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螺旋の果て4

*******



「それで、本題ってなに?」


 右側から聞こえてくるさまざまなバリエーションの悪口雑言を、ことごとく左耳へ通過させ終えると、私は改めて訊ねた。

 この期に及んで『断崖絶壁』って言ったことには、あえれ触れないことにするけど。なによ、その、つまりあの……(公開自粛)くせに。


 ユートレクトはけろっとした顔の私を見ると、先ほどまでとは違う、いつものあきれたという顔でため息をついた。


「ここに来るまで、おまえは何を考えていた。

 今日の御前会議の他にも、気になっていたことがあるのではないか?」


 そう言われてようやく思い出した。アンウォーゼル捜査官とのことと、先週の……金色の雪の夜のこと。

 とても大切なことを話していたから忘れてしまったけど、思い出すとまた不安の影が心に落ちた。


 それと同時に、笑顔が凍りついた。


 どうして私は、へらへら笑って浮かれていられるんだろう。

 さっきまで自分が彼に犯した行為に、あれほど沈んで落ち込んで、さんざん悔やんで涙を流したのに。

 自分の心が、彼の言葉や行動一つで簡単に揺り動かされるということはわかっていた。でも、これほど簡単に自分の罪を棚にあげて笑顔になれるなんて……


 私には人として抜け落ちたところがあるの?

 こんなに心の浮き沈みが激しいのは…病気のせいなの、それとも……


 視線を感じて横を見ると、水色の瞳が私の言葉を待って静かにたたずんでいた。


 今は……私のことはいい。

 話さなくちゃ、気になっていたことたちを。

 こうして、相手の気持ちを察して、話を聞いてくれようとする人なんてめったにいない…そのくらいのことは私にもわかる。


 お互いのことを聞いて、話して、納得して理解しあうこと。今の私と彼には、それがなにより大事なことだった。


「アンウォーゼル捜査官のこと……」


 自分でも信じられないほど揺れ動く心のことはとりあえず置いておくことにして、私は近い過去のことから話すことにした。


「謝っておかなくちゃと思って。いやな思いをさせたかもしれないから」


 私に優しげな微笑みを見せて、耳元に顔を寄せて囁いたアンウォーゼル捜査官の顔が頭に浮かんだ。

 あの日以来、アンウォーゼル捜査官は私に距離を置いてはいるけど、それまでの度が過ぎる言動を忘れることはできなかった。いまだにアンウォーゼル捜査官を見ると、顔をこわばらせてしまう自分がいやだった。


 返ってきたのは、思ってもみないほどすっきりとした声だった。


「まさかおまえは、俺があの程度のことで嫉妬すると思っているのか」


 それはいつもの冷静すぎる声に、大人の余裕とでもいうような色を混ぜたような声で、気負いも気遣いも見えなかったから安心したのだけど、念のために聞いてみた。


「思ってないけど、いい気にはならない……よね」

「いい気にも悪い気にもならん、俺を何歳だと思っているのだ。道端に落ちているわいせつ本を盗み見る若造でもあるまいし」

「ならいいんだけど」


 あんまりな表現の例えにちょっと力が抜けた。だけど、本格的に安心してよさそうな返事だったので、信じることにした。


「私、あんな扱いされて嬉しかったわけじゃなくて、アンウォーゼル捜査官のことだから、本当に社交辞令か気まぐれだと思って。だから放っておいたんだけど、そうしたらあんなことになって。

 結果的には私が考えなしだったかもしれないけど、下手に注意したら『世界機構』との関係が悪くなるかもしれないと思ったし、あんまり神経質になるのも自意識過剰かな、って」


 勝手な言い分かもしれないけど、アンウォーゼル捜査官を信頼したいと思うからこそ、裏切られたような気持ちになっているのかもしれない。


「おまえが色仕掛けなどになびかないのはわかっている。いや、なびけない、だな。

 仮にレシェクのあれが色仕掛けだったとしても、そんな解釈しかできんのだからな。

 妙な心配をする暇があったら、少しは男を手玉に取ることのできる色気でも身につけろ」


 ユートレクトの口調は先ほどと同じままで、私が言いたいことをわかってくれたように思えた。それに、嬉しかったのは、


「もしかして、最初の一行は褒めてくれてる?」

「おまえには女としての自負はないのか。色気がないと言われて、褒められているように聞こえるとはな」


 かわいくない台詞を返してきた。でも、今日はあまりに借りが多すぎるから許してあげなくちゃ。

 アンウォーゼル捜査官のことを思い出したら、その言動の急な変化がまた気になってきた。


「アンウォーゼル捜査官、どうしちゃったのかな。それは気になってるの。突然あんな態度取るようになって」

「重臣の誰かに何か言われたのだろう」


 その声の響きが、なんだか裏の意味を隠しているような感じだったから、私は少し考えて……ぎょっとした。


「まさかアンウォーゼル捜査官、みんなに勧められて、私との縁談に本気になったとか」

「どうだろうな、今後の展開が楽しみだ」

「楽しみにしないでよ!」


 面白そうに笑っている臣下に、私は声を荒げたけど、


「おまえに近づいたのも、奴の手の内の一つだろう。身の危険はないと思うが用心しておけ」


 という言葉に胸が詰まった。


 アンウォーゼル捜査官が何を考えているのか、本当にペトロルチカと通じているのか、それに……ユートレクトとの間に一体何があったのか。

 いつか教えてくれると言っていたけど、いつになったら教えてくれるんだろう。

 とても気になるけど、アンウォーゼル捜査官とのことは口にするのも辛いことみたいだから、話してくれるのを信じて待つしかない。


 それに、今はこれ以上辛い思いをさせたくない。

 私とのことで十分辛い思いをしたのに、この上あのときの……アンウォーゼル捜査官とのことを口にしかけたときの辛さを背負わせたくなかった。


 いつもどおりの冷静さを戻した彼の顔に、ほんの少しだけど苦い思いが走ったような気がした。


「わかった……」


 私がおとなしく頷くと、他にもまだ言いたいことがあるのではないか、と促された。

 アンウォーゼル捜査官とのことを思い出して話題を変えたたのかと思うと、胸が痛んだ。


「それは」


 他にも言いたいこと……


 私はとうとう、そもそものわだかまりの原因を打ち明けることにして覚悟を決めると、息を飲んだ。



********



「先週のあの夜は……ごめんなさい」


 あの夜…金色の雪を二人で一緒に見た夜のこと。


「何のことだ」


 いまだに気持ちの整理はついていなかった。

 彼とどうなりたいのか……どうなるべきなのかもまだ定められていない。定められていないまま一線を越えることにも、心の中にためらいが生まれていた。

 それに、たとえ気持ちが高まって一線を越えられたとして……最後まで受け入れられるのか、自信が持てなかった。


 迷ってばかりの自分がいやだった。

 だけど、思いは頭と心のあいだを行ったり来たりするだけで、自分では凝り固まった気持ちをどうすることもできなかった。


「私、ちゃんと決めてからじゃないとって思いこんじゃって。決められていなくて申し訳ないなって思うと、そういう気持ちになれなくて」


 たとえ彼が気にしない、関係ないと言ってくれていても、私が気にしないわけにはいかなかった。

 彼にふさわしい、賢明な女性でありたいと思うと、なおさら早く決めなくちゃという焦りだけが先に立っているのかもしれないけど。


「それに、やっぱり……怖いの。

 今度はその、断っちゃいけないと思うし、でも、いざとなったらどうなるか、自分でもわからなくて。

 そんな気持ちのまま……なのは失礼だと思うから」


 うまく束ねられない気持ちを声に乗せながら、改めて思う。

 私は美しくもないし賢くもない。でも、せめて努力だけは怠りたくないと思っている。

 なのに、一度決意できたことにまた心を悩ませて、彼の思いに答えられないなんて、私はよほど愚か者なのに違いなかった。


 どうして、私なんかを好きになってくれたんだろう。


 心が紡いだ疑問が瞳の前にあふれてきて、また眼の前をぼやけさせた。


「私が灯り消そうとしたりして、あんな雰囲気にしなければよかったのに。そんなつもりじゃなかったの、でも、あんなことするなんて考えなしだった、ごめんなさい」


 それでも、声を揺らさないように気をつけながら、最後まで言葉を継いだ。


 きっとまた怒られる……おまえが俺をどう遇しようと関係ないと言ったはずだ、とか言われるに決まってる。

 だけど、これが今の私の思いのすべてで、彼の言葉を覚えてはいても、自分の力ではもうどうにも動かすことができなくて……

 眼をぎゅっと閉じたいような気持ちで返事を待っていると、拍子抜けするほどいつもの調子の声が返ってきた。


「変な方向とはなんだ」

「それは……」

「先ほどから聞いていれば、おまえは俺を思春期まっただなかの、尻の青い小僧だとでも思っているのか。

 雰囲気に流されるほど若くもなければ、一度や二度拒まれた程度でどうということはない」


 さっきの『道端に落ちているわいせつ本』うんぬんと言ったときと同じ口調に、心がなごみかけたけど、次の言葉で自分を蹴りつけたくなった。


「それに言ったはずだ、無理強いは趣味ではないと。

 理由はどうであれ、おまえはあのときその気ではなかった、だから何も起きなかった。それだけのことだ」


 少しだけ低く小さくなった声に、自分が彼の男性としての誇りをとても傷つけてしまったような気がしてならなかった。

 彼の家で過ごした夜のことを思い返しもしないで、彼を自分の中の未熟で狭い一般論にあてはめたことが恥ずかしかった。


「ごめんなさい……」

「それで?」

「……?」

「今もまだそう思い込んでいるのか、怖いのか」


 優しい声に驚いて顔を向けると、信じられないほど穏やかな色をたたえた眼とぶつかった。


 今も私が迷っていることも見透かしているような眼差しは、かたくなに結ばれた心をほどくように私をふわりと包んで、内から温かさを感じかけたときだった。


(そんなこと、あんたに許されると思っているの?)


 心の奥深くから冷たい声が聞こえた。


(彼の優しさにいい気になって、彼にしたことを忘れたの? あんたに幸せになる資格なんてないわ、それを忘れないことね!)


 一瞬で心が凍りついた。


 さっきはあんなにいろんなことを後悔して反省していたのに、すぐに心を浮かれさせてしまったこと。

 今だってそう、彼の優しさに甘えようとしていた。自分の弱さが呪わしかった。


 それに、先ほど聞いたことを思い出すと、彼の心のことが改めて心配になった。

 忘れるはずがない、壊れかけたという言葉。

 本当に、今はなんともないの……?


「どうした」


 顔をこわばらせた私に、彼の眼が鋭く細められた。

 まだ何か不安なことがあるのか、と言っているような顔だった。


 今感じている不安をそのまま口にしていいのか……よくないに決まっていた。

 また甘えることになってしまうし、やっぱり、私には彼のそばにいる権利なんてないんじゃないかという思いが、分厚い氷のように心を覆っていた。


 だけど、彼に嘘をついても見破られるのはわかっていたし、嘘をつきたくもなかった。

 それに、彼が私を受け入れてくれるなんて考えが私の思い上がりで、いつまでも暗い考えしかできない女に、とうとう愛想が尽きるかもしれない。


 それでも……嫌われるなら、偽りのままより、無様でもありのままの私で嫌われた方が後悔しないはずだった。


 私は震える喉に力をこめて話し始めた。

 先ほどよりもっとちりぢりな気持ちを言葉にするのは、とても難しくて、何度もつかえてしまったけど。


 これほどまでに感情をあちこちへ波立たせるなんて、私はやっぱりどうかしているのではないかということ。

 こんな私に……彼に苦痛を与えた私には、彼と幸せになる権利なんかないこと。

 彼に深い傷を負わせたことを、とても申し訳なく思い、心から案じていること。


 ユートレクトは私のたどたどしい話が続く間、一言も挟まず黙って聞いていてくれた。

 なんとか私が泣かずに話し終えた後、最初に口にしたのはこんな言葉だった。


「落ちこんだら立ち直るのは、当たり前のことではないか。おまえは生涯あの暗いままでいるつもりだったのか」

「だけど」

「おかしなことではない。こちらは前を向かせるつもりで話しているのだ、おまえごとき元に戻すことができなくてどうする」


 声は普段の冷静すぎるものに戻っていたけど、その言葉は心を閉ざしている分厚い氷の上で、温かなしずくが溶けるかのように落ちた。


「こういった機会を作ったのは、先ほどまでのおまえの状態では、東19番街の視察には耐えられないと思ったからだ」

「どういうこと?」


 突然、東19番街の名前が出てきたことが不思議で首を傾げたけど、


「気を強く持っていなければ、東19番街の現状にはついていけん……特におまえはな」


 ユーとレクトは両手を膝の間で組むと、組んだ手を見つめるように視線を落とした。


 東19番街のことを考えると、自分のことにばかり心を走らせて思い悩んでいることが、とても愚かしいことに思えた。

 食べるものにも着るものにも、住むところにも不自由することなく、日々を過ごせているだけでありがたいことなのに、それを私は……

 自分の身にしようとしていたことを思い返すと、今日で何度目になるかわからない自己嫌悪に駆られた。


 だけど、今の私にできることは、二度とあんなことをしないと誓って前を向くこと……そう自分に言い聞かせて、また倒れようとする心を支えることにした。


「今の東19番街、そんなにひどいの?」

「恐らくな。それから」


 ユートレクトはここで東19番街のことを話す気はないらしく、それ以上は踏み入らずに話を戻した。


「あのことはもう聞くな。俺はもう大丈夫だ。不安にさせるために教えたのではないと言ったはずだ。いつまでも気にされては、教えたことを後悔してしまう」


 ごめんなさい、と口から出しかけて止めた。

 違うでしょ、ごめんなさいじゃなくて……なんて言えばいいの?


「怒ってる?」

「怒ってはいない、だが同じことを何度も言わせるな」

「……ごめんなさい」

「やはりおまえは謝ってばかりだな」


 そう言って苦々しそうに笑ったけど、声は怒っていなかった。


「おまえの考えもよくわかった。今度からは一人で落ち込む前に、今のように俺に聞け」

「うん」


 心の中のろうそくに、小さいけれど揺るがない炎が灯ったような気がした。

 幸せな気持ちが少しずつ……だけど切れることなく湧いてきて、心と身体を静かに潤していく。


「それで?」

「?」


 先ほどと同じ問いかけの言葉に続いたのは、優しい声ではなかった。


「今はどうなんだ」


 私なんかに、彼と幸せになる権利はない……


 そんな思いを有無を言わさない力で払いのける、憎らしいほどの自信に満ちあふれた声だった。

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