螺旋の果て5
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先ほどの問いかけが頭の中によみがえった。
『今もまだそう思いこんでいるのか、怖いのか』
今の、私は……
もうそんな風に思い込んでいないと言ったら……怖くないと言ったらどうなるの?
水色の瞳の奥で、炎にも似たものがちらついているように見えた。
その炎が発する熱は、ただ自信に満ちているだけではなくて、もっと別の……金色の夜や、彼の家で過ごしたときと同じ感情を宿しているみたいに思えて……
となりあっている肩にそっと手がかけられた。
稲妻が頭上に落ちたみたいな衝撃が走って、思わず身を震わせた。
少しして、私の震えが治まると、待っていたように彼は私の身体を自分の方へ向けた。
深く熱い感情ををたたえて映える瞳、真剣な表情、広い肩の線からつながる、鍛えられて引き締まった身体、力強い腕。大きくて温かい手、節くれだった長い指は、ほんのわずかな時間だけど、私の肌をたどったことがある。
目にしている、服の布地越しに触れている彼のすべてから、不謹慎なくらい異性の引きこまれる力を感じていた。今の私にとっては、彼だけがたった一人の男性だった。
初めて口づけを交わしたときよりも、ゆっくりと顔が近づいてきたけれど、眼が離せなかった。
恥ずかしい…目を閉じなくちゃという考えすら湧いてこないほど、目の前にいる人の姿に魅せられていた。
吸い込まれるように引き寄せられるまま彼に身を委ねたとき、頭の中で白いものが弾けた。弾けたものが粒のように全身に飛び散って、身体の力が抜けた。
とすっ、と足元で音がした。
「なんだこれは」
私を引き寄せていた手が不意に離されて、ユートレクトが身を軽くかがめようとしたので、慌てて理性を呼び戻すと彼の腕の中に崩れた身体を起こした。
ユートレクトが拾い上げたのは、食堂でもらった握り飯とから揚げが入った紙袋だった。力が抜けて身体が崩れた拍子に、膝の上から転がり落ちたらしかった。
紙袋の中身はこぼれていなかった。口を固く折って閉じておいたのが幸いしたみたいだった。
私はこの紙袋をもらってきたいきさつを説明した。薬を飲むために胃に食べ物を入れなくてはいけなくて、食堂で作ってもらったことと、なぜか二人分入っていること。
それを聞いた臣下の第一声は。
「そうか、では食うぞ」
「はい?」
「二人前ということは俺の分だろうが」
「そうかもしれないけど」
ていうか、食堂のおばさんは間違いなくそのつもりだったと思うけど……
力が抜けたとき、頭にももやがかかったみたいになって、まだしっかり働かない頭で考えていると、思いもよらない厳しい言葉が向けられた。
「まだ薬を飲むつもりか」
その言葉に、自分の愚かしさを思い出して情けなくなった。だけど、今はもちろんそのつもりはなかったから、堂々と返事することができた。
「ううん、もう飲まない。飲まないでいいように、自分で勝手に自分を追いこまないようにする」
「ならいい」
その声は怖くなかったけど、ユートレクトはそれきり黙りこんでしまった。
も、もしかして……じゃなくて、もしかしなくても私、雰囲気丸潰しした?
握り飯とから揚げ、落っことしたせいで。
それで怒ってるとか。だとしたら、これは謝らなくちゃいけない。
「あ、あの」
「なんだ」
「その……ごめんね?」
私の微妙に高低差をつけた声に、ユートレクトは包みの口を開けかけた手を止めると、けげんな顔をして私に視線を移した。
「私、もしかしてその、雰囲気ぶち壊しちゃった……ね?」
おそるおそる、これまた微妙なイントネーションで訊ねると、
「しょせんおまえのやることだ」
やっぱり私が雰囲気をぶち壊したことを肯定する言葉が返ってきた。
がっくり肩を落とした私をよそに、ユートレクトはから揚げを一つほおばると、握り飯を取り出しかけて……何を思ったのか元に戻した。
「何もこんな寒い場所で食う必要はないな、行くぞ」
「え……」
年中無休で食欲旺盛なはずの臣下は、紙袋の口を再び封印するとおもむろに立ちあがった。
「どこに……私の応接間? それとも執務室に戻るの?」
予期しない臣下の行動に、身体がついていけなくて言葉だけを追わせると、ユートレクトは階段を降りかけた足を止めて、こちらを振り返った。なんかとてもいやそうな、あきれたような、でもそうとも言い切れない……ほとんど見たことがない妙な顔をしていた。
「明日は休んでいいぞ」
偉大な宰相閣下は、その妙な顔でぶっきらぼうに言うと、私を置いて黙々と階段を降りはじめた。
「え、どうして、明日は別に何も……」
何も私的な用事はないよ、と言おうとしたのだけど、なぜかその背中は私の声を受け付けなさそうに見えて、最後まで言えなかった。
なんとも表現できない……張り詰めたというのが一番近いかもしれない(けど多分それも違うと思う)空気をまとった背中に続いて、私も螺旋階段を降りた。
鉄の扉が開く前に、思い出してコートを返した。
ユートレクトは、ああ、と興味なさそうにつぶやいて受け取ると、羽織らないで腕にかけたまま扉を開けた。
王宮内に戻ると、今まで自分たちがどれだけ寒いところにいたのか身にしみて感じられた。
直接冷気にさらされていた手や頬が、みるみるうちに温まっていくのがわかった。
ユートレクトは先に立ったまま、なおも黙って歩いていく。すれ違う官吏たちに返礼しながら、気まずい思いが募る。
怒っているのではないのはわかるのだけど、どうしてこんなにぴりぴり……というのとも違う、なんだかわからない空気を漂わせているんだろう。
わからないまま、コンパスの長い歩幅を少し息を弾ませながら追いかけた。
ユートレクトが言い表せない空気をまとったままで執務室方面へ伸びる廊下を横切り、応接間への曲がり角をやり過ごして足を止めたのは、私の私室の前だった。
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私が自分専用に持っている部屋は二つある。
一つは知人などと私的に面会したりするための応接間。親友のチェーリアも、以前王宮に来てくれたことがあったのだけど、その時入ってもらったのもここだった。
そしてもう一つが、身支度をしたり寝たりする私室。
王侯貴族の中には、寝室と私室を分けて持っている人もいるけど、私の私室はこの二つが部屋の中で仕切られている。
私室には、私が女王なために貴重な物がたくさん置いてある。例えば、私がいつも首にかけているオーリカルクのペンダントとかもそうだし、部屋の装飾物……時計や花瓶なんかも高価なものが多い。
ありえないことだけど、もしも友人の誰かを私室に招いて、私が席を外しているあいだに友人がそのへんを物色して、目にした装飾品とかを魔がさして盗んだりしたら……大変なことになってしまう。
現に何代か前の王妃さまのときにそういう事件が起こって、宮廷内が騒然としたことがあったらしかった。
そんなことで友情が壊れるくらいなら、寂しくはあるけど、最初から一線を設けておいた方が、お互いのためでもあるのです……応接間なんていう仰々しい存在に首を傾げた私に、トゥリンクスが言ったことだった。
このあいだ、キアラさんが私の私室に押し入ってきて、あれこれ物色していったけど、あんなことも本当ならマナー違反。キアラさんは、目下の者の部屋に入るのにマナーなんて関係ないわ、くらいにしか思ってないんだろうけど。
侍女長のマーヤは、別の方面の心得も教えてくれた。
淑女たるもの、その気もない殿方と会うのに、殿方を自分のベッドのある部屋に招いてはいけない、というのが高貴な女性の心得なのだそう。
『殿方を私室へ招く』という行為や言葉が、社交界では招いた殿方と男女の関係を持つという、暗黙の了解になっているというのだった。
だから、私が病床にいるとき、ユートレクト私が寝ている横で書類を見ていたりしていたけど、あれも例外中の例外。私の看病や診察のために、人が頻繁に出入りしていたからできたことだった。
ユートレクトも私の寝室にいたときは、扉を開けてよこしまな気持ち(!)のないことを証明していたし。
長くなってしまったけど、つまり、私の私室に入るのは、本来なら同性の親友でも許されないことで、まして異性なら……
私の私室の前に立っている人は、もちろんそれを知っている。
『明日は休んでいいぞ』
彼がつぶやいた言葉をもう一度思い出したとき、金色の雪が降った夜のことが頭の中によみがえった。
あのときは週が明けたばかりで執務も立てこんでいたけど、明日はどうしても外せない会議や面会などはない。そのことも彼は知っている。
彼の言葉が何を意味していたのかようやく気がついた。
私は私室の扉のノブを回した。
今朝、執務室に出向く前に、今日は早めに執務を終えると伝えていたおかげで、私室は既に暖められていて、冷えている身体を優しく包んでくれた。
ユートレクトはコートを椅子の背にかけ、握り飯とから揚げの入った紙袋をテーブルに置くと、暖炉の前に立った。あんな寒いところで長いこと動かずに話しこんでいたうえに、コートをずっと私に貸したままだったから、相当身体が冷えているに違いなかった。
「何か温かい飲み物持ってきてもらおうか? 握り飯とか食べるのにも、飲み物あった方がいいもんね」
こんなこと言ったら、また雰囲気ぶち壊すことになるのかもしれないけど、本当に風邪をひいたら大変だし……
それに、こんなときどんなことを話したらいいのか、何をすればいいのかわからなかった。
私が『夜の帝王学』で習ったのは、晴れて挙式を終えた後、初めての夜を迎えるときの段取りだけで、雰囲気の作り方とかなんて考えもつかなかった。
心配したとおり、やっぱり空気を読み違えた提案だったのか、ユートレクトは返事をしない。その沈黙が怖くて不安になった。
でも、『ごめんね』と謝るのも、あからさまにその方向に進んでいることを肯定するみたいで、さっきは言えたのに、この閉ざされた空間では言えなくて……
「の、飲み物いらない? 握り飯たちもまだ少しは温かいけど、熱いもの飲んだ方が身体もすぐに温まるよ?」
どこまでも色気のないことしか口にできなかった。
こんなときチェーリアや他の親友たちなら、どんな会話をするんだろう、と落ちこんでいると、黙っていた人が苦々しいため息の後に、
「おまえはつくづく……」
そう言ってしかめた顔を、なぜかなまめかしいと思ったところで思考と……唇が塞がれた。
「色気がないな」
まだ鼻先が触れてしまいそうなほどの距離で、言葉とはうらはらな色めいた低い声音に余計動揺した。
「だ、だって、寒そうだったから。私がコート貸してもらってたせいで風邪ひいちゃったら悪いし」
恥ずかしさで明らかにうわずった声を返すと、ユートレクトは私の未熟さをからかうように片頬で笑ってみせた。
「そう思っているなら湯浴みくらい勧めてみろ。おまえは本当に『夜の帝王学』を学んだのか」
「そっ……! そんなこと勧められるわけないでしょ!」
あまりの言葉に、顔が熱くなるのを止められなくて、ますます高さの定まらない声でわめくと、目の前の人の顔が離れていった。
どうやらまた私にあきれたのか笑みを収めると、テーブルの方に足を向け、いつもの冷静すぎる表情で椅子に腰掛けた。
また変なことを言ってしまったのかと思うと、たまらなく自分がいやになった。どうして私はこの人を怒らせることしかできないんだろう。
そんな思いが頭を占めると、さっき……だけじゃない、本当は心が通い合ってからずっとずっと、わからないままの疑問が暴れだすのを鎮められなくなった。
どうして、私なんかを好きになってくれたの?
いつも……今だって、打てば響くような会話なんてできないし、あきれ返らせたり、苦しませたりしてばかりなのに。賢くもないし女らしくもないし、容姿だって綺麗じゃないのに。
彼が女として意識する要素なんて、私にはまるでないのに……どうして?
「どうして、私を好きになってくれたの?」
二人だけの空間にいるはずなのに、その理由がわからないだけで、心が本当に触れ合っていないように感じられて、泣き出したくなるほど心細くなった。
「こんなにお気に召さないところばっかりなのに」
それに……
「あなたのこと、ちっともわかってあげられてなくて、いやな思いさせて、迷惑ばっかりかけて」
それに……
「かわいくもないし、美人でもないし、女らしくもないし、賢くもないし、弱いし、断崖絶壁だし。
なのにどうして? こんな私の、どこを気に入ってくれたの?」
自分のよくないところなら、淀むことなく口にできてしまうのが情けなかった。
視界がうるんできたことを知られたくなくて、暖炉の方に顔をそむけた。揺らぐ炎の色が幾重にもにじんで見えた。
「俺はおまえよりもよほど単純なのかもしれん」
「どういうこと?」
そむけた頭の後ろから聞こえた声の意味がわからなくて、おそるおそる振り向いた。
「美人だとか気立てがいいだとか、そういうことは考えたこともないし、今も思い浮かばない」
いつもの冷静すぎる表情のまま、私をそらさず見つめる眼はとても鋭くて……思いもよらない質問の答えを、今考えながら言葉にしているかのようだった。
私はさっき、あなたの問いかけに……あなたのどこに惹かれているかをすぐ答えたのに、あなたは私のいいところを、今考えなくちゃわからないの?
そう思うと心が沈みかけたけれど、すぐに次の声が継がれた。
「容姿や性格がどれほど好みでなかろうが、それを打ち消して余りある何かがあるから、嗜好を超えたのだろう。考えてみれば至極単純な論理だ。俺が今ここにいるのは」
今度はその『何か』を考えるようにユートレクトは視線をさまよわせて….もう一度私と目が合うとぎこちなく瞳をそらせた。
彼の視線が止まった先にあったのは、握り飯とから揚げが入った紙袋だった。
そのことからして、冗談に紛れさせた答えが帰ってくるような気がして、諦めにも似た寂しい気持ちでいると、
「おまえが俺を好きになってくれたからだ」
その声は、彼のものにしてはいつもよりずっと……彼が少年の頃の声のように透き通っていた。
重々しいところが全くなくて、しかもとても小さな声だったから、危うく聞き逃しそうになってしまったけど。
耳より先に心が聞き逃さなかった。
優しいからだとか、かわいいからだとか、そういう答えが聞きたくなかったと言ったら嘘になる。
だけど、私の気持ちが……彼を慕う私の心が、彼の心に留まってくれた。
隠しながら悩みながら、諦めかけながらでも思い続けて、全然かっこよくない……それどころか無様な思いだったけど、心だけは自由なままでよかったんだ。
容姿や性格を愛でてもらうよりも、もっと深い思いをもらえたような気がして、また眼の奥が熱くなった。
「腹は減っているか」
穏やかに湧きあがる喜びに心を震わせていると、いつもより柔らかい声が聞こえた。
先ほどの透き通った感じの残る声だったけど、それだけではない成熟した男性の色を感じてしまって、また鼓動が早くなった。
「う、ううん」
「では先に湯を浴びてこい」
女は何かと時間がかかる、と続いた言葉に、『世界会議』のときのことを思い出した。
同じことを言われたあのときは、嵐が去った朝だったけど、今は粉雪のちらつく夜の帳が外を静かに包んでいた。




