螺旋の果て6
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部屋の奥にある扉から寝室に入ると、まず見えるのは硬くない本ばかりが並ぶ書棚と、簡単な書き物をするための小さな机と椅子。そしてドレッサー、サイドテーブルとベッドが並び、最高位の淑女にしては小さいクローゼットの向こう側に洗面所と浴室、お手洗いがある。
暖炉の炎とほのかな雪明りに照らされている自分の部屋が、今日だけは別世界のように見えて、変な想像が膨らむ前に思い切り頭を振った。
最高位の淑女であることを私的に感謝したのは、今日が始めてかもしれない。毎日部屋を綺麗にしておいてもらえるご身分なんて、めったになれるものじゃないもの。そう、こんな風にいつ殿方が来てもいいように…
…ああもう、なに考えてるの私ったら!
今日はいつもより念入りに身体を洗ってお手入れしなくちゃ。だけど、あんまりゆっくりして待たせたら悪いわよね。どんな格好で向こうの部屋に戻ったらいいかしら。戻って…顔を合わせたら、なんて言ったらいいんだろう。やっぱり湯浴みを勧めるのかしら、それとも、淑女としては余計なこと言わずにおとなしくしてた方がいいのかしら…
自分でもはやりすぎてるとわかっていても、緊張のあまり思いが駆けずり回るのを止めることができなかった。
落ち着かない心をなだめながら、浴場に入ってからすべきことを頭の中に列挙しつつ、早足でクローゼットに入った。湯浴みを終えた後に身にまとうべきものを注意深く、だけど速やかに厳選した末に引っつかむと脱衣場に向かった。
浴場で熱いお湯を全身に浴びると、少しだけど心が落ち着いて、今日の出来事を振り返ることができた。
…私のせいで、心が壊れそうなほど辛い思いをさせてしまったことは、悔いても悔やみきれなかった。一生かかっても償えないと思っている。
だけど彼はそんな私に、今までずっと抱いていた不安をさらけ出させてくれた。それだけでなく、まとまりのない私の思いを受け止めてくれた。どれほど感謝してもし足りなかった。
御前会議でのことも…自分の非を認めただけじゃなく、他人には言いたくないはずの心のいやな部分まで見せてくれた。彼があんなに自分の思いをはっきり言ってくれたことは、今までになかったはずだった。
あれほど心を見せてくれて、私の思いまで知ってもらえただけでも十分幸せなのに、今日は…今夜はこのうえにまだ、二人だけの時間が訪れようとしている。
お湯のせいではなく顔が熱くなって、自分を心の中で叱りつけると、手早く、でも丁寧に頭からつま先まで洗い流した。
湯気に曇った全身鏡にお湯をかけると、何も身にまとっていない自分の身体がくっきりと映し出された。女性らしいまろやかさやふくよかさはほとんどない姿に、改めて悲しくなったけど、今更どうしようもない。
せめて心のなかだけは女らしく…ううん、ありのままでいよう。飾ったってうまくいきっこないんだし、なによりあの人の前でうそはつきたくないから。
私は腹をくくると、身体を拭きながら全身の最終確認をして浴場を出た。
「遅くなってごめんね」
扉を開けていきなり、『お待たせ、次、浴場使ってくれていいよ』とはやっぱり言えなかった私の第一声は、結局こうなった。
ユートレクトはわれに帰ったように顔を上げたけど、顔色がよくないように見えて心配になった。
「どうしたの、やっぱり身体冷えちゃったかな…」
ここはやっぱり湯浴みを勧めるべきよね。だ、大丈夫よ、やましい気持ちからじゃないんだから。
「お湯、浴びておいでよ、温まるよ?」
あああ言っちゃった!
こんなことなら、私の誕生日の前にチェーリアたちと会う機会が欲しかったわ。
そうすれば、こういうときどうしたらいいとかなんとか、生の体験談をそれはもうこと細かに聞いておけたのに!
けど、ユートレクトはそんな乙女のどきどきなんてどうでもいいように生返事を返すと、さっさと寝室に入っていってしまった。
ちょっと待って、これは、あの、私、どこであなたをお待ちしていればいいのかしら、宰相閣下?
私はとうとう今頼れる唯一のもの…頭の引き出しの奥に放置していた『夜の帝王学』の知識を引きずり出して考え抜いたあげく、かなり大胆かもしれないけど寝室で待つことにした。
だって…後ろめたい思いや怖いという気持ちは、全部彼が吹き飛ばしてくれたから。
本当の本当は、女王として品行方正であろうとするなら、何も定めないままこんなことしちゃいけないのかもしれない。
だけど今は…思いが重なりあって、望まれて望んで、二人でたどり着いた場所に恥じるところはないと思っているし、この気持ちを封じたくはなかった。
寝室に戻ると、なんだか違和感があった。先ほどと部屋の明るさが違っていた。
どうしてかと思ったら、クローゼットであれこれ物色するために、明るくしていたはずの部屋の灯りが消されていた。その代わりに、ベッドの上に置いているお気に入りの氷みたいな形のランプが灯されていた。
すりガラスでできているランプは、灯りを柔らかく反射して周りを暖かく…先入観でそう見えるのかもしれないけど、艶やかな色で照らしている。
今まで意識したことなかったけど、小さなランプなのに周りの灯りが落ちていると、驚くほどなまめかしくベッドを照らしていることに恥ずかしくなった。彼が部屋の灯りを消して、このランプを点けたのだと思うと顔がまたほてった。
恥ずかしいけど、このランプを消して照明を元に戻したら、また怒られそうな気がしたし…今からそういう雰囲気になるのだからそのままにしておいて、寝室に入ってすぐの窓際で待つことにした。
ここは応接間ではないから、この前みたいな金色の雪は見られないけど、白く儚く舞い降りる粉雪は私の気持ちを一層たかぶらせた。
あのとき…金色の雪を見た夜は、最初は全然色めいたところなんてなかった。
むしろ応接間に入ったときにはキアラさんも一緒で、三人で仲良く(?)ご飯まで食べて…
そうだ…キアラさん。
キアラさんだって、ユートレクトのことを好きなはずなのに。
私なんかよりもずっと昔から…
キアラさんのことを考えると、今まで感じていた幸せが足元から崩れるように消えていきそうになった。
だけど…ごめんなさいキアラさん、これだけは譲れない。
もしかしたら、私はキアラさんより彼と交わしている言葉だって少ないのかもしれない。一緒にいる時間も思い出も。彼自身のことだって、きっとキアラさんの方がよく知っているだろう。
それでも、彼が選んでくれたのは私だから。誰にも譲れない、渡せない…
窓に映った自分と眼が合って驚いた。
私はこんなに意思のはっきりした顔立ちじゃないはずだった。
もっとおどおどした十人並みの、目立たない顔のはずなのに。
きっとこの妙に色っぽい照明のせいで、おかしく見えているのに違いなかった。
いつもと違う自分の顔を、気のせいにして雪を眺めていると、浴場の扉が開く音がしてユートレクトが姿を見せた。
ユートレクトは普通の格好…文官服の上着を脱いだだけの格好をしていて、内心どんな姿で出てくるかどきどきしていたから安心した。
男女兼用のバスローブは脱衣場に常備してあるんだけど、それだけで出てこられたりしたら、この前…ユートレクトの家で同じ姿を見たとき以上に動揺してしまったに違いないから。
え、どうして男女兼用のバスローブが常備してあるか、ですって?
いやらしい話だけど、そういう準備は万端にしとくことになってるんですって。
私はこれでも一応女王だから、立場的にはいつ殿方を招いてもとがめられないし、愛人を持っても構わないから…で、でも、私はそんなことしないんだからね!
そんなどうでもいいことは置いといて。
お湯を浴びて温まったはずなのに、まだユートレクトの表情は硬かった。
「大丈夫、よく温まった?」
「ああ」
その返事もまたうわの空のように聞こえた。
「…どうしたの、本当に具合悪いんじゃないの? もし気分が悪いなら」
「そんなことはない」
髪を拭いているバスタオルに隠れて、顔は見えなかった。けど、もう身体が冷えただけとは思えなかった。
何か私に言いたいことがあるような気がして声をかけようとすると、頭を覆っていたバスタオルの動きが止んで、
皮肉っぽく歪んだ笑顔が現れた。
「俺も人のことは言えんと思っていただけだ」
「どういうこと?」
「いい顔をするようになったな、強くなった証拠だ」
私の問いかけには答えずに笑みを優しいものに変えると、急に澄んだ眼差しで見つめられて恥ずかしくなった。
さっき窓に映った自分の顔がいつもとは違って見えたのは、気のせいではなかったのだと思うと嬉しかったけど、彼が本当に言いたいのは私のことじゃないはずだった。
考えてみたら、彼との会話ではこんなことが多かった。
本当に言いたいことを言う前に、関係ないことを口にして人の気をそらせたり、自分の気を紛らわせてるような気がする。そんな風に振舞うのは、恐らく照れているときか本当に言い出しづらいときで…
今彼が言いたくて…言おうとしていることは、私にとって嬉しいことなのか辛いことなのか、それとも…彼自身のこと?
そう思い至ったとき、私はまだ彼から聞いていないことがあるのを思い出した。
クラウス皇帝の戴冠式に出席する前の日も、初めて彼の家にあがったときも、あれほど言いづらそうにしていたこと。それは、アンウォーゼル捜査官とも関係のあることで…あのことを話そうとしているの?
ユートレクトの表情から笑顔が消えた。
私の顔色が変わったのを見て取ると、感情を悟られたことを恥じるように険しい視線を床に落とした。
「おまえのことを案じる前に、自分を見つめ直さなくてはならなかった。
だが俺は…あのときから年甲斐もなく浮かれて、今の今まで自分の罪を置き去りにしていた」
「あのとき? 罪って」
「おまえが俺を好きだと言ったときからだ」
私の二つの問いかけのうち、恐らく話したいことの本題には触れない方にだけ答えて言葉を継いだ。
彼が私のあのめちゃくちゃな告白に『年甲斐もなく浮かれて』いたなんて、思いもしなかったけど、そのことを嬉しく思う気持ちより、答えの返ってこなかった『罪』という言葉に感じる不安の方が今は大きかった。
「だからこうして、今になって雰囲気をぶち壊すようなことを話さなくてはならなくなる。せっかくおまえがその気でいるのにだ」
「そんなこと…」
その気、と彼が言ったとき、私の寝巻きに視線を移したのがわかって、顔が暖炉になりそうなほど熱を持った。
確かにこんなことになれて嬉しかった。
身だしなみにしても今の格好にしても、彼をここで待っていたのだって、なまめかしく見える灯りを元に戻さなかったのだって、私にしては勇気を振り絞ってのことだった。
だけど、それとこれとは話が別だと思う。
そんなことより、今彼が口にするのも辛いはずの過去の話をしてくれようとしていることの方が、ずっと大切だった。
「そんな、雰囲気壊されたなんて、全然思わないよ」
「おまえにしては上出来ななりをしていてもか」
「こっ、この格好は…! そういうつもりで選んだんじゃないってば!」
あからさまに寝巻きのことを言われてますます恥ずかしくなったけど、私にしては珍しいことに、すぐにまた話を逸らされかけているのに気がついた。うわずりそうになる声を抑えて、顔を引き締めると、
「そ、そんなこと言ってる場合じゃないでしょ。話したくないことなら無理に話さなくてもいいよ。前にも言ったでしょ? でもあの…そういうつもりで話さなくていいって言ってるんじゃないから…ね?」
『機会がなくなるのがいやなのか』とか、そんなことを言われて、また妙な方向に話を持っていかれるのがいやだったから、よこしまな気持ちはないことを主張した。
私の真剣な思いが伝わったのか、ユートレクトは今度は話を逸らさなかった。
寝巻きのことをつっこまれておろおろしていた私を、面白そうに見ていた表情は跡形もなくなっていた。
「いや、思い出したからには話さなくてはならない。
でなければ、この俺を尊敬しているとまで言ったおまえを抱く資格はない」
押し殺した声だったけど温かいものを感じて、かえって胸が痛んだ。
私が彼に抱いている尊敬の念が彼を苦しめていると思うと、尊敬しているだなんて言わなければよかったと後悔した。けど、本当の気持ちを隠すことなんかできなかったし、言ってしまったことは取り消せない。
「聞いてくれるか」
あのときと同じ…初めて彼がこのことに触れたときと同じ痛々しい表情と声に、今から語られることの重さを感じた。
私が黙って頷くと、ユートレクトは私の肩に手を回して、優しくベッドの端まで連れていき、腰をおろさせた。彼も私のとなりに座ると膝の前で両手を組んだ。
今夜は長い夜になりそうだった。




