声が辛くて、彼と同じようには言い返せなかった。
彼を笑顔にすることを言えなかった自分が厭わしかった。
経験が足りないことも、彼の気持ちを思いやってあげられてないことも。
泣いちゃいけないのに、まぶたが熱くなるのが止められないことも。
「私、ごめんね、力になれなくて、ごめんね……」
そうして、やっぱり謝ることしかできない私だけが残ることも。
「違う」
「あんなに辛い思いをしたこと、話してくれたのに、なんにも力になってあげられなくて」
「違うと言っている」
けど、何が『違う』かは教えてくれないんだね。
ごめんね、わかってあげられなくちゃいけないのに、聞きだす勇気が出てこないよ……
これ以上情けない姿を見せて、疲れている彼を余計に苦しめちゃいけない。
帰ると言っているんだから、帰してあげなくちゃ。引きとめても何もしてあげられないなら。
「ごめんなさい、あんなこと打ち明けてくれた後だもの、疲れてるに決まってるよね……」
無理に作った笑顔がうまくいっているはずなかったし、いくら頭を絞っても何も出てこなかったけど、最後に一つだけ、これだけは信じてほしくて、塞がる喉を無理やりこじ開けて声を絞りだした。
「私、何があってもそばにいるから。この気持ちだけはずっと変わらないから。過去にも……これからどんなことがあっても」
彼が肩越しにこちらを見たような気がしたけど、もう一度見直したときには水色の瞳は見えなかった。
「引き止めてごめんね。おやすみなさい、また明日」
そう言って私は彼に背を向けた。
これ以上彼の姿を目にしていたら、彼の心の痛手に、自分の無力さに耐えられそうになかった。
私はどこまで無力なんだろう。
肝心なときに力になれないことが悔しかった。
こんな悔しい思いを、どうしてまた味わってるんだろう。
私室で二人きりになれるほど、距離は近づいているはずなのに……
今日いろいろなことを聞かせてくれた信頼に温まっていた心は、氷河の奥に閉じこめられたように固く凍りついてしまっていた。
どのくらい時間が経ったかわからなかった。
扉を開ける音にすら気づけなかった。
ずっと物音一つ聞こえなかったから、きっと、泣くのを我慢している間に出て行ったんだと思って、堪えていた涙をあふれさせたときだった。
肩の上に何かが乗った。
びっくりして、身体を強ばらせる間もなく振り向かされると、あのとき……家で見たときよりも、もっと顔色の悪いユートレクトがいた。
「あれ…ど、どうしたの、忘れ物?」
泣き叫びたいほど辛い思いをしてきたのは彼なのに、私が泣いていたらいけないと思って涙をごまかそうとすると、すぐに顔が見えなくなって、文官服の胸の中へうずめられていた。
目の端に椅子の背にかけられたままのコートが映った。
そっか、ずっとここにいたんだ、と私にしてはひどく冷静に考えたとき、抱き締められている腕の力が増して、そんな冷静さは吹き飛んでしまった。
冷たく凍りついていた心も身体も、たちまち溶かされて熱を帯びていくのがわかった。
その熱の強さに、堪えきれなくなった感情を空気伝いに震わせると、私の思いを受けとめてくれるかのように唇が塞がれた。
導かれ、息がつけないまま、身体が後ろ向きに進み、ゆっくりとソファに沈んだ。
微かに揺らぐ息づかいを聞きながら瞳を閉じた。この人にとって自分が女であることが嬉しかった。
……思いと時間が進んで、彼の手が初めての場所に忍びこんだ。
恥じらいのヴェールが繰り返し熱く迫る衝撃に押し流されていく。
出会ってから一度も呼んだことのなかった彼の名前が口をついた。
彼の動きが止まったのを感じて目を開くと、暖炉の火を映して燃える水色の瞳が私を映していた。
「……愛してる」
衝撃に洗われて、生まれたままの姿になった心が漏らした言葉に嘘はなかった。
今の時間を心に、身体に刻むように……もっと先へ一緒に行けるように、願いをこめたものだった。
だけど、私が心からの言葉を囁いた瞬間、ユートレクトの表情が変わった。
夢から醒めたような顔になったかと思うと、私から身を離して起きあがった。
まだ動けない私をよそに、何事もなかったかのようにコートをはおる。
「……どうして?」
信じられない思いで身体を起こすと、やっとそれだけ口にした私に、
「これで満足か」
冷たく、恐ろしい言葉を投げつけた。
言葉だけでなく声にも、今まで感じていた熱い息づかいの跡は残っていなかった。
「そんなこと」
後が続けられなかった。
そんなこと、思ってるわけないのに。
こんなことしてほしくて、引きとめたんじゃないのに、どうしてそんなひどいこと言うの?
愛してるだなんて、口にしちゃいけなかったの?
名前を呼んじゃいけなかったの?
それとも他に悪いところがあったの、この格好のせい?
何が……何がいけなかったの?
突然、夢から残酷な現実に叩き落とされたみたいで、考えがまとめられなかった。
まだ夢に疼く身体が、眼の前の現実を拒むように思考を遮ろうとする。
けど、今そこに立っている人は、氷の海のように冷たく凪いだ顔で私を見下ろしている。
それなら……私が悪いのに違いなかった。
「ごめんなさい、わ、私、何がいけなかったの?」
さっき以上に、冷たく暗い深海にある氷の中に打ちつけられたように心が震えていた。
あと一度でも何かに打たれたら、突かれてしまったら、心が壊れてしまいそうだった。
もう何を言ったら許してもらえるのか、どうしたらいいのかわからなかった。
声を出すのが怖かった。
冷たくすべてを閉ざす瞳から逃れたくてうつむいた。
揺らいで落ちていく視界を止めることはできなかった。
「許せ……こんな無様なまねは、二度としない」
という言葉だけが頭の上から降りてきて。
今度は扉の閉まる音が冷酷に耳を貫いた。
もう名前なんて呼ばない、あんなことも言わない。
あんな格好も……二度としない。
最後の杭を打ちつけられた心が、砕ける音が聞こえた。




