螺旋の果て3
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彼の『氷の刃』は、どこにでも潜んでいた。
ささいな会話から執務の重要なこと……何を話していても現れて、ときには唐突に、ときにはじわじわ追い詰めるように私を襲った。
刃を突き立てられるような痛みが心を刺すと、頭が熱を持って鈍くうずいた。
目はまともに彼を見ることができなくなって、弱々しい視線をさまよわせた。
喉は緊張で乾いて裏返りそうな声を出し、口をつく言葉は動揺のせいで余計におかしなものになった。身体中が動かせなくなることもあった。
もう少し違う風に言ってくれれば傷つかないのに、気持ちよく言うことが聞けるのにと何度思って何度泣いただろう。
私がどんなに言葉を選んで話しても、返ってくる言葉は温かくはならなかった。偉そうな言い方だけど、私の台詞から少しでも柔らかな言葉遣いをわかってくれないかと願った。
だけど、他のことはなんでも知っていたり人から吸収する彼が、これだけはどうしてもわかってくれないみたいだった。
病床に就く前、マーヤが彼のことをこう言っていた。
『宰相閣下はきっと、ああいう言い方しかできないお方なのですよ。悪気があってのことではないと思いますよ。育ちも育ちですしね……』
いつからか、マーヤの言うことはやっぱり正しかったのだと思い始めた。
自分の性格や立ち振る舞いは、なかなか変えられない。それは私も同じだから。
彼の言葉を気にしないようにしよう……しようと思っても、気にしてしまうのと同じで。
それに、気にしていない人もたくさんいるのに、私の考えだけで彼に言動を変えてもらうようにお願いすることもできない……私には。
私一人のわがままのせいで誰かの人格を矯正するなんてこと、あってはいけないと思うから……思ってきたから。
それでも憧れて、尊敬して。
目も心も引き離せなくて、どうしようもなくひかれて。
一緒にいられるところにまで近づいて。
だから、もう『氷の刃』は受け入れるつもりだった。
それも彼の個性だと。
この人に愛してもらえるなら、それだけでいいと思った。
なのに。
私の耳は、今何を聞いたの?
とても恐ろしくて信じられない、信じたくない言葉が、耳から頭に、心に伝わって、全身に白くはじけた。
壊れそうになった……誰が? 誰のせいで?
「俺まで壊れたのでは、おまえを支えてやれなくなる。だから、やめた」
淡々とした声からは彼の心がわからなくて、わかったのは、私が大切な人を追い詰めていたということだけだった。
「……いつ」
「それは言わない」
「今も?」
「いや、大分昔の話だ」
「どうして?」
どうしてそんなことしてくれたの?
どうして私は気がつけなかったの?
彼の思いやりに気づかないまま、また言われた、なんて弱く心を震わせていたなんて。
そのとき彼がどんな思いをしていたかも知らないで。
心が壊れそうになるときの思いがどんなものか、私が誰よりも察してあげなくちゃいけなかったのに!
目の前が白く霞んでいるのは、涙のせいなのか灯りのせいなのか、それとも、あまりのことに心が空っぽになったせいなのか、自分ではもうわからなかった。
「いつから……」
「それを言うつもりはない、過ぎたことだ」
「どうして……」
自分の犯した罪の大きさが恐ろしかった。
いつからそんな苦しい思いをしていたのか、本当に今彼は大丈夫なのか、それを確かめたくて同じ言葉しか繰り返せなかった。
けれど、ユートレクトは私の問いかけに答えるつもりはないのか、
「そんなことを言うつもりで言ったのではない」
そっけなく乾いた声で言うと、感情の見えない瞳を螺旋階段の下へ這わせた。
自分の罪のことだけに頭が一杯になって、彼の気持ちを思いやれなかったことにまた胸がきしんだ。
もし私が同じことを聞かれたら、どんな気持ちになると思うの?
そんな辛いときのことなんて、今更口にするのすらいやに決まってるのに。
「ごめんなさい……」
自分のことしか考えられない心の狭さと醜さに、愚かな涙がまたあふれ出した。
「ごめんなさい……!」
私の無様な謝罪の声の上に、凝り固まった感情を吐き出すような低いため息が重なった。
「おまえを謝らせたくて言ったのではないし、同情を買いたくて言ったのでもない」
同情という言葉に、私の謝罪が彼の誇りを傷つけたのかと思うと、それがまた私の心に罪を足した。
「ごめんなさい……」
どれほど謝っても償っても、許されない罪を犯した。
だけど、何かせずにはいられなかった。たとえ卑しい自己満足だったとしても。
何度ごめんなさいと言っただろう。
何回目かの謝罪の後、私の手がユートレクトから解放された。
「俺は……だめだな」
先ほどの低いため息に似た、何かこらえられない感情のこもった声だったけれど、彼が何を考えているのかわからなかった。
何がだめなの? だめなのは私の方なのに……
「この年になって、女一人笑わせることもできない」
自分を厳しく蔑み悔いるような声に、たまらなくなって両手で胸を押さえた。
だめだなんて言わないでほしかった。
それに誰なの、こんなにしてもらってもまだ笑えない女って!
「そんなことない!」
罪悪感と身に余りある思いに、裏返る声で叫んだ。
ここで否定すらできなかったら、私にはこの人のそばにいる権利はない。
「私が、全部私が悪いのに、何も知らないで……!」
「もういい」
私の声とはうらはらに、抑えられた低い声がして身体が傾いだ。
「おまえが泣かないように話す、少し時間をくれ、このまま……」
強く抱き寄せられた胸の中で、罪と幸せにせめぎ合っていた心がゆっくりと凪いでいくのを感じた。
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嵐のように波打っていた心が静まって、全身のほてりが収まるほどの時が経ったときだった。
「俺が言いたかったのは」
静かに身体が離されて、重い表情の奥からつとめて感情を押し殺しているような声がした。
「前から何度も言っている、俺は完璧でもなんでもないということを言いたかっただけだ」
それだけのために?
それだけのために、あんなことまで打ち明けてくれたの?
そんなことをさせたのは誰のせい?
心の傷をえぐらせて、辛い思いをこの人にさせたのは…他でもない私だった。
心がまたざわついて、細かな波をたて始めた。
「ごめんなさい……」
涙はもう枯れていた。自分の愚かさに打ちのめされた声が、情けなく螺旋階段のなかに響いた。それでも謝らずにはいられなかった。
ユートレクトは私を見ると、少し感情を荒げたように聞こえる声で、
「何を謝っている」
そう言われて、私はまた浅はかに心を怯えさせてしまった。
「だって、私のせいで、いやな思いをさせて」
気持ちを声にしてから気がついた。この人がさっきなんと言っていたのか。
私を傷つけないように話す、そう言ってくれていたのに。
今の声だってそう、怒ったんじゃない。
私を謝らせるつもりで言ってるんじゃないのに、私が怯えてしまったから困って……その気持ちが出てしまっただけに違いないのに。
「俺が好きこのんで他人を傷つける人間に見えるか」
うんざりしたような……違う、私のあまりに的外れた思い違いに途方に暮れたような声がして、私は首を横に振った。
言われたことを忘れて心を震えさせてしまったことがあまりに情けなくて、ごめんなさいと声が出せなかった。
また低いため息が聞こえた。私にかける言葉を量りかねているように思えてならなかった。
どうしてこんなに困らせるんだろう。
そもそも、どうして私は彼の言葉に声に、心を固まらせてしまうんだろう。
それもいまだに……長い間一緒にいて。
やがてユートレクトが口にしたのは、私の根本を量るような言葉だった。
「おまえは、俺のどこがいいと思っている」
「え……」
「それほど俺が怖くて、俺の言うことはなんでも怒っているように聞こえて、それでも……俺のどこがいいというのだ」
いつもの答えを知っていて確かめるような問いかけではなくて、本当に私の気持ちを知りたいと思っているように聞こえる声だった。
その問いかけへの答えだけは、恥ずかしくはあるけど、はっきりしていた。
「強くて、優しくて……尊敬してるから」
まだ何か答えを求めているような、鋭くて……かすかな熱を感じる瞳が向けられて、どう答えようか迷った。
内面的なものはさっきの言葉に全部こめてしまったから、それ以上どこがどうと言うのは恥ずかしかった。あとは…
「それから、目と、声が」
好きだった。意思を強く持って光る水色の瞳が。怖いけど低くてよく響く声が。
冷静なだけかと思っていたその二つが、幾通りにも色を変えることを知ったのは最近のことだった。
熱を帯びていたり、優しかったり、とても澄んでいたり……彼のどんな変化にもひかれていた。
外見のことを言うのは、内面のことを挙げるよりなぜかずっと恥ずかしかった。
軽薄に思われるのじゃないかと思って、顔から火が出そうなほど恥ずかしかったけどつけ加えた。
「全部、すき」
言ってから後悔した。余計軽薄に聞こえるような気がして。
だけど、ユートレクトは私を責めることはなく、少し面白いものを見るような眼を向けてから表情を堅くした。
「あんなことを話せば、おまえが傷つくことはわかっていた。だが、すべて話せるのは今しかないと思った」
覚悟を決めたようなはっきりとした口調に、私の心まで研ぎ澄まされたみたいに透明になっていくような気がした。
「俺は強くはない、現に壊れかけた。優しくもない、自分が壊れるのを避けるために、結果としておまえを傷つけ続けた。それが共倒れを防ぐためだったとはいえだ。
俺がもっと強ければ、もっと世の中の広くを知っていれば、おまえを病床に就けずに済んだはずだ」
「違う……」
澄んだ心にまた波紋が広がった。
「違う、私がしっかりしてないから……!」
でも、もう泣こうとは思わなかった。
彼がこんなことを話してくれているのは、自分の気持ちを見せてくれるためであって、私を困らせるためじゃないから。
それでも、これほど自分が他人を思い悩ませていることが許せなくて言葉を継ごうとすると、ユートレクトは頭を振って私を押しとどめた。
「こんなことを話すのは、もっとおまえを……知りたいからだ」
決意を持った口調のせいで他の感情が見えづらかったけど、言葉にこめられた『知りたい』という思いは痛いほどわかった。
「おまえが何を言えば傷つくのか、俺にはもう自分では考えられない。今もそうだ、考えて口にしたつもりでもおまえを傷つけた」
先ほどのことを言っているのだと思うと、申し訳なさに胸が一杯になった。
「相手を知るには、自分もさらけ出さなくては公平ではないと思った。だから話した」
そのとき、この後に続けたいはずの彼の声が聞こえたような気がした。
だから私の気持ちを教えてほしい、と。
私がどうして彼を怖がってしまうのか、どう言葉をつなげば私が怯えずに済むのか。
自分から教えてくれと言わないのは、自分の言葉がまた私を怯えさせるのを恐れているからで……
今まで、彼の心に少しでも触れられていると思っていた自分が恥ずかしかった。
こんなにも深くて広い気持ちを忍ばせていたことに、気づきもしなかったなんて。
意思を固めた瞳の奥で、身を焦がすような思いが渦を巻いているのが見えた。
私を理解できないことをはがゆく、ふがいなく思う気持ち、そんな自分でも、私に理解して受け入れてほしいと望んでいること……
さっきからずっと、頭の裏で思いをめぐらせていた。
どうして彼の声や言葉を怖がってしまうのか。
そしてわかったのは、私も彼のような人に接したことがなかったことと、彼と同じく生まれ持ったものが消せないのだということだった。
うまく表現できるかなんてわからない。こんなこと、人に説明したことなんてないから。でも、それは彼だって同じなはずだった。
声に、言葉に乗せてみよう。自分の中でわだかまっている気持ちを。ようやく見えて気づけた彼の気持ちに答えなくちゃ……答えたい、自分のためにも。うまく言えるかわからないけど、今日はそういう日らしいから。
「私ね……」
彼のようには整然と言えないに決まってる。だけど、私も並べられるだけ気持ちを並べてみようと思った。
「頭ではわかってる、あなたが私をわざと傷つけようとなんてしてないって。
でもね、どうしてだかわからないけど、あなたに強く言われると怒られてるみたいに聞こえちゃうの。
怒ってない、怒ってないはずって思おうとするんだけど、もし本当は怒ってたらって思うと、私が悪いんだ、謝らなくちゃって考えちゃって……昔からそうなの、なんでも自分が悪いって思っちゃって、友達にも卑屈だって言われるんだけど直せなくて」
薄雲のように白くたなびいていた光の色が、いつの間にか透明になっていた。
「多分これも、あなたと同じで生まれてきてからずっとこうだったから……それに、私もあなたみたいな人と今まで会ったことがなかったから。だから、あなたの言い方にも慣れられないのかなって思うの」
お互いの生まれ育ちの違いが、これほど互いを傷つける原因になっていたなんて、思いもしなかった。
それでも一緒にいたいって願うから。変えることが難しいものがあると知っても。それがお互いを傷つけるとわかっていても。
「でも、話してくれて、わかったから。
もう何も気にしてくれなくていいから、今までどおりでいいから。
もしかしたら、これからも傷ついちゃうかもしれないけど、そのときは落ち込む前にちゃんと聞くから、怒ってない? って。それでも……いいかな?」
相手の気持ちがわからなければ聞けばいい。
最初からそうすればよかったんだ。
でも、怖いという思いだけにとらわれて、そんな単純な考えもできなかった。
うまく伝えられたかどうかわからなかったけど、思いを吐き出したら、心の奥底まで風が吹き抜けるみたいにすっきりした。
こんなこと言ってまた怒らせてしまったらどうしよう、と一瞬考えたけど、これが私の思いのすべてだったから、後悔はしていなかった。
怒られて嫌われたらそれまで、悲しいけど仕方のないこと。自分の気持ちを曲げてこの人と向き合うことの方が、よっぽど悪いことのはずだから。
私の長くて拙い言葉に対するユートレクトの返事はこうだった。
「なぜだろうな」
「?」
「こんなことまで話して、それでも共にあろうと思うのは。最初から苦痛に感じない相手を選べば済むことなのにな」
理屈じゃないんだと思う。
好きになってしまったら、どんなにいやなところがあったってそれ以上に一緒にいたいって思うから。
「それでも、一緒にいたいからだよ、きっと」
多分それだけ。難しい理由なんていらない、好きだから。
自分の声が、自信に満ちあふれているように思えたのはどうしてだろう。
その理由はわからなかったけど、ユートレクトは声にならない笑い声を漏らすと、
「理屈で説明できんことは理解に苦しむ。こういうことは、男より女の方が理解できるのだろうな」
堅苦しいことを言いながらも、端正な顔に浮かんだのはとても柔らかで穏やかな笑顔だった。
笑っているのが気恥ずかしいとか、そんなことは何も取り繕っていなかった。
いつもの不器用な笑顔も好きだけど、きっとこの笑顔は私しか知らない……そう感じると、胸から身体に温かい気持ちが広がって、知らないうちに顔が緩んでいた。
だけど、私のとなりに座る人の表情は、笑顔とは対極の世界遺産なみに見たことのない顔つきになっていた。
ユートレクトの顔が赤くなっているのを見たのは、『世界会議』でリースルさまの話をして以来だった。
「……だから笑うなと言っただろうが!」
「へ?」
「早くそのしまりのない顔をなんとかしろ。話がすっかりそれていることに気づいていないだろう、おまえは。まだ本題は半分も話せていないのだぞ!」
「本題、なにそれ?」
「おまえにはまだ言うべきことがあるだろうが、さっさと深刻な顔に戻って思い出せ!」
そう言われても幸せなものは幸せで、私は十通りくらいの悪口雑言を、にこにこしながら右から左へと聞き流したのだった。




