螺旋の果て1
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何も口にする気になれなくて、昼食を摂らなかった。
午後の執務が始まる前にザバイカリエに謝りに行ったら、いつもどおりの穏やかな笑顔で応えてくれた。
いえ、宰相閣下のおっしゃることはもっともです。そもそも私の犯した過ちなのですから、私が叱責を受けるのは当然のこと。姫さまが思い煩われることなど何もございません、どうぞお気になさらないでください……
優しい声でそう言われて泣きそうになってしまった。ザバイカリエは、当たり前なのだけど大人なのだと思う。私はザバイカリエのように、何事もなかったようには振る舞えそうになかった。私も大人のはずなのに。
執務室で、あの人と同じ空間にいるのが前にも増して辛かった。執務中にそんなこと考えちゃいけないとわかっていても、心を封じることができなかった。
物音がするたびに心臓が止まりそうになった。
私の机の上に書類を置いていく手が視界をかすめるたびに苦しくなって、心の中できつく目を閉じた。
訪ねてくる官吏たちに指示を出す声が爆弾のように頭ではじけて、何度も目の前が真っ白になった。
だから早めに執務を切りあげた。ずっと頭痛が止んでくれなかった。こんな調子じゃいくら長い時間机に座っていても、頭が働いてくれなかったから。
「お先に」
斜め前に座る人の姿は目に入れず、声だけかけて執務室を出た。
たった一言、声を出すことがこんなに辛いなんて、胸まで握りつぶされそうなくらい痛く苦しくなるなんて、あのとき以来だった。ユートレクトを宰相に登用してから床に臥せるまでの……
あの頃のことを思い出した途端、頭痛と胸の痛みにとうとう耐え切れなくなった。
今週に入ってから、何度口にしたかわからない…どうしても耐えられなくなったときの特別な薬を飲もうと洗面所に入った。
けれど、昼食を摂っていないことを思い出して、薬の封を切ろうとした手を止めた。この薬は空腹のときに飲んではいけないことになっていた。
食欲はなかったけど、何か口にしなくては薬を飲んで頭痛を鎮めることもできない。仕方なく食堂で軽いものをもらうことにした。
自室にはまだ戻りたくなかった。自分の部屋で一人きりになったら、あの頃の自分に戻ってしまいそうな気がした。今は誰にも話しかけられたくはなかったけど、過去に病んで臥せった空間で一人になるのはもっといやだったし怖かった。
夕食にしては早い時間のせいか、食堂には誰もいなかった。
こちらに気づいてくれた揚げ物担当のおばさんに、執務中の夜食にできそうな軽いものをお願いすると、五分もしないうちに紙袋をを持たせてくれた。どうもありがとう、とお礼を言って誰も来ないうちに食堂を後にした。
紙袋の中からできたての食事の温かさが手に伝わってくると、少し心が慰められた。
どこで食べよう……痛みにうなされている頭をきしませると、この前アンウォーゼル捜査官から過ぎた言動を受けたとき逃げこんだ、王宮のはずれを思い出した。
あそこなら誰も来ない。
自分の思いつきになぜか嬉しくなって、ちょっとだけ足取りが軽くなった。
王宮のはずれに着いてほっとできたのは一瞬だけだった。
アンウォーゼル捜査官のことを思い出すと、また心が深く沈んだ。
ふと視線をさまよわせると、この前は意識していなかった非常階段に続く扉が眼に入った。
ここでも人目にはつかないと思うけど、確かあの中にある非常階段は、屋上のメンテナンス用みたいなもので屋上としかつながっていなかったはず。
更に誰にも見つからない隠れ場を発見した暗い喜びに心を強引に踊らせながら、冷たく重い鉄の扉のノブを回した。
中に入ると、冷たい空気が肌を刺した。屋上としかつながっていないから、王宮内の暖気が混ざることもないせいだろう。それだけに空気はとても澄んでいて、頭痛を軽くしてくれるようにも思えた。
「……」
見上げると、天井まで途切れることなく続く螺旋階段が、それだけ独立した建築物のような貫禄でそびえたっていた。幾重にも渦を巻いて天に伸びる姿は、まるで天国へ続く階段のようで……一番上まで上がったところから落ちたら、本当に天国に行ってしまうに違いなかった。
あたりを照らす非常灯のあかりが白いせいか、螺旋階段はほのかに光りたなびく薄雲に包まれているようにも見えて、これが天国への道という気持ちがますます強くなっていく。
今、何を考えたんだろう私は。私が天国になんか行けるわけないのに。
持っていた紙袋のぬくもりでわれを取り戻すと、螺旋階段を自分の背の高さくらいまで上ったところに腰かけて袋の口を開いた。
両手の大きさくらいにまん丸で、一面海苔に覆われたまるで爆弾みたいな握り飯が二つと、二つの紙コップに山盛り積まれたから揚げが、湯気をあげて私の顔を湿らせた。
誰と食べられるわけでもないのに、二つずつ入っている握り飯とから揚げの山を見たら、涙があふれて止まらなくなった。
今日のこと、この前のアンウォーゼル捜査官とのこと、そして……一緒に金色の雪を見た夜のことが切れぎれによみがえって心が抑えきれなくなった。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
今日のことは、私が私心を持ち込んだせいで、彼だけでなくザバイカリエやみんなにまで不快な思いをさせてしまった。
アンウォーゼル捜査官とのことだって、もっと早くはっきりした態度を取っていれば、後ろめたい思いをせずに済んだ。
彼のことだから、あのくらいのことで嫉妬なんてしないと思うけど、それでもいい気分にはならないはずなのに、私は不安の種を取り除かなかった。
それに……金色の雪の夜のこと。
別れ際に向けられた顔が忘れられなかった。いらだっているような、責めているような表情を思い出すだけで怖くて……
違う、本当は怖いんじゃない。
たとえそのつもりはなくても、自分から撒いてしまった種だったのに、彼の気持ちに応えられなかったことが、とても申し訳なくて、どうしようもなく後ろめたかった。
だけど、そんな風にしか考えられない自分が情けないと思うと、どうしたら許してもらえるのかわからなくて、ますます彼に顔を向けることができなくなった。
『俺はもう何も信じない、何も求めない』
御前会議の後、彼が残した言葉が今になって千本の矢のように心を突き刺した。
私への激しい負の感情がこめられた声がよみがえってくると、嗚咽までこらえきれなくなった。
この言葉の意味も私にはわからない。だけど、私はひどく失望されて嫌われて否定されたことだけはわかる。
好きな人の言葉もわかってあげられないなんて、やっぱり、私には彼のそばにいる資格なんてないんだ。
こんな私なんか……天国でなくてもいい。
気がつくと私は立ち上がっていた。
両足が自分のものではないような感覚だった。
そのまま階段を信じられないほど軽い足取りで上っていく。
かつん、かつん、という足音が、寒々しいけれど神々しさすら感じる空間にこだまする。
この螺旋階段が導いてくれる先になら、どこにだって……
歯止めの利かなくなった思いが、言葉にしてはいけないことを叫びそうになったときだった。
鉄の扉が低い音を立てて開いた。
慌てて涙を拭うと、つとめて毅然とした表情を取り繕った。警備兵か、それとも私と同じく孤独を求めている官吏が入ってきたのか……
侵入者の正体はすぐにわかった。
「やはりここだったか」
その声が耳に届いた瞬間、私は階段を駆け上がった。
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「待て!」
声のすぐ後に、鉄の階段を勢いよく上ってくる音が重なって。
その音に威嚇されたみたいに、急に足が重くなって思うように階段を上れなくなる。
何回か手に取ったことのある、上等な生地の黒いコートを着ていた。恐らくもう帰るところなんだろう。
王宮の中は、そんなに寒くないはずなのに、なぜかとても寒そうな血の気のない顔をしていた。
私を呼び止めた声は、怒っているにしてはおかしな感じがした。
何かにせきたてられているような、取り乱している風にも聞こえる声で……
ほんの一瞬すら見ていないはずなのに、それだけのことを目にして、耳にしていることに気がつくと、心臓がはちきれそうなほどな音をたてて動いて、今にも破けてしまいそうだった。
重い靴音がいよいよすぐ後ろまで迫ってきて両肩をつかまれると、全身の筋肉が石になったみたいに固くなって動かせなくなった。
「どこまで行くつもりだ」
「……どこでも」
普通にしなくちゃ、何か答えなくちゃと思って口をついた声は、信じたくないほど幼かった。
「私にでも、行けるところがあるなら……」
どうしてこんなこと言ってるんだろう。こんなこと言ったら、怒られるに決まってるのに。
言ってしまったのは、きっと……助けてほしかったから。
全部私が悪いのに、自分では心の迷路からもう抜け出せなくなっていて。
自分で自分をやみくもに追い詰めて、行ってはいけないところに逃げ出そうとして。
でも、本当はそんなところに行きたくなんかないから。
生きたかった。生きてこの人と一緒にいたいから、こんな私でもわかってほしくて、救いあげてほしかった。
そんなことを考えている、どこまでも弱い自分がいやでたまらなくて、やっとのことで情けない声を出す口をつぐんだ。
反応はすぐだった。
私の両肩をつかんでいる手の力が強くなったかと思うと、私の身体を自分の方に向かせて勢いよく揺さぶった。
「顔をあげろ、くだらんことを考えおってこの……たわけが!」
怒っているときでも、声だけはほとんど荒げたことがない人が、血の気のない顔とは逆の熱の感情をあらわにした声を放った。
私が何を考えながらこの螺旋階段を上っていたのか、わかっていなかったらこんなこと言うはずなかった。
その声に、怖さとそれ以上の深くて温かいものを感じたとき、自分の厚かましさを心の底から呪った。
それでも、胸の底にまで届いた声のぬくもりを打ち消すことはできなかった。
大切な人の枷にしかならない自分なんて、この世のなかにいらないもののように思えた。
自分の存在が恥ずかしくて、ここから消えてしまいたかった。
だけど、私がしようとしたことは、どれほどこの人に心配をかけることで、今までにくれたたくさんの気持ちを裏切ることだったのか……改めて愚かなことだと思い知らされた。
そう思うと、ますます自分がいやになって、ここからいなくなれるものなら、いなくなりたかった。
今も薄雲のようにたなびいている、白い光の粒子のひとつにでも溶けてしまいたかった。
そんな風に思うのは卑怯だとわかっていても、情けない自分を打ち消すのにはどうしたらいいのか考えられなかった。
両肩をつかんでいた手が離れて、みじめに濡れた頬に触れた。顔を持ち上げられると、目を合わさずにはいられなかった。
「ごめんなさい……」
「もういい」
うつむいていたときにはにじんで歪んでいた視界が、今は不思議なほど澄んでいた。
けれど、目の前の人の水色の瞳の中心に自分が映っているのがはっきりと見えると、胸から喉に思いがこみあげてきて、また視界が揺らぎ始めた。
「ごめんなさい、私、ばかで、本当にごめんなさい……!」
「もういい、何も言うな」
ごめんなさい、私の涙なんかで手を濡らしてしまって。
私の弱さ、醜さ、愚かさがうつってしまうから、もう手を離して……
温かい両手から離れようと顔を動かすと、静かに手がほどかれた。
意外という思いが寂しさに変わる間もなく、頭と背中に回された手が私を優しく引き寄せた。
声と頭を撫でてくれるぬくもりが、私の弱さ、醜さ、愚かさ……そのすべてを天国に続く螺旋の果てへ昇華してくれるかのようだった。
一段高い段の上から広い肩に顔をうずめて、私は子供のように声をあげて泣いた。
しばらくして……どのくらい経ったのかはわからなかったけど、私の涙と嗚咽が収まるのを待っていたように、ユートレクトの低い声が降りてきた。
「何が不満だ」
この台詞では、私から何を聞きたいのかがわからなかった。
「不満なんて何も……」
ないに決まっていた。不満に思われているのは私のはずだった。
「不満に思われてるのは、私の方だもの」
だから素直にそう答えた。他にどう答えたらいいのか考えもつかなかったから。
「誰がそんなことを言った」
「だって……」
答えようとすれば、愚かさに隠れて見えなくなっていたことと、また向き合わなくてはならなかった。
だけどもう逃げない。自分からも彼からも。
「信じないって、求めないって」
その言葉を口にするとまた眼が熱くなってきたけれど、泣かないようにするために顔をあげた。見られていれば、泣こうとする弱さを抑えられる気がした。
「あれか」
ユートレクトは頭を動かした私を目だけで見下ろすと、吐き捨てるような口調で言った。
また悪いことをしたのかと思うと、少しだけ怖くなって身を震わせてしまった。
「おまえに怒っているわけではない…気にするな」
私が不安に思ったのが伝わったのか、いつもより優しい声音が継がれて安心した。ゆっくりと身体が離された。
ユートレクトは私が立っている段に腰かけると、私にも座るようにと目で促した。
服が汚れないように気をつけながら腰を下ろすと、背中を温かいものが覆った。ユートレクトが自分のコートをかけてくれた。
ここは寒いし、慌てて着てくれるようにお願いしたけど聞いてくれなくて、実力行使に出ることにした。
「だめだよ、風邪ひいちゃうから着てて、ね?」
でも、返したつもりで広い肩にかけたコートは、すぐに私の頭の上に降ってきた。
「黙って着ていろ、袖もきちんと通せ」
「……ありがとう」
ここまできたら絶対に引かないのはわかっていたから、ありがたくお借りしておくことにして、袖まで通すことにした。
まだぬくもりとかすかに匂いの残るコートはなぜだかとても懐かしくて、身体だけではなくて心まで温めてくれるようだった。
そうして心を和ませていると、
「笑うなよ」
「……?」
突然の言葉に、わけがわからないでいると、
「いいか、こんなことを話すのはこれが最初で最後だ。おまえも覚悟を決めて洗いざらいぶちまけろ」
台詞のわりに、声はいつもの冷静なものからはほど遠くて……というより、彼が照れているような顔を見るのが始めてで、これから何を話そうとしているのか、わかるまでにゆっくり十は数えなくちゃいけなかったけど。
お互いの思っていることを全部吐き出してわかり合う……こうして並んで座っているのは、そのためだということを。




